ツクヨミ魔法学園の入学式まで、あと三週間。幸助の家の近くにある公園は、春を待つくせに、まだ冬の名残を手放していなかった。砂場は乾き、ブランコは無人のまま風に揺れ、滑り台の影は夕暮れの地面に長く伸びている。
その端に、灰色のマフラーを巻いた少年が一人、肉まんを両手で持って立っていた。
「
「何だ」
幸助が
「肉まん、半分いる?」
「いる」
「即答だな」
「友情とは分配だ」
「じゃあ四分の一で」
「友情が減ったな。おい」
「俺の腹も重要だからな」
幸助は笑った。その昔と変わっていない笑い方に、
変わっていない。
変わらなかった。
原作小説で起こったような、チートともいえる攻略知識を持つ何者かの憑依は、瀧音幸助に起こらなかった。
目の前にいる幸助は、
成績が悪い。
スケベで。
お調子者。
馬鹿なことばかり言う。
けれど妙なところで人の顔色を読み、人が倒れていれば走り出してしまう少年。両親を邪神教絡みの儀式で奪われ、祖母は病気で入院。親戚から距離を置かれ、近所からも妙な目で見られる逆境にありながら、名門ともいえるツクヨミ魔法学園に合格した少年。
攻略知識はない。
原作主人公の判断力もない。
物語を最適化する視点もない。
あるのは、無尽蔵ともいえる巨大な魔力と、壊滅的な魔力放出適性と、覗き目的で開花した心眼スキルと、
不安はある。
この先の学園生活が。
ダンジョンが。
邪神教が。
原作から外れた物語がくることに。
けれど、それ以上に、
――幸助は消えなかった。
別人に上書きされなかった。
幸助は幸助のまま、四分の一の肉まんを差し出している。
友情は減った。
でも、残っていた。
「
「何だ」
「お前、泣きそうな顔してるぞ」
「してない」
「してる。テストで赤点回避した時の俺みたいな顔」
「それは泣きそうではなく、奇跡を見た顔だ」
「俺の赤点回避、奇跡扱い?」
「天文学的なをつけてるレベルだ」
「ひどい」
幸助は笑いながら、肉まんを渡した。
本当に四分の一だったが、
「幸助」
「何だ」
「さっさと花邑さんのところへ行け」
幸助の笑いが止まった。
公園の隅で、枯れ枝が風に鳴った。赤くなりかけた空の下、ブランコの鎖が小さく軋む。遠くの道路を車が通り過ぎ、その音が消えるまで、二人の間には何もなかった。
「……やっぱり、そう思うか?」
「ああ」
「一人で寮って選択もあるって言われた」
「知ってる」
「入学まで、今の家にいるって選択も」
「それは駄目だ」
「即答だな」
「駄目だ」
熱い。
それでも、言葉は止めなかった。
「お前は、一人で家に帰るたびに、いない人間の数を数えてる」
幸助は何も言わなかった。
肉まんを包む紙が、クシャリと指先で小さく鳴る。
「父親。母親。祖母。家。近所の視線。全部数えて、それでも笑ってる」
「……
「俺は友人だ。家族じゃない」
それでも、言った。
「花邑さんは、お前の母親の従姉妹で、今はお前の親になった人だろ? 遅れて来たとしても、手を差し伸べてくれているんだ。だったら、一度握ってみろ」
「もし、駄目だったら?」
「俺のところへ来い」
幸助は、幼馴染の女の子のあまりにも男らしいいつもの態度に感謝しながら答える。
「いいのか?」
「いい。
「最高だな」
「朝練もある」
「最低だな」
幸助は笑った。
今度は少しだけ、泣きそうな笑いだった。
「三週間後」
「学園で会おう」
「
「当然だ」
ツクヨミ魔法学園は小学校の頃に二人で行こうと決めた目標だ。
「じゃあ、俺も行く」
「毬乃さんのところへ?」
「ああ」
幸助は即答した。
「家族っぽいものが増えるのも怖い。増えたあとでまた消えたら、たぶんきつい」
「うん」
「でも、一人の家に帰るのも、もう嫌だ」
「うん」
「だから行く」
「そうしろ」
夕暮れが濃くなる。
街灯が公園の地面に淡い円を落とした。
幸助のマフラーの刻まれた魔法刻印が、光を受けてかすかに浮かぶ。
第三の手。
第四の手。
原作では高校時代に得るはずだったものを、少しでも早く幸助に渡すために作った魔道具のマフラー。
幸助を守るために。
幸助が少しでも付与魔法を発動しやすくなるために。
「
「何だ」
「学園行けば、俺、モテるかな」
「今その話に戻るのか」
「大事だろ」
「まずはネクタイを自分で結べ」
「
「自分でやれ」
「厳しい!」
幸助も笑った。
原作は外れた。
攻略知識持ちの憑依者は来なかった。
でも、幸助はいる。
だから、
花邑毬乃の元へ。
少しでも家族の交流を得られるように。
少しでも幸せに近づけるように。
そして三週間後。
ツクヨミ魔法学園で、また会うために。
本日は2話投降となります。