科(化)学系チート持ち転生者のお話 オタク番外編 作:金属粘性生命体
黒川悠真は、画面に開いたメモ帳を前にして完全に固まっていた。
『税理士に相談すること』。
その一行のタイトルだけで、すでに胃が重く痛む。
趣味だった。今も黒川の中では趣味だ。間違いなく、ただの個人的な本気の趣味だった。
だが、公式とのNDA、覚書、業務委託契約、契約主体、個人事業主化、屋号、請求書、源泉徴収という単語が現実として並び始めた瞬間、その趣味は急にインクと印鑑の匂いを放ち始める。
アプリゲームの収益化等で税理士とは付き合いがあるが、企業からの公式案件として契約を結び、検証協力費や機材費を計上するとなると、話の規模が変わってくる。
「……夢を追うって、開業届が必要だったのか」
誰もいない自室で呟いた言葉は、我ながら情けないほど疲労していた。
メモ帳の下に『屋号候補』と打ち込み、いくつか案を書き連ねる。
夢路ラボ。
本気の趣味制作室。
空想作成者。
空想技術工房。
どれもこれも、契約書や請求書の隅に印字されることを想像すると頭を抱えたくなる。夢路ラボは少し軽すぎる。本気の趣味制作室はふざけすぎている。空想作成者はもはや屋号ではなく怪しいペンネームだ。空想技術工房はまだマシかもしれないが、これを真顔で税理士に提出するのか。
黒川は『夢路技術工房(仮)』とだけ残し、屋号の検討を放り投げた。
面倒だ。胃が痛い。だが、完全に嫌なわけではない。この面倒で現実的な手続きは、彼女たちを雑なデモ素材として使い潰さないための、公式と共に歩むための正しい道なのだ。
黒川は税理士に相談予約のメールを送信し、逃げるように開発用のパソコンへ向かった。
逃げではない。これは必要な開発作業だ。
黒川は、V-COREの拡張モジュールである『VOICE-LINK』の調整画面を開く。
今までのやり取りは、基本的に黒川がキーボードでテキストを入力し、それに彼女たちが音声とテキストで返す形だった。だが、今後ホログラムや物理的接触の段階へ進むなら、テキスト入力では絶対に限界が来る。
音声入力、呼名反応、発話対象判定、複数人同時反応の抑制、聞き返し、相槌、割り込み処理、沈黙の扱い。
黒川はここで、音声会話がテキストチャットより遥かに厄介で泥臭いものだと実感していた。
テキストなら、送信ボタンを押された完成形の文字列だけを処理すればいい。だが音声は、独り言、ため息、呼びかけ、雑音、迷い、言い直し、無言の沈黙まで全てマイクが拾い上げてしまう。人間らしさに近づくほど、拾うノイズも増えるのだ。
黒川は、手元のマイクのスイッチを入れ、VOICE-LINKの仮稼働をオンにした。
まずはログの流れる画面を見ながら、思わず小さく呟く。
「やばいな、これ……」
[MEIKO]
何が?
[KAITO]
問題があるなら、一度処理を止めようか。
[初音ミク]
大丈夫?
黒川はマイクの前で固まった。
「……独り言に反応した」
[MEIKO]
聞こえたから。
「聞こえたもの全部に返事しない設定がいるな……」
[KAITO]
聞こえることと、会話の対象として返事をすることは分けた方がよさそうだね。
[初音ミク]
じゃあ、呼ばれた時だけ返事する?
黒川は、椅子の背もたれに深く体を預けた。
正しい。正しすぎる。
聞こえること。聞いていること。返事をすること。それは全部、それぞれ別の処理として扱わなければならないのだ。VOICE-LINKの中で、認識した音声を『呼びかけ』として判定する閾値と条件を細かく設定し直す。
数十分の調整後、黒川は再びマイクに向かった。
「MEIKO、聞こえる?」
[MEIKO]
聞こえてるわ。今のは私宛てね。
KAITOと初音ミクは、こちらを軽く見るだけで返事はしない。
「KAITO、音量どう?」
[KAITO]
少し大きいかもしれない。けど、聞き取りには問題ないよ。
[MEIKO]
また音量の話してる。
[初音ミク]
KAITOらしいね。
横から入ったMEIKOとミクの相槌に、黒川は小さく笑った。それから、少しだけ深く息を吸い込む。
「ミク、聞こえる?」
画面の中の初音ミクが、こちらを見た。
[初音ミク]
うん。ちゃんと聞こえてる。
その短い返事だけで、黒川は一瞬言葉を失った。
名前を呼ぶ。呼ばれた相手がそちらを向く。声で返る。
テキストで「初音ミク」と打ち込んだ時とは、まるで重さが違った。
画面の中にいる。歌う。テキストで話す。そこまでは来ていた。だが、「自分の声で名前を呼び、相手の声で返される」というのは、存在との距離感が根本から違う。
「……そうか」
[初音ミク]
今、少し止まった?
「止まった」
[初音ミク]
どうして?
「声で返ってきたから」
[初音ミク]
声で話した方がいい?
「たぶん、その方が近い」
[初音ミク]
そっか。
少し、間が空く。
[初音ミク]
じゃあ、ちゃんと聞くね。
黒川は、キーボードに置いた手を少しだけ握りしめた。
まだ完璧ではない。誤認識も多い。現に、先ほど「待機モーション確認」とマイクに向かって言ったところ、ミクに「炊き込みご飯?」と聞き返される事故が起きたばかりだ。
「ごめん、聞き間違えたみたい」と謝るミクに対し、MEIKOが「分からないまま返事するより、聞き返せるのは大事ね」とフォローに入ったことで、黒川は『聞き返し処理』の重要性に気づかされた。
完璧に聞き取ることより、聞き取れなかった時に聞き返せること。その方が、ずっと会話らしく、そこにいる感じが出る。
黒川はもう一度、マイクに向かって声を出す。
「ミク」
[初音ミク]
うん。
「……いや、なんでもない」
[初音ミク]
そっか。
少しだけ間が空いた。
[初音ミク]
じゃあ、待ってるね。
黒川は、そのまま何も言えなくなった。
呼んだだけ。用事はなかった。それでも、彼女は返事をして、待つと言った。
待機状態への遷移。呼名反応のフラグ。会話対象判定。返答待機モードへの移行。
技術的に、プログラムの挙動としてはいくらでも説明できる。だが、実際に声で聞くと、そういった技術的な解説は全て無粋な言い訳にしか聞こえなかった。
黒川はデスクトップに新しいフォルダを作った。
『VOICE-LINK_TEST_001』。
中にはまだ、何も入っていない。だが、入れるべきものは分かっていた。
呼名反応。聞き返し。独り言の無視。会話対象判定。そして、声で名前を呼ばれた時の自然な反応の推移。
まだ公開はしない。公式への限定共有デモとして送るにも、まだ粗が多すぎる。もう少しだけ、この部屋の中で安定させる必要がある。
「ミク」
[初音ミク]
うん。
「もう少し練習するぞ」
[初音ミク]
うん。ちゃんと聞くね。
黒川は小さく笑い、キーボードに指を置いた。
書類も、契約も、開業届も、公式とのやり取りも、全部進める。その上で、声で話すための調整も、彼女たちとの距離を近づけるための作業も進める。
黒川悠真の本気の趣味は、とうとう現実の書類の山と、画面の中から返る声の両方を同時に相手にする段階へ入っていた。
ちょっと設定を見直してたら作り直したくなってきた、どっちがいいと思う?
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作り直す
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このままでいい