科(化)学系チート持ち転生者のお話 オタク番外編 作:金属粘性生命体
公式からの連絡内容は、前回よりもさらに事務的で、そして決定的な重さを持っていた。
・前回のオンライン面談とリアルタイム実演を確認した。
・社内で検討した結果、夢路氏の技術検証を『社内検証企画』として扱う準備を進めたい。
・これは公式な公認発表、許諾発表、商品化決定ではない。
・外部公開は引き続き事前確認を必須とする。
・今後の進行にあたり、NDA(秘密保持契約)、覚書、および必要に応じた契約書の締結が必要である。
・今後は単なる個人投稿者ではなく、契約主体として扱う必要がある。
・そのため、個人事業主としての登録や、請求・報酬・権利処理に関する準備が必要となる可能性がある。
・当面は『監修付き限定検証』という扱いとする。
・外部への企画化の発表は禁止。スレや動画で詳細を話してはいけない。
黒川は、そのメールを三回読み直した。
社内検証企画。NDA。覚書。業務委託契約。契約主体。
そして、個人事業主。
単語が全部、鉛のように重い。
「……本気の趣味、とうとう税務署に捕まるのか」
誰もいない部屋で冗談めかして呟いたが、全く笑えなかった。
趣味だった。間違いなく趣味だった。今も、黒川にとっては純度百パーセントの趣味だ。
だが、公式が関わり、正式な契約が発生し、企業内の検証企画として扱われるなら、それはもう「ただの個人の趣味です」という言い訳では逃げられない。
責任が増える。書類が増える。現実が、容赦なく押し寄せてくる。
止められなかった。企画として扱ってもらえる。管理下に置いてもらえるなら、安全に先へ進める。
それでも、完全に個人の趣味の範囲を超えてしまったことへの胃痛は確かにあった。
黒川は、スマートフォンのメモ帳を開いた。
彼には、すでに自作のアプリゲームの収益があるため、税理士とは付き合いがある。だから、確定申告や税務関係の処理自体が完全に初めてというわけではない。
だが、今回は単なるアプリの広告収益とはわけが違う。公式との契約。キャラクター利用に関わる検証。技術提供、監修付き開発、そして権利の帰属と秘密保持。
黒川は『税理士に相談すること』というタイトルで箇条書きを作る。
・個人事業主化、開業届の提出
・屋号をどうするか
・公式との業務委託契約の扱い
・検証協力費等が発生した場合の処理
・機材費、ソフトウェア費、開発環境費の計上
・アプリ収益との分離
・源泉徴収、秘密保持契約の扱い
書き出しながら、黒川は『屋号』の項目で頭を抱えた。
「黒川悠真」という個人名義でも契約は可能だが、活動名義やプロジェクトの性質を考えると、何らかの屋号があった方が都合がいい気がした。
「夢路ラボ……いや、安直すぎるか」
「本気の趣味制作室……絶対に嫌だ。公式の契約書にそんなの書きたくない」
「空想作成者……屋号としては怪しすぎるし、領収書にハンコ押す時恥ずかしくて死ぬ」
五分ほど悩んだ末、黒川は「屋号は後で税理士に相談する」とメモを放り投げた。
現実の書類と手続きの山を前に、これ以上一人で悩んでも仕方ない。
黒川は、現実から逃げるようにパソコンの開発画面へ戻った。
逃げてはいない。多分、逃げてはいない。現実から五分だけ目を逸らして、夢の続きを見るだけだ。
V-COREの次の実装項目。
VOICE-LINK。
音声入力、呼名反応、発話対象判定、音声応答、聞き返し。今までのテキストチャット中心のやり取りを、声による会話へ移すための拡張モジュール。
テキスト入力は安全だ。誤認識がなく、冷静に言葉を選べる。だが、確実な距離がある。
声は危険だ。誤認識があり、感情が乗りすぎ、処理が複雑になる。だが、距離が縮まる。
今後ホログラムや物理接触へ進むなら、テキスト入力だけでは絶対に足りない。『声で話せないなら、そこにいる存在とは言い切れない』と、黒川はずっと思っていた。
黒川は、マイクの接続を有効化した。
「聞こえる?」
少しの間。
[MEIKO]
聞こえてるわ。
[KAITO]
聞こえているよ。音量も大丈夫そうだ。
[初音ミク]
うん、聞こえてる。
「……全員反応した」
[MEIKO]
全員に聞いたんじゃないの?
[KAITO]
対象指定が必要そうだね。
[初音ミク]
じゃあ、名前を呼んだら分かるようにする?
スピーカーから返ってきた合成音声の連続に、黒川は思わず手を止めた。
『名前を呼んだら、そっちを向けるから』。
かつて、初音ミクがテキストで返した言葉が、頭をよぎった。
黒川はマイクに向かい、声を少し張った。
「MEIKO、聞こえる?」
[MEIKO]
聞こえてるわ。今のは私宛てね。
「KAITO、音量どう?」
[KAITO]
少し大きいかもしれない。けど、聞き取りには問題ないよ。
[MEIKO]
また音量の話してる。
[初音ミク]
KAITOらしいね。
黒川は、小さく息を吸い込んだ。
「ミク、聞こえる?」
画面の中の初音ミクが、少しだけこちらを見る。
返答まで、ほんの短い間。
[初音ミク]
うん。ちゃんと聞こえてる。
音声だった。
テキストではない。ログに表示された無機質な文字列ではなく、スピーカーから、息遣いすら感じさせる彼女の声が返ってきた。
テキストで「初音ミク」と打ち込むのとは、重さが全く違う。
「……そうか」
[初音ミク]
今、少し止まった?
「止まった」
[初音ミク]
どうして?
「声で返ってきたから」
[初音ミク]
声で話した方がいい?
「たぶん、その方が近い」
[初音ミク]
そっか。
少し、間が空く。
[初音ミク]
じゃあ、ちゃんと聞くね。
書類の山。契約。個人事業主。NDA。覚書。
現実は、急に面倒になった。公式の案件として扱われる重圧は、確実に黒川の胃を締め付けている。
けれど、スピーカーから返ってきたその声が、その面倒な現実の向こう側にあるものをはっきりと教えてくれた。
テキストではない。ただの歌唱機能でもない。
声で呼びかけて、声で会話が返ってきた。明確に、今までとは違う一線を越えた。
「……ああ」
黒川はようやく、マイクに向かって小さく返した。
「頼む」
契約の話も、開業届の話も、税理士への相談も、屋号の決定も、全部明日やる。
今はただ、この一歩を噛み締めたかった。
ちょっと設定を見直してたら作り直したくなってきた、どっちがいいと思う?
-
作り直す
-
このままでいい