上条当麻が風紀委員設定の禁書ものも連載しているので、暇な方は是非。
疫病神《かみじょうりょうま》
英雄。
常人が為しえないことを達成し、定められた常識を覆し、奇跡のような偉業を成し遂げる存在。
ヒーロー。
そんな彼らがいつしも善人で、純然たる人格者である保障はない。
誰よりも過酷な運命を強いられ、誰よりも苛烈な境遇で日々を過ごす。
そんな
むしろ、悪党の方がふさわしい。
世界を動かしてきた人々が、決して善人ばかりではないのがその証拠だ。
救世主。
悲しき運命に苦しむ者の所へ、何処からともなく駆けつけて、あっという間に窮地から助け出してくれる存在。
ヒーロー。
そんな彼らは紛うことなき善人で、疑いの余地なく人格者であり続ける。
誰よりも重い責任を抱え、誰よりも理不尽な期待を背負い日々を過ごす。
そんな
よって、正義の方が都合がいい。
他でもない救われる凡人たちが、彼らがそう在る様に押し付けているのだから。
いつしか、そんな
始まりは、穏やかで、平凡で、ありきたりなものだった。
ありふれた、幸せだった。
1
とある真冬の日。
ある一般的な家庭に、“双子”の男の子が生まれた。
生まれるまではお腹の中の子供は1人の男の子だと聞いていた両親は、初めは驚いていたものの、すぐに満面の笑みに変わり、双子の誕生を心の底から歓喜し、そして祝福した。
父親の方は大いにはしゃぎ、待望の第一子に名づけようとしていた“当麻”に代わる名を、両手で頭を抱えながら考えた。
そんな夫を見てくすりと笑い、母親は自分の腕の中で眠る愛くるしい我が子たちに慈愛に満ちた微笑みを向ける。
こうして、上条家に、新たなる家族が増えた。
兄――上条
弟――上条
ごく普通の町の、ごく普通の家庭。
だからこそ、ごく普通のありきたりな。
けれど、とても温かい幸せな日々を送る――
――その、はずだった。
疫病神
いつからか上条竜麻は、嫌悪と侮蔑の意味を込めてそう呼ばれるようになった。
2
優しい両親に育てられ、まっすぐにたくましく育った上条兄弟。
段々と外に出て、近所の子供たちと遊ぶようになって、友達も増えてきた。
そんな、ある日。
竜麻と友達が一緒にブランコに乗って遊んでいたとき、ブランコの鎖が切れた。
竜麻はかすり傷だけで済んだが、その男の子は柵代わりの手すりに頭をぶつけてしまい、二針縫う程の大怪我をしてしまった。
だがその時は、竜麻だけが責められるようなことはなく、危ないからブランコは1人で乗りなさいとそれぞれの母親から叱られるくらいで済んだ。
この時は、まだ。
それからも、奇妙な出来事が次々と起こった。
かくれんぼで入った倉庫の扉が、開かなくなる。
小学生の乗った自転車のブレーキが壊れ、突っ込んでくる。
何処からか逃げ出した大型犬が、襲い掛かってくる。
一つ一つの出来事は、確かに不運ではあるけれど、日常に起こりうるハプニングやアクシデントだった。
だが、ある日ポツリと、誰かが呟いた。
いつも、あの子がいるところで起きている、と。
そして、それは起こった。
その日も、近所の子供たちに混ざって、竜麻は遊んでいた。
竜麻はその面倒見のいい性格から、その地区の子供たちのリーダーのような存在だった。
だが、いつの日からか他の子供たちと少し距離が出来たように、竜麻は感じていた。
しかし、明確に無視や仲間外れにされているわけではなかったし、勇麻はいつも竜麻にべったりだったので、竜麻はあまり気にしていなかった。
その日、竜麻は『だるまさんがころんだ』をしようと提案した。
そして、皆を集め、ジャンケンをして鬼を決めた。
いつもはジャンケンなど勝った試しがなかった竜麻が、この日は鬼になることを逃れた。
勇麻と一緒に大喜びし、張り切って逃げようとして――
――急に背筋に悪寒を感じて立ち止まった。
そして、勢いよく振り返る。
その視線の先には、公園で一番大きな木の幹にへばりついて、目を隠しながら大きな声で一つ一つ丁寧に十を数える女の子。
その日、一際、竜麻を怖がっていた女の子。
だが、竜麻が見ていたのは、その女の子ではない。
木。
なぜだか分からないけれど、その大きな木から目を逸らせない。
そして、女の子のカウントが7になったとき――
――巨木が、折れた。
メキメキと、音を立てて倒れこむ。
その牙のような影が、根元にいた女の子を覆った。
女の子は、動けない。
自分に襲い掛かってくる、巨大な木槌の恐怖で体を動かすことが出来ない。
母親たちが悲鳴を上げ、他の子供たちが目を瞑るも、誰の助けも間に合わない。
だが、1人の男の子がその女の子に飛びつきながら助け出した。
巨木が重厚な落下音と共に倒れこんだが、その下敷きになった者はいなかった。
勇麻は目を奪われた。
兄の、まるでテレビの中の憧れのヒーローのような姿に。
その雄姿に、心の底から興奮が湧き上がってくるのを感じた。
そして、その熱い思いを思いっきり吐き出そうと、満面の笑みで兄に駆け寄ろうとすると――
「……や、疫病神!!」
――それを遮るように、悲痛な叫びが、静まり返っていた公園に響き渡った。
それをぶつけられたのは、勇麻の兄――竜麻。
そして竜麻に怒りの言葉をぶつけたのは――――竜麻が助けた、その女の子だった。
「ママの言った通りだった……竜麻くんと一緒にいると、危ない目に遭う!!知ってるよ!!竜麻くんみたいな子を、疫病神って言うんでしょ!!もう一緒に遊ばない!!もうわたしに話しかけないで!!」
そう怒涛の勢いでまくしたてると、涙を拭いて、その女の子は真っ直ぐに母親の元へと逃げ出す。
その母親は娘を抱き留めると、恐ろしく冷たい――敵意の篭った視線で、竜麻を睨み据えていた。
彼女だけではない。
周りを見渡すと、他の母親たち、果てはいつも竜麻と一緒に遊んでいた子供たちまで、竜麻を睨みつけていた。
竜麻は、初めて晒される圧倒的な嫌悪に、只管に困惑していた。
勇麻もオロオロとするばかりで、そんな兄に、何も出来なかった。
その日以降、上条兄弟と一緒に遊ぶ子供はいなくなり――
――上条竜麻は疫病神と呼ばれるようになった。
3
上条勇麻は沈痛な面持ちで、幼稚園からの帰り道を歩いていた。
兄――竜麻が疫病神と呼ばれ始めたあの日から、竜麻はこの町の全ての人間から迫害されるようになった。老若男女問わず全てが敵になった。
声をかけようとすると悲鳴を上げて逃げられ。道を歩けば石を投げられる。
それは、まだ児童呼ばれる年齢の幼い子供には、残酷過ぎる仕打ちだった。
そして、竜麻は外出することが出来なくなり、家に閉じこまざるを得なくなった。
日に日に瞳から光を失くし、塞ぎ込んでいく竜麻。
あんなに明るくたくましかった、大好きだった兄が、その爛漫な笑顔を見せなくなっていく。
勇麻は、兄の為に何かしたいとは思いつつも、あの兄が追い詰められるような状況に、自分なんかが何か出来るとは思えなかったし、実際に必死になって頭を捻っても何も浮かびやしなかった。
そんな表情が顔に出ていたのか。
竜麻は勇麻の頭をそっと撫でる。
勇麻は、竜麻に頭を撫でてもらうのが大好きだった。
自分が落ち込んだ時。泣きそうな時。不安な時。寂しい時。
いつも竜麻は、勇麻の頭を時に優しく、時に力強く撫でた。
そして、いつも決まってこういうのだ。
『兄ちゃんに任せろ』
その時の兄の力強い不敵な笑みが、勇麻は大好きだった。
僕の兄さんは、最強だ。
そう胸を張って言える。そんな気持ちにさせられる笑みだった。
兄さんに出来ないことなんてない。
事実、この不敵な笑みを見せた竜麻が失敗したところを、勇麻は見たことがなかった。
だが、この時は違った。
勇麻を撫でる竜麻の手は、いつもとは比べ物にならないほど弱弱しく。
向けられた表情は、勇麻の大好きな、あの力強い不敵な笑みではなく。
『……ゴメンな。勇麻』
――疫病神で、ゴメン。
そう、この至近距離でも聞き漏らしてしまいそうな、小さな呟きを漏らした竜麻は。
勇麻が今まで見たことのない、今にも泣きだしてしまいそうな、悲しい笑顔だった。
このあまりにも不幸な境遇において、唯一の上条家にとっての救いは、竜麻に対する迫害の直接的な被害が、勇麻には及ばなかったことだろう。
あくまでも。疫病神は竜麻で。
勇麻は。“
そういった位置づけになった。
それを知った時、両親は何も言わなかった。
言えなかった。
それは、勇麻も同じこと。
だが、兄――竜麻は。
心の底から嬉しそうに。それこそ以前のような、太陽のような笑顔で喜んだ。
その時、初めて、両親は泣いた。
勇麻も、兄の胸に飛び込み号泣した。
竜麻はひたすら戸惑っていたが、三人は泣き続けた。この理不尽を嘆き続けた。
なんで。どうして。なんで。どうして。
なぜ、こんなにも優しい息子が、こんなにも優しい兄が、こんな仕打ちを受けなければならない。
こんなにも純粋で、こんなにも綺麗な心を持つ少年に、こんなにも残酷な不幸を降り注ぎ続ける神とは、いったい何なのだ。
勇麻と両親は、そんな行き場のない憤激を涙に変えて、竜麻のことを抱きしめ続けた。
そんなことがあって。そんな風に、自分の無害認定を喜んでくれた兄の為に、勇麻は幼稚園に通い続けた。
かつて兄と共に通い。兄がみんなの中心だった、大好きだった幼稚園に。
だが、今の勇麻は、この場所が、ここに居るおともだちやせんせいが大嫌いだった。
みんな、勇麻に向かって、こう言ってくる。
かわいそうに。
勇麻は分かる。知っている。
この“かわいそう”は、竜麻の境遇を嘆くものではない。
そんな兄を持った、そんな疫病神な兄の弟であるという、勇麻の境遇を憐れむものだ。
だから、勇麻は、こいつらが嫌いだ。
散々兄のことを褒め称えておいて。
その頃とまるで変わっていない、いや自分たちが勝手に変えてしまった上条竜麻という存在を。
まるで、私たちは前からそうだと思っていたとばかりに手の平を返して扱き下ろす。
そんな醜いこいつらが、勇麻は大嫌いだった。
まるで、自分達が正義で、正しい行いをしたかのように。
自分の兄を。大好きな兄を。優しい兄を。悪いことなど一つもしていない兄を。
勇麻は限界だった。
大好きな兄を生贄に、平穏な日常を謳歌している自分が、酷く汚く罪深いように覚えた。
そして、勇麻は幼稚園を飛び出した。お昼寝の時間などしったことではなかった。眠れないからと言って、暇つぶしとばかりに兄を罵倒するあの空間に、もう一秒足りとも居たくなかった。
無我夢中で走り続け、気が付いたら、あの公園にいた。
あぁ。やってしまった。
別に後悔はない。自分の行いを恥じる気持ちなど、これっぽっちもない。
だが、これで、また悲しませてしまうのだろう。
兄は、きっと僕のことを責めない。
ただ、僕の頭を撫で、泣きそうな顔で言うのだ。あの時のように。
ゴメンな、と。
兄は何も悪くないのに。全部、不幸が悪いのに。
何もしていないのに、勝手に兄に襲い掛かかり続ける、不幸が。
そして、それらの原因を勝手に兄に押し付ける、あいつ等が。
でも、兄は決して誰も責めない。
勝手な言い分で兄を迫害する人たちも。そして、こんな残酷な運命を背負わせる、神とやらにも。
兄は。あの強い兄は。全てを自分で抱え込む。
誰にも言わず。何も言わず。ただ一人で。一人ぼっちで。
勇麻は悔しかった。
双子なのに、兄に頼ってもらえない自分が。
そんな辛い戦いを続ける兄に、また負担を強いてしまう自分が。
そして勇麻は、そんな重い思いを抱えながら、沈痛な面持ちで帰路につく。
かつては兄に引っ張ってもらっていた通学路も、1人で歩くのに慣れてしまった。胸中の寂しさは如何ともし難いけれど。
でも、そんな弱音を吐いている場合ではない。すでに勇麻の中に、あの魔窟に帰るという選択肢はなかった。あんな場所に戻りたくなかった。
一刻も早く家に帰りたかった。
敵がいない。みんなが味方な、あの場所に。
上条家にとっての唯一の救いが、勇麻の対する同情だとしたら。
竜麻にとっての救いは間違いなく、家族の存在であっただろう。
刀夜も。詩菜も。そして、もちろん勇麻も。
誰一人として、竜麻を邪険に扱うものはいなかった。
例え、それで自らが危険な目に遭ったとしても、誰一人として竜麻の傍を離れなかった。
竜麻を不幸から救う為に、刀夜は古今東西ありとあらゆるオカルトを調べ上げて長男の不幸を討ち祓おうとし、詩菜は幼稚園を辞めて部屋に閉じこもる竜麻を支える為に健気に尽くした。
竜麻は、そんな家族に心から感謝し、そして申し訳なく思っていた。
彼らが居なければ、竜麻はとっくに死んでいただろう。
それが、不幸によるものか、それ以外の手段かは定かではないが。
そして今日は、出張が多い刀夜が家に帰ってくる日だったはずだ。
海外出張が多い刀夜は、帰宅時間はバラバラで、午前中に日本に戻ることも多い。
もしかしたら、もう家にいるかもしれない。
……そしてもしかしたら、幼稚園の方から、自分についての連絡が入っているかもしれない。いや、確実に入っているだろう。それを考えると、少し気が重くなる。
だが、それ以上に、家族に会いたい。
例え怒られてもいい。いや、十中八九怒られないだろう。悲しい笑顔にさせてしまうかもしれないが。
その時は、誠心誠意謝ろう。そして言うのだ。
僕は、あそこにいるより、兄と、家族と一緒にいたいのだと。
義務教育ではないのだ。もういいだろう。それより大好きな兄と過ごす時間の方が遙かに有意義だ。
明日から何をして遊ぼう。これからは毎日兄と一緒だ。あの頃のように。
三食母の料理が食べられる。もしかしたらおやつも作ってくれるかもしれない。
父は一度出張から帰ってくるとしばらく連休になったはずだ。なら明日はどこか楽しいところへ連れて行ってもらおう。父が日本にいるときくらい家族サービスをねだってもそれは我儘とはいわないはずだ。
次々と楽しい明日の想像が勇麻の中に生まれる。
そうだ。兄は不幸なんかじゃない。僕は可哀想なんかじゃない。
そう言われるのなら、そう思われるのなら、自分たちで変えればいい。
少なくとも、自分は胸を張って言える。
あの兄の弟として生まれて、この上なく誇らしいと。
あの家族の一員で、間違いなく幸せだと。
勇麻は、全力で帰路を駆ける。
勇麻の心には、もう暗い感情はなかった。
兄を救う。家族に笑顔を取り戻す。
そんな使命感で沸き立つ胸の鼓動に動かされるように、勇麻の足は止まらず、玄関を開け放ち、リビングに入ろうとする――――と。
「来るな、勇麻ぁ!!」
兄の叫び声が轟き、こちらも勢いよく開けようとしてリビングへと繋がる扉へ伸ばした手が中途半端に止まり、きぃと、ゆっくり、ゆっくり、その扉は開いた。
徐々に明らかになっていく中の様子は、勇麻の幸せな想像の真逆のものだった。
仰向けに倒れ、左胸にナイフのようなものを生やし、ぐったりとしたまま動かない父親。
その父親に泣きながら縋りつき、必死に何度も何度も呼びかける母親。
そんな二人を庇うように、口から、そして左肩から血を流しながらも、ぷるぷると震えながら立ち塞がる兄。
そんな愛すべき家族と、開いていく扉の前に棒立ちする自分との間には。
「…………な、なんだ……お、おまえも、この疫病神の仲間かぁ?……あ、あぁ?……そうなんだろうぉ、あぁん!?」
震える手で、震える膝で、震える声で。
明らかに異常といえる汗をかき、こちらを瞳孔の開いた焦点の合わない目で、怯えるように睨み据える見知らぬ男がいた。
4
「……あ……ぁぁ……」
勇麻は、その場に尻もちをつく。
勇麻にとって、竜麻にとって、上条家にとって、唯一の平和な場所が、見知らぬ男によって蹂躙されていた。
その男は、ふらふらと覚束ない足取りで、ピクリとも動かない刀夜に向かう。
「や、やめろっ!」
「うるせぇンだよ、疫病神がっ!」
「がぁっ!!」
「竜麻!!」
竜麻を思いっきり蹴り飛ばし、必死に抗う詩菜を荒々しく退かして、その男は刀夜の左胸に刺さったナイフを引き抜いた。
「――ぃっ!?」
そこから吹き出す、見たこともない種類の黒い赤色。
元々銀色であっただろうそのナイフは、勇麻の父の血液でどろどろに真っ赤だった。
「……へへっ……お前も殺してやる……疫病神のせいで、俺は職も、家族も失った……全部、コイツのせいだ……こんな化け物を匿う、お前たちのせいだぁぁぁ!!!……全部、壊してやるっ……全部全部全部全部全部ぅ!!……ははは、はは、ははははは、ははは」
勇麻は、動けない。
体ががたがたと恐怖で震え、歯がかちかちと鳴り、涙が溢れて視界が歪む。
その歪んだ視界の中で歪んだ嗤いを上げるその男こそ、勇麻には恐ろしい化け物にしか見えなかった。
「……やめろぉ……勇麻には、手を出すなぁぁぁああああ!!」
腹を押さえて蹲りながらも、その鋭い目で男を睨み据える竜麻。
その目を受けて、男は更に口角を歪ませる。
「はははは、いい気味だな、疫病神!!だが、お前は最後だ。……たっぷりと時間をかけて、ゆっくりと苦しめて殺してやる!それまで、家族が殺される様を、その目に焼き付けるがいい!それが、疫病神の分際で、今日までのうのうと生き延びてきた罰だぁ!!ひゃはははははは!!!」
竜麻は、悔しげに唇を噛みしめる。
だが、動けない。すでに、竜麻も肩に裂傷を負い、その小さい体に大の大人の全力の暴力を数発、その身に受けている。声を出すのも苦しかった。
あの兄が、動けない。あの兄が、負ける。
その事実が、目の前の現実が、勇麻の心に更なる恐怖として襲い掛かる。
「さぁて……まずは、お前からだ坊主……」
男が、勇麻に向かって歩き出す。
刀夜の血を存分に浴びたそのナイフを舐めながら、瞳孔の開いた瞳で、勇麻を見据える。
「ぁぁぁぁあああああああ!!!!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁぁああああ!!!助けて!!助けて兄さぁぁああああああん!!!」
「うああああああああああ!!!!やめろぉぉおおお!!!」
「ははははははっはっははっはははは!!!!死ねぇぇぇえええ!!」
上条兄弟の絶叫をその身に存分に浴びて、愉悦に浸りきった表情で、男はナイフを両手で持ち、振り下ろすようにして、勇麻を襲う。
勇麻は目を強く強く強く瞑り、反射的に両手で頭を守るように縮こまる。
だが、その体のどこにも、身を裂かれるような激痛は来なかった。
代わりに感じたのは、自身の体を包み込むような、温かい感触。
恐る恐る、目を開けた勇麻の視界に――
――暖かい微笑みを携えた、勇麻たちの母親である、上条詩菜の顔が広がっていた。
「……お、母さん……?」
「……勇麻。……竜麻」
詩菜は、その滑らかな両手を、勇麻の頬に添える。
そして――背中にナイフが突き刺さっているにも関わらず、慈愛に満ちた美しい微笑みのままで、勇麻に、そして背後で絶句している竜麻に、言葉を遺す。
「……幸せに、なって」
その言葉は、勇麻に、そして背後にいる竜麻にも届いた。
直後、詩菜の表情が苦痛に歪む。
男は、荒々しくナイフを詩菜の背中からナイフを引き抜き。
「らぁっ!!」
再び、渾身の力で、詩菜の肢体にナイフを突き刺す。
「なぁに、言ってんだぁ、この
グサッ グサッ グサッ
「や、ヤメ」
竜麻の掠れた呟きが漏れる。勇麻は両腕で頭を掴み震える。
男は、手を
「厄病っ、神にっ、幸せにっ、なるっ、権利っ、なんざっ、あるわけねぇだろぉぉおおおおお!!!!」
グサッ グサッ グサッ グサッ グサッ グサッ グサッ グザァッ!!
「やめろ……ヤメロォォオオ!!!」
竜麻は蹲ったまま渾身の力で吠える。勇麻は俯き頭を必死で振るい拒絶する。
だが、男は手を
殺すことを
「――っ!! や、やめ、ヤメロォォォォオオオオオ!!!!!」
竜麻は、その所作に最悪の未来を連想し、力の限り叫んだ。
だが、男は却ってその悲鳴に気分を昂揚させ、醜く表情を歪ませたまま、その悪魔の所業を実行した。
プシャァァァァアアアアアア!!!!
詩菜の首筋から、噴水のように血が噴き出した。
「…………え」
勇麻は、そのあまりに現実感のない光景に――自身の母親の首が怪しく傾き、その割れ目から鮮血が噴き出す光景に、恐怖を感じる前に呆然とする。
「…………あ……ああ……」
竜馬は、その残酷過ぎる行為に、ついに涙を垂れ流しながら、情けない嗚咽を漏らす。
ゆっくりと立ち上がりながら、母親の元へ駆け寄ろうとするが――
「ちっ!……こんなナイフじゃあ、やっぱ首は切れねぇか。……つまらねぇ、なっ!」
男は、そう吐き捨てて、詩菜の死体を無造作に蹴り飛ばした。
ブチンッ
その時、竜麻の中の、何かが切れて。
目の前の視界が、両親の飛び散った血液とは無関係に、真っ赤に染まった。
己の中の怪物が、咆哮し、暴れ狂うようなイメージが脳裏を過ぎる。
だが、そんなものは、今の竜麻には関係なかった。
コイツは、何をした?
竜麻を庇った刀夜を殺し、勇麻を守った詩菜を殺した。
残虐に、残酷に、虐殺した。
竜麻を、勇麻を、心から愛してくれた。
どんな状況になっても見捨てず、力の限り救おうとしてくれた。
俺たちを、幸せにするために。
それなのに、コイツは殺した。
「ひっひっひ、まぁいい……順番が逆になっちまったが、今度こそテメーだ、坊主。……いい声で哭いてくれよぉ」
そして、今、コイツは。
勇麻を、俺の弟を。
たった一人の、遺された家族まで、奪おうとしている。
許せるか?
許せるわけがない。
…………殺す。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
殺スッ!!
「ひっひっひっ――ひぃィッぎぃ!?」
突然奇声を上げた男に、勇麻は現実から乖離していた意識を取り戻す。
「こ、この――」
竜麻は、その手にテーブルの上に置いていた鋏を握りしめ、男の太腿に突き刺していた。そして、瞬時に引き抜き、距離をとる。
「ふざけるな、疫病神がぁ!!」
男は激昂し、振り向き様にナイフで突き刺そうとする――が。
竜麻は、青炎のような殺意に満ちた目で、それを見切り――男のナイフを持つ手を、鋏で突き刺した。
「がぁっ!?」
男は思わずナイフを取りこぼし、竜麻はそれを奪う。
男はこの時初めて、狂ったその精神状態で、明確に冷たい恐怖を感じた。
「や、やめ――」
男には、無様な命乞いをする時間も与えられなかった。
竜麻は、そのナイフで、男の顔面を容赦なく切り裂いた。
氷のように、冷たい瞳で。
冷静に、冷徹に。
胸の内に、青い焔のごとき殺意を、憤怒を、絶望を抱えながら。
5才の少年が、1人の人間を殺害した。
倒れ込む男。
そして勇麻が、弟が硬直しながら傍観する中。
一度、そちらに目をやり。
「目を瞑れ」
と、告げた後、自身の母親にされたように、男の頸動脈を鋭く一太刀で断ち切り、
勇麻は呆然としていて、兄の言葉を認識することは出来なかったが、兄がナイフを振るう時は、思わず反射的に目を瞑っていた。
そして、恐る恐る目を開いた時には、そこには返り血で全身を真っ赤に染め上げた竜麻のみが立っていた。
悠然と屹立する、両親の仇を討ち、弟の命を救った、1人の
だが、その表情には、満ち足りた達成感など皆無で、ただただ空虚な無感情で満ちていた。
勇麻は、やがて近所の人たちが駆け込み大騒ぎとなるまで、そんな兄に何の言葉も掛けることは出来なかった。
5
それと同時刻。
窓がなく、ドアもない、真っ暗な室内。
その空間の中央にある、直径4m、高さ10m以上の巨大なビーカー。
血液のように
緑色の手術衣を着たそれは、男にも女にも大人にも子供にも聖人にも囚人にも見える。
そのあらゆる可能性を手に入れ、あらゆる可能性を捨てた、その人物は、その『人間』は。
欲しくて欲しくてたまらないものをついに見つけたような、『人間』のような当たり前の感情を剥き出しにして、笑った。
「――――ついに、見つけた。愛しの『幻想殺し』」
過去編でした。たぶん、次回も過去編だと思います。
双子があらすじの身分になるまで、もう少しだけお待ちください。