雷劫が落ちる。
廃工場の天井を突き抜けるかのような青白い閃光が弾け、周囲の空気を瞬時にプラズマ化させた。
オゾンの焦げる匂いと共に、空間そのものを折り畳んでいた赤黒い『檻』が、内側から粉々に吹き飛ぶ。ガラスの破裂するような甲高い音が鳴り響き、歪められていた物理法則が強引に元へと引き戻された。
輝く閃光の残滓の奥で、人の姿が立ち上がるのと、ローンウルフが慌てて背後を振り返るのは同時だった。
この状況が何なのか、彼の矮小な脳髄では全く理解できない。だが、細胞の奥底に刻まれた生存本能が、彼にたった一つだけの事実を突きつけていた。
『このままじゃ、まずい!』
いくら自分が『真理の勇者』を名乗っていようと、目の前の存在が放つ気圧は明らかに次元が違った。
妖霊と同等、いや、それ以上の根源的な恐怖。こんな得体の知れない化け物と、まともにやり合って勝てるはずがない。
だから――急所を狙う。
背後。
人質として温存しておいた女へ向けて跳躍する。
それは、火事場の馬鹿力とでも言うべきか、いまだかつてないほど素早い動きだった。極限の恐怖がH.A.Dで変質した肉体のリミッターを外し、ローンウルフ自身の想定すら超える爆発的な速度を生み出していたことに、彼自身はきっと気が付いていまい。
なぜ自分が狩られる側に回っているのか、その理不尽への答えは分からない。だが、自分の最高速度ならば、あの青い化け物が何かをするよりも早く、あの女の元に到達できる。
そうなれば、こちらのものだ。女など作るから、こうなるのだ。真の強者である自分には、そんな足枷はない。
「もらったァァッ!」
勝利を確信した醜悪な歓喜と共に、猛禽の鉤爪がゆかりの細い首筋へと振り下ろされる。
呪縛が解け、自らの意志で目を見開いたゆかりの瞳に、迫り来る巨大な刃が映り込む。
だが、彼女は悲鳴すら上げなかった。ただ呆れたように、その凶刃を見つめているだけだ。
驚きと恐怖を精一杯隠した顔、これを今から自分の手で汚す、強者の愉悦だ、自分のような人間のために死ねることに、彼女は喜ぶべきだ!
心からの歓喜と共に、喉元に伸びたその手が――
「――おっと、失礼、うちの後輩に手は出さないでもらおうか。」
――空を切る。
ザンッ、と空気を切り裂く音だけが響き、ローンウルフの巨体が勢い余って前のめりになる。
手応えがない。
鮮血も、肉を裂く感触も、耳を劈くはずの悲鳴も。何一つとして、彼の感覚器官に還元されることはなかった。
「な……っ!?」
何が起きたのか。
ローンウルフがたたらを踏みながら顔を上げると、先ほどまで自分の目の前に立っていたはずの女の姿が、そこにはなかった。
まるで最初からそこには誰も存在しなかったかのように、跡形もなく掻き消えている。
ハタと、上を見上げて――見つけた。
自分を睥睨するかのように何かがそこにいる、両手に、女を侍らせるように抱きかかえて。
音は聞こえなかった、まるで、その場に初めからいたかのように、夜空の青のように深く、それでいて、あらゆるものから青と言われる原質の青色を湛えた皮膚をした生き物が、いる。
扇雄介とは似ていないのに、なぜかあの男だとわかる『何か』は、泰然と両腕に少女を抱えて、地面に降り立つことなく漂っている。
「おや、先輩、遅かったですね。重役出勤の割に両手に花といい身分ですこと。」
「言ってるでしょ、タイミング計ってんだって……そもそも、君計画段階だとこの空間に入ってこないって言ってなかったか?」
「御影に頼んで入れてもらいました――先輩の変身は全部見ると心に決めてるので。」
「……あいつら僕になんか隠してんなと思ったらこれかい……」
呆れたように肩をすくめるそれから発せられる声は、間違いなく扇雄介のものだ――だが、その姿は、あまりにも常軌を逸していた。
電離層を透かして見た夜空のような、底知れぬ青を湛えた皮膚。虹彩を持たぬ多面体状の結晶の瞳。首元からはマフラーのような器官が揺らめいている。
ローンウルフは、目の前の圧倒的な存在感に息を呑んだ。
この威圧感、空間そのものを支配するような、絶対的なプレッシャー。
「勇者殺しの、化け物……」
「ん? 自己紹介ならいらんよ。巫覡の勇者を殺したのは君だろうに」
思わず漏れたローンウルフの呻きに、蒼の人型は至極当然のように答える。
――待て。今、何と?
「何で自分があの男を殺したのを知っているのかって聞きたそうだが、あんたが動画にあげた攻撃方法を見て、気が付いてる奴はとっくに気が付いてたぞ。今日こうして行動を起こさなかったら、たぶん明後日には勇者狩り辺りが首を刈りに来てたんじゃないかね」
「な……っ!?」
ローンウルフの顔から血の気が引く。
完璧な計画だったはずだ。自分は誰にも知られず、腐敗した勇者を断罪し、新たな救世主として君臨するはずだった。なのに、この目の前の青い化け物――扇雄介は、初めからすべてを見透かしていたというのか。
「お前ら……俺を、俺をずっと見下して……!」
屈辱と恐怖が混ざり合い、ドス黒い怒りとなって爆発する。
ローンウルフは喉の奥を大きく膨らませた。勇者すらも抵抗を許さず絶命させた、超高周波の振動波。この距離なら、確実に相手を消し飛ばせる。
そう確信し、必殺の音波を放とうとした瞬間――
「――おっと、君らの相手は2人を表に出してからだ、ちょっと待ってろ。」
扇が軽く右手をかざし、そのまま下へと振り下ろした。
ただ、それだけの動作。
触れてすらいない。ただそれだけの動きで、扇の放つ目に見えない圧力が、分厚い生体装甲ごと彼を地面に縫い留めた。