空、望まれぬ星が二つある。 作:暴れ球
プロローグ
これは裏切りの記憶だ。
薬の最後の一杯をレギュラスは飲み干した。
味は覚えていない。腐った金属の感触があったように思う。喉の奥が焼けて、視界が滲んだ。だがそういった肉体の苦痛は、後になってみれば、些細な記録に過ぎなかった。
水盆は空になっていた。
闇の帝王を守る秘術、分霊箱の守りに手を掛けた。掛けてしまったということ。それだけが、その時点で確かな事実だった。主人に対するレギュラスの叛逆だった。
震える手を盆の底へ差し入れ、ロケットを取り出した。
スリザリンのロケット。S字に絡んだ蛇が掌の上で鈍く光った。それを用意した偽物とすり替える。
偽物は水盆へ。本物は外へ。
それがレギュラスが成し遂げるべき使命だった。己に課した、己だけの使命。
「クリーチャー」
レギュラスは声にならない声で囁いた。
友たる屋敷しもべ妖精はもうここにはいない。
彼が命じた通り、分霊箱と共に姿くらまし術で屋敷へ帰った。「僕は後で行く。先に戻れ」。最後の命令。あるいは、最後の嘘。クリーチャーは知らない。彼の主が、ここから出るつもりがないことを。
そう。叛逆は初めからレギュラスの死を前提としていた。
無論初めからそれを望んだわけはない。だがレギュラスは、己の力ではそれしか道がないことも理解していた。
全身全霊、全ての力と策略と幸運を注ぎ込んでなお、成功の字が見えるか否かという分の悪い賭けでしかなかった。そして成功とは作戦の成功であって、そこにレギュラスの命は含まれてはいない。
闇の帝王は強大だ。そして、その罠は悪辣だ。魔法使いの小僧がひとり噛み付いてその一部でも倒せるのなら、彼は帝王などと崇められてはいない。
思いつく限りの準備を行なった。できうることは全てやった。やれるべきことは全てやり尽くした。臆病だ小物だと兄に笑われた性根の全てを使って、レギュラスはそれに挑んだ。そして今まさに想定の通りとなろうとしていた。
ロケットのすり替えには成功した。だがレギュラスは死ぬ。何度も頭の中で繰り返した想定の通りに。
薬の作用か。あるいは死に瀕したレギュラスの頭が生み出した走馬灯か。
水を求め、湖に近づいた者を水底へと引き摺り込もうとする亡者の指の隙間から、レギュラスは幻を見た。それは層になって押し寄せた。
母の顔を見た。兄の顔を見た。兄の顔が黒犬の顔に変わるのを見た。学生時代、繰り返し見た、兄と、その悪友共の夜の逍遥──。
水底に引き摺り込まれるその刹那。その幻覚はレギュラスの脳に一つの欲求を生み出した。理性によるものではなく、もっと根源的で生物的で本能的な欲求。
すなわち生きたいと願うこと。ことここにおいて、レギュラスは最後に生へと縋った。
まだ死ねない。こんなところで終わりにはできない。ここから飛び出さなければならない。
幻覚が記憶を呼び覚ました。記憶が意思を生み出した。
過去のレギュラスは思いつく限りの準備をしていた。そして意思は魔法となる。
気づけば、その体は変わっていた。
死にかけた一人の人間ではなく、一羽のワタリガラスとなっていた。
亡者に羽根を引き抜かれながらも一気に洞窟の中を舞い上がる。
何十人もの亡者が、無数の白い手が、カラスを追っていた。だが彼らの領域は水中であり、空までは追っては来れない。誰もその鴉を捉えることはできない。
こうしてレギュラス・ブラックは生存した。
一九七九年のことだった。
※
これは苦悩と後悔と、そして出会いの記憶だ。
一九八一年。レギュラスが洞窟から脱出して二年が経った頃、一つの訃報が彼の耳に届いた。
レギュラスは焼け落ちた屋敷に立っていた。祖父アークタルス・ブラックの頼みによって。
グリモールド・プレイス十二番地の本家ではない。ブラック家が所有するカントリーハウスの一つ。そこには一つの家族が住んでいるはずだった。住んでいたはずの場所だった。
瓦礫を踏み締めて室内を進んだ。屋敷は破壊され尽くしていた。嵐が一つ、家の中を通り抜けたかのような有様だった。砕けた家具、破れた壁紙、折れたベビーカー。天井を見上げれば空が見えていた。そしてその空に浮かぶ、髑髏と蛇――闇の印。レギュラスはそれを苦々しい表情で見上げた。ここに住む者たちが死喰い人の手にかかったことの、動かぬ証拠だった。
焼けた残骸の中から、彼は一枚の写真を拾い上げた。
家族写真である。写真の中で動いているのは、若い夫婦と、その腕に抱かれた幼子。ブラック一族の者たちだった。カリオペ。エドマンド。そして名前を知らぬ娘。
夫婦は既に死んでいた。
戦いの末に、二人とも死の呪文を受けて。そのやり口をレギュラスは知っていた。戦星を冠する女。ベラトリックス。同じ一族の女が、ブラックの血を引く女と、その男を丁寧に殺した痕跡だった。
おそらくは、死喰い人の勧誘でもしたのか。そしてそれを断られ、逆鱗に触れて殺した。あるいは初めから殺す気だったのかもしれない。死喰い人たちの仕事に、その境目はあってないようなものだった。
殺されたのは夫婦二人。子供は――。
「まだ、見つかっていない」
レギュラスは呟き、屋根裏の方へと目を向けた。
破壊され尽くされた屋敷の中で、奇妙にも被害のない場所が一つだけあった。
子供はそこにいた。
おくるみ一つで、埃にまみれながら。硬い床が気に食わないのか、不快そうにぐずり続けていた。迫る危機に幼子の魔法力が爆発したのか、あるいは夫婦の愛がこの子を守ったのか。怪我ひとつ無かった。
レギュラスが近づくと、幼子は驚いたように目を丸くした。丸い瞳が彼を見上げる。黒い髪に青い瞳──手を近づけると、そっと指を握られた。寝巻きを少し捲ると、内側に文字があった――「リラ」。この娘の名前だろう。
「お祖父様の頼みというのは、これか」
レギュラスは呟いて、子を抱き上げた。
リラは何も知らないような顔で彼を見上げていた。指はきゅっと握られて、離してくれそうにもない。溜息をつきそうになって、飲み込んだ。
どうやら祖父は、死んだ夫婦の代わりに、自分に親代わりをやらせたいらしかった。
しばし悩んだ。
果たして自分にできるのか。そもそもそんな資格があるのか。裏切ったとはいえ死喰い人の身。そして彼女の両親を手にかけたのは、その死喰い人。なんなら同じ一族。思うところはいくつもあった。
それでも幼子の手は、レギュラスの指を離さなかった。
「僕も君も、生き残ってしまった人間か」
レギュラスは呟いて、くるりと回転した。バチンと音が弾けて、その後には何も残らなかった。
こうしてレギュラス・ブラックとリラ・ブラックは出会った。一九八一年のことだった。
そしてその後すぐに、一つの知らせが魔法界を駆け巡ることになる。闇の帝王が敗れた。ハリー・ポッターが生き残ったと。
※
闇の帝王が消え去った。魔法界はその話で持ち切りだった。
だがレギュラスにとって、それはまた別の意味を持っていた。
結局のところ、分霊箱は破壊できていなかった。厳重に封印を施したまま、誰にも知られない場所に保管してあった。
消失呪文、爆破呪文、対抗呪文、引き裂き、火、水、死――思いつく限りの呪文と方法を試したが、傷一つつかなかった。屋敷しもべ妖精であるクリーチャーの手によっても同様だった。人間ではなく妖精の呪文でも、効き目はない。悪霊の火は危険すぎる。レギュラスでは単なる自爆に終わる可能性も十分にあった。未だ試せていない。
どうやらまずは、このロケットを開く手段を見つけなければならない。レギュラスはそう推測した。
闇の帝王はまだ生きている。分霊箱がその証拠だった。姿を隠したとしても、それは一時的なものに過ぎない。いずれ必ず、戻ってくる。
それまでに分霊箱となったスリザリンのロケットを破壊し、また残りのものを見つけなければならなかった。分霊箱がこの一つだけとはレギュラスには到底思えなかった。彼の帝王はそういう人間だ。
分霊箱は破壊しなければならない。だが、それだけをしているわけにもいかなかった。他でもない、引き取ったリラのことである。
リラはあまり泣かなかった。その代わりのように、よく熱を出した。体が弱いことには、血の濃さもあるのだろう。脆弱な肉体に対して強すぎる魔法力が、よく彼女を傷つけた。
レギュラスは大変に苦労した。若造に親の経験などあるわけもなく、家にある書物は純血思想や魔導書の類ばかりで、子供の育て方など書いているものは一つもない。アークタルスは未だ健在だが、生まれたばかりの子供の世話ができるほどの体力はない。おかげでレギュラスは、死んだものとされている身で頼れるか細い人脈の全てを頼る羽目になった。
薬を飲ませると落ち着いたが、それでも熱が下がらない日が続くこともあった。そういう時は付きっきりで寝ずの番をすることもしょっちゅうだった。触れると崩れてしまう土塊のような脆さが、いつもそばにあった。
気づいたのは、その辺りからだ。
ぐずるリラをあやそうと、カラスの姿でいた時のことだった。
レギュラスは、彼女の無意識の魔法を感じ取った。開心術にも似たそれは、どうやら動物の心を読めるようだった。
それゆえにリラの周りには、よく動物が集まった。グリモールド・プレイス十二番地は隠されているので、そのほとんどは窓際に現れる小鳥程度ではあったが。窓の外の小鳥に喃語で話しかけ、それからレギュラスを見て、こてりと首をかしげていた様子は、記憶に新しい。
時に大きく体調を崩し、時にレギュラスを大きく不安にさせながらも、それでもリラはすくすくと育ってくれた。それだけで、レギュラスにとっては十分だった。
そして、年月はあっという間に過ぎていった。
リラは十一歳になった。一九九一年。ホグワーツ入学の年である。
※
ふくろうが来た。
黄色味がかった封筒に、エメラルド色で描かれた宛名。そしてホグワーツの校章。入学案内の手紙だった。
リラは手紙を受け取り、その黄色い嘴を少し撫でてやってから、水と餌をやって窓から放してやった。
手紙を開きながら居間をうろうろしているリラを、レギュラスは安楽椅子の上から眺めていた。暖炉の前でうとうとしていたところを、ふくろうの羽音で起こされたばかりだった。彼は寝起きのぼんやりとした声で問うた。
「手紙かい?」
「うん。ホグワーツから」
「そうか。……もうそんな時期か」
欠伸を漏らした。
レギュラスにとって、時の流れは奇妙なものだった。
一九七九年に死んでから、彼自身の時計は止まっていた。だが、リラを引き取って以来、彼の時計は彼女の成長の速度で動き直していた。十一年。長くもあり、短くもあった。
リラはレギュラスのそばに来た。膝に乗ろうとして――寸でで、やめた。
レギュラスは片眉を上げた。
そういうお年頃か、と彼は思った。引き取った時に握られていた指の感覚を、彼はまだ覚えている。あの指は今、ホグワーツの教科書を捲ろうとしている。膝に乗らなくなる日が来ることくらい誰でも知っている。だが知っていることと、その日が来ることとは、別の出来事だった。
彼は残念そうに、しかしわざとらしくならない程度に、肩を竦めてみせた。
「教科書以外は……揃えてあったかな。どうかな、買いに行くかい? 一緒に」
「ひとりで行けるわよ」
リラは拗ねたような声で言った。
「心配しすぎです。それに兄さんは外に出れないじゃない」
「出れないわけじゃない。姿を見られないようにしないといけないだけで」
何せ死人だからね。
最後の一言は声に出さずに飲み込んだ。
レギュラス・ブラックは未だ、公的には死亡している扱いだった。
リラの後見人もレギュラスではなく、アークタルスとして手続きされている。だから姿は極力見られないようにしなければならない。ワタリガラスの姿でなら話は別だが。
人間の姿で知り合いと出くわせば、面倒なことになる。例のあの人を裏切った元死喰い人が、娘と暮らしている――そのような噂は、無論立たないだろうとは思う。裏切り自体はまだ露見しているとは思えない。レギュラスの死に関しては、精々が臆病者が逃げ出して始末された。それくらいに見られているはずだ。
それでも、リラの安全のためには、自身の存在を隠し通さねばならなかった。
「
「わかってます」
「それから、フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーのサンデーを食べ過ぎないこと。おかわりは一度までだ」
「わかってます!」
レギュラスの小言にリラはぷりぷりと怒りながらダイアゴン横丁へ行ってしまった。
暖炉のエメラルドグリーンの炎が消えるのを見届けて、レギュラスは溜息をついた。
心配でないと言えば嘘になる。だが体の弱さに関してはここしばらくは随分とましになっていた。あの土塊のような脆さは、徐々にではあるが、確かに薄れてきていた。元気な姿を見せてくれている。それは喜ぶべきことだった。
それでも、可愛い娘と――正確に言えば娘ではないが――出かけることもできないのは、どうにも困った。早いところ、解決策を見つけなければならない。
随分と子煩悩になったものだと、彼は自覚していながらも、それでも考えずにはいられなかった。