「お前だかお前たちは知らんが、あの薬は人の感情のよからぬ部分を加速させて、いらん妄想を掻き立てる。」
宙吊りにされたまま、扇は口の中に溜まった鉄錆の味をペッと床に吐き捨てた。
ローンウルフの、および、牢獄の怪人の暴行によって全身の骨は軋み、額から流れ落ちる血が視界を赤く染めている。
だが、その双眸だけは、暗闇の中で獲物を睨む猛禽のように鋭く澄み切っていた。
「お前の薬がそういった影響をなくすか、さもなければ、人がそれを自力で乗り越えられるようにならないのなら、それを使うことは許可されるべきじゃない。俺たちがお前たちを手伝う理由もない。」
先ほどの意見の総括にして、静かな、だが確固たる拒絶。
妖霊――真紅のスーツを着た女の、精巧な石像のような左半分の顔が微かに歪む。
そこには妥協と、ある種の納得が浮かぶ――実際、この女とて、自分がこれに頷くなどと思っていたわけでもあるまい。
「あの少女のような被害者が生まれてもですか?」
女の視線が、暗がりで青ざめている麗華へと向けられる。
今にも心が折れそうな、絶望の淵に立つ令嬢。彼女を救うための特効薬を、お前は自らの傲慢で捨てるのかと、女は問い詰めた。
「同じことを言わせるな、お前の薬を使ったら、結局『勇者』が『怪人』に差し変わるだけにしか、僕には思えん。」
扇の言葉は冷徹だった。
力に酔いしれた勇者が、力に溺れた怪人に変わるだけ。強者が弱者を踏みにじるという地獄の構造は、何一つ解決しない。
「現に、お前が作ったあの牢獄の怪人は間違いなくお前の薬のせいで起きた悲劇だ、彼女の人生が元に戻されん限り、お前の作る薬が人を救うことなどできんさ。」
「……そうですか、残念です。」
心から残念そうに、あるいは、そう見えるように。目の前の妖艶な女は理解したように、その精巧な石像のごとき首を傾げた。
「我々の商品が、皆様のご期待に沿える性能をしていないことには、こちらとしても忸怩たる思いがあります。このアンケート結果は商品開発部に持ち帰り、商品の品質向上のため、重く受け止めていく所存です。」
「そうかね、そりゃ結構だ――治験は?」
「可能な限り行わない方針ですが――いつの世も、多少の犠牲はつきものかと。」
「どこまでも相容れんね……」
「そのようです、非常に残念ですが……」
かなしげに、妖霊が視線を下げた――演技なのか、演技でないのか、どうにもわかりにくいやつだ。
ただ、超能力者は理解していた。
少なくとも、彼女なりに本心を語ってはいるのだ――そこに、打算がないとも言わないが。
お互いに肩をすくめる2人を、どこか気味の悪いものでも見るように見つめる麗華を一瞥する――やはり、この『業界』には向かない人間だ。
「やめてくれるといいんだが……」
「どうでしょうね?負けん気の強いお客様ですから。」
「僕もそう思うよ――で?そっちの準備はそろそろ終わりそうか?」
「ええ、もうじき――美咲様はともかく、あの鶏の方はあまり利口ではないもので。」
「だから鶏頭なんだろうしな。」
苦笑する――その時だった、扇の足元が光ったのは。
床のコンクリートを透過し、赤黒い魔力の幾何学模様が浮かび上がる。
一見すれば、黒いサイコロのようなただの直方体。だが、その表面にはひび割れたような赤い文様が走り、中央にギョロリと――血走った巨大な「眼球」が開いた。
無機物と生体組織が融合したような、悍ましくも冒涜的な物体。
ギョロ、と動いたその単眼が、宙吊りにされた扇を真っ直ぐに見据える。
朗々と、詠唱のような声が響いた。
この声には聞き覚えがある、あの魔物救済論者と哀れな夫人の声だ――なるほど、あの2人がここにいなかったのはそれが原因か。
『表かなんかでこの封印のための儀式してんだな……』
面倒なことを――鼻を鳴らしたその瞬間、扇の周囲の空間そのものが「硬直」した。
空気がゼリーのように粘度を増し、重力や大気の流れといった物理法則が完全に切り離される感覚。
超能力者である扇の鋭敏な知覚が、直感的にその物体の異常性を理解した。
箱の四隅から、赤黒い肉塊のような、あるいはどろどろに溶けた鉄のような触手が無数に噴き出した。
それらは扇を囲む光の立方体に接続されると、空間ごと彼を締め上げ、内側へ内側へと強引に圧縮を始める。
メキメキと、扇を吊るしていた鋼鉄の鎖が空間の歪みに巻き込まれて破滅していく。
「ふふ、最近の流行に合わせてみたのですがどうです?喜んでいただけているでしょうか?」
「パクリはやめとけよ、センスが知れるから……」
巻き込まれる。
内側に内側に、まるで渦の中心に向けて流されるように体が内側に向けて曲がっていく。
「そうですか……最後までご期待に沿えずに申し訳ありません、それでは、扇様、またいつか。」
視界が、急速に黒く塗りつぶされていく。
圧倒的な引力。物理的な肉体だけでなく、精神や魂、存在という概念そのものが強引に折り畳まれるような、おぞましい圧縮感。
上下左右の感覚が消失し、耳元で鳴っていた廃工場の風音も、血の匂いも、すべてがプツンと途絶えた。
しまわれる。
閉じていく金属製の箱が、完全に閉まる――
「――それは、どうかな?」
――瞬間、周囲の気配が一変する。