寄生獣 ~第3部~   作:aimo0314

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第1話 残響

 朝の住宅街――。

 

 ゴミ収集車の音が遠くから近づいてきていた。

 

 通りには、スーツ姿の会社員やランドセルを背負った小学生の姿がちらほらと見える。犬を連れた老人がゆっくりと歩き、向かいの家の主婦が玄関先を箒で掃いている。

 

 空はよく晴れていた。

 

「ちょっと、これ何かしら」

 

 主婦が箒を止めた。

 

 家の前の側溝に、黒い泥のようなものが溜まっていた。雨が降ったわけでもない。道路は乾いている。側溝の中だけに、墨を流したような黒いものがこびりついていた。

 

 主婦は眉をひそめると、箒の先でそれをつついた。

 

 黒い泥が、少し動いた。

 

「きゃっ」

 

 主婦は小さな悲鳴を上げ、一歩後ずさった。

 

 黒い泥は、側溝の中でゆっくりと形を変えていた。水の流れに押されているのではない。内側から盛り上がるように動いている。

 

 近くを歩いていた老人が足を止めた。

 

「どうしました」

 

「いえ、これ……」

 

 主婦は側溝を指差した。

 

 老人は犬のリードを短く持ち直し、側溝を覗き込んだ。犬は低く唸っている。

 

「油か何かじゃないですかね」

 

「でも、今、動いたんです」

 

「動いた?」

 

 老人は笑いかけたが、その表情が途中で止まった。

 

 黒い泥の表面に、目のようなものが浮かんでいた。

 

 人間の目ではない。魚の目にも、虫の目にも見えない。ただ、何かがこちらを見ようとしているように見えた。

 

 犬が激しく吠えた。

 

 その声に驚き、通学途中の小学生たちが足を止めた。

 

「なにあれ」

 

「きもちわる」

 

 一人の男児が好奇心に負けて近づこうとした。

 

「触っちゃだめ」

 

 主婦が慌てて男児を制した。

 

 その時だった。

 

 黒い泥が細く伸びた。

 

 泥というより、濡れた髪の毛の束のようなものが側溝から伸び、男児の靴先に触れた。

 

 男児は動けなくなった。

 

「え?」

 

 男児は自分の足元を見た。

 

 靴の先に触れた黒いものが、靴の表面を這うように広がっていく。

 

「取れない」

 

 男児の声が震えた。

 

「取れないよ」

 

 主婦が男児の腕を掴んで引っ張った。老人も慌てて手を貸す。犬は吠え続けている。

 

 黒いものは靴から足首へ移ろうとしていた。

 

 男児が泣き出した。

 

「やだ、やだ!」

 

 その瞬間、黒いものがぴたりと止まった。

 

 まるで何かに気づいたように、男児の足首の手前で動きを止めている。

 

 そして、ゆっくりと側溝の方へ戻っていった。

 

 主婦は男児を抱えるようにして後ろへ下がった。

 

 黒い泥は側溝の中でまた盛り上がった。

 

 目のようなものがいくつも浮かぶ。

 

 その中の一つが、男児を見た。

 

 次に主婦を見た。

 

 老人を見た。

 

 犬を見た。

 

 最後に、空を見た。

 

 それから、小さく音を出した。

 

「……かえ……せ……」

 

 誰も動かなかった。

 

 声は、側溝の中から聞こえたようにも、頭の中で響いたようにも感じられた。

 

「いま、何か言いました?」

 

 老人がかすれた声で言った。

 

 主婦は首を横に振った。

 

 黒い泥は急に縮み始めた。

 

 内側から吸い込まれるように、小さくなっていく。数秒もしないうちに、それはただの黒い染みのようになった。

 

 やがて、その染みも消えた。

 

 側溝には何も残っていない。

 

 男児の靴だけが、先端から少し溶けたように歪んでいた。

 

 遠くからゴミ収集車の音が近づいてくる。

 

 誰かが携帯電話を取り出し、警察に電話をかけ始めた。

 

********************

 

 同じ頃。

 

 泉新一は朝食の食卓で、食パンにマーガリンを塗っていた。

 

「パパ、塗りすぎ」

 

 陽菜が向かいの席から言った。

 

「え、そうか?」

 

「うん。ママがいつも言ってる。パパはすぐ塗りすぎるって」

 

「陽菜、そういうことは本人のいないところで言うもんだぞ」

 

「なんで?」

 

「パパが傷つくから」

 

「パパ、マーガリンで傷つくの?」

 

「いや、そういう意味じゃなくてだな」

 

 新一は食パンをかじりながら、困ったように笑った。

 

 テレビでは朝のニュースが流れている。

 

 里美はキッチンで弁当箱を包んでいた。コマメはテーブルの下で、何か落ちてこないかと期待するように新一の足元をうろうろしている。

 

「コマメ、だめだぞ。これはパパの朝ご飯だからな」

 

 新一がそう言うと、コマメは不満そうに鼻を鳴らした。

 

「パパ、今日早く帰ってくる?」

 

「うーん、今日はどうかなあ。お客さんのところ回るから少し遅くなるかも」

 

「また?」

 

「またって言うなよ。パパだって好きで遅くなってるわけじゃないんだぞ」

 

「お仕事って大変?」

 

「大変だぞ。大人はな、毎日いろんな人に頭を下げて生きているんだ」

 

「なんで?」

 

「なんでだろうなあ」

 

 新一は自分で言って少し虚しくなった。

 

 その時だった。

 

 右手の指先が、ぴくりと動いた。

 

 新一は食パンを持ったまま右手を見た。

 

「ん?」

 

 指先がもう一度動いた。

 

 今度は自分の意思ではないことが分かった。

 

「シンイチ」

 

 右手の中から小さな声がした。

 

 新一は慌てて食パンを皿に置いて右手を隠すようにして席を立った。

 

「ちょっ……今はだめだって」

 

「テレビを見ろ」

 

「いや、だから今は」

 

「早く」

 

 ミギーの声には、珍しく余裕がなかった。

 

 新一はちらりとテレビを見た。

 

 画面には、住宅街の側溝が映っている。黄色い規制線が張られ、警察官が近隣住民から話を聞いていた。

 

『今朝、住宅街の側溝に黒い泥のような不審物があると通報がありました。現場に居合わせた小学生の靴が一部変形しており、警察は薬品などの可能性も含めて調べています』

 

 新一は表情を変えた。

 

 陽菜は牛乳を飲みながらテレビを見ている。

 

「黒い泥だって。きもちわるいね」

 

「ああ……そうだな」

 

 新一は何とか普通の声を出した。

 

 右手の中でミギーが静かに言った。

 

「昨夜、仲間が一体消えた」

 

 新一は息を止めた。

 

「死んだのか?」

 

 小声で言ったつもりだったが、陽菜が顔を上げた。

 

「パパ、誰か死んだの?」

 

「え?」

 

 新一は慌てて首を振った。

 

「いや、ニュースの話。そういうことじゃないみたいだなって」

 

「ふーん」

 

 陽菜はまた牛乳を飲み始めた。

 

 里美がキッチンから顔を出した。

 

「朝から物騒なニュース見ないでよ。陽菜が怖がるでしょ」

 

「あ、ああ。そうだな」

 

 新一はリモコンを取ってチャンネルを変えた。

 

 画面では、天気予報士がにこやかに今日の気温を伝えている。

 

 右手の中で、ミギーは黙っていた。

 

 新一は食パンをふたたび口に運ぼうとしたが、もう味が分からなかった。

 

********************

 

 その日の昼過ぎ。

 

 新一は取引先へ向かう途中で、小さな公園に立ち寄っていた。

 

 会社の車を近くのコインパーキングに停め、公園の隅にあるベンチに腰を下ろす。昼休みの時間を少し過ぎていたため、公園には人影がほとんどなかった。

 

 新一はペットボトルのお茶を一口飲むと、小さな声で言った。

 

「ミギー、さっきの話の続きだ」

 

 右手の甲に目が一つ開いた。

 

「何を聞きたい?」

 

「消えたっていうのは、死んだってことじゃないのか?」

 

「分からない」

 

「また分からないかよ」

 

「正確に言えば、今までの死に方と違う」

 

 ミギーは右手の手のひらに口を作った。新一は周囲を確認し、誰もいないことを確かめる。

 

「今まで仲間が死ぬ時には、信号が途絶えた」

 

「うん」

 

「だが、昨夜の信号は途絶えていない」

 

「じゃあ、生きてるのか?」

 

「そうとも言い切れない。信号は個体から離れ、どこか別の場所へ移動した」

 

 新一は眉をひそめた。

 

「信号が移動するって、前にもそんなことあったのか?」

 

「ない」

 

「ないのかよ」

 

「だから調べている」

 

「調べてるって、どうやって?」

 

「残響を追っている」

 

「残響?」

 

「ああ。信号そのものは遮断された。しかし、痕跡のようなものが残っている」

 

 ミギーの瞳が細くなった。

 

「人間で言えば、声は止んだが、壁に反響だけが残っているような状態だ」

 

「分かるような、分からないような……」

 

 新一は頭を掻いた。

 

「それで、その残響っていうのが、今朝の黒い泥と関係あるってことか?」

 

「恐らくな」

 

「うーん」

 

「まだ確証はない。ただ、ニュース映像から感じたものは、昨夜消えた仲間の信号に近かった」

 

「じゃあ、あの黒い泥はお前の仲間だったのか?」

 

 新一は思わず声を少し大きくした。

 

 近くを通りかかった老人が新一の方を見た。新一は慌てて口を閉じた。老人が通り過ぎるのを待ってから、また小声で話し始める。

 

「もしそうなら、どういうことなんだよ」

 

「分からない」

 

「お前なあ」

 

「シンイチ、わたしは不確かなことを確かなことのようには言わない」

 

「それは分かるけどさ」

 

 新一はベンチにもたれかかった。

 

 空はよく晴れていた。公園の木々の葉が、風で小さく揺れている。どこかで子どもが笑う声が聞こえた。

 

「ただ、一つだけ言えることがある」

 

 ミギーが言った。

 

「何だよ」

 

「昨夜消えた仲間は、最後に恐怖していた」

 

「……やっぱり殺されたのか」

 

「恐怖の対象は死ではない」

 

「じゃあ何だ」

 

「奪われることだ」

 

 新一は右手を見た。

 

「奪われる?」

 

「ああ。自分が自分でなくなることに対する恐怖に近い」

 

 新一は黙った。

 

 ミギーは続けた。

 

「シンイチ、わたし達のような生物にとって、自分の身体は自分の全てだ。人間のように社会的な名前や戸籍や思い出に大きな意味は持たない。だが、その身体の情報そのものを外側から奪われるとしたら、それは死よりも理解しがたい」

 

「身体の情報って……記憶みたいなものか?」

 

「それも含むかもしれない」

 

 新一はしばらく考えていたが、やがて小さくため息をつき、ミギーを見た。

 

「ミギー、お前も怖いのか?」

 

 新一がそう聞くと、ミギーは少し黙った。

 

「怖い、という感情が適切かは分からない」

 

「じゃあ何だよ」

 

「強いて言うならば不快だ」

 

「……そうか」

 

「そして、警戒すべきだ」

 

 新一は顔を上げた。

 

「俺たちも狙われるってことか?」

 

「可能性は高い」

 

「かー、またそうなるのかよ」

 

 新一は腕時計に目をやった。

 

「っと、もうこんな時間だ。とにかく、今は仕事に戻るぜ。こんな話をしてたら本当に会社に遅れる」

 

 そう言うと、新一は立ち上がり公園を出て車に向かった。

 

********************

 

 夕方。

 

 新一が家に帰ると、玄関まで陽菜が走ってきた。

 

「パパ、おかえり!」

 

「ああ、ただいま」

 

 新一は靴を脱ぐ前に陽菜を抱き上げた。

 

「今日は早かったね」

 

「まあな。パパもやる時はやるんだ」

 

 リビングに入ると、里美が洗濯物を畳んでいた。テレビでは夕方のニュースが流れている。

 

「おかえり。今日は早いね」

 

「ただいま。なんか二人して同じこと言うなあ」

 

「珍しいから」

 

「そんなに珍しいかな」

 

「珍しいよ」

 

 里美は畳んだタオルを重ねながら言った。

 

 新一は鞄を置き、ネクタイを緩めた。

 

「朝のニュース、その後どうなった?」

 

「朝の?」

 

「あの、黒い泥みたいなの」

 

「ああ、あれね。さっきも少しやってたよ」

 

 里美はテレビの方を見た。

 

「でも、薬品か何かじゃないかって。靴が溶けてたって言ってたし」

 

「そうか」

 

「何? 気になるの?」

 

「いや、別に」

 

 新一はなるべく自然に答えた。

 

 陽菜がテーブルの上で絵を描き始めている。クレヨンで青い海と、赤いイルカのようなものを描いていた。

 

「陽菜、それイルカか?」

 

「うん」

 

「やっぱり赤なんだな」

 

「パパが言ったから」

 

「ママには聞かなかったのか?」

 

「聞いたよ。ママは赤いイルカはいないって」

 

「じゃあ何で赤にしたんだよ」

 

「いたら楽しいから」

 

 陽菜は当たり前のように答えた。

 

 新一はその顔を見て、少し笑った。

 

 だが、その笑いはすぐに消えた。

 

 陽菜の描いた海の端に、黒い丸のようなものがあった。

 

「陽菜、これ何?」

 

 新一は絵の端を指差した。

 

「これ?」

 

「ああ」

 

「わかんない」

 

「分かんないって、自分で描いたんだろ」

 

「うん。でも分かんない」

 

 陽菜は首を傾げた。

 

「なんか、描いた方がいい気がしたの」

 

 新一の胸がざわついた。

 

「陽菜、今日、変なもの見たりしたか?」

 

「変なもの?」

 

「黒い泥とか、そういうの」

 

「見てないよ」

 

「そうか」

 

 新一はそれ以上聞かなかった。

 

 里美が新一の顔を見ている。

 

「どうしたの?」

 

「いや、絵が上手くなったなと思って」

 

「急に親バカ?」

 

「いや、まあ、親だからな」

 

 新一は笑ってごまかした。

 

 その時、右手の指先がわずかに動いた。

 

 ミギーだった。

 

 新一はそれに気づかないふりをして、椅子に腰を下ろした。

 

********************

 

 同じ頃。

 

 東福山市警の署長室で、平間は一人、机の上に置かれた報告書を読んでいた。

 

 最初に上がってきた時の扱いは、不審物の通報だった。

 

 住宅街の側溝に黒い泥のようなものがあり、近くにいた小学生の靴が一部変形した。怪我人はない。現場にいた住民は、泥が動いたと証言している。

 

 普通なら、薬品による悪質ないたずらか、何かの錯覚で処理される話だった。

 

 平間は報告書を一枚めくった。

 

 写真には、つま先の部分が歪んだ子どもの靴が写っている。熱で溶けたようにも見えるが、焦げた跡はない。靴下にも、子どもの足にも異常はなかったという。

 

「……薬品じゃないな」

 

 平間は小さくつぶやいた。

 

 次の写真には側溝が写っていた。

 

 黒い泥があったという場所だ。しかし、写真に写っている側溝にはもう何も残っていない。鑑識が採取したという黒い付着物も、ビニール袋の底にわずかにこびりついているだけだった。

 

 平間は報告書を机に置いた。

 

 現場の残存物が少ない。

 

 しかし証言だけが妙に具体的である。

 

 刃物も火も使われていないのに、物だけが変形する現象。

 

 そして、現場から本体だけが消える。

 

 平間は目を閉じた。そして、脳裏には1つの言葉が浮かんだ

 

 パラサイトーーー。

 

 その言葉は、重々しく平間の頭の中を埋めていった。

 

 平間は受話器を取った。

 

「村山を呼んでくれ」

 

 短くそう言うと、受話器を戻した。

 

 しばらくして、署長室の扉がノックされた。

 

「入れ」

 

 扉が開き、村山が入ってきた。

 

「お呼びでしょうか」

 

「ああ。急にすまないな。最近はどうだ、元気にやっているか?」

 

 村山はぼんやりと笑みを浮かべた。

 

「ぼちぼちですよ。どうやら飲みのお誘いでもなさそうですし。ご要件は何ですか?」

 

「この案件についてお前の意見を聞きたいんだ」

 

 平間は机の上の資料を村山の方へ押し出した。

 

 村山はあまり関心の無さそうな表情で資料を手に取った。写真を見て、報告書に目を通す。しばらく黙って読んでいたが、子どもの靴の写真で手が止まった。

 

「怪我人は?」

 

「いない」

 

「靴だけですか」

 

「ああ。靴下にも皮膚にも異常はないそうだ」

 

 村山は写真を見たまま、少し眉をひそめた。

 

「薬品なら、靴下や皮膚にも何か出そうですが」

 

「私もそう思う」

 

 平間は椅子の背にもたれた。

 

「通報者は、側溝の中の黒い泥が動いたと言っている。近くにいた老人と子どもも同じような証言をしている」

 

「全員が同じ『錯覚』を見た、か」

 

「そう処理するのは簡単だ」

 

 平間は村山を見た。村山はもう一度資料に視線を落とした。

 

「映像はありますか?」

 

「ある。現場にいた住民が携帯電話のカメラで撮影していた」

 

 平間は記録媒体をノートパソコンに差し込んだ。少しして、粗い映像が画面に映った。

 

 画面は大きく揺れている。

 

 側溝を囲む数人の住民。

 

 泣き出す子ども。

 

 犬の吠える声。

 

 そして、黒い泥のようなものが側溝の中で小さく動いている。

 

 村山は画面に顔を近づけた。

 

 黒い泥は、確かに動いていた。

 

 風でも、水でもない。何かの意思を持つように、ゆっくりと形を変えている。

 

 次の瞬間、撮影していた住民が驚いたのか、映像が大きく乱れた。画面は地面を映し、音声だけがしばらく続いた。

 

『取れないよ』

 

『触っちゃだめ』

 

『誰か警察呼んで』

 

 その奥に、かすれたような声が混じった。

 

『……かえ……せ……』

 

 村山の表情がわずかに変わった。

 

「今の声は」

 

「現場にいた人間のものではないらしい」

 

「確認済みですか」

 

「通報者、撮影者、子ども、近隣住民には確認を取った。少なくとも、誰も自分の声だとは言っていない」

 

「加工の可能性は」

 

「低い。映像は通報後すぐに任意提出されている。外部にもまだ出回っていない」

 

 村山はパソコンを引き寄せると映像を少し戻した。

 

 黒い泥が小さく動く場面で、画面を止める。

 

「……生き物の様に見えないこともない」

 

「ああ」

 

 村山は平間の視線に気づくと、パソコンから視線を上げた。平間は村山の答えを待つように口を閉ざしていた。

 

「本来は生活安全課に任せておけばいい案件なのでしょうが……」

 

 村山は平間の反応を伺うように笑みを浮かべた。平間は表情を変えなかった。それがすべての結論を物語っているようだった。

 

「パラサイトですか……」

 

 村山は観念したように吐き出した。

 

「その可能性が高いだろう」

 

 平間は短く答えた。

 

 村山は沈黙した。平間は続けた。

 

「証言、映像、靴の変形、残留物。どれも普通の薬品事件には見えん」

 

「そうですね、奴らはいつも静かにその予兆を見せ始める」

 

 村山は煙草をまさぐるように胸ポケットに手をやったが思い立った様に手を止めた。

 

「吸いたければ吸ってもいいぞ」

 

 村山は苦笑いを浮かべた。

 

「いえいえ、署長室でめっそうもございません。それに今禁煙しているので」

 

「ふん、ヘビースモーカーの男がよく言うわ」

 

「ところで泉新一には、知らせないんですか」

 

 平間の視線が村山に向いた。

 

「なぜ泉新一の名前が出る」

 

「今回の件がパラサイトと関係するなら、何か知っているのでは」

 

「泉君はあくまでも民間人だ」

 

 平間は静かに、だがきっぱりと言った。

 

「こちらから接触する理由はまだない」

 

「まあ、そりゃそうか」

 

「まずは本部に上げる。判断はその後だ」

 

「分かりました」

 

 村山はパソコンに手を伸ばすともう一度、映像を再生した。

 

『……かえ……せ……』

 

 かすれた声が署長室に流れる。

 

 平間は眉間に皺を寄せた。

 

「……嫌な声だな」

 

 その声は、二人しかいない署長室に静かに響き渡った。

 

********************

 

 夜。

 

 陽菜が眠り、里美が風呂に入ると、新一は台所の椅子に座った。

 

 テーブルの上には飲みかけの缶ビールがある。新一は缶を手に取ったが、口をつけずにまた置いた。

 

「ミギー」

 

 新一が小さく呼ぶと、右手が静かに変形した。

 

「分かっている」

 

「何が」

 

「陽菜の絵だろう」

 

「ああ」

 

 新一は声を潜めた。

 

「あれ、関係あると思うか?」

 

「現時点では判断できない」

 

「でも、何か感じたんだろ」

 

「ごく微弱な反応はあった」

 

「やっぱりか」

 

 新一は頭を抱えた。

 

「なんで陽菜なんだよ」

 

「分からない」

 

 新一はため息をついた。

 

 ミギーは右手の上に目を二つ出し、台所の窓の方を見た。

 

「シンイチ、わたしは少し前から気になっていることだが」

 

「何だよ」

 

「死んだ仲間の信号が、完全には消えていない」

 

「前から言ってたやつか」

 

「ああ。だが、昨日からそれが急に強くなっている」

 

「どういうこと?」

 

「例えるなら、遠くでばらばらに鳴っていた音が、一つの場所に集まり始めている」

 

 新一はミギーを見た。

 

「お前の仲間たちの死んだ後の何かが、集まっているってこと?」

 

「そうだ」

 

 ミギーは淡々と答えた。

 

「しかも、その残響はパラサイトだけのものではない可能性がある」

 

「どういう意味だ?」

 

「人間の反応も混ざっている」

 

 新一は黙った。

 

 台所の換気扇の音が、やけに大きく聞こえた。

 

「人間って……誰の?」

 

「分からない」

 

「それは、普通の人間が巻き込まれてるってことか?」

 

「可能性はある」

 

「やめろよ」

 

 新一は思わず声を荒げかけ、慌てて抑えた。

 

「家には里美も陽菜もいるんだぞ」

 

「だから注意しろと言っている」

 

「注意って、どうすればいいんだよ」

 

「家族を一人にしない。見慣れないものには近づけない。異常を感じたらすぐに離れる」

 

「普通の防犯対策みたいだな」

 

「現時点ではそれ以上のことはできない」

 

 新一は椅子の背にもたれた。

 

「くそっ」

 

 その時だった。

 

 ミギーの目が一斉に同じ方向を向いた。

 

「どうした?」

 

「近い」

 

「何が」

 

「残響だ」

 

 新一は立ち上がった。

 

「どこだ、家の前か?」

 

「いや」

 

 ミギーは少し間を置いた。

 

「すでに中に入っている」

 

 新一の背筋に冷たいものが走った。

 

「シンイチ、二階だ」

 

 新一は返事をしなかった。

 

 そのまま廊下へ出て、階段を駆け上がった。

 

「シンイチ、慌てるな」

 

「無理だろ」

 

 新一は小声で言い返した。

 

 二階の廊下は暗かった。陽菜の部屋のドアが少しだけ開いている。中から、常夜灯の薄い光が漏れていた。

 

 新一は足音を殺して近づいた。

 

 部屋の中を覗く。

 

 陽菜はベッドで眠っている。

 

 その手元に、昼間描いていた絵が置かれている。

 

 そして、その絵の上に、黒い染みがあった。

 

「……」

 

 新一は声を出せなかった。

 

 黒い染みは、絵に描かれた海の上でゆっくりと動いていた。紙に染み込んでいるのではない。紙の上を這っている。

 

 赤いイルカの絵の周りを、黒い染みがゆっくりと囲んでいく。

 

「ミギー」

 

「ああ」

 

 新一の右手が静かに変形した。

 

 その時、陽菜が寝返りを打った。

 

 新一は動きを止めた。

 

「パパ……?」

 

 陽菜が薄く目を開けた。

 

「ああ、悪い。起こしたか」

 

「ううん……」

 

 陽菜はまだ眠そうにしている。

 

「パパ、そこに誰かいるの?」

 

 新一は息を止めた。

 

「誰か?」

 

「うん」

 

 陽菜は半分眠ったまま、絵の方を見ていた。

 

「女の人」

 

 新一の喉が乾いた。

 

「どこにいる?」

 

「そこ」

 

 陽菜は絵を指差した。

 

 黒い染みが動きを止めた。

 

 新一には女の姿など見えない。

 

 ただ、黒い染みが絵の上にあるだけだった。

 

「陽菜、目を閉じてなさい」

 

「うん……」

 

 陽菜は素直に目を閉じた。

 

 その瞬間、黒い染みが膨れ上がった。

 

 紙の上から盛り上がるように、黒い粒が集まっていく。

 

 新一は反射的に右手を伸ばした。

 

 ミギーが薄い膜のように広がり、黒い染みを包み込む。

 

「シンイチ、左手で陽菜を離せ」

 

「ああ」

 

 新一は左手で陽菜を抱き上げようとした。

 

 だが、陽菜の手が絵を掴んでいた。

 

「陽菜、離せ」

 

「やだ」

 

 陽菜は目を閉じたまま言った。

 

「この人、泣いてる」

 

 新一は一瞬、動きを止めた。

 

 黒い染みの中から、小さな声が漏れた。

 

「……かえ……せ……」

 

 朝のニュースで聞いたものと同じ言葉だった。

 

 新一にはそう感じられた。

 

「わたしを……かえせ……」

 

 ミギーの膜が黒い染みを押さえ込む。

 

 黒い粒が激しく暴れた。

 

「ミギー、大丈夫か」

 

「不快だが、問題はない」

 

 新一は陽菜の手を絵から離そうとした。

 

 陽菜は目を閉じたまま、ぽつりと言った。

 

「お母さんじゃないの?」

 

 新一の手が止まった。

 

「何?」

 

「この人、ずっとお母さんって言ってる」

 

 黒い染みが一瞬だけ静かになった。

 

 次の瞬間、ミギーの膜の中で、黒い粒が一斉に細かく震えた。

 

「シンイチ、下がれ」

 

 ミギーが言った。

 

 新一は陽菜を抱き寄せた。

 

 黒い粒が膜の中で一つの形を作ろうとしていた。

 

 口。

 

 目。

 

 鼻。

 

 人間の顔のように見えた。

 

 だが、すぐに崩れた。

 

「母……」

 

 それは小さく言った。

 

「母……」

 

 そして、消えた。

 

 絵の上には何も残っていなかった。

 

 ミギーの膜も、ゆっくりと右手の形に戻っていく。

 

 新一は陽菜を抱えたまま、その場に座り込んだ。

 

 全身から汗が噴き出していた。

 

「パパ?」

 

 陽菜が目を開けた。

 

「ああ、大丈夫だ」

 

「黒いの、いなくなった?」

 

「うん。いなくなった」

 

「さびしそうだったね」

 

 陽菜はそう言うと、新一の胸に顔を埋めた。

 

 新一は何も答えられなかった。

 

 足音が聞こえた。

 

 里美が階段を上がってくる。

 

「あなた? 陽菜? どうしたの?」

 

 新一は振り返った。

 

 里美が廊下に立っていた。風呂上がりの髪をタオルで拭きながら、不安そうにこちらを見ている。

 

「何か音がしたけど」

 

「あ、いや」

 

 新一は陽菜を抱いたまま立ち上がった。

 

「陽菜がちょっと怖い夢を見たみたいで」

 

「怖い夢?」

 

 里美は陽菜に近づいた。

 

「陽菜、大丈夫?」

 

「うん」

 

 陽菜は眠そうに頷いた。

 

「黒い人がいたの」

 

 里美の表情が変わった。

 

「黒い人?」

 

「うん。でも、もういない」

 

 新一は里美の視線を感じた。

 

「本当に夢だよ。たぶん、朝のニュースが怖かったんだろ」

 

「……そう」

 

 里美はまだ納得していない顔をしていた。

 

 新一は陽菜をベッドに戻し、布団をかけた。

 

「パパ、あの人、また来る?」

 

 陽菜が小さな声で聞いた。

 

 新一は言葉に詰まった。

 

「来ないよ」

 

 里美が先に答えた。

 

「ママとパパがいるから大丈夫」

 

 陽菜は安心したように目を閉じた。

 

 新一はその横顔を見つめていた。

 

********************

 

 深夜。

 

 新一は一階の居間に一人で座っていた。

 

 里美と陽菜は二階で眠っている。

 

 テレビは消している。

 

 家の中は静かだった。

 

 新一は右手を見た。

 

「ミギー」

 

「起きている」

 

「眠れないのか?」

 

「今のわたしに睡眠は必要ない」

 

「そうだったな」

 

 新一は苦笑した。

 

「便利だな」

 

「便利とは限らない。起きている時間が長いということは、考える時間が長いということだ」

 

「お前でもそういうことで嫌になるのか?」

 

「嫌というより、効率が悪い」

 

「相変わらずだな」

 

 新一は小さく笑った。

 

 だが、その表情はすぐに曇った。

 

「ミギー、陽菜は何を見たんだ?」

 

「分からない」

 

「俺には何も見えなかった。でも陽菜には見えた」

 

「ああ」

 

 新一は拳を握った。

 

「それって、陽菜が特別ってことか?」

 

「現時点では判断できない」

 

「普通の子どもだぞ」

 

「分かっている」

 

「陽菜には関係ないだろ」

 

「シンイチ」

 

 ミギーは静かに言った。

 

「関係があるかどうかを決めるのは、わたし達ではない」

 

 新一はミギーを見た。

 

「嫌なこと言うなよ」

 

「事実だ」

 

「分かってるよ」

 

 新一は深く息を吐いた。

 

「でも、俺は守るぞ」

 

「誰を」

 

「里美も陽菜も」

 

「わたしは反対しない」

 

「珍しいな」

 

「君がそう答えることは予想していたからな」

 

「なら聞くなよ」

 

「確認だ」

 

 新一は少しだけ笑った。

 

 その時、居間のテーブルの上に置かれていた陽菜の絵が、かすかに動いた。

 

 新一は振り返った。

 

 絵の端に描かれていた黒い丸。

 

 それが、紙の上で少しだけ滲んだ。

 

 そして、すぐに止まった。

 

 ミギーもそれを見ていた。

 

「ミギー、今のも残響か?」

 

「恐らく」

 

 新一は絵を手に取ろうとした。

 

「触るな」

 

 ミギーが言った。

 

 新一は手を止めた。

 

「じゃあどうする」

 

「隔離する」

 

 その時、絵の黒い丸が、もう一度だけわずかに動いた。

 

 新一には、それが目のように見えた。

 

 こちらを見ている。

 

 そんな気がした。

 

 そして、どこからともなく、小さな声が聞こえた。

 

「……見ている……」

 

 新一は動けなかった。

 

 ミギーも黙っていた。

 

 声はそれきり聞こえなくなった。

 

 新一は絵を見つめ続けた。

 

 もう、そこにはただの子どもの絵しかなかった。

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