モブは見守りたい【マジエク二次】   作:taisa01

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第四話 原作開始前)その四

 葬儀の日、幸助は泣かなかった。

 泣けなかったのかもしれない。

 

 春の手前。空は薄曇りで、風は冷たく、斎場の白い壁は妙に清潔だった。黒い服を着た大人たちが、小さな声で何かを話している。焼香の匂いが空気に混ざり、花の甘い匂いと、畳の乾いた匂いが、どこか遠い場所のものみたいに漂っていた。

 

 幸助は制服姿で、遺影の前で静か座っていた。

 その首元に、灰色のマフラー。場違いではないが、少しだけ浮いて見えた。

 

 親戚の何人かが、それを見た。何か言いたげだった。けれど、誰も言わなかった。たぶん、言えなかったのだろう。

 

 そのマフラーが、幸助にとってどういうものか分からなくても、今の幸助から何かを取り上げるのは危ういと、本能で分かったのかもしれない。

 

 刻乃は、少し離れたところに座っていた。

 身内ではない。

 ただの友人だ。

 それでも、喪主である幸助の祖母は、そこにいることを許してくれた。

 

 許された、という言葉が正しい。

 幸助のそばにいたかった。

 でも、ずっと隣にはいられなかった。

 

 

 焼香の順番、親族の席、弔問客の距離。

 そういう現実が、刻乃と幸助の間に細い線を引いていた。

 幸助は、その線の向こうで、静かに立っていた。

 親戚の大人たちが、幸助へ何か言う。

 

「しっかりしなさい」

「これから大変だぞ」

「おばあさんもいるんだから」

「君は男なんだから」

 

 言葉は、どれも間違ってはいない。

 だが、正しくもなかった。

 

 幸助はまだ子供だ。

 中学二年生だ。

 宿題を忘れ、数学で死に、ツクヨミ魔法学園に行けばモテるかもしれないと言っていた少年だ。その少年に、大人たちは「しっかりしろ」と言った。

 たぶん、他に言葉がなかったのだろう。

 

 けれど、言葉がないなら黙っていればいいのに、と刻乃は思った。

 

「はい。亡くなった両親に心配させないようにがんばります」

 

 短く。

 軽く。

 いつもの馬鹿な調子とは違う、気丈にも答える。

 

 その表情をみた、刻乃は拳を握った。

 怒りではない。

 いや、怒りもあった。

 

 だが、それよりも、自分の無力さが腹の底で重かった。

 救えなかった。

 分かっていたのに。

 準備したのに。

 

 幸助の母親の携帯電話から、邪教徒の意図で通話がつながった時、何も間に合わなかった。

 儀式は止められた。

 邪教徒は制圧された。

 でも、幸助の両親は戻らなかった。

 

 物語の背景ではない。

 現実の死だった。

 

 刻乃は、あの時の呪詛がどんなものだったかを、後で知った。祖父がどのような経路で調べたのかは不明だが、それは縁をつなぎ、縁を遡る類の呪いだった。

 効果は二つ。

 不幸の誘発。

 そして、縁を遡った伝播。

 呪われた人物は不運に見舞われ、周囲から孤立し、さらにそれまで結んできた縁へ同じ不運をばら撒く。魔力量が多ければ影響は限定的だろうが、一般人が標的になれば事故死すらあり得る。

 原作小説で語られていた幸助の不幸設定は、これが原因だったのではないか。

 そう考えるほどの呪いだった。

 

 

 

   ***

 

 葬儀の帰り。

 幸助は斎場の外で、空を見ていた。斎場の駐車場は広く、車の屋根が曇り空を鈍く映している。植え込みの低木は風に揺れ、遠くの道路からトラックの走る音が聞こえた。

 

「刻乃」

「何だ」

「肉まん、食いたい」

 

 刻乃は、幸助の横に立った。

 

「食えるのか」

「分からん」

「なら買う」

「いいのか」

「いい」

「四分の一でいい?」

「友情が減る」

「じゃあ半分」

「最初からそうしろ」

 

 幸助は小さく笑った。

 その笑いは、すぐ消えた。

 

「父さんと母さん、鍋の材料も買うって」

「うん」

 

 

 刻乃は言った。幸助が目をつむる。それから笑った。今度は、本当に少しだけ、いつもの幸助に近かった。

 

「そこは慰めるとこじゃね?」

「馬鹿を馬鹿と言えるのが友人だ」

「ひどい友人だ」

「肉まんは奢る」

「いい友人だな」

「評価が安いな」

 

 二人で帰り道で肉まんを買った。

 コンビニの白い照明は、斎場の白とは違っていた。人が普通に雑誌を立ち読みし、学生が菓子を買い、レジ横の肉まんケースから湯気が上がっている。

 世界は続いている。

 

 でも残酷だ。

 

 幸助は肉まんを持ったまま、しばらく食べなかった。

 湯気だけが空へほどけていく。

 刻乃も急かさなかった。

 

 結局、幸助は一口だけ食べた。

 

「熱っ」

「冷める前に食うからだ」

「肉まんは熱いから肉まんなんだよ」

「名言風にするな」

「でも、味しねえ」

「そうか」

「うん」

「なら、また買う」

「いつ」

「味がするまで」

 

 幸助は返事をしなかった。ただ、灰色のマフラーの端を握った。刻乃は、それを見て、胸の奥がまた痛んだ。守ったし、守れなかった。その二つが、幸助の首元に巻かれている。

 

 数日後。

 

 幸助の祖母が倒れた。まるで、残された支柱が、重みに耐えきれなくなったようだった。もともと体調は良くなかった上に、息子夫婦を失った衝撃は大きかったのだろう。入院は長引き、幸助が見舞いに行くたび、祖母の目は少しずつ遠くなっていった。

 

 白い壁。

 白いシーツ。

 白いカーテン。

 窓際の花瓶だけが、誰かが置いていった色を保っている。

 

 祖母は幸助を見るたび、違う名前を呼ぶことがあった。

 父の名。

 幸助の名。

 知らない親戚の名。

 祖父の名。

 それでも幸助は笑った。

 

「婆ちゃん、俺だよ」

「ああ……」

「幸助」

「そう、幸助」

「大きくなったねえ」

「毎回言ってる」

「いいことじゃないかい」

「まあな」

 

 刻乃は病室の隅に立っていた。

 見舞いの花の匂いと、消毒液の匂いが混じっている。壁際の小さな棚には、幸助が持ってきた果物ゼリーが置かれていた。祖母はそれを見て、食べると言ったり、いらないと言ったりする。

 

「幸助」

 

 祖母が言った。

 

「はい」

「お父さんは?」

 

 病室の空気が止まった。幸助は、一秒だけ黙った。それから笑った。

 

「仕事」

「そうかい。忙しいねえ」

「忙しいんだ」

「お母さんは?」

「買い物」

「鍋かい?」

「うん」

「肉まんも買ってくるかねえ」

 

 幸助の顔が、一瞬だけ崩れそうになった。だが、崩れなかった。

 

「買ってくるよ」

「そうかい」

 

 祖母は安心したように目を閉じた。幸助は、その手を握っていた。

 薄い手。

 骨ばった指。

 点滴の管。

 幸助の手は、その手より大きくなっている。それを見て、刻乃は思った。

 幸助は、もう何度も失っている。

 両親。

 祖母の記憶。

 周囲の視線。

 それでも笑っている。

 笑っているのではなく、笑う形を維持している。

 

 病院の帰り道。

 自動販売機の前で、幸助は缶コーヒーを買った。

 

 無糖だった。

 

「飲めるのか」

「飲める」

「砂糖入ってないぞ」

「大人だからな」

 

 幸助は一口飲み、顔を歪めた。

 

「苦っ」

「大人は遠いな」

「近道ない?」

「勉強しろ」

「大人への道、急に地味だな」

「そして長い」

「厳しい!」

 

 幸助は笑った。

 刻乃も笑った。

 けれど、その笑いは病院の白壁に少し吸われて、薄くなった。

 

 祖母が入院し、認知症が重くなり、幸助は家に一人になった。

 家と呼ぶには、空白が多すぎた。

 玄関を開けても「おかえり」はない。

 ダイニングの椅子は余り、冷蔵庫の音だけがやけに大きく、食器棚には使われない食器が並んでいる。洗濯機の横には、幸助が適当に畳んだタオルが積まれ、リビングの時計だけが、やけに正確に時を刻んでいた。

 夜になると、窓ガラスに映る幸助の姿が、部屋の広さに負けて小さく見えた。

 

 刻乃は、できるだけ幸助を一人にしないようにした。

 

 朝は連絡。

 昼は学校。

 放課後は勉強。

 夜は訓練。

 休日は碑文家へ呼ぶ。

 

 できる限り。

 できる限り、という言葉は嫌いだった。

 

 できない部分があるからだ。

 刻乃にも家がある。

 授業がある。

 修行がある。

 碑文家の手伝いがある。

 

 幸助の家に毎日泊まり込むことはできない。碑文家に毎日泊まらせることもできない。

 

 友人だから。

 家族ではないから。

 

 その線が、何度も刻乃を止めた。

 それでも、刻乃はできるだけ顔を出した。

 

 

「幸助、生きてるか」

「第一声がそれ?」

「生存確認だ」

「生きてる」

「飯は」

「食った」

「何を」

「ポテチ」

 

 あんまりな回答に刻乃は呆れた顔で言い返す。

 

「飯ではない」

「芋だぞ。あれは野菜だ」

「夕飯を食え」

「刻乃、母ちゃんみたいになってきたな」

 

 幸助は軽く言った。言ってから、黙った。事件以来、幸助は携帯端末をほとんど使わなくなった。家の固定電話もあるが、着信音そのものがストレスになる。だから刻乃は、できるだけ直接会いに行く。連絡が必要な時は、せめてメールにした。

 

「母親の代わりはできない」

「……うん」

「だが、ポテチを飯扱いする馬鹿は叱れる」

「ありがたいような、ありがたくないような」

「ありがたがれ」

「はい」

「そうおもって飯の材料をもってきた。簡単な鍋だ」

「鍋?」

「煮れば食える。初心者向きだ」

「俺でも?」

「お前でも」

「鍋、すげえな」

 

 その夜、刻乃は幸助の家で鍋を作った。

 白菜。

 豆腐。

 肉。

 きのこ。

 すでにカットしたものをもってきたので、市販の出汁を投入するだけの簡単な代物。

 

「幸助」

「何だ」

「豆腐に恨みが?」

「優しくした」

「結果がこれだ」

 

 幸助がいれた豆腐は、無残にもすべて崩れ去っていた。

 

「俺の優しさ、重い?」

「だいぶ」

 

 鍋は美味かった。幸助は最初、黙って食べていた。やがて、ぽつりと言った。

 

「母さんの鍋、もっと薄味だった」

「うん」

「父さんは濃い方が好きで、いつも七味入れすぎて怒られてた」

「うん」

「俺は肉だけ拾って怒られてた」

「容易に想像できる」

「だろ?」

 

 幸助は笑った。箸が止まる。

 

「刻乃」

「何だ」

「味、する」

「そうか」

「うん」

「なら、また作る」

 

 刻乃は鍋の湯気を見た。白く立ち上り、天井の灯りに溶けていく。幸助は、崩れた豆腐を口に入れた。

 

「俺、やらなきゃいけないことあるし」

 

 その言葉は軽くなかった。刻乃は箸を止めた。

 

「幸助」

「何だ」

「復讐か?」

 

 幸助は笑わなかった。箸を持ったまま、鍋の表面を見ている。湯気で顔が少し曇る。

 

「変か?」

「変ではない」

「だよな」

「だが、復讐心だけで走ると壊れる」

「分かってる」

「本当に?」

「たぶん」

 

 幸助は正直だった。その正直さが、逆に痛い。

 

「父さんと母さんを殺した連中、許せない」

「うん」

「あの電話も、忘れられない」

「うん」

「声、音、息とか、全部」

「うん」

「夢にも出る」

「うん」

「でもさ」

 

 幸助は、マフラーの端を握った。

 

「俺、何もできなかった」

 

 刻乃は、否定しようとした。

 お前は子供だった。通話を聞かされただけだ。そして動くなと言ったのは刻乃だ。お前が悪いわけではない。言葉はいくらでもあった。けれど、幸助の顔を見て、飲み込んだ。

 幸助は、正しい理屈を求めていない。自分の中にある、どうしようもない感情を見ている。

 

「次があったら」

 

 幸助は言った。

 

「俺、動けるようになりたい」

「うん」

「助けられるようになりたい」

「うん」

「殺すかどうかは、分からない」

「うん」

「でも、止めたい」

「なら、積め」

「何を」

「飯。睡眠。勉強。訓練。魔力制御。全部だ」

「多いな」

「復讐より多いものを持て」

「何だそれ」

「復讐だけだと、お前は復讐が終わった後に空になる」

 

 幸助は黙った。

 

「それが嫌だな」

「空になるのが?」

「ああ」

「じゃあ何持てばいい」

 

 刻乃は指をおりながら数える。

 

「ツクヨミ」

「学園?」

「ああ。友人。授業。ダンジョン。たぶん馬鹿な事件。モテたい欲。可愛い彼女」

「最後は刻乃の欲じゃね?」

「半分はな」

「混ぜるな」

「お前も可愛い彼女欲しいだろ」

「欲しい!」

「なら、復讐だけでは足りない」

「論法が雑なのに納得しそう」

「納得しろ」

 

 幸助は、少しだけ笑った。それから、鍋の肉を一枚取った。

 

「じゃあ、まずツクヨミ受かる」

「そうだ」

「モテるために」

「それでいい」

「本音は?」

「強くなるため」

「もっと本音は?」

「少しはモテたい」

「調子ができたな」

 

 幸助は頷いた。

 

「それでいく」

 

 その日から、幸助の勉強量は増えた。驚くほど増えた。とはいえ、なによりあれだけ散漫だった集中力が増した。 眠くなれば顔を洗い、分からなければ刻乃に聞き、間違えれば文句を言いながら解き直す。

 

「刻乃」

「何だ」

「俺、今日五時間勉強した」

「偉い」

「もっと褒めて」

「偉い」

「雑!」

「褒め慣れていない」

「訓練しようぜ」

「お前の補習に加えて褒め訓練か」

「俺の自己肯定感が上がる」

「成績を上げろ」

 

 訓練も変わった。幸助は前よりも黙って走るようになった。それが怖かった。以前の幸助は、走りながら喋っていた。文句を言い、軽口を叩き、刻乃を鬼と呼び、モテるためには胸筋か腹筋かと言っていた。

 今も言う。

 だが、時々消える。

 黙って走り、黙ってマフラーを動かし、黙って魔力を流す。その顔は、年齢より大人びていて、同時に子供のままだった。

 刻乃は、あえて軽口を投げた。

 

「幸助、足が遅い」

「今の速度で?」

「遅い」

「鬼」

「右足に魔力を流しすぎ。左が遅れている」

「俺の左右、仲悪いな」

「持ち主に似た」

「俺、左右と喧嘩してる?」

「たぶん脳とも喧嘩している」

「全身不和!」

 

 幸助は笑った。よかった、と刻乃は思う。笑えるうちは、まだ戻ってこられる。笑いながらでも、走れる。走りながらでも、生きている。

 受験が近づくと、幸助の家はさらに空っぽになった。

 祖母は入院したまま。

 親戚は手続きには関わるが、幸助の日常には深く入らない。

 

 邪教事件に巻き込まれた家ということで、縁起の悪さを口にする。

 両親が殺された家ということで、同情する者がいる。

 子供だけが残った家。

 噂は、事実より長く尾を引く。

 ある日、近所の大人が小声で話しているのを刻乃は聞いた。

 

「関わらない方がいいわ」

 

 刻乃は足を止めた。間が悪いことに幸助も隣にいた。彼も聞こえていたはずだ。

 だが、幸助は笑った。

 

「俺、有名人だな」

「悪名でな」

「サインいる?」

「いらん」

「将来価値出るぞ」

「まず将来まで生きろ」

「それな」

 

 幸助は軽く返した。刻乃は、その軽さが嫌だった。軽くしなければ、やっていられない軽さだからだ。だからその日の夕飯は、碑文家で食べさせた。

 祖父が無言で米をよそい、母が味噌汁を置き、父が幸助のマフラーを見て一言言った。

 

「馴染んだな」

 

 幸助が小声で刻乃に聞く。

 

「今の、褒められた?」

「最大級だ」

「職人語むずい」

「慣れろ」

「刻乃もあれで褒められるの?」

「祖父は『死ななかったか』で褒める」

「褒め方が戦場」

 

 幸助は笑った。

 祖父が茶を飲みながら言う。

 

「死なぬことは大事だ」

「ですよね」

「復讐するにも、飯を食わねば動けぬ」

 

 幸助の箸が止まった。祖父は幸助を見ていなかった。ただ、茶碗を見ていた。

 

「飯を食え。寝ろ。鍛えろ。学べ。怒りは燃料になるが、燃料だけでは器が焼ける」

「……はい」

「刻乃」

「なに? 爺さん」

「この子のマフラー、明日見せろ。線が荒い」

 

 その言葉に幸助は疑問を口にする

 

「刻乃の腕?」

「半分は使い手のせいだ」

「俺か!」

「魔力が雑だからな」

 

 そういって祖父は笑う。食卓に、少しだけ笑いが戻った。碑文家の大人たちは、余計な慰めを言わなかった。頑張れとも、しっかりしろとも言わなかった。

 ただ飯を出し、訓練を見て、道具を直し、必要なら叱った。

 それが幸助には合っていたのかもしれない。

 幸助は少しずつ、碑文家で肩の力を抜くようになった。

 工房の隅で問題集を解き、間違え、頭を抱え、祖父に「文字が汚い」と言われ、父に「魔力の流し方が雑」と言われ、母に「まず食べなさい」と言われる。

 

「刻乃」

「何だ」

「碑文家、俺に厳しくない?」

「平常運転だ」

「刻乃が増えた気分」

「強くなれるぞ」

「メンタルも鍛えられる」

「よかったな」

「よかったのか?」

 

 幸助は文句を言いながらも、通い続けた。そして、ツクヨミ魔法学園の合格発表の日。冬の終わりの風は冷たかった。掲示板の前には受験生たちが集まり、歓声と沈黙が混じっている。誰かが泣き、誰かがスマホで番号を撮り、誰かが親へ電話していた。

 

 幸助は掲示板の前で固まっていた。

 刻乃は横から番号を確認する。

 

 あった。

 

 瀧音幸助の受験番号。

 

「幸助」

「刻乃」

「あるぞ」

「あるな」

「合格だ」

「……マジか」

「マジだ」

 

 幸助は自分が合格したことを信じられないのか、再度番号を確認する。

 

「俺、受かった?」

「受かった」

「ツクヨミに?」

「ツクヨミに」

「女子が多い?」

「そこに戻るな」

 

 幸助は笑った。笑いながら、少しだけ目元を拭った。

 

「刻乃」

「何だ」

「俺、行けるんだな」

「ああ」

「強くなれるかな」

「なる」

「モテるかな」

「努力次第だ」

「そこは保証してくれよ!」

「保証対象外だ」

 

 幸助は掲示板の前で笑った。

 その笑顔には、馬鹿な軽さと、どうしようもない重さが同居していた。刻乃は、その笑顔を見て思った。

 

 原作主人公が憑依する日が近づいている。

 入学三週間前。

 本来なら、幸助はそこで別人になる。

 攻略知識を持つ者が入り、物語が始まる。

 

 幼い頃の刻乃なら、そういうものだと思ったかもしれない。

 けれど今は違う。

 

 刻乃は幸助を知っている。肉まんを四分の一に減らす幸助を。数学二問目で死ぬ幸助を。覗き目的で心眼を開きかけた幸助を。

 

 両親の声を電話越しに聞かされ、それでも翌日に飯を食べようとした幸助を。

 

 復讐心を抱えながら、モテたいと言い続ける幸助を。

 

 その幸助が、消えるかもしれない。

 

 器として上書きされるかもしれない。

 

 

 刻乃は、その未来を考えるたび、胸の奥が冷たくなった。

 

 

 

 合格発表の帰り道。

 

 

 

 幸助は灰色のマフラーを揺らしながら歩いていた。

 

 

 

「刻乃」

「何だ」

「入学まで三週間くらいだな」

「ああ」

「いったんマフラーは両方預かる。入学に向けてメンテする。メンテが終わったら届ける」

 

 幸助はマフラーに手をかけながら答える。

 

「そっか」

「入学後はもっと忙しい」

「青春は?」

「訓練の後だ」

「俺の青春、後回しにされすぎでは?」

「生きていれば後で来る」

「なら生きるか」

「そうしろ」

 

 幸助は笑い、刻乃も笑う。

 けれど、その笑いの裏で、刻乃は日付を数えていた。

 

 あと三週間と少し。

 

 そろそろ原作主人公が憑依するはずの時期。

 

 幸助が幸助でなくなるかもしれない時。

 刻乃は、灰色のマフラーの端を見た。

 

 数多の刻印が埋め込まれている。

 そこに、もう一つ文字を足したくなった。

 

 留。

 

 留まれ。

 

 幸助の魂が、ここに留まるように。

 

 だが、それは刻まなかった。人の魂に関わるような刻印は、禁忌に近い。一歩間違えば人でなくなる類のものだ。それに、そんなことをして幸助を縛りたいわけではない。

 ただ、消えてほしくないだけだ。

 

 その夜、刻乃は碑文家の工房で、幸助のマフラーを整備した。焦げた線を直し、防御刻印を補強し、帰還信号を調整する。作業台の上には、灰色の布と、銀糸と、刻印針。

 窓の外には、まだ冬の匂いが残る夜。

 祖父が、背後から言った。

 

「怖いか」

「怖い」

「なら、難儀だな」

「うん」

 

 祖父は、作業台の横に立った。幸助のことは気に入っているのだろう。だが刻乃の言葉の意味を正確に伝わることもない。

 それでも祖父は灰色のマフラーを見ながら答える。

 

「人は、文字ではない」

「分かってる」

「刻めば固定できるものではない」

「分かってる」

「それでも職人は、何かを刻む」

「何を」

「戻る場所だ」

 

 刻乃は、針を止めた。祖父はそれ以上言わなかった。刻乃は、マフラーの端に小さな文字を入れた。

 持ち主の危機を察知し届ける刻印。製作者の探査にこたえる刻印。すでにある文字だ。

 けれど、もう一度。

 少しだけ形を変えて上書きする。

 

 幸助が帰ってこられるように。

 幸助が幸助のまま、三週間後の学園へ来られるように。

 そんな願いを、魔力を刻印の形に押し込んだ。

 

 春は、近づいていた。

 入学式も。

 原作の始まりも。

 そして、刻乃が最も恐れていた日も。

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