神がそれを仕組まれた   作:ユーカリの木

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終章

 幼い頃の直毘にとって、姉である真花(まか)は恐怖の象徴だった。両親は不在。背中には守るべき弟――伊豆乃しかいなかった。だから、泣き言を言うこともできずに、ただ姉に従った。

 

「直毘、アイス買ってきて。硬いやつ」

 

 夜八時にそんなことを言われる日もあった。

 

「もうめんどい。直毘、今日から料理して」

 

 それから直毘は料理を始めた。家事もした。

 

「まっず。こんなの食えるわけないじゃん!」

 

 皿が飛んで壁に打ち付けられ、床が汚れても、直毘は雑巾で綺麗にした。

 

「なんであたしばっかこんな目にあうんだよ! うっざい!」

 

 怒り狂って帰ってきた日は、伊豆乃と一緒に息を潜めた。それでも、目に入れば殴られることもあった。いたかった。

 

「直毘、金」

 

 大事にしまっていた財布から、姉は何度もお金を抜いた。つらかった。

 

 姉が怒る。こわい。姉が料理を吐き捨てる。つらい。たまに姉がおいしいと言ってくれる。よかった。

 

 毎日が終わらない地獄の繰り返しだった。

 

 直毘が中学に入っても、この生活は変わらなかった。みんなが部活や遊んだりしている時間を家事に当てて、伊豆乃の世話をし、姉の悪罵を受け止めて、夜になると死んだように勉強する。

 

 六澤睦美の存在だけが支えだった。

 

 ふたりで知恵を出し合いながら、一緒にカーストを駆けのぼっていく時間は、楽しかった。そこだけは幸福だった。家はつらいだけだった。痛いしかなかった。

 

 いつからか、心が限界に近くなっていた。家だけで心が痛いのに、カースト上位になったら精神がつらくなっていく。いつか倒れる。そう思った。

 

 あの日、六澤睦美が女に見えた。怖い女(あね)と重なった。もう駄目だと思った。

 

 家で気を失い、起きたときには病院にいた。久しぶりに会った母は、泣いて懇願するように謝っていた。なにも分からなかった。

 

「直毘、直毘ッ……! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

 母の声が遠かった。姉が来ることが怖かった。それ以外に、もう考えることがなかった。

 

 病院から出ると、母にホテルへ連れていかれた。もう姉と会わなくていい、弟と一緒にふたりで暮らせる。そう言われた。どう感じればいいか分からなかった。

 

 しばらくホテルで暮らし、用意されたマンションで伊豆乃と二人暮らしになった。

 

 弟はずっと引きこもっていた。どうにかしないといけなかった。

 

 マンションに越してきてから、弟は絵を描いていた。最初こそ見せようとしなかったそれを、あるとき差し出してきた。直毘は絵の良し悪しは分からなかった。ただ、上手いということだけは感じた。だからこれを生かせる方法をネットで探した。

 

 最初はPCとイラスト用のタブレットを用意した。弟は喜んで毎日楽しそうに絵を描き続けた。直毘の目から見ても、その絵は明らかに商業レベルに進化していた。

 

 だから直毘はもっと調べた。なにか外と繋がる方法があればいい、そう願った。

 

 そして、vTuberの存在を知った。奇跡だと思った。だから貯金にものを言わせて機材を一式揃えた。弟は、本当に喜んでくれた。嬉しかった。

 

 Live2Dを契約し、弟は必死にPCの前で戦っていた。直毘は弟と一緒になって伊豆乃のアバターとなる飯綱(いづな)を作った。

 

 すべての準備が整い、初めての配信の日が訪れる。弟はかちんこちんに緊張していた。見えるのは顔じゃなくて絵だから大丈夫だ、そんなことを言った。弟は直毘の袖を掴みながら、配信を開始した。

 

 あとは配信とSNSのイラスト投稿の連続。人が集まると共に、弟は自信を取り戻していった。アンチなる変な奴らも現れた。ふたりで必死になって対応を考えた。そうやって、弟は次第にひとりでvTuberの世界で進めるようになった。

 

 寂しかった。

 

 受験の時期が近づき、進路を考える必要が出てくる。母の勧めである高校を受けることになった。そこは男女一組となって暮らす全寮制の高校だった。最初は反対した。だが、母は何度も話の場を設け、直毘も諦めて受験することにした。

 

 そして、冬月雪那に出会った。

 

 ――一年と半年ぶりに、直毘は自宅の前に立つ。倒れそうな身体を朔が支えていた。勝手に手が震える。足はがくがくとして軸が不安定だった。

 

「悪い、引っ張ってくれ。インターホン鳴らせば、たぶん母さんが出てくれる」

 

 腕を抱きしめた朔が、直毘を引いてインターホンを押す。事前に連絡していたから、玄関のドアはすぐに開いた。母親の姿を見て、随分と老いたように感じた。

 

「直毘……おかえり」

 

「ああ……ただいま」

 

 袖で目元を拭った母が朔を見る。

 

「睦美ちゃんね」

 

 朔が息を呑んだ。

 

「中学の先生から聞いてたの。直毘はずっとあなたと一緒にいたって。だから、本当にありがとう」

 

「いえ、私には……これしかできなくて……」

 

「いいの。まだ子どものあなたたちに、全然手を差し伸べられなかったのは大人だから。さあ、上がって。今日来た目的を果たしましょう。もう、あの頃のあの子じゃないから」

 

 母に促され、朔に引かれて家の中に入る。

 

 かつての記憶がよみがえって、吐きそうになった。朔が背中をさすってくれる。それだけで心が落ち着いた。

 

 震える足で廊下を歩いた。リビングが近づくと壁のいたるところにシミが見える。昔の直毘では消せなかった、姉の痕跡だった。

 

 思わず左手が朔を探した。正面に立った彼女に抱きしめられる。怖かった。

 

 息が浅くなる。それでも、身体に移された朔の体温が動揺を落ち着かせていく。

 

「だいじょぶだ。もう、行ける」

 

「ん……」

 

 朔と手を繋いで、姉が待つリビングへ入った。視界が開ける。

 

 姉がいた。

 

 ソファーに浅く座り、祈るように両手を握り、額をこすりつけていた。長かった金髪は、黒のショートカットになっていた。

 

 あの頃の怖い女(あね)ではなかった。

 

 姉ががたがたと震える両手を下ろし、まぶたを開いた。焦点の合わない瞳が、直毘をようやく捉える。

 

「……なおび」

 

「姉貴、久しぶりだな」

 

 深く息を吸って、朔の手を離してテーブルの椅子に座った。姉はただ直毘を見つめていた。

 

「……元気?」

 

「割とな。周りが騒がしい奴らで、ぼっちしてらんなくなった」

 

「大きく、なったね」

 

「背がでかいのが取り得なんだよ。いまじゃ俺の方がでかいだろうな」

 

 姉の表情に亀裂が走る。

 

「料理……美味しかったんだよ」

 

「ああ」

 

「家事……ごめんね」

 

「姉貴下手だったからな」

 

「お金も、ごめんなさい」

 

「倹約家になったわ」

 

「怖い思い、たくさんさせたね。殴って、ひどいことした……」

 

「あれはもう勘弁してくれ」

 

 姉の顎から涙が落ちる。膝がソファーから崩れ、がたん、と床に落ちた。小刻みに震える姉の手が胸を掴んでいた。

 

「ずっと、ごめんなさい」

 

「ああ」

 

「ひどくあたって、ごめんなさい。ちゃんとお姉ちゃん、できなかった。なおびに拒絶されるのが怖くて、マンションの入口でずっと固まってて……ごめんなさい」

 

 謝罪の連続が胸に落ちる。やがて重い理解が訪れた。

 

「今んなると、正直姉貴の気持ちも分かるよ。弟ふたり、縋れる両親はろくに帰って来ない。中学にはいりゃ勉強だの成績だの、めんどくせえ」

 

「違う……私は……」

 

「叱ってくれるやつは誰もいなかった。そう、なるしかねえよな」

 

「なおび……」

 

「正直、ここに来るまで怖かったよ。心底怯えた。朔がいなきゃ玄関前で逃げ出してた。でも来て、姉貴に会って、なんか分かった」

 

 椅子から降りて、床に座った。

 

「姉貴、ひとりだったのか?」

 

 姉が、真花が嗚咽をこぼした。

 

「そうか……つらかったな」

 

「なん……で」

 

「ひとりはつらいよな。俺も知ってる。それ、どんだけ続いてた? 俺はたかだか一年半だ」

 

 真花が顔を落とす。ぽたぽたと落ちる涙が止まらない。

 

「ずっと……」

 

「そか。いまは誰かいるか?」

 

「大学入ってからは大丈夫」

 

「そっか。なら良かったよ」

 

「……なおびは、いま楽しい?」

 

「割とな。まあ、彼女なんてできたからな。びっくりだ」

 

「私も、料理できるようになった。ちゃんと食べれるくらい」

 

 自然と口元が緩む。

 

「そか」

 

「伊豆乃の配信も見てる。なおび……がんばったね」

 

 舌の奥が少し痛くて、泣きそうだった。

 

「あれはあいつの頑張りだよ」

 

「準備、たくさん手伝ったんでしょ? SNSも見てたよ」

 

「……そか。そうだな。結構がんばったかもな、俺」

 

「良かった……」

 

「もう、そろそろさ。昔の俺らに戻ろうぜ。昔は、仲良かったろ?」

 

「……いいの?」

 

「過去清算しないと、前進めねえだろ。俺も、姉貴も」

 

 真花が顔を上げる。その表情は、仲が良かった頃の姉そのものだった。

 

「ベタに握手しとこうぜ。それでもうチャラだ。お互いに過去に触れるのなし」

 

 直毘は右手を差し出す。姉がそれを呆然と見て、やがて、触れ難いものに触れるように、右手を伸ばした。それを掴んで柔らかく握る。

 

「姉貴、もう俺は大丈夫だ。自分の人生、生きろよ」

 

 握った右手に左手を添えた姉が、祈るように目を閉じた。

 

「なおびも、幸せになって」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 電車を降りて駅に着く。外に出ると空は黄昏色に染まっていた。身体に宿っていたモヤが晴れた気分だった。

 

 会話もなくただ手を繋いで朔と帰り道を歩く。触れる体温が暖かくて泣きそうになった。隣に信頼できる人がいる。それだけで心底安心できた。

 

 分かれ道、どうしても別れがたくて、立ち止まって動けなくなった。

 

「なあ朔」

 

「うん?」

 

「一緒にいたいって、こういうことなんだな。やっと、分かった」

 

「そっか」

 

 とん、と朔が肩をぶつける。

 

「やっと私に追いついたね」

 

「長かったよ……」

 

「これで晴れて直毘は私の彼氏になって、私の結婚相手になります」

 

「……なんで急にステップ跳んだ?」

 

 まあまあまあ、と朔が繋がった手をぶんぶん振る。

 

「片思い歴、小学一年から! ここまで十年、いやー長かったね」

 

「お、おう……ん? 長くね?」

 

「そう、だから結婚してもらいます。責任取ってください」

 

「なんでそうなった?」

 

「あぁ、一か月つらかったなぁ。直毘に見つけられなくて、悲しかったなぁ。枕いっぱい濡らしたなぁ」

 

「待て、おい待て、いや、悪かった。それは悪かったよ。え、で、それで結婚まで跳ぶのか?」

 

「もう、お義母さんに挨拶しちゃったし。お義姉ちゃんにも」

 

「……あれ結婚前の挨拶じゃねえよ?」

 

「私じゃ、嫌?」

 

「嫌じゃねえけど……」

 

「言質取った――!」

 

 いま、凄まじい契約書にサインした気がする。ひゃっほーい、と朔が楽しそうに笑っているから、もうどうでも良くなった。

 

「高校卒業したら結婚だ!」

 

「そだな」

 

「結婚式はしない!」

 

「そなの?」

 

「新婚旅行はしない!」

 

「……なんで?」

 

「指輪は高いからいらない!」

 

「なにゆえ?」

 

「大学はお互いに行きたいところに!」

 

「あ、うん」

 

「一番欲しいのが手に入ったから、他はいいや」

 

「なんかお前、世の中の全婚活者に喧嘩売ってんぞ……」

 

「え、そだよ? 結婚相手をスペックで決めるなんておかしいじゃん」

 

「……そうなのか」

 

「だって直毘……」

 

「やめろ。言いたいことがすっげー分かった。だからやめろ」

 

「スペックさ――」

 

「悪かった。低くてすまん。ごめんな」

 

「……あれ、直毘……スペック高くない?」

 

「……そなの?」

 

「いや、うーん……ごめん、調子乗りました。直毘すごいです」

 

「朔はほれ、大人気だぞ」

 

「お、お互いさ、とりあえず、いい感じに均等が取れてるってことで、良しにしない?」

 

「そだな……そうなのか?」

 

 うんうん、と必死に朔が頷いている。追及はやめよう。この話の先に未来はない。

 

 ふと、スマホが鳴った。月読からのテレビ電話だ。

 

「いえーい、なおびー、サクたん、見ってるー? ピースピース!」

 

 月読の顔面ドアップが画面に広がる。さっとカメラが引かれ、月読の後ろに地面に伏した雪那、ぶるぶると震えながら椅子に座る久々利の姿が映される。

 

 人の家でなにしてんのこいつら。

 

「なーんか、ゆきなんが料理作るっていうから来てみたらさー、すっごい嫌な予感がしたんだよねー。で、ゆきなんに食べてもらったらこうなった」

 

 ずーんとアップにされた雪那が、腹を抱えながらうめき声をあげた。

 

「こ、れは……凶器だ」

 

 今度は久々利がズームされる。イケメン面がくしゃくしゃになっていた。

 

「直毘、天照。俺、お前らと友達になれて、よかった。……助けて直毘ぃぃ!」

 

「はーい、ってことでふたりとも、久々利が天に召されるまでに帰ってきてねー! みんなでご飯いこー!」

 

 電話が切れる。帰る場所が地獄と化していた。なんて日だよ。

 

「朔、俺はいま唐突に帰りたくなくなった」

 

「奇遇だね、私は直毘の家に行きたくなったよ」

 

「すげえな。のっけから一致してねえ」

 

「ほら、行くよ。みんなに結婚報告しないと」

 

「……マジか」

 

 ほらほら、と手を引っ張られて、直毘は朔と一緒に走る。手のひらから感じる感触で顔は熱いくらいで、夕焼けの帰り道は、輝いて見えた。

 

 

 

 了

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