空、望まれぬ星が二つある。 作:暴れ球
魔法薬学の授業はグリフィンドールと合同だった。
地下牢の教室は、火を入れていない大鍋がずらりと並ぶ薄暗い空間だった。
窓はなく、壁にかけられたランプの炎が瓶詰めにされた動物の標本を照らしている。リラは初めて入る場所ではあったが、グリモールドの屋敷の地下とそう変わらない空気を感じて、気味の悪さよりも不思議と落ち着きを感じた。静かで、ほんのり冷たく、薄暗い。体調を崩してしまうので冷えはリラにとっての天敵ということを除けば、気に入った場所だった。
「リラ、隣いい?」
ダフネがリラの隣の席を指さしている。リラは小さく頷いた。
社交界で何度か顔を合わせていたダフネと、こうして机を並べるのは初めてだった。
ダフネ・グリーングラス。寮ではリラと同室。聖二十八一族であるグリーングラス家の長女であり、そして一族の女に発現する血の呪いを受け継ぐ者。代々短命の一族でもありながら、それを表に見せることはない気丈な少女。妹のアストレアの話をするときに一番優し気な顔をする。それがリラから見たダフネの姿。
ダフネは典型的なスリザリン令嬢としての所作を身につけており、そして純血主義。もっとも、スリザリンにはそういう生まれの子が多いので純血主義ではない方が少数ではあるが。ドラコとは違って人前で露骨にそれを見せようとする人ではないので、リラにとって、彼女は最も会話の翻訳が要らない相手の一人でもあった。
スネイプが黒いローブを翻して勢いよく教室に入ってきた。出席を取り始める。教授の声は低く、抑揚を抑えた響き方をする。それでいて、どこか聞き手の注意を逃さない奇妙な力があった。
「ああ、さよう。ハリー・ポッター。われらが新しい――スターだね」
猫なで声でスネイプはハリーの名を呼んだ。
隣のダフネがちらりとそちらを見る。
「あれが、ポッター?」
「ええ」
リラは短く答えた。
ハリーはちょうど教科書を開いていたところだった。額の傷は黒い前髪に隠れているが、噂好きの生徒が、グリフィンドールスリザリン問わずひそひそと囁き合って目線を送っているのがわかる。ハリーもそれに気づいて居心地の悪そうにしている。注目されることに慣れていない者の身の縮め方。書店で見た時と同じだった。
「思っていたよりも地味な子ね。普通って感じ」
「バジリスクだって生まれた時は小蛇よ。子供のころから英雄然とされても一緒に授業を受けるあたしたちの方が困るわよ」
「どっちかと言えば子獅子でしょ。グリフィンドールなんだから。知り合いなの? リラ」
「いいえ。一度、書店で会っただけ」
リラは肩を竦めた。ダフネは少し気になる素振りだったが、スネイプがしゅっと視線を向けてきたのでそれ以上は聞いてこなかった。
出席が終わると、スネイプ教授は短い演説を始めた。魔法薬学の本質について。名声を瓶詰にし、栄光を醸造し、死にさえ蓋をする……。それは脅しのような、誘惑のような、詩でも詠うかのような言葉だった。
リラは何度か似たような口調をどこかで聞いた覚えがあった。幼い頃、書斎で低い声で本を読み上げる兄の声に似ていたのかもしれない、と思った。兄は確か、スネイプの後輩だったと聞く。
「ポッター!」
不意にスネイプが声を上げた。
「アスフォデルの根の粉末をニガヨモギの煎じたものを加えると何になるか?」
熱心にスネイプの演説を書きとっていたハリーは突然呼ばれて驚き立ち上がりそうになったようで、太ももが机にぶつかる音が教室に響いた。
「すみません。……えっと、眠り薬です。〝生ける屍の水薬〟?」
「ベゾアール石を見つけてこいといわれたら、どこを探すかね?」
「ええっと……わかりません」
「モンクスフードとウルフスベーンの違いはなんだね?」
ちらりとハリーの視線がリラを見た。
「確か、同じものです。同じ植物」
「多少は教科書を開いてみたようだな、ポッター。だが下調べが半端だ。君の無礼な態度で、グリフィンドールは一点減点」
三つのうち二つも知っていたなら減点する必要はないのではないか、とリラは思った。けれど口には出さなかった。一応ライバルであるグリフィンドールが減点される分にはいいことだし、余計な口出しをして注目されるのも避けたかった。スネイプには、彼なりの理由があるのだろう。いや、本当にそうか? スネイプがハリーを見る目には嫌悪と不快があった。それはハリーがグリフィンドールだからというよりも、もっと個人的な感情が含まれているようにも見えた。
授業の中盤、隣の鍋から悲鳴が上がった。
グリフィンドールのシェーマス・フィネガンの鍋から強烈な緑色の煙が吹き上がって、あっという間に割れて、ねじくれた小さな塊になっていた。シェーマスは慌てて飛び退き、避難が遅れたネビルは失敗した薬を全身に被ってしまい、おできだらけになった。見るだけでも痛々しい姿だ。
スネイプが怒鳴って杖を一振りし、こぼれた薬を消しさった。だが何人かの生徒は巻き添えを受けて靴に穴が空いたらしい。
「またグリフィンドールよ」
シクシク泣きながらシェーマスに医務室に連れていかれるネビルを見ながら、ダフネが小さく溜息をついた。
「これだから困るのよね。火加減ひとつ、計量ひとつまともに合わせられない子たちって。子供っぽくて」
「そう? でも、見ていれば学べるじゃない」
「え?」
「ネビル・ロングボトムが何をどう間違えて鍋を溶かしたのか、あたしたちは今、見たわ。次の授業でその工程に来た時、あたしたちは彼が間違えた失敗を、しなくて済む」
リラは静かに言った。
「リスクなく成果を得る。これも俊敏狡猾なスリザリン的じゃない?」
ダフネは少し驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
「意外とやるのね、ミス・ブラック」
「お互い様でしょう。ミス・グリーングラス」
リラも口元を緩めた。
「ブラック。待ちたまえ」
授業が終わって、生徒たちが鍋を片付けながら教室を出始めた頃、低い声がリラを呼び止めた。
スネイプだった。リラは立ち上がりかけたところで動きを止めた。ダフネがちらりとリラを見る。
「先に行ってて」
リラはダフネに小さく声をかけた。ダフネは何も問わずに頷き、教室を出ていった。
他の生徒が全員出払うのをリラは静かに待った。教授の机の前に立つ。スネイプは片手で羊皮紙のレポートをめくりながら、もう片手で引き出しを開けた。中から二つの包みを取り出す。
「君の、アー……〝保護者〟から依頼のものだ。精神を落ち着かせ、魔法力の暴走を防ぐ薬。吾輩が手ずから煎じたものでもある。受け取りたまえ」
差し出されたのは二つの包みだ。薬の匂い。リラが幼い頃より親しんできた香りである。好んで飲みたいと思える類のものではないが。必要なものだ。
「粉薬は朝と晩の食事後に。水薬は発作が起きた時等急を要する時に使いなさい。ただしこれらの薬はあくまでも対症療法でしかないことを忘れるな。その体質を治したければ、日頃より精神の統一に努め、せめて人並の健康体を作ること。よろしいな」
「存じています。すみません、スネイプ教授のお手を煩わせて」
「結構。生徒の健康管理も寮監の務めなのでな」
スネイプは包みを渡し終えると、視線を外し杖を振るって教室の跡片付けを始めた。
「だがそう思うのであれば、余計な面倒を持ち込まぬように。ポッターのようにな」
リラは包みを両手で受け取ったまま、首を傾げた。
「いい子じゃないですか。素直で。教授の演説も一字一句聞き洩らさぬようノートを取っていたようですし」
「早く行きたまえ。無駄話をするために呼び止めたわけではない」
スネイプは嫌そうに顔を歪めた。
リラは肩を竦め、小さく一礼して、教室を出た。
※
木曜日になった。飛行訓練である。またもやグリフィンドールとスリザリンの合同授業。
スリザリンは他の三寮と大概仲が悪いがその中でもグリフィンドールとの折り合いの悪さは周知の事実である。それなのにわざわざ組ませるのだろうか。リラは疑問に思った。
「リラって箒はどう? わたし飛ぶの駄目なのよね」
「まあ……そこそこね。飛ぶこと自体は、好きかも」
「飛ぶのってそんなにいいものかしら」
ダフネが辟易した表情でドラコの方を見ていた。箒の話になるといつもいつもドラコが同じ自慢話を繰り返すので、二人は箒やクィディッチに関して若干嫌な印象になってきていた。
中庭には風が吹いていた。まだ九月の初めだが、油断すると夏らしさに紛れて冷たい風が混じってくる。これからどんどん寒くなっていくのだろう、とリラはローブの裾を寄せた。渡された薬の包みが、ローブの内ポケットで小さな重みを伝えてくる。
リラにとって、箒は可もなく不可もなくといったところだった。どちらかと言えば、兄ではない兄の方が好きだったらしい。クィディッチのシーカーまでやっていたという話を聞いた。クィディッチの話をする兄はいつもより饒舌だったのを覚えている。
兄が屋敷の書斎で、青ざめた顔色のまま身振り手振りを交えてシーカーの妙技を語る姿。話の中の彼はいつも空にいた。地上の死人ではなく、十代の少年として雲の上を駆け回っていた。リラはその話を聞きながら、兄が言葉にしないもの――過ぎ去った過去に対する郷愁――を感じ取っていた。
箒はともかく、クィディッチの良さがわからないリラには、そのすごさもわからなかった。けれど楽しそうな兄を見るのは好きだった。その影響で、箒には抵抗よりも親しみの方が勝っていた。
子供用の箒に乗ったことも何度かある。検知不能拡大呪文で広げた屋敷内での飛行だから、そう大した経験でもないが、足が床から離れる感覚には慣れていた。
マダム・フーチが、生徒たちを箒の横に並ばせた。
「箒の右側に立って、片手を箒の上にかざし、〝上がれ〟と言うのです」
リラは並べられた箒の前に立った。
「上がれ」
リラの声で、箒はすぐさま飛び上がって手に収まった。
年季の入った箒だった。磨かれて、手汗の染みついた持ち手。小枝が何本もあらぬ方向へと飛び出している。手入れをしてあげなきゃね、とリラは内心で箒に語りかけて、持ち手を撫ぜた。古ぼけたこの箒も、重ねた年月と同じ数の空を知っているのだろう。
「それ、どうやったの?」
ダフネが、若干強張った顔でリラを見ている。彼女の前に転がっている箒は、何度〝上がれ〟と言われても、地面に転がったまま動かなかった。
「呼びかけ方もあるかもね。命令ははっきり、それと自信を持って。不安は箒に伝わるわ。お願いのほうがいいかも。この子、あたしたちよりずっと長くここにいるから。先輩ね」
「お願い……?」
「箒は意外と賢いのよ。気分を害したら反抗もしたくなるわ」
ダフネは少し怪訝な顔をしたが、リラの言葉通りにもう一度試みた。何度かの呼びかけの後に、ようやく箒はコロンと転がってダフネの掌に収まった。しょうがないなとでも言いたげな動きであった。
ダフネは小さく息を吐いた。
「あなた、本当に動物の話みたいに言うのね」
「箒だって元は木よ。生きてたものだもの。魔法が掛かってるのだから尚更ね」
マダム・フーチが笛を吹くより前に、一人だけ先に飛び上がってしまった生徒がいた。グリフィンドールの丸顔の子。ネビル・ロングボトムだった。
「降りなさい、ミスター・ロングボトム!」
マダム・フーチの叫び声が中庭に響いたが、ネビルの箒は彼の意思を完全に振り切っていた。緊張のあまり強く蹴ってしまったのだろう。箒は彼を乗せたまま、城壁の方へとひゅーっとどこまでも飛んでいった。
そして、真っ逆さまに落ちた。
「アレスト・モメンタム――動きよ止まれ」
読書好きが高じてたまたま覚えていた呪文だった。杖を向けて唱える。
ネビルは鈍い音を立てて地面に落下した。リラの呪文のおかげか、少しばかり減速して。骨が折れた音は聞こえなかった――と、思いたい。
箒はネビルを振り落としたまま、ふらふらと禁じられた森の方まで飛んでいって、そのまま見えなくなった。
「ありがとうミス・ブラック。ああロングボトム、大変――」
マダム・フーチが慌ててネビルに駆け寄った。彼は手首を捻挫したらしい。痛みで青ざめた顔のまま、医務室へと連れていかれた。
「みなさん、ここを動かないように。箒もそのまま地面に置いておきなさい。一人でも飛んだら、クィディッチの『ク』の字を言う前に即刻ホグワーツから出て行ってもらいますからね」
鷹のような黄色い目が生徒をじろりと睥睨したあと、マダム・フーチは言葉と共に遠ざかっていった。
「わたし、もう箒はいいかも」
「怖がり過ぎよ。大げさなんだから」
ダフネは真っ青になっていた。マダム・フーチの脅しがなくても、二度と乗らないと言いたげな顔だった。
その時、ドラコが何かを拾い上げた。
「見ろよ。あいつ、この『思い出し玉』にしがみついていたら飛び方を思い出して落ちずに済んだかもしれないのにな」
そこにハリーが噛みついた。こっちに渡せと言うハリーにドラコはニヤリと笑みと挑発を返し、箒で飛び上がった。
自慢話をするだけの技量はあるらしい、とリラはそれを見上げていた。それを腕は確かなものだ。なのにそれを子供らしい悪戯に使うというのがなんともドラコらしいが。
驚きはそこからだった。
ハリーが、箒に乗って空を飛んだのだ。
初めて乗るにも関わらず、だ。ふわりと自然に浮き上がり、ドラコと同じ高さまで難なく到達してしまった。それはドラコも感じたのだろう。せせら笑おうとして引き攣っている顔が、地上からでも見えた。
「あら」
ダフネが小さく声を漏らした。リラは黙って空を見上げていた。
「ポッターって本当に箒に乗ったことがないのかしら」
「ないんでしょうね、たぶん」
「じゃあ、なんで」
「さあ」
わからないまま、二人で空を見ていた。
「取れるものなら取ってみろ!」
ドラコが叫んで、思い出し玉を投げた。
ハリーはそれを追った。
地上の生徒たちが息を呑む。空中を真っ逆さまに、十六メートルはあろうかという距離をダイビングする小さな影。
地面スレスレで、ハリーは思い出し玉を掴んだ。そして、軟着陸した。素人目に見てもわかる凄技だった。
グリフィンドールの生徒が歓声を上げながら駆け寄っていった。
「ハリー・ポッター!」
そこで厳格な声が中庭に響いた。
リラとダフネが振り返ると、マクゴナガル先生が城の方からこちらに歩いてきていた。
マクゴナガル先生はハリーを連れて、城の中へと消えていった。
「……ポッター、退学になるのかしら」
「どうでしょうね。マクゴナガル先生の顔、見た?」
厳めしいな声色で眼鏡を光らせていたマクゴナガルの顔をリラは思い返す。叱責の色が強かったが、その裏には――隠しきれない、宝物でも見つけたかのような輝きもあった。
「ここ数年はスリザリンが勝ち越しでしょう。クィディッチ狂で有名なマクゴナガル先生にとって、自寮の敗北は耐えがたいことでしょうね。きっと、もしかするかもしれないわよ」
「まさか、ポッターが? まさか」
ダフネはありえないと言いたげな口調だった。
その日の夕食、ハリー・ポッターがグリフィンドール寮のクィディッチチームの最年少のシーカーとなったということが、生徒たちの口から口へと伝わっていった。百年ぶりの最年少寮代表選手である。
リラはちまちまとマッシュポテトを抓みながら、グリフィンドールの席を見た。ハリーの周りで、双子の片割れたちが何かを大声で言っているのが見えた。きっとお祝いの言葉だろう。ハリーは少し恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうな顔をしていた。
「シーカーだって。生意気な。規則じゃ一年生はなれない決まりなのに」
隣のドラコがフォークでぐさぐさと肉を刺している。
ドラコにしては溜まったものではないだろう。自分の箒の腕を見せびらかすつもりが、巡り巡ってライバル視しているハリーの背中を後押しする結果に繋がってしまったのだから。自業自得である。素直に友達になりたいの一言でも言えばいいのに。
「あら。あなたもなれば良かったのに、ドラコ」
「父上が許してくれないんだ。一年生のうちは、と。来年だ。来年こそは僕がシーカーになる」
「楽しみね」
リラは肩を竦めた。ドラコが何か言いたげに見ていたが、リラはそれ以上は何も言わずにマッシュポテトを口に運んだ。
それからしばらくしてドラコはクラッブとゴイルを引き連れてグリフィンドールの席へと向かっていった。きっとまたちょっかいを出すつもりなのだろう。
今日は色々あった日だった。
兄はこれらの話をどう聞くだろうか、とリラは思う。スネイプから受け取った薬のこと、ハリーがシーカーになったこと、ダフネ・グリーングラスと少し打ち解けたこと。
手紙に、何を書こうかしらと考えながら、リラは食事を続けた。