冬。
木造の廊下を誰かが歩けば、床板が小さく鳴る。庭の竹垣が北風に擦れれば、からからと乾いた音を立てる。工房の奥では、魔石を研磨する細い音が、雪の降る前の空気に似た冷たさで耳へ届く。
そんな屋敷の一角。
刻乃は、作業台の前で灰色の布を広げていた。布といっても、ただの布ではない。魔力の通りがいい糸を混ぜ、外側は普通のマフラーに見えるように織った試作品だ。触れば柔らかい。けれど魔力を通すと、内側に織り込んだ刻印が反応する。
まだ未完成。
いや、未完成でなければならなかった。
瀧音幸助は、魔力量だけなら規格外だ。
だが、魔力放出適性が低すぎる。火球を撃てば線香花火、水弾を撃てば水漏れ、風刃を撃てば涼しいだけの風になる。
あのまま攻撃魔法を無理に練習させれば、たぶん本人より周囲の備品が先に死ぬ。
だから、方向を変える。
外へ撃たない。
内へ回す。
体に纏う。
道具に流す。
身体強化、付与、補助具。
幸助は砲台ではない。炉だ。巨大な魔力を、身体と装備の中で燃やすタイプだ。
そうなると浮かび上がるのは原作の幸助がつかっていた魔法具。4メートルのアラクネの糸をつかった布をマフラーのように首に巻き付けて使っていた。
第三の手。第四の手として動き、時には広げて硬化させることで強靭な盾とし、こぶしのように握りしめて強化すれば鉄槌となる。属性を付与することで、さらに汎用性が広がる魔法具だ。
いつでも身につけていられる。
両手を塞がないので、刀で攻撃したり刻印石など魔法具を扱う余裕がうまれる。
だからこそ、早く渡す。
少しでも早く。
少しでも長く慣れさせる。
幸助が幸助のまま、危ない世界を生き残れるように。
「刻乃」
背後から声がした。
祖父だった。
白髪を後ろで束ね、古い羽織を着ている。見た目だけなら、隠居した老職人だ。だが、その目は今も研がれた刃物のように細い。
「何をしている」
「マフラー」
「見れば分かる」
「なら聞くな」
「孫の作業理由を聞くのは祖父の権利だ」
「面倒な権利だな」
「家族とはそういうものだ」
祖父は作業台の横に立ち、灰色の布を見た。
触れない。
見ているだけで、布の中の魔力で刻まれた刻印を読んでいるのだ。今の刻乃ではできない芸当だ。
「盾防御、魔力循環による操作補助、伸縮の下地、硬化補助、属性付与補助。帰還信号……欲張ったな」
「必要になる」
「誰に」
「幸助」
「あの大きな魔力の子か」
「うん」
「複雑すぎてあの子には扱えない」
「言い方ぁ」
祖父は淡々と評価する。
「事実だ。井戸ではない。あれは湖だ。水路が複雑すぎて正しい効果は発揮しない」
祖父の言葉に刻乃は押し黙ってしまう。刻乃であれば、適切な量の魔力を流し、器用に刻印を制御して扱うことができるだろう。
しかし幸助は単一機能の刻印ならいざしらず、複雑な刻印を器用に扱うことはできないだろうことは容易に想像できたからだ。
原作のイメージがあるゆえの、刻乃のミスである。
「……操作補助と硬化補助だけにしろ」
「予算は?」
「出す」
「太っ腹」
「その代わり、刻線の見直しをする」
「過保護」
「普通は、友人のマフラーに持ち主が危険な状態を察知して知らせる帰還信号など仕込まん」
「危ない世界だからな」
祖父は、そこで少しだけ息を吐いた。工房の空気に、付与石の赤い光が揺れる。
「死にたくないか」
「死にたくない」
「友人も?」
「死なせたくない」
「それで良い。碑文の職人は、だいたい何かを守りたいから手段を増やす」
祖父の例えに、刻乃は
「手段?」
「道具は手段だ。札。指輪。石。足りぬ手段を増やすために、魔道具を作る」
祖父は作業台の上の布を見た。
「その子には、手が必要なのだな」
「うん」
「なら、良い手にしろ」
「する」
「ただし」
「ただし?」
「初回から詰め込みすぎだ。操作補助と硬化補助を優先。他は段階的に追加しろ。そして帰還信号は隠せ」
「注文が多い」
「職人だからな」
祖父はそう言って、作業台の隅にあった銀糸を一本取った。
「ここは二重にしろ。あの子の魔力なら、初回で線を焦がす」
「初回から?」
「あの子ならやる」
「信頼が厚い」
「事故へのな」
刻乃は笑った。
そして、針を取る。
灰色の布の端に、小さく文字を縫い込んでいく。文字そのものは見えないように、布目へ隠す。魔力を通さなければ、ただの縫い目にしか見えない。けれど、そこには意味がある。
守れ。
伸びろ。
帰ってこい。
それは術式であり、願いであり、少しだけ呪いに似ていた。
数日後。
校庭の隅で、幸助は寒さに肩を丸めていた。冬の朝の校庭は、霜で白い。鉄棒は触れば指が痛くなり、体育館の屋根から落ちた水滴が、日陰で細く凍っている。
幸助は両手に息を吹きかけながら言った。
「刻乃」
「何だ」
「寒い」
「冬だからな」
「冬、強すぎない?」
「季節に勝とうとするな」
「俺の魔力で暖房できない?」
「うまく制御できればできるだろ」
「その制御が難しいんだけど?」
「未整備大規模魔力インフラだからな」
「人間扱いして?」
刻乃は鞄から灰色のマフラーを取り出した。
畳んでいた布を広げる。
幸助の目が、すぐに輝いた。
「お、何それ」
「お前用」
「え」
「マフラー」
「くれるの?」
「ああ」
「マジで?」
「嫌なら返せ」
「いる!」
幸助は即答し、両手で受け取った。それから、何か宝物でも持つように、少しだけ慎重に触る。灰色の布。軽く、柔らかい。
幸助は首に巻いた。
「おお、あったけえ!」
「防寒は副産物だ」
「副産物でこんなに幸せなの?」
「本命は魔力循環補助と硬化補助の刻印だ」
「説明が急に難しい!」
「お前が魔力を通すと、魔力循環を応用してマフラーを動かすことができる。あと固めることで棒のようにしたり、盾のようにしたり、槌のようにすることができる」
「すげえ!」
「ただし流しすぎるな」
「何で?」
「燃える」
「マフラーが?」
「最悪、お前も」
まあ実際には燃えることはない。ただ刻印が焼き付き発動が失敗するだけ。しかし幸助にはこう説明するほうが早いのだ。
「危険装備!」
「危険なのはお前の魔力量だ」
「俺、もしかして歩く爆発物?」
「ようやく自覚したか」
「ひどい!」
幸助は抗議したが、マフラーを外そうとはしなかった。むしろ、首元を押さえ、嬉しそうに笑っている。
「刻乃」
「何だ」
「これ、かっこいいな」
「見た目は普通だろ」
「普通なのがいい。秘密装備っぽい」
「秘密装備ではある」
「おお」
「出力調整を覚えろ」
刻乃は幸助のマフラーの端を軽く摘まんだ。
「いいか。まず、ほんの少しだけ魔力を通す。息を吐くくらいの感覚だ」
「息を吐く」
「そうだ。全力疾走ではない。ため息だ」
「ため息なら得意だ」
「自慢するな」
幸助は目を閉じた。
灰色のマフラーへ、魔力が流れ込む。
刻乃はすぐに眉を寄せた。
「止めろ」
「え、まだちょっとしか」
「それはお前基準だ」
「刻乃基準だと?」
「水道管に川を流しこんでいる」
「俺のちょっと、でかいな!」
「だから止めろ」
「了解!」
マフラーの端が、ぼんやり光った。
灰色の布の内側に縫い込まれた文字が反応し、マフラーが浮き上がり動き出す。遠くから見ればもう一本の手のように見えるだろう。
だが、次の瞬間、マフラーの動きがとまり重力に引かれて落ちていく。
「止めろ!」
「止めた!」
「遅い!」
幸助はマフラーを見つめた。嬉しそうで、申し訳なさそうで、でも外したくなさそうな顔だった。
「刻乃」
「何だ」
「ありがとう」
「あと訓練する」
「マフラーと?」
「マフラーもお前の手だ」
「手?」
「いつか伸ばせるようにする。より硬くする。盾にする。床やものを掴む。相手を拘束する。第三の手、第四の手だ」
「腕が増える!」
「比喩だ」
「でも、腕が増えたら便利だよな」
幸助は笑った。
その日から、マフラーを扱う訓練が始まった。
まずは魔力を流しすぎない訓練。
次に自在に操作する訓練。
それから、布の端を少しだけ硬化させる訓練。
幸助は毎回失敗した。
魔力を流しすぎる。
急に硬化させる。
マフラーの端が跳ね、幸助自身の顔に当たる。
「痛っ!」
「自爆だな」
「俺の装備が反逆した!」
「お前の命令が雑なんだ」
「マフラーにも人権が?」
「少なくともお前より繊細だ」
「俺の扱い!」
放課後の公園。
夕方の校庭。
碑文家の工房の隅。
幸助は何度も失敗し、何度も笑い、何度も怒られた。そのたびにマフラーは少しずつ馴染んでいった。布が幸助の魔力を覚える。幸助の身体が、布へ魔力を流す感覚を覚える。
刻乃はそれを見ながら、何度も微調整をした。
伸縮の下地を少し広げる。硬化の刻線を補強する。魔力の逃げ道を追加する。暴走時も刻印を保護するような線を入れる。
やることはいくらでもある。
そして、予想通り、幸助はマフラーを汚した。
給食のカレー。
公園の土。
雨上がりの泥。
なぜかチョコ。
なぜか絵の具。
「お前、マフラーで何をしている」
「人生」
「答えになっていない」
「すみません」
「洗い替えを作る」
「やった!」
「喜ぶ場面ではない」
「でも刻乃がまた作ってくれた」
「必要だからな」
「刻乃、優しいよな」
「職人として当然だ」
しょうがないクライアントだと呆れたような表情をする刻乃をみて、幸助はいつものように笑うのだった。
「照れた?」
「照れてない」
「照れてる」
「朝練倍」
「権力ぅ!」
二本目のマフラーは、一号より少し安定した。三本目は作らなかった。代わりに、二本を順次アップデートしていくことになった。 幸助は片方を身につけ、片方を刻乃が預かる。
汚れたら交換。
焦げたら修理。
新しい刻線を試す時は、まず予備で実験。
そんな運用が定着した。
冬が終わり、春が来た。
桜が咲き、学年が上がる。
幸助は相変わらず馬鹿だった。
だが、マフラーだけは大事にしていた。
暑い日でも、首から外さないことがある。
「暑くないのか」
「暑い」
「外せ」
「刻乃が作ったからな」
「せめて氷結の魔法を付与しろ」
「おお!」
程よく冷えたるマフラーに幸助は満足げに頷いた。
ツクヨミ魔法学園を目指す約束は、そんな日常の中で生まれた。
放課後。
公園。
夕焼けの中で、幸助はマフラーを器用に操作し鉄棒にぶら下がっていた。
刻乃はその横で、木のベンチに座り、魔法文字の写しをノートに取っている。グラウンドでは低学年の子供たちがまだ遊んでおり、遠くの道路からは焼き芋屋の音が小さく聞こえた。
「刻乃」
「何だ」
「ツクヨミ魔法学園ってさ」
「うん」
「合格したら、モテるかな」
「目的が軽い」
「名門だぞ? 女子も多いだろ?」
「お前は学園を何だと思ってる」
「青春の前線基地」
「戦死するな」
幸助は鉄棒から手を離し、砂場に着地した。
着地が少しだけ滑るが、マフラーの端がふわりと揺れ、幸助の姿勢を補助した。
「今、マフラー動いた?」
「動いた」
「俺、上手くなってる?」
「少しな」
「おお!」
返事だけは早い。
「刻乃もツクヨミ行くんだろ?」
「可能ならな」
「可能ならって何だよ」
「入試がある」
「刻乃なら余裕だろ」
「俺は刻印魔法以外、可もなく不可もなくだ」
「魔力量はすごいだろ」
「努力したからな」
幼少期からの努力もあり刻乃は一般的な魔法使い以上、わかりやすくいえば将来的に主力となるヒロインたち並みに魔力量だけは成長はしていた。
それでも適正という面では平均的なレベルであるのは、才能の差としか言い難い。
「じゃあ俺も努力する」
「まず算数からだ」
「急に現実!」
「ツクヨミは顔パスでは入れない」
「顔パスないの?」
「ない」
「刻乃パスは?」
「ない」
「俺を背負って合格する制度」
「お前を背負うくらいなら参考書を背負う」
「友達への愛が薄い!」
「友情はある。代筆はない」
幸助は砂場にしゃがみ込んだ。
「でもさ」
「うん」
「刻乃が行くなら、俺も行きたい」
刻乃はノートから顔を上げた。幸助は、砂を指でいじっている。いつもの軽口と違い、少しだけ視線が低かった。
「何で」
「刻乃がいると、何とかなる気がする」
「依存するな。せいぜい安心ぐらいにしろ」
「じゃあ安心」
「ただし勉強はしろ」
「やっぱり現実!」
刻乃は笑った。
「幸助」
「何だ」
「一緒に行くか」
「ツクヨミ?」
「ああ」
「行く!」
「勉強するんだぞ」
「今から?」
「今から」
「明日からじゃ駄目?」
「駄目」
「刻乃、鬼!」
「鬼教官でいい」
その日から、ツクヨミ受験計画が始まった。名目は、二人でツクヨミ魔法学園へ行くため。
幸助の本音は、モテたい。
刻乃の本音は、生き残りたい。
方向は違うが、努力する先は同じだった。
刻乃は魔法理論と刻印魔法を進めた。
幸助は基礎学力と身体強化とマフラー操作の訓練を続けた。
しかし、幸助は時々、どうしようもない方向へ努力を向けた。
それは小学校の修学旅行のことだ。
その夜が、まさにそうだった。
古い温泉旅館。
廊下は木造で、歩くと床がわずかに鳴る。壁には古い山水画が飾られ、窓の外には小さな庭園があり、灯籠の光が池の水面に揺れていた。
夕食は豪華だった。
子供たちは浮かれていたが、先生たちは疲れていた。
そして夜。
男子部屋では、布団の上で馬鹿な会議が行われていた。
「女子風呂って、向こうだよな」
幸助が言った。
その瞬間、刻乃は、近くにあった枕を投げた。
命中。
「ぐえ」
「何を言っている」
「いや、確認」
「確認するな」
「でも男子としては」
「社会的死を選ぶな」
「まだ何もしてない」
「今、発想で一回死んだ」
「厳しい!」
幸助を含む男子連中に交じって、女子の刻乃がいることを誰も気にしてはいない。
あまりに当たり前すぎたからだが、刻乃が女子の和にいると浮いてしまうから逃げてきたともいう。
そんあ状況で幸助は枕を抱えたまま、真剣な顔をした。真剣にならなくていい場面である。
「刻乃」
「何だ」
「目で見るから駄目なんだと思う」
「すでに駄目だ」
「心で見る」
「宗教へ行け」
「心眼だ」
「帰ってこい」
刻乃は頭を抱えた。
たしかに心眼スキルは存在するし、もし使えれば壁越しにでも先を見通すことができるかもしれない。同室の男子たちは、半分笑い、半分本気で聞いている。
危険だ。
男子小学生の集団は、馬鹿が伝染する。
「やめろ。絶対にやめろ」
「いや、でも魔力感知を伸ばせば、壁の向こうの気配くらいは――」
「その用途で伸ばすな」
「索敵にも使えるだろ?」
「今、索敵って言えば許されると思ったな」
「ちょっと思った」
幸助は布団の上で正座した。
「俺、やってみる」
「やるな」
「才能が開くかもしれない」
「そんなしょうもない理由で開くな」
「男には挑まねばならない時がある」
「それは今じゃない」
実際には女子風呂の方向は正しいが、そこに到達するには廊下もあり部屋も複数存在する。なにより、古来よりその手の対策はある程度されているのだから、部屋越しというのはなかなか難しい。
しかし、幸助は目を閉じた。
マフラーの端を握る。
魔力を広げる。
放出ではない。
幸助が得意になりつつある、内側から装備へ流し、そこから外界の魔力の揺れを感じるやり方。
刻乃は止めようとした。
だが、止める前に気づいた。
幸助の魔力が、変な形で広がっている。
視覚ではない。
聴覚でもない。
魔力の圧、空気の動き、熱、音、足音、壁の反響、そういったものが雑に混ざり合い、幸助の感覚へ入り込んでいく。
粗い。
危険。
でも、成立しかけている。
「……嘘だろ」
刻乃は呟いた。
幸助が目を開いた。
「見えた!」
「見るな!」
「まだ壁しか見えてない!」
「なら壁で満足しろ!」
「もうちょっとで――」
刻乃は幸助の後頭部を全力で叩いた。鈍い音が部屋に響く。
「痛てええええええ!」
「今のうちに止めておかないと社会的に死ぬ」
「俺の才能が!」
「才能は健全利用しろ」
「俺の青春スキルが軍用化されてる!」
「不健全利用したら通報するぞ」
「友達なのに!」
「友達だから止めるんだ」
その後、先生に怒られた。
なぜなら男子部屋が騒がしかったからである。
覗き未遂の詳細は伏せた。
刻乃は先生に「少し魔力感知の暴発がありました」と説明した。
嘘ではない。
全部ではないだけだ。
翌朝。
旅館の裏手。
山の空気は冷たく、木々の間から朝日が差し込んでいた。鳥の声が聞こえ、遠くで川が流れている。
幸助は眠そうな顔で立っていた。
「刻乃」
「何だ」
「眠い」
「朝練だ」
「旅行中だぞ」
「旅行中に変なスキルに目覚めた馬鹿がいるからな」
「誰だろうな」
「お前だ」
「ですよね……」
刻乃は小石をいくつか拾った。
「目を閉じろ」
「え、また心眼?」
「健全利用だ。小石を投げる。気配と魔力で避けろ」
「当たったら?」
「痛い」
「防具は?」
「マフラー」
「信頼してる!」
「お前ではなくマフラーをな」
「俺も信頼して!」
幸助は目を閉じた。
刻乃は小石を投げる。
一つ目。
幸助は避けられず額に当たった。
「痛っ!」
「遅い」
「今のは不意打ち!」
「索敵訓練はだいたい不意打ちだ」
「正論が痛い!」
二つ目。
今度は肩に当たった。
三つ目。
マフラーが少しだけ動き、小石を弾いた。
「お!」
「今の感覚を覚えろ」
「何か、来た感じがした」
「そうだ。音、風、魔力の揺れ、全部拾え。ただし女子風呂へ向けるな」
「一生言われるやつだ」
「一生言う」
「刻乃の記憶力が憎い」
訓練は続いた。
幸助は小石を避けたり、当たったり、マフラーで弾いたりした。
覗き目的で開花しかけた心眼は、その日から索敵能力として叩き直された。
刻乃は思う。才能の入口が最低でも、使い道を変えれば生存率は上がる。
幸助は不満げだったが、やめなかった。むしろ、少しずつ面白がり始めた。
「これさ」
「何だ」
「壁の向こうの敵とか分かる?」
「練習すれば」
「弱点とかは?」
「万能ではないけどある程度は応用がきくらしい」
「すげえじゃん」
「そうだ。だから健全利用しろ」
「女子風呂は?」
「社会的即死」
「はい」
幸助は素直に頷いた。素直なのは、その時だけだったが。修学旅行から戻った後、心眼スキルの訓練は正式にメニューへ組み込まれた。
目を閉じて走る。
マフラーで小石を弾く。
背後の足音を読む。
壁越しの魔力反応を感じる。
距離を測る。
弱点を看破する。
最初はひどかった。幸助は木にぶつかり、段差で転び、刻乃の投げた小石を額で受けた。だが、少しずつ上達した。
「刻乃!」
「何だ」
「今の避けた!」
「避けたな」
「すごくね?」
「すごい」
「もう一回言って」
「調子に乗るな」
幸助は笑った。灰色のマフラーが、夕方の風に揺れていた。その端には、刻印が眠っている。
まだ完全には動かない。
だが、少しずつ幸助の魔力に馴染み、少しずつ幸助の手になっていく。刻乃は、それを見て少しだけ安心した。
この世界は物騒だ。
ダンジョンがある。
邪神教がいる。
魔族がいる。
幸助の未来には、不幸が待っているかもしれない。
それでも、今は笑っている。
マフラーを巻き、ツクヨミへ行こうと言い、モテたいと叫び、覗き目的で心眼を開花しかけ、刻乃に叩かれている。
どうしようもない馬鹿。
でも、生きている。
「幸助」
「何だ」
「ツクヨミへ行くぞ」
「おう!」
「モテるためじゃない」
「え」
「生き残るためだ」
「モテながら生き残るのは?」
「難易度が上がる」
「やり込み要素だな」
「なら人生はクソゲーだな」
幸助は笑った。
刻乃も笑った。
冬に渡した灰色のマフラーは、もう幸助の首元に当たり前のようにあった。
それは防寒具で。
補助具で。
将来の手で。
刻乃から幸助への、まだ言葉にならない約束だった。
たとえこの世界が、原作通りに進もうとしても。
たとえ刻乃の知っている未来が、幸助を器として扱おうとしても。
その時までは。
いや、その時が来ても。
幸助が幸助でいられるように。
刻乃は、灰色のマフラーの端を見ながら、そう思った。