昼休みになり、直毘は弁当袋をふたつ出して歩き出す。隣に来た朔へひとつ渡す。それだけで教室がざわめいた。面倒だ。その足でふたりでなじみ深くなってきた校舎裏の影のあるベンチに向かった。
「……直毘、私疲れた。結構心削られるんだけど」
「慣れろ」
直毘がベンチに座り、すぐ隣に朔もスカートを押さえて腰を落とす。右から濃密な彼女の気配と体温が漂う。
「ちけえんだよなあ」
「恋人距離感です」
「そうだった」
「あーん、とかする?」
「それはやめてくれ。食事は落ち着いてとりたい」
「だよね。求められたらどうしようかと思った」
「なら言うなよ……」
「一応、礼儀として?」
「まーたネット情報か……」
「そ。調べたけど、私と直毘じゃ役に立たないなって思った」
「恋人のやることなんざ、それぞれだろ。マニュアルなんてねえよ。たぶん」
弁当箱を開けた朔が、全身で寄り掛かってきた。食べにくいんだよなぁ。
「俺を壁にすんなよ」
「直毘に触れてると安心するの。少しこうさせて」
直毘は弁当箱を右手で、箸を左手に持ち替える。そっと朔が息を吸った。
「抱きしめてって言ったら、抱きしめてくれる?」
「食事終わったらな」
「キスしてって言ったら、してくれる?」
「食事終わったらな」
「え、ホントに?」
「言ったろ、逃げねえって」
朔が身体を離す。直毘が右を見ると、彼女が真顔でこちらを眺めていた。目じりから玉の涙が流れ、顎を伝っていた。
箸を置いて、ポケットから未使用のハンカチをすっぽ抜く。直毘はそれを朔に差し出した。彼女は呆然とした表情で弁当を膝から脇に置いて、祈るように両手で掴んだ。
「直毘、いる?」
「いるよ」
「これ、夢じゃないよね」
「現実だな」
「そっか……そっか」
直毘の手を朔が自分の頬に重ねる。彼女の暖かさと心から湧き出る想いで熱に浮かされそうだった。
「他の子、好きになっちゃやだ」
「ならんだろ。女でまともに見れるのお前だけだ」
「あの二人は?」
「雪那はあの通り武士だ。月読は俺をミジンコ扱いだ」
「もし直毘のことが好きだったら?」
「俺には無理だな。俺には昔っからお前しかいないんだよ」
手に流れる涙が増える。直毘はされるがまま右手を朔へ任せた。想いの強さは遥か彼方、ただ、愛おしさだけが際限なく生まれていく。
「もう、直毘が嫌なことしたくない」
「お前ならいいよ」
「私わがままだよ。きっと色々求める」
「昔もそうだったろ。変わんねえよ」
「さっきみたいなこと、きっと言っちゃうよ」
「できる限り叶える」
ひとつだけ嗚咽を落として、朔が笑う。
「直毘、他の子にもこんなことしてるの?」
「しねえよ。触れられた時点でアウトだ」
「だよね。あーあ、すごく嫉妬してる自分が恥ずかしいな」
からからと笑って、朔が直毘の手を離してハンカチで拭いた。
「やっとお腹すいた。食べよ」
「そうしろ。そこそこ美味いぞ」
「食べ終わったら約束守ってね」
「……おう」
やっとこさまともに食べられる。直毘は箸を右手に持ち変える。じっくりと自分の料理を味わう。やっぱそこそこ美味い。
ゆるやかな風が頬を撫でる。暖かい陽気が心地よい。ぼけーっとしながら食事を進めるいまは、きっと幸福だ。
若干浸りながら食事をしていたら、隣の朔が弁当箱を閉めた。
「すーっごく美味しかった!」
え……早くね?
「うがいしてくるー!」
とてとてと朔が駆けていく。なぜうがい。
直毘は最後のひと口を食べ終わり、食の満足を存分に感じながら弁当箱を袋にしまった。ぱたぱたと朔が戻ってくる。ベンチには座らず、眼前に立って両手を広げていた。
「ハグして!」
弁当袋を置いて立ち上がり、一歩前に進んで両手を朔の背中へ回した。服の衣擦れ音、彼女の髪の毛が頬をくすぐった。
「ほれ、こうか?」
朔が顔を胸に押し付けてくる。
「もっと強く」
「はいよ」
全身が暖かい。朔の体温が血を巡って流れるようだ。
「直毘もさ、したいこと言って」
「買い出し手伝ってくれ」
「うん、他には?」
「雪那を制御してくれ……」
「それは無理」
ひどい。切実にやってほしいことだというのに。
「もっとこう、ロマンチックで恋人的なことないの?」
「それは分からん」
「私はキスしたいです」
「じゃそれで」
腕の中の朔が顔を上げる。熱っぽい瞳がうるうると光っていた。
「いまからします」
「おう」
「するよ?」
「おう」
「するからね?」
「はよしろ」
すぅ、と朔が顔を近づける。濡れる花びらのような顔でひとみを閉じる。が、動かない。
そっと少し身体を離して、朔の顎に触れて上に向けた。そのまま自分のそれを重ねた。
「んふっ!」
なんで驚いてんだよ。
二歩ほど下がって朔を観察する。両手で頬を持った彼女は、顔を真っ赤にしたまま視線をあちこちに飛ばしている。
「え、あれ、いまの、なに?」
なにじゃねえよ。
「いま、直毘からした?」
「そだな」
「直毘なのに⁉」
「俺いまディスられてんの?」
むーっと朔が唸る。犬かよ。
「もっかい! もっかい! 今度は私からする!」
「おかわりみたいな感覚で言うなよ……まあ、ほれ、来いよ」
「まず座って。直毘背高い」
はいはい、と直毘はベンチに腰掛ける。決死の表情になった朔が眼前に立つ。
「顔、上に向けて」
のそっと顔を朔の目へ向ける。彼女が背を曲げて顔を近づける。が、どうにもしっくりこないのか、首を傾げて今度は膝を落とす。今度は見上げる形になる。
「あれー?」
「お前……キス下手なんじゃ」
「そ、そうかも」
無駄に落ち込み始めた朔に、直毘は隣をぽんぽんと叩く。そそっと隣に座った朔の頬に触れた。
「ほれ、これでがんばれ」
「うん。顔、ちかづけて」
身を乗り出す。朔が手を伸ばして頬に触れ、唇をかわす。
「できた」
「よかったな」
「……直毘の余裕そうな顔が気に食わない」
「そうか、そう見えるか」
朔の左手を取って自分の胸に当てる。気取られないようにしていた状態がばれる。
「……うわ、心臓ばっくばくだ」
「顔に出ねえだけだアホ」
「え、これってドキドキしたってことだよね?」
「心臓破裂しそうだ。おい、こんなん世のカップルやってんの? よく死人でねえな」
朔が表情を覗き込むように下から見上げる。頭に空白が強制されて思考が止まる。
「えと、どだった?」
「感想求めんなよ。感触なんて分かんねえよ。お前の顔近づくと頭真っ白になんだよ」
「えと……私のことちょっと意識しちゃった?」
「あのな、いまちょっとまともに顔見れねえんだわ。こっち見ないでくれる?」
「直毘が頬持ってるから動かせませーん」
「なら俺の顔から手を離してくれ」
「もう一回してくれたら、いいよ」
視線を逸らしたいのに、桜色の唇から目が剥がせない。一度瞑目して、もう一度触れた。今度は、少しだけ長く。
顔が離れて、どちらともなくそっと距離を取った。直毘は両手で顔を覆う。恥ずかしくて何も見ていられなくなった。
「これ、いいね」
「……そだな」