特撮オタクたちは、勇者を超越する   作:猿マン

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第109話:悪魔の誘惑は……

 黒土製薬の本社ビルを出た美咲の足取りは、ひどくおぼつかなかった。

 

 大理石のエントランスを抜け、自動ドアの向こうに広がる夕暮れの街へと足を踏み出す。冷たい風が火照った頬を撫でたが、彼女の頭の中は未だに現実と非現実の狭間で激しく渦を巻いていた。

 

『それがこの国の――人間の社会というものの現実です』

 

 天塚の冷たく、けれどどこまでも真摯だった声が、耳の奥にこびりついて離れない。

 

 夫が、怪人になった。

 

 私と子供を苦しめる人間を排除するために、自らあの恐ろしい薬に手を出し、心を歪められ、異形の化け物へと成り果ててしまった。

 その事実の重さに、息が詰まる。

 すべては自分のせいだ。自分がママ友からの陰湿な嫌がらせに耐えきれず、精神をすり減らしてしまったから。優しかった夫は、そんな私を見るに見かねて、間違った力に縋ってしまったのだ。

 

 ネットの無責任な記事を鵜呑みにし、夫が実験動物にされているのだと激昂して会社に乗り込んだ自分が、ひどく滑稽で浅はかに思えた。

 

 天塚が突きつけた現実は残酷だった。

 

 今、彼を人間の姿に戻したところで、待っているのはマスコミのフラッシュと世間からの容赦ない石投げだ。子供は後ろ指を指され、二度と平穏な日常を歩めなくなる。夫が自分たちを守るために犯した罪が、逆に家族を社会的に殺す刃となる。

 

脳裏に映るのはドラマなどで見る家の前に山のようなマスコミが待っている生活だ。

 

容赦のない言葉と、好き勝手に書かれる新聞の紙面、顔も知らぬ会ったこともない『有識者』達による話のネタにされる夫と自分たちだ。

 

人はさかしらに言うだろう――逃げればいい。と。

 

退職して、どこか別の場所で働けばいい。と。

 

だが、そんなことを簡単に選べる人間などいるだろうか。

 

生活が変わる、住居が変わる、そういったことが容易に選べる人間ばかりだろうか?

 

子供がいる中で、今ある仕事捨てられるものだろうか?

 

再就職先だって容易に見つかる世の中ではない。

 

そんな中で、逃げられる人間がどれほどいるだろうか?

 

何もしなかったのではない、したがどうにもならなかったのだと、きっと世間は認めないだろう。

 

 それがわかったからこそ、美咲は彼にすがりつくしかできなかった。

 

『僕の、科学者としてのすべてを懸けて。必ず』

 

 信号待ちの交差点で立ち止まり、美咲は両手で顔を覆った。

 

 手のひらに、まだ乾ききっていない涙の感触が残っている。

 

 あの男――天塚新の瞳は、決して嘘をついていなかった。

 

 底知れない知性を感じさせるレンズの奥の目は、絶望のどん底にいる一般人の自分に対し、哀れみでも同情でもなく、対等な人間としての「責任」を持って向き合ってくれた。

 

 彼なら。あの人たちなら、本当に夫を――元の優しい光輝を、取り戻してくれるかもしれない。

 

 ふと顔を上げると、周囲には家路を急ぐ人々の日常があった。

 

 誰も、私の夫が世間を騒がせている怪人だとは知らない。誰も、あの黒土製薬の地下で、世界を救うために命を懸けている人たちがいるとは知らない。

 

 ズキリ、と胸が痛む。

 

 夫は今も、あの冷たいベッドの上で、私と子供を守ろうとする妄執に囚われたまま眠っているのだ。

 

「……泣いてちゃ、だめだ」

 美咲は強く唇を噛み締め、コートの袖で乱暴に目元を拭った。

 夫は必ず帰ってくる。あの人たちが、そう約束してくれたのだから。

 

 ならば、自分が今すべきことは、ネットのノイズに怯えて泣き崩れることではない。彼が再び人間として生きられるように、社会の風当たりから守る盾になってくれた彼らの言う通り、じっと待ち続けることだ。

 

 そして、何より――「帰ってくる場所を、守らなきゃ」

 

 家で待つ幼い娘の顔が脳裏に浮かぶ。

 

 美咲は深く深呼吸をすると、もう一度前を向いた。

 

だが……だが、これからどうすればいいのだろう。

 

幸いにも夫が怪人になったことは黒土製薬側の保護のおかげで誰にも知られていない。

 

いないが……同時に、働ける状態でもない。

 

一応、自分だって働いているが――これ以上仕事を入れれば、子供の生活に問題が起きる。

 

だが、これ以上高単価な仕事に就く方法はない、資格もなければ、職歴は事務だけだ。

 

この事務だってかなりの幸運でどうにかなったのだ。

 

「……なにか、何かしないと……」

 

子供が……

 

そう思うが、何も思いつかない。

 

家を買ってしまったせいでローンまである、何とか、何とかしなければ。

 

仕事が、いや、金が、いや、それよりも――

 

『――やはり、あの連中が悪いのでは?』

 

――耳元で、そんな声が聞こえた気がした。

 

 

『いいえ、幻聴ではありませんよ、奥様。』

 

 今度は、はっきりと聞こえた。

 

 鼓膜を揺らしたのではない。直接、脳の奥底に滑り込んでくるような、甘く、冷たく、そしてひどく無機質な女の声。

 

「だ、誰……?」

 

 ビクッと肩を震わせ、美咲は慌てて足を止め、周囲を見回す。

 

 夕闇が濃くなり始めた駅前の喧騒。すれ違うサラリーマンや学生たちは、誰も彼女のことなど気にかけていない。

 

『私は、理不尽に虐げられる皆様の味方です。ご主人のことも存じております。家族を守るため、あの忌まわしい女たちに立ち向かった……本当に、優しく勇敢な方だ』

 

 その言葉に、美咲の胸がギュッと締め付けられる。

 

 夫の優しさを肯定してくれる言葉。今、彼女が世界で一番欲しかった言葉だった。

 

『ですが、理不尽ではありませんか? 彼は家族を守ろうとしただけなのに、化け物扱いされ、冷たい地下室に幽閉されている。そして残されたあなたは、生活の不安と孤独に押し潰されそうになっている』

 

「それは……」

 

『元を正せば、誰のせいですか? あなたを追い詰めた女たちでしょう。および今、あなたの夫を「社会のため」などという美辞麗句で拘束し、実験動物のように扱っているあの男たちでしょう?』

 

 じわりと、心の中に黒い染みが広がるような感覚があった。

 

 そうだ。もしあのママ友たちが嫌がらせさえしなければ。

 

 もし、あの製薬会社がすぐに夫を治して返してくれていれば。

 

 ローンも、子供の将来も、何も心配することなどなかったのに。

 

『あなたには権利がある。夫を取り戻し、自分たちを苦しめた者たちに相応の報いを受けさせる権利が……どうか、お手元のスマートフォンをご覧ください』

 

 言われるがままに、美咲はコートのポケットから震える手でスマホを取り出した。

 

 画面には、見覚えのない真っ黒なアプリの通知が表示されている。

 

 タップもしていないのに、画面が切り替わった。

 

 そこには、赤黒いカプセル剤の画像と、たった1行のメッセージ。

 

【あなたの願いを叶える力を、特別に無償で提供いたします】

『それさえあれば、あなた自身がご主人を迎えに行くことができます。生活の不安も、憎い敵も、すべてあなたの思いのままに』

 

 甘い、天使の囁き。

 

 指が、吸い寄せられるように画面の「受諾」ボタンへと向かう。

 

 これさえあれば。自分が強くなれば、もう誰も恐れる必要はない。光輝だって、私が助け出せばいいのだ。

 

 

 

 

 

「悪魔の誘惑は、時として天使のささやきに聞こえる。」

――――――――天の道を行き、総てを司る男。

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