特撮オタクたちは、勇者を超越する   作:猿マン

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第120話:誘惑

 ――どうやって、あの部屋を出たのか、彼女にはわかっていなかった。

 

 気がつけば、冷たく無機質な黒土製薬の地下通路を、宛てもなく彷徨っていた。

 

 完璧な偽装データを用いて天塚の防壁を突破したという達成感など、今の彼女の心には微塵も存在しない。

 

 一歩足を踏み出すたびに、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。

 

 ヒールの音が、深夜の無人の廊下に虚しく反響していた。  視界が歪む。それが自分の流している涙のせいだと気づくのに、数秒の時間を要した。

 

 徳光電産の令嬢として常に冷徹な合理性のもとに生きてきた笹藤麗華にとって、感情に振り回されて涙を流すなど、屈辱以外の何物でもなかった。だが、今ばかりはその嗚咽を噛み殺すことすらできない。

 

 脳裏に、先ほどハッキングしたモニターの文字列が焼き付いて離れなかった。

 

『9日間の完全断食と自己暗示』

 

『常軌を逸したエネルギー変換率による肉体の損壊と再生』

 

『プランク長制御のための、1日40種類に及ぶ劇薬の服用』

 

 狂気だ。

 

 あんなものは、科学でも魔法でもない。ただ人間の限界を物理的、精神的に破壊し続けた、20年にも及ぶ純度100パーセントの狂気でしかない。

 

 一体、何のために?

 

 これほどの苦痛と代償を支払ってまで、人間を辞める理由がどこにあるというのか。

 

 彼女の優秀な頭脳をもってしても、彼らの「動機」だけは全く理解できなかった。理解を絶する異常者たち。

 

 だが、1つだけ確かな事実がある。私が求めていた『スマートで即効性のある力』など、彼らのラボには欠片も存在しなかったということだ。

 

 彼らが巨大なゴーレムを一刀両断にし、空を歩き、凶悪な怪人を無傷で捕獲できるのは、決して悪魔の薬『H.A.D』の恩恵などではない。

 

 20年という途方もない時間をかけ、自らの肉体を実験動物のように作り変え続けた結果でしかなかったのだ。

 

「ああ……ああ……!」

 

 壁に手をつき、麗華はついにその場にへたり込んだ。

 

 冷たいタイルの感触が、彼女に突きつけられた現実の残酷さを際立たせる。

 

 論理的で聡明であると自負していたからこそ、「人間がただの努力で勇者を凌駕するなどあり得ない」という大前提から抜け出せなかったのだ。彼らが『薬の成功例』であると決めつけ、その秘密を掠め取ろうとした。

 

 だが、盗み出せるような『力』など、最初からどこにもなかった。

 

 あの3人の超常の力は、彼ら自身の血と汗と狂気の結晶であり、決して他人が模倣して扱えるような代物ではなかったのだ。  ならば、私はどうすればいいのか。

 

 明日にも、明後日にも、あの下劣な勇者が姉を奪いに来るかもしれない。

 

 財力も、権力も、警察機構も、勇者という『法を超越した暴力』の前では無力だ。父でさえ、会社を守るために姉を差し出すべきか苦悩している。

 

 だからこそ、同じ『暴力』が必要だった。姉を救うために、勇者を殺せるだけの絶対的な力が。

 

 たとえ人間の尊厳を失い、異形の怪人へと成り果てることになろうとも、私はH.A.Dに縋るつもりだった。彼らがそれを完全に制御しているのなら、私にだってできるはずだと信じていた。

 

 しかし、そのH.A.Dすら、彼らのラボの冷蔵庫にあったのは「狂った人間を元に戻すための鎮静剤」だけ。力を与える薬など、彼らは持ってもいないし、頼ってもいない。

 

 万策、尽きた。

 

 私にはもう、姉を救う手立てが何もない。

 

 暗い廊下の底で、麗華は両手で顔を覆った。優しかった姉の微笑みが浮かび、それが勇者の影に怯えて泣き崩れる顔へと変わっていく。

 

 助けたい。助け出したい。

 

 でも、私には力がない。あの3人のようなバケモノになるための、20年という時間もない。

 

 絶望の底に沈みゆく意識の中で。

 

 ふと、麗華の思考が、ある1つの事実を弾き出した。 『――彼らは、薬を使っていない』

 

 顔を覆っていた指の隙間から、薄暗い廊下の床を見つめる。  そうだ。彼らの力は借り物ではない。彼ら自身のものだ。奪うことはできないし、模倣することも不可能だ。

 

 ならば。

 

『結局、私たちは救われないの……?』

 

異世界の化け物に、無惨にこの幸福を――ささやかで、決して過分だとは思えない、家族との幸福な日々を、無惨に奪われなければならないのだろうか?

 

『――お可哀想に。誰よりも賢く、姉想いのあなたが、どうしてこれほどの絶望を味わわなければならないのでしょうか』

 

 唐突に、直接脳の奥底へ滑り込んでくるような、甘く冷たい、無機質な女の声が響いた。

 

「な、誰……!?」

 

 麗華はビクッと肩を震わせ、涙で潤んだ目を周囲に向ける。だが、深夜の地下通路には彼女しかいない。

 

『理不尽な暴力に怯え、希望を求めて足掻いた先にも、あなたを救う力はなかった。彼らの力は到底手が届かない狂気の産物。……ええ、あなたには時間がないのですから』

 

 声は、彼女の心の最も脆い部分を的確に撫でていく。

 

『私は、理不尽に虐げられる皆様の味方です。勇者という傲慢な存在から、お姉様を取り戻したくはありませんか?』

 

 ブブッ、と。麗華のポケットの中で、スマートフォンが不自然な振動を起こした。

 

 取り出した画面には、見覚えのない真っ黒なアプリが起動しており、赤黒いカプセル剤の画像が浮かび上がっている。

 

【あなたの願いを叶える力を、特別に無償で提供いたします】

 

『泥をすする覚悟があるとおっしゃいましたね。ならば、その指先一つで……あなたは愛する家族を救うための、絶対的な力を得られるのです』

 

 悪魔の囁きが、絶望の淵にいる令嬢の鼓膜を甘く溶かしていく。

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