午後の授業は上の空だった。ひとつ空きの席を見つけられたくらいで、教師が話す内容は念仏のように耳を通り過ぎていった。それだけ、昼の時間が直毘には鮮烈だった。
休み時間は朔が来て、どうにか会話をかわして次の授業。教科書の文字も頭に入って来ない。生きている世界が丸ごと変わってしまったようだ。頭の中にずっと天照朔がいる。
授業がすべて終わり、HRも幕を閉じる。ぼけっとしている直毘の隣に雪那が立っていた。
「直毘、報告を忘れていた。昼休みにお前たちを盗撮しようとした者がいた。なに、案ずるな。手刀で意識を刈り取った。そろそろ起きる頃合いだろう」
一から十まで話が分からねえ。
「あ、え……お前いたの?」
「私は何も見ていないぞ。こう、怪しい敵をすばやく落としただけだ」
ぶわっ、と空気を斬るほどの手刀が眼前で放たれる。ほんとに無事なのか?
バン、と教室のドアが開かれ、全身に疲労感が漂う佐藤教師が現れる。
「冬月、ちょーっと頼み事がある。来てくれるか?」
「もちろんだ。先生のためならば死力を尽くそう」
あ、これマジの説教だ。月読もドン引きしていた。
「なおびー、一応裏で流れてないか見とくよ」
「助かる」
「あと、昼休みの話、聞きたいなー」
ちょんちょん、と月読の肩が叩かれる。振り返った彼女の前には、大輪の花を咲かせた朔の微笑があった。
桜色の唇が月読の耳に近づき、なにかを告げる。ポニーテールがぶわん、と動いて直毘の顔面に直撃した。痛ぇ……。
「え、うそ、なおびーが? うそーん」
「おい月読、お前、先に言うことあるだろ……」
月読がにまーと笑って、ぐっと親指を突き出した。
「さすがなおびー! やればできる男だって知ってた!」
朝はミジンコ扱いしてたじゃねえか。ちょっと家帰ったら黄昏よう。今後の身の振り方を考えた方がいい気がしてきた。ミジンコって……。
のっそりとカバンを背負うと、朔に右手を掴まれて身体を引かれる。
「帰ろ、直毘」
「……そだな」
喧騒から逃れるように教室を出る。一度情報が確定してしまえば、誰と誰が付き合っているなんて話はすぐに消える。周囲からの視線は朝よりもだいぶ減っていた。
校舎を出ると、隣の朔の肩がわずかに弾みだす。
「今日はどだった?」
「朝は死にそうだった。けど、昼に……ね。ほら、色々あって。なんかさ、ほっとした」
「俺も、そうかもな」
右手を握る朔の手が少し強くなった。
「ずっと一緒がいい」
「無茶言うな。これから家帰って料理すんだよ」
「そうじゃなくてさ、ずっと、直毘と一緒にいたいなって」
「あん? お前の弁当の仕込みも必要なんだが」
ううーん、と朔が空を仰いだ。何事かと思った瞬間、彼女が走り出す。右手で繋がっているから直毘もついていくしかない。引っ張られるまま走ると、付近の公園に入ってベンチの前で立ち止まる。
肩で息をした朔が、手を離して対面に立つ。
「直毘にはちゃんと言わないと伝わらないことが分かりました」
「なんの話だ」
風が吹く。音が止まる。
「好きだよ直毘」
「知ってる」
「私と付き合える? 嘘じゃなくて、本気で」
見ていられなかった。
両手で顔を覆って、崩れるようにベンチに落ちる。視界が塞がっていないと、ちゃんと言葉にできそうになかった。
「なあ、朔」
「うん」
「目がな、勝手にお前を追うんだ」
「うん」
「頭の中、お前のことばっかだ」
「そっか」
「こんなの、初めてでさ。たぶん、好きだってことだけは分かる」
「うん」
「他のやつじゃ、こんなことなかった。朔だけがいつも俺のど真ん中に突き刺してくるんだよ」
体温が右に灯る。
「直毘、不器用だもんね。ちゃんと自分の中で定義しないと、心が追い付かないんだよね」
顔から剥がした手が膝に落ちる。その手の上に、朔が手をそっと重ねた。
「ごめん、ちょっと急いじゃった。直毘はゆっくりがいいもんね」
「昼休みの後、授業が入って来なかった」
「あはは、それは私も同じだ」
「朔が近くにいると安心するのに、なんでか心臓が跳ねる」
「うん、それも同じ」
「ホントは、一緒にいたい。でも、家事しなきゃいけなくてさ。飯作って、掃除して……あれ、なんでそうなるんだ……」
思考がおかしい気がした。
「直毘?」
なぜか、手が震えた。
「なんだそれ、おかしいだろ。別に一日二日くらい、サボったって……」
足場が崩れる。踏み抜いたら暗闇に落ちる、そんな錯覚を覚えた。
「俺は……なんだ?」
「直毘!」
鋭く呼ばれ、頬に手を添えられる。朔の顔が広がった。空白が思考に滑り込む。
「いいの。落ち着いて。大丈夫。そんなに考えなくていいよ」
「だけど、それじゃお前が……」
「あんなにたくさん言葉をくれたんだよ。あれで満足できなきゃ、おかしいでしょ」
「……いいのか?」
「いいんだよ。直毘の言葉は重いんだから。あれだけもらえたら十分」
ひとつ微笑んでから、朔が手を離して直毘の肩に頭を預ける。
「ひとつ、約束してほしいこと、あるんだ」
「ん?」
「テスト終わったら、お願い、ひとつだけ聞いて」
「なんだ?」
「うん、そのときになったら言うよ。あ、えっちなことじゃないからね」
「聞いてねぇ」
でも、と風に消える声で、朔言う。
「直毘のためになるって、信じてるから」
「……そか」
朔の指が絡まる。肩と手に伝わる温度が、どうしてか直毘を寂しくさせた。