「――お願いします、夫に会わせてください!」
黒土製薬本社、怪人事案への対応のために動き出そうとしていた扇たちの耳に、そんな言葉が届いた。
それは、最近この会社でよく聞く声であり、同時に、決して叶えられない願いを訴える、罪悪感を刺激する声でもあった。
目の下には濃いクマが張り付き、身なりを整える余裕すらなかったのか、着の身着のままといった服装だ。
彼女は、先日の公園で暴れた『怪人04』――植物型の異形へと変貌し、特撮班と魔法少女の連携によって生け捕りにされた男の妻だった。
「奥様、どうかお静かに。ご主人は現在、当社の特別医療フロアで厳重な治療を受けております。まだ面会が許可できる状態では……」
「どうしてですか! 命に別状はないと、昨日お電話で言っていたじゃないですか! なのになぜ、一目も会わせてくれないんですか!」
対応する社員の困惑した声すら耳に入らないのだろう。彼女の悲痛な叫びが、大理石の床に虚しく反響する。
扇はその場に足を止め、静かに目を伏せた。
触れずとも、彼の発達しすぎた精神意識場(ψフィールド)には、彼女の張り裂けんばかりの感情がノイズとなって流れ込んでくる。
ママ友トラブルで精神を病み、そんな自分を庇ってくれた優しい夫が突然姿を消した。そして警察ではなく製薬会社から「保護している」とだけ知らされた不安と恐怖。
愛する者を失うかもしれないという、純粋で痛切な絶望。
怪人事件の加害者であり、同時に被害者でもある彼の妻である彼女は、近頃、毎日のようにこの会社に来ている――本来、誰がここにいるのかわからないようにしているにもかかわらずだ。
警察の同情心によって引き起こされた、これもまた一種の悲劇だった。
「警察も余計なことを……いくら同情したとはいえ、一般人に機密情報を漏らすとは感心しませんねぇ」
天塚が白衣のポケットに手を突っ込んだまま、眼鏡のブリッジを中指で押し上げて冷たく吐き捨てた。
「まあ、気持ちはわかるけどな。目の前であんなふうに泣かれたら、お巡りさんだって人の子だ。何とかしてやりたくもなるだろ」
「元に戻せてればそれもありなんだけどねぇ。」
扇が深いいため息まじりにこぼした。
そう、結局、彼女に夫を会わせられないのはたった1つのシンプルな理由だ。
依然として、彼が『怪人』の姿のままだからである。
超人体になれば、元には戻せるだろう、が、それにはいくつか問題があった。
これで、急激に怪人を元に戻せば、確実に政府はその方法の開示を求めるだろう、そうなったとき、自分たちの存在はすぐに世間にばれるだろう。
それが問題だとは言わないが――間違いなく、勇者は調子づき、止まっている勇者被害は再び加速するだろう。
ゆえに、あの体を戻せる『方法』が必要なのだ。
それに――
「竹林くんの時は、僕が超人体で強制的に細胞を書き換えましたけど……あの人は植物の繊維と内臓が複雑に絡み合いすぎていて、下手に手を出せば即死なんですよねぇ。」
天塚の言葉は冷酷に聞こえるかもしれないが、それが科学者としての嘘偽りない真実だった。
元に戻すことは可能だが、現状の彼の細胞を元に戻してしまっては大変だ――彼の体に生えている花は彼の体の内部にも存在する。
迂闊に元に戻してはあらゆる面で危険だ――それに、マスコミのこともある。
「できるだけ、あの人たちのこと、マスコミに流したくねぇしなぁ。」
「ねぇ。何言われるかわからんからねぇ。」
「『旦那がご近所トラブルを苦に怪人化しました』なんて広まってみろ、ハイエナどもの格好の餌食だ。ネットのおもちゃにされて、あの奥さんも子供も、この国じゃ二度とまともに生きていけなくなる」
思い浮かぶのは面白おかしく騒ぎ立てる新聞、SNS、テレビの一面だ。
腕力で敵を粉砕することはできても、社会の悪意や好奇の目から一般人の平穏な生活を守ることは、暴力では不可能なのだ。
「ええ。だからこそ、あくまで『重度の過労と未知の感染症による隔離治療』というカモフラージュが必要なんです。そして、それを社会的に真実にするためには、誰もが納得する『科学的な治療薬』を完成させて、正規の医療手順として彼を治さなければならない」
天塚が白衣のポケットの中で、微かに拳を握り込む。
超常の力を持ち、天才科学者を自負する彼にとって、目の前で苦しんでいる患者を安全上の理由からすぐに救えない現状は、強いジレンマを生んでいるはずだ。だが、彼はプロフェッショナルとして、最も確実で未来に禍根を残さない方法を選択している。
「あの人には悪いが、もうちょっと待ってもらうしかねぇな――今日も説明だろ、行っていいぞ。」
そう言って、扇は天塚に目配せをする――ここ最近、彼女の対応をするのは彼だ。
彼にしか、今の夫の状況を説明できないのだ。
「――ああ、今日も来ていたんですか奥様、どうぞこちらへ。」
そう言って応接室に導く友人の声を聴きながら、扇と七星は歩き出す――5人目の怪人を止めねばならないのだ。