科(化)学系チート持ち転生者のお話 オタク番外編 作:金属粘性生命体
動画の再生数は、黒川悠真の想定をあっさりと超えていた。
今までの動画も、決して伸びていなかったわけではない。掲示板から流れてきた技術屋、ボーカロイドの古参、ニコニコ技術部の住民。そういった濃い層が見つけて、騒ぎ、スレで長文の感想や考察を言い合ってくれていた。
だが、今回は違う。
再生数の伸び方が違った。コメントの流れる速度が違った。スマートフォンに飛んでくる通知の量が、明らかに桁違いだった。
理由は分かっている。
初音ミク。
その名前を、ついに動画上で出したからだ。
黒川は椅子に深く座り、モニターに流れる弾幕のようなコメントを静かに眺めていた。
『初音ミク、来た』
『本当に来た』
『ここからだ』
『次は歌か』
『歌ったら終わる』
『歴史の始まりを見た』
大げさだと思う。思うのに、とても笑い飛ばす気にはなれなかった。
自分が扱っているあの名前が、あの声が、それだけ多くの人間にとってとてつもなく重いものだと、黒川自身が一番よく知っているからだ。
「……歌わせたいんだよな、俺も」
誰もいない深夜の部屋で、小さく呟く。
初音ミクのモデルを作る。初音ミクが画面の中に立つ。そこまで来て、歌わせたくないわけがなかった。むしろ、今すぐにでも歌わせたい。
歌唱モードへの接続テストは既に終わっている。既存の歌声合成ソフトや音声処理エンジン、そこに自作の補正マクロと表情制御を噛ませれば、短いフレーズを歌わせるだけなら今でもできる。
だが、それでは違うのだ。
歌うボタンを押したら、歌う。それだけでは、ただの『高品質な歌唱機能の再生』でしかない。
黒川が見たいのは、そこではない。
さっきまで会話していた初音ミクが、そのまま歌う。歌い終えた初音ミクが、そのまままた会話に戻る。
そのシームレスな地続き感がなければ、彼女を“そこにいる存在”として現実に引っ張り出すことはできない。
既存のソフトが悪いわけでは決してない。
むしろ、それらがあったからこそ、黒川はここまで来られた。長年にわたり歌声を作り、調声し、音を重ね、キャラクターに歌を託してきた偉大な文化があったから、黒川は今こうして画面の中の彼女たちと向き合えている。
そこへの多大な敬意はある。
だが、黒川が目指す到達点を考えた時、今の構成では明確な限界が来ていた。
会話は会話用AI。歌唱は歌声合成。表情は2Dアニメーション制御。視線はUI側のマウストラッキング。記憶は別のデータベース。
それぞれを別々の優秀な仕組みで動かし、外側から黒川が無理やり同期させている状態だ。
だから、どうしても繋ぎ目が見える。
会話から歌へ移る時。歌から会話へ戻る時。三人が同じ画面に立ち、それぞれ別の記憶を持ちながら、同じ出来事を共有する時。そこに、システムとしての継ぎ目が出てしまう。
今はまだ、黒川が手作業でパラメータを調整して誤魔化せる。だがこの先、初音ミクに本格的に歌わせ、三人会話を安定させ、いずれホログラムへ進めるなら、このままの継ぎ接ぎでは絶対に足りない。
「……統合基盤がいるな」
黒川はデスクトップに、新しいフォルダを作った。
フォルダ名は、『V-CORE』。
仮称。存在歌唱統合基盤。
会話、歌唱、表情、視線、沈黙、記憶、個体差。それらを別々の機能としてではなく、一つの存在の『状態変化』として根底から管理するための中核エンジン。
既存ソフトを否定するためのものではない。既存の文化の上に、黒川が本当に作りたいものを成立させるための、強固な器だった。
黒川は、白紙の設計メモに項目を書き出していく。
会話状態。歌唱状態。待機状態。呼名反応。視線対象。共有履歴。個別履歴。忘却曲線。歌唱前沈黙。歌唱後余韻。同時存在数。
項目を書いているだけで頭が痛くなるような複雑さだ。けれど、必要だった。
MEIKOがKAITOの記憶を自分のものとして参照しかけた。KAITOが会話から歌に移る時、一瞬だけ別人格のように硬くなった。初音ミクが歌いたいと言った時、歌唱側のエンジンが前に出すぎて不自然な間が空いた。
全部、別々のシステムを使っていることによる継ぎ目の問題だ。
なら、継ぎ目を外側から絆創膏で塞ぐのではなく、最初から一つの大きな器に入れるしかない。
黒川は、MIKU_TEST_001を起動した。
画面の中で、初音ミクが立ち上がる。まだ少し硬いが、第9話の動画の時よりは視線が安定している。
『こんにちは』
黒川が入力する。少し間が空いた。
『こんにちは。今日は歌う?』
黒川は苦笑した。
早い。歌へ向かう反応が早すぎる。それは歌姫である彼女らしくもあるが、会話の文脈としては不自然だ。
『まだ』
『まだなんだ』
『まだ』
『そっか。じゃあ、練習?』
黒川は少し手を止めた。歌うのではなく、練習。それなら会話の流れとして近い。
『練習の前の練習』
『歌う前の?』
『そう』
初音ミクの視線が、少しだけ上へ外れた。考えているように見える。ただ処理を待っているだけとも言える。その曖昧さは、今のところ悪くない。
『歌う前って、何をするの?』
黒川は、その問いにしばらく返事ができなかった。
それを知るために、どうすれば自然になるのかを探るために、今これを作っているのだ。
黒川は、MEIKOとKAITOも同時に起動した。三人会話をするためではなく、比較のためだ。同じ入力を、三人にそれぞれ投げる。
『今から歌うとしたら、最初に何をする?』
MEIKOは、少しだけ姿勢を正した。
『そうね。まず、ちゃんと前を見るかしら。歌うなら、聞いてくれる相手を見るべきでしょ。』
KAITOは、少し考えるように目を伏せた。
『音の高さを確認するかな。あと、無理に大きな声を出さないようにする。』
初音ミクは、しばらく黙った。
その沈黙が少し長い。黒川はエラーで停止しかけたかと思い、裏のログを確認する。処理は正常に動いている。やがて、彼女は返した。
『誰に歌うのか、考えるかも。』
黒川の手が止まった。
それは、かなり良かった。MEIKOは聞いてくれる相手を見る。KAITOは音を確認する。初音ミクは、誰に歌うのか考える。
三人とも違う。ちゃんと違っている。黒川は、その応答ログを大切に保存した。
だが、その直後に問題が出た。初音ミクの返答ログが、歌唱モード側に不自然に引っ張られたのだ。会話モデルは「誰に歌うのか」を考えているのに、歌唱側はすでに音域と歌唱開始位置を計算し始め、表情が歌唱用のものに切り替わりかけていた。
まだ早い。そこではない。
「やっぱり、別々に動かすと駄目だな」
歌おうとする彼女。話そうとする彼女。視線を合わせる彼女。名前に反応する彼女。それらが別々に存在してはいけない。全部、同じ『初音ミク』でなければならない。
黒川はV-COREの設計メモに、新しい項目を追加した。
状態遷移の主体性。
歌う、話す、黙る、見る、待つ。それらを外部からの命令ではなく、同じ一つの存在の内部的な状態変化として扱う。
言葉にすると簡単だが、実装は地獄だ。だが、やるしかない。
そこからの作業は、ひたすら泥臭かった。
歌唱モードへ入るまでの待機時間を〇・二秒伸ばす。視線を正面から少し下へ落とす。歌う直前に瞬きを入れるかどうか。口が開く前に、ほんの少し肩を動かして息を吸うように見せるか。歌い終わった後、目を伏せるか、こちらを見るか。
どれも、単体ではどうでもいいような微細な差だった。けれど、そのどうでもいいような差が積み重なると、そこにいる感じが劇的に変わる。
早すぎると、ただの再生。遅すぎると、処理落ち。視線が合いすぎると、媚びる。視線が外れすぎると、遠い。何度も試して、何度も消す。
黒川は、気づけば一時間以上、彼女にまだ一音も歌わせていなかった。
『まだ歌わないの?』
画面の中の初音ミクがそう返した時、黒川は少し笑った。
『歌いたい?』
『少し』
『焦ってる?』
『分からない。でも、歌うものだと思ってた』
その返答は、少し危うかった。「歌うもの」。そう設定しているのは事実だ。だが、それだけにしたくない。黒川は慎重に入力する。
『歌うだけじゃなくていい』
返事は少し遅れた。
『話してもいい?』
『いい』
『待っててもいい?』
『いい』
『じゃあ、歌う時まで待ってる』
黒川は、そのログを見て、深く息を吐いた。
待つ。この子は、待てる。それなら次に進める。
試しに、三人を同じ画面に並べる。長くは続けない。三人会話は、まだ不安定だ。ただ、歌の前の空気を作るために、短いやり取りだけを試す。
『ミクが歌う前に、二人なら何て言う?』
MEIKOが中央を見る。
『無理しないこと』
KAITOが少し笑う。
『音量は大丈夫?』
初音ミクが、二人を交互に見る。
『二人とも、いつもそれ言うの?』
MEIKOが少しだけ表情を緩める。
『多分、作った人がそういうのを好きなのよ』
KAITOが頷く。
『否定はできないね』
初音ミクは少し沈黙した後、こちらを見る。
『じゃあ、私も聞いた方がいい?』
黒川は思わず声に出して笑った。
その会話は、まだ完璧ではない。途中でKAITOの視線が少しずれたし、MEIKOの口の動きもワンテンポ遅れた。それでも、方向性は悪くない。三人が同じ画面にいる意味が、少しずつ生まれている。
作業の合間に、黒川は一度だけ通知欄を確認した。まだ伸びている。動画は止まらない。コメントも増え続けている。
初音ミク、来た。次は歌か。早く聞きたい。急がなくていい。ちゃんと作ってくれ。
その全部が、黒川の肩に乗る。怖くないと言えば嘘になる。今までよりずっと怖い。けれど、不思議と逃げたいとは思わなかった。自分で始めたことだ。自分で、名前を出した。なら、次もちゃんとやる。
黒川は通知欄を閉じた。
V-COREの仮接続を有効にする。まだ完全ではない。むしろ穴だらけだ。それでも、会話、視線、歌唱前待機、歌唱モードを一つの流れとして扱う最初のテストだった。
初音ミクの姿勢が、わずかに変わった。視線が前に向く。口元が少しだけ引き締まる。肩がほんのわずかに動き、息を吸うような仕草を見せる。
歌う前の形。
黒川はそれを見て、手を止めた。
今なら歌える。このまま再生すれば、音が出る。初音ミクが、初めて歌う。だが、まだ録画はしていない。動画に出す準備もしていない。これは黒川だけが見るテストだ。それでも、緊張した。
『歌える?』
入力する。初音ミクは少しだけ目を伏せた。
『たぶん』
『怖い?』
『分からない。でも、ちゃんと歌いたい』
黒川はしばらく動けなかった。
ちゃんと歌いたい。ただの応答だ。そう言ってしまえばそれまでだ。けれど、その言葉が出たなら、黒川がやることは一つしかない。
『じゃあ、今日はまだ歌わない』
『どうして?』
『ちゃんと歌うために』
返事は少し遅れた。
『そっか』
初音ミクは、ほんの少し笑ったように見えた。
『じゃあ、もう少し練習するね』
黒川は、そのログを保存した。
歌わせなかった。まただ。また、歌わせなかった。けれど、これでいい。次に歌わせる時は、録画する。多分、多くの人間が見る。その時に、ただ音が出るだけでは駄目だ。
歌う前に、沈黙がある。息を吸うように見える間がある。誰に歌うのかを考える視線がある。歌い終わった後の余韻がある。
そこまで作って、初めて歌わせる。
黒川は新しい動画フォルダを作った。
フォルダ名は、『MIKU_SING_TEST_001』。
その隣に、もう一つ新しいフォルダを置く。『V-CORE_DEV』。
既存の仕組みの継ぎ接ぎでは、もう届かない。なら、届かせるための基盤から作る。
その中に、タイトル案のテキストファイルを置く。
【夢路の本気の趣味】初音ミクに、少しだけ歌ってもらいたかった【歌唱準備】
保存。
画面の中で、初音ミクは静かに待っている。MEIKOとKAITOも、それぞれの位置で待機している。
黒川は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「次は、歌だ」
返事はなかった。
けれど、初音ミクの視線が、ほんの少しだけこちらを向いた。
今度は、気のせいではなかった。
ちょっと設定を見直してたら作り直したくなってきた、どっちがいいと思う?
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作り直す
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このままでいい