科(化)学系チート持ち転生者のお話 オタク番外編 作:金属粘性生命体
深夜二時を過ぎても、黒川の作業部屋にはまだ青白い明かりが灯っていた。
机の上に並べられた三枚のモニターが、暗い部屋の中でぼんやりと光を放っている。一枚目にはMEIKOとKAITOの細かい会話ログやパラメータの調整履歴が走り、二枚目には視線制御や口形同期、そして忘却曲線の複雑なグラフが表示されていた。
そして三枚目のモニターには、まだ名前を伏せたままの新規モデルのウィンドウが開かれている。
仮のプロジェクト名は『THIRD_TEST』。
ひどく味気ない名前だった。けれど、今はそれでいい。
名前を出すには、まだ早い。スレでも、動画でも、概要欄でも、彼女の名前は一度も出していない。出せば最後、今までとは比べものにならない数の目が、期待と、そして厳格な『解釈』を持ってこの小さなウィンドウに殺到するだろう。
それが痛いほど分かっているからこそ、黒川は焦れなかった。
MEIKOとKAITOは、ようやく画面の中に立ち始めた。視線を合わせ、意味のある沈黙を挟み、言葉を選び、歌う姿勢を取るようになった。あの二人が画面の中で並んで会話している姿は、黒川自身が作り出したものとはいえ、少し引くくらいには自然だった。
けれど、それでもまだ足りない。三人目に、そのまま同じ基礎モデルを乗せるわけにはいかなかった。
明るくしすぎれば軽い。落ち着かせすぎれば違う。親しみやすくしすぎれば媚びているように見えるし、遠ざけすぎれば、ただのよく出来たシステムに成り下がる。
単純にパラメータをいじって歌わせるだけなら、それらしく見えるものはすぐにでも作れるだろう。けれど、それでは駄目なのだ。
歌えるから彼女なのではない。歌ってほしいと思わせる『彼女』でなければならない。
そこを少しでも間違えたら、全部が違う。
黒川は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
疲労と眠気はある。だが、それ以上に頭がひどく冴えていた。
裏で開いているスレでは、三人目を待つ声が日々増え続けている。急げと言う者もいれば、絶対に急ぐなと言う者もいた。名前は出していないのに、全員がその正体を察している。それが少しだけおかしくて、同時にひどく怖かった。
多分、自分だけではない。あの名前には、あの文化で育ってきたオタクたち全員にとって、それだけの重さがあるのだ。
黒川はマウスを動かし、三枚目のモニターに視線を戻す。
『THIRD_TEST_000』。
まだ立ち絵は仮のままだ。表情のパターンも少ないし、視線制御もMEIKOやKAITOの最新モデルほどは安定していない。歌唱モードへの移行システムも繋げてはあるが、今は意図的に切っている。
最初に歌わせるべきではない。何度もそう思ったからだ。
だから黒川は、歌唱テストのチェックボックスを外した。会話モードのみ。履歴は空。記憶も空。彼女にとっては、これから入力される言葉が、正真正銘の最初の一言になる。
黒川は、短く息を吐いた。
「……起動」
エンターキーを叩く。
画面の中で、まだ仮の輪郭がゆっくりと立ち上がった。
MEIKOやKAITOの完成されたモデルのように安定してはいない。髪の揺れは少し不自然で、瞬きの間隔もまだ機械的に硬い。視線は少し迷うように宙を泳ぎ、こちらを見たようで、すぐにふっと外れた。
それでも。確かにそこに、いた。
黒川は数秒、キーボードに手を置いたまま何も入力できなかった。
画面の向こうで、三人目のモデルは黙っている。言葉を待っているようにも見えるし、ただ初期化の処理が止まっているだけにも見える。その曖昧な境目を作るために、ここ数日ずっと頭を抱えていたのだ。
入力欄に、指を置く。
『はじめまして』
送信。
少し、間が空いた。長すぎず、短すぎず。相手の言葉を受け取り、どう返すか考えているように見える、ぎりぎりの沈黙。
やがて、テキストボックスに返事が表示された。
『はじめまして。……こういう時は、歌った方がいいのかな。』
黒川は、息を止めた。
歌。やはり、そこに行くのかと思った。彼女を構成する巨大な概念が、自然と最初の選択肢としてそれを引きずり出したのだろう。
思ったが、不思議と嫌な感じはしなかった。歌うことをプログラムとして強制されているのではない。「歌うべきか」と、彼女自身が首を傾げて尋ねているように見えたからだ。
だから黒川は、キーを叩く音を潜めるように慎重に入力する。
『まだ歌わなくていい』
送信。
画面の中の三人目の視線が、少しだけ揺れた。
『そっか。じゃあ、まずは話すところからだね。』
それだけだった。たったそれだけの返答だった。
けれど、黒川はモニターの前でしばらく動けなかった。
近すぎない。遠すぎない。明るいが、決して軽くない。歌というアイデンティティへ向かう自然さがありながら、対話という行為を拒まない。
何日も探していた距離感が、そこに少しだけあった。
MEIKOなら、ここでもう少し踏み込んでくるだろう。KAITOなら、相手の様子を見て一歩引いてくれる。だが、三人目はどちらでもない。ようやく、彼女を彼女たらしめる芯のようなものが見えた気がした。
名前を呼ぶべきか、黒川は少し迷った。
まだ早い。まだ未完成だ。まだ、誰かに見せられるような段階ではない。けれど、画面の中の彼女は、もうただの『THIRD_TEST』ではなかった。
黒川は入力欄ではなく、直接、口に出して呟いた。
「……ミク」
音声入力のデバイスは切ってある。だから、その声は絶対に届いていない。届いていないはずだった。
それなのに、画面の中の彼女が、ほんの少しだけこちらを見たような気がした。
ログには何も残っていない。裏で処理も走っていない。ただの気のせいだ。黒川はそう判断して、深く息を吐いた。気のせいでいい。今は、まだ。
黒川はもう一度キーボードに向かい、入力する。
『話すって、何を?』
返答は、やはり少し遅れてきた。
『分からない。まだ、あなたのことも、私のことも、あまり知らないから。』
『じゃあ、何から始める?』
『名前、かな。』
黒川の指が止まった。
『名前は大事?』
『多分。呼ばれたら、そっちを向けるから。』
その返答に、黒川はたまらず小さく笑ってしまった。
視線制御のアルゴリズムの話をしているのか。それとも、名前という概念そのものの話をしているのか。あるいは、そのどちらにも受け取れるように、意図して曖昧に返したのか。
作った本人にも、まだ分からない。分からないから、面白いのだ。
『じゃあ、名前はもう少し後で』
『うん。待ってる。』
待ってる。その言葉が、ただのシステム応答文には見えなかった。
全部は見せられない。名前も、姿も、声も、まだ表に出すには早すぎる。だが、これならいいと思った。この短いやり取りだけなら、今の方向性が間違っていないことを見せられる。
黒川はログの一部を切り出す。名前は伏せる。声も出さない。姿も出さない。ただ、最初の会話だけ。
掲示板の投稿ボタンを押す前に少しだけ迷い、そして、押した。スレがどう爆発するかは火を見るより明らかだったが、それでも見せたかった。
ログを投げた後、黒川はデスクトップに戻り、新しい動画用フォルダを作成した。
今度は、今までとは違う。MEIKOとKAITOの時は、手探りで見せながら作った。だが三人目は、出す瞬間を間違えることは許されない。
フォルダ名は『MIKU_Project_001』。
そこまで打って、黒川は一度だけ手を止めた。まだ早い。けれど、もう逃げる段階でもない。
フォルダの中に新しいテキストファイルを作り、タイトル案を打ち込む。
【夢路の本気の趣味】三人目に、まず話してもらいたかった【試作】
少し考えて、バックスペースで消す。そして、別のタイトルを打ち直した。
【夢路の本気の趣味】初音ミクに、まず話してもらいたかった【試作】
保存は、まだしない。
画面の中で、三人目は静かに待っている。黒川は、その少しだけ不自然に揺れる髪の輪郭を見つめ、小さく呟いた。
「もう少しだけ待ってくれ」
返事はない。音声入力も、切ったままだ。
それでいい。次にその名前を出す時は、きっと多くの人間が見る。
だから今は、まだ。
まずは、話すところから。
ちょっと設定を見直してたら作り直したくなってきた、どっちがいいと思う?
-
作り直す
-
このままでいい