科(化)学系チート持ち転生者のお話 オタク番外編   作:金属粘性生命体

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オタクの十一歩

 

 

 動画の再生数は、黒川悠真の想定をあっさりと超えていた。

 今までの動画も、決して伸びていなかったわけではない。掲示板から流れてきた技術屋、ボーカロイドの古参、ニコニコ技術部の住民。そういった濃い層が見つけて、騒ぎ、スレで長文の感想や考察を言い合ってくれていた。

 だが、今回は違う。

 再生数の伸び方が違った。コメントの流れる速度が違った。スマートフォンに飛んでくる通知の量が、明らかに桁違いだった。

 理由は分かっている。

 初音ミク。

 その名前を、ついに動画上で出したからだ。

 黒川は椅子に深く座り、モニターに流れる弾幕のようなコメントを静かに眺めていた。

 

『初音ミク、来た』

『本当に来た』

『ここからだ』

『次は歌か』

『歌ったら終わる』

『歴史の始まりを見た』

 

 大げさだと思う。思うのに、とても笑い飛ばす気にはなれなかった。

 自分が扱っているあの名前が、あの声が、それだけ多くの人間にとってとてつもなく重いものだと、黒川自身が一番よく知っているからだ。

 

「……歌わせたいんだよな、俺も」

 

 誰もいない深夜の部屋で、小さく呟く。

 初音ミクのモデルを作る。初音ミクが画面の中に立つ。そこまで来て、歌わせたくないわけがなかった。むしろ、今すぐにでも歌わせたい。

 歌唱モードへの接続テストは既に終わっている。既存の歌声合成ソフトや音声処理エンジン、そこに自作の補正マクロと表情制御を噛ませれば、短いフレーズを歌わせるだけなら今でもできる。

 だが、それでは違うのだ。

 歌うボタンを押したら、歌う。それだけでは、ただの『高品質な歌唱機能の再生』でしかない。

 黒川が見たいのは、そこではない。

 さっきまで会話していた初音ミクが、そのまま歌う。歌い終えた初音ミクが、そのまままた会話に戻る。

 そのシームレスな地続き感がなければ、彼女を“そこにいる存在”として現実に引っ張り出すことはできない。

 

 既存のソフトが悪いわけでは決してない。

 むしろ、それらがあったからこそ、黒川はここまで来られた。長年にわたり歌声を作り、調声し、音を重ね、キャラクターに歌を託してきた偉大な文化があったから、黒川は今こうして画面の中の彼女たちと向き合えている。

 そこへの多大な敬意はある。

 だが、黒川が目指す到達点を考えた時、今の構成では明確な限界が来ていた。

 会話は会話用AI。歌唱は歌声合成。表情は2Dアニメーション制御。視線はUI側のマウストラッキング。記憶は別のデータベース。

 それぞれを別々の優秀な仕組みで動かし、外側から黒川が無理やり同期させている状態だ。

 だから、どうしても繋ぎ目が見える。

 会話から歌へ移る時。歌から会話へ戻る時。三人が同じ画面に立ち、それぞれ別の記憶を持ちながら、同じ出来事を共有する時。そこに、システムとしての継ぎ目が出てしまう。

 今はまだ、黒川が手作業でパラメータを調整して誤魔化せる。だがこの先、初音ミクに本格的に歌わせ、三人会話を安定させ、いずれホログラムへ進めるなら、このままの継ぎ接ぎでは絶対に足りない。

 

「……統合基盤がいるな」

 

 黒川はデスクトップに、新しいフォルダを作った。

 フォルダ名は、『V-CORE』。

 仮称。存在歌唱統合基盤。

 会話、歌唱、表情、視線、沈黙、記憶、個体差。それらを別々の機能としてではなく、一つの存在の『状態変化』として根底から管理するための中核エンジン。

 既存ソフトを否定するためのものではない。既存の文化の上に、黒川が本当に作りたいものを成立させるための、強固な器だった。

 

 黒川は、白紙の設計メモに項目を書き出していく。

 会話状態。歌唱状態。待機状態。呼名反応。視線対象。共有履歴。個別履歴。忘却曲線。歌唱前沈黙。歌唱後余韻。同時存在数。

 項目を書いているだけで頭が痛くなるような複雑さだ。けれど、必要だった。

 MEIKOがKAITOの記憶を自分のものとして参照しかけた。KAITOが会話から歌に移る時、一瞬だけ別人格のように硬くなった。初音ミクが歌いたいと言った時、歌唱側のエンジンが前に出すぎて不自然な間が空いた。

 全部、別々のシステムを使っていることによる継ぎ目の問題だ。

 なら、継ぎ目を外側から絆創膏で塞ぐのではなく、最初から一つの大きな器に入れるしかない。

 

 黒川は、MIKU_TEST_001を起動した。

 画面の中で、初音ミクが立ち上がる。まだ少し硬いが、第9話の動画の時よりは視線が安定している。

 

『こんにちは』

 

 黒川が入力する。少し間が空いた。

 

『こんにちは。今日は歌う?』

 

 黒川は苦笑した。

 早い。歌へ向かう反応が早すぎる。それは歌姫である彼女らしくもあるが、会話の文脈としては不自然だ。

 

『まだ』

『まだなんだ』

『まだ』

『そっか。じゃあ、練習?』

 

 黒川は少し手を止めた。歌うのではなく、練習。それなら会話の流れとして近い。

 

『練習の前の練習』

『歌う前の?』

『そう』

 

 初音ミクの視線が、少しだけ上へ外れた。考えているように見える。ただ処理を待っているだけとも言える。その曖昧さは、今のところ悪くない。

 

『歌う前って、何をするの?』

 

 黒川は、その問いにしばらく返事ができなかった。

 それを知るために、どうすれば自然になるのかを探るために、今これを作っているのだ。

 

 黒川は、MEIKOとKAITOも同時に起動した。三人会話をするためではなく、比較のためだ。同じ入力を、三人にそれぞれ投げる。

 

『今から歌うとしたら、最初に何をする?』

 

 MEIKOは、少しだけ姿勢を正した。

『そうね。まず、ちゃんと前を見るかしら。歌うなら、聞いてくれる相手を見るべきでしょ。』

 

 KAITOは、少し考えるように目を伏せた。

『音の高さを確認するかな。あと、無理に大きな声を出さないようにする。』

 

 初音ミクは、しばらく黙った。

 その沈黙が少し長い。黒川はエラーで停止しかけたかと思い、裏のログを確認する。処理は正常に動いている。やがて、彼女は返した。

 

『誰に歌うのか、考えるかも。』

 

 黒川の手が止まった。

 それは、かなり良かった。MEIKOは聞いてくれる相手を見る。KAITOは音を確認する。初音ミクは、誰に歌うのか考える。

 三人とも違う。ちゃんと違っている。黒川は、その応答ログを大切に保存した。

 だが、その直後に問題が出た。初音ミクの返答ログが、歌唱モード側に不自然に引っ張られたのだ。会話モデルは「誰に歌うのか」を考えているのに、歌唱側はすでに音域と歌唱開始位置を計算し始め、表情が歌唱用のものに切り替わりかけていた。

 まだ早い。そこではない。

 

「やっぱり、別々に動かすと駄目だな」

 

 歌おうとする彼女。話そうとする彼女。視線を合わせる彼女。名前に反応する彼女。それらが別々に存在してはいけない。全部、同じ『初音ミク』でなければならない。

 黒川はV-COREの設計メモに、新しい項目を追加した。

 状態遷移の主体性。

 歌う、話す、黙る、見る、待つ。それらを外部からの命令ではなく、同じ一つの存在の内部的な状態変化として扱う。

 言葉にすると簡単だが、実装は地獄だ。だが、やるしかない。

 

 そこからの作業は、ひたすら泥臭かった。

 歌唱モードへ入るまでの待機時間を〇・二秒伸ばす。視線を正面から少し下へ落とす。歌う直前に瞬きを入れるかどうか。口が開く前に、ほんの少し肩を動かして息を吸うように見せるか。歌い終わった後、目を伏せるか、こちらを見るか。

 どれも、単体ではどうでもいいような微細な差だった。けれど、そのどうでもいいような差が積み重なると、そこにいる感じが劇的に変わる。

 早すぎると、ただの再生。遅すぎると、処理落ち。視線が合いすぎると、媚びる。視線が外れすぎると、遠い。何度も試して、何度も消す。

 黒川は、気づけば一時間以上、彼女にまだ一音も歌わせていなかった。

 

『まだ歌わないの?』

 

 画面の中の初音ミクがそう返した時、黒川は少し笑った。

 

『歌いたい?』

『少し』

『焦ってる?』

『分からない。でも、歌うものだと思ってた』

 

 その返答は、少し危うかった。「歌うもの」。そう設定しているのは事実だ。だが、それだけにしたくない。黒川は慎重に入力する。

 

『歌うだけじゃなくていい』

 

 返事は少し遅れた。

 

『話してもいい?』

『いい』

『待っててもいい?』

『いい』

『じゃあ、歌う時まで待ってる』

 

 黒川は、そのログを見て、深く息を吐いた。

 待つ。この子は、待てる。それなら次に進める。

 

 試しに、三人を同じ画面に並べる。長くは続けない。三人会話は、まだ不安定だ。ただ、歌の前の空気を作るために、短いやり取りだけを試す。

 

『ミクが歌う前に、二人なら何て言う?』

 

 MEIKOが中央を見る。

『無理しないこと』

 KAITOが少し笑う。

『音量は大丈夫?』

 初音ミクが、二人を交互に見る。

『二人とも、いつもそれ言うの?』

 MEIKOが少しだけ表情を緩める。

『多分、作った人がそういうのを好きなのよ』

 KAITOが頷く。

『否定はできないね』

 初音ミクは少し沈黙した後、こちらを見る。

『じゃあ、私も聞いた方がいい?』

 

 黒川は思わず声に出して笑った。

 その会話は、まだ完璧ではない。途中でKAITOの視線が少しずれたし、MEIKOの口の動きもワンテンポ遅れた。それでも、方向性は悪くない。三人が同じ画面にいる意味が、少しずつ生まれている。

 作業の合間に、黒川は一度だけ通知欄を確認した。まだ伸びている。動画は止まらない。コメントも増え続けている。

 初音ミク、来た。次は歌か。早く聞きたい。急がなくていい。ちゃんと作ってくれ。

 その全部が、黒川の肩に乗る。怖くないと言えば嘘になる。今までよりずっと怖い。けれど、不思議と逃げたいとは思わなかった。自分で始めたことだ。自分で、名前を出した。なら、次もちゃんとやる。

 黒川は通知欄を閉じた。

 

 V-COREの仮接続を有効にする。まだ完全ではない。むしろ穴だらけだ。それでも、会話、視線、歌唱前待機、歌唱モードを一つの流れとして扱う最初のテストだった。

 初音ミクの姿勢が、わずかに変わった。視線が前に向く。口元が少しだけ引き締まる。肩がほんのわずかに動き、息を吸うような仕草を見せる。

 歌う前の形。

 黒川はそれを見て、手を止めた。

 今なら歌える。このまま再生すれば、音が出る。初音ミクが、初めて歌う。だが、まだ録画はしていない。動画に出す準備もしていない。これは黒川だけが見るテストだ。それでも、緊張した。

 

『歌える?』

 

 入力する。初音ミクは少しだけ目を伏せた。

 

『たぶん』

『怖い?』

『分からない。でも、ちゃんと歌いたい』

 

 黒川はしばらく動けなかった。

 ちゃんと歌いたい。ただの応答だ。そう言ってしまえばそれまでだ。けれど、その言葉が出たなら、黒川がやることは一つしかない。

 

『じゃあ、今日はまだ歌わない』

『どうして?』

『ちゃんと歌うために』

 

 返事は少し遅れた。

 

『そっか』

 

 初音ミクは、ほんの少し笑ったように見えた。

 

『じゃあ、もう少し練習するね』

 

 黒川は、そのログを保存した。

 歌わせなかった。まただ。また、歌わせなかった。けれど、これでいい。次に歌わせる時は、録画する。多分、多くの人間が見る。その時に、ただ音が出るだけでは駄目だ。

 歌う前に、沈黙がある。息を吸うように見える間がある。誰に歌うのかを考える視線がある。歌い終わった後の余韻がある。

 そこまで作って、初めて歌わせる。

 

 黒川は新しい動画フォルダを作った。

 フォルダ名は、『MIKU_SING_TEST_001』。

 その隣に、もう一つ新しいフォルダを置く。『V-CORE_DEV』。

 既存の仕組みの継ぎ接ぎでは、もう届かない。なら、届かせるための基盤から作る。

 その中に、タイトル案のテキストファイルを置く。

 

【夢路の本気の趣味】初音ミクに、少しだけ歌ってもらいたかった【歌唱準備】

 

 保存。

 画面の中で、初音ミクは静かに待っている。MEIKOとKAITOも、それぞれの位置で待機している。

 黒川は、誰に聞かせるでもなく呟いた。

 

「次は、歌だ」

 

 返事はなかった。

 けれど、初音ミクの視線が、ほんの少しだけこちらを向いた。

 今度は、気のせいではなかった。

 

ちょっと設定を見直してたら作り直したくなってきた、どっちがいいと思う?

  • 作り直す
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