コンクリートの床に縫い付けられたローンウルフは、ギリギリと歯を軋ませていた。
扇の念動力――目に見えない万力のような重圧が、彼の全身をアスファルトにめり込ませている。H.A.Dによって得た白頭鷲の怪人体、その強靭なはずの筋肉をいくら膨張させても、指先1本すら動かせない。
「クソッ……なんだこれは! 」
血走った目で虚空を睨み、彼は喉の奥から絞り出すように喚いた。つい先程まで自分は最強の存在だったはずだ。それがなぜ、虫ケラのように這いつくばらされているのか。
「おい! ぼさっと見てないでこの拘束を解け! わかってるだろ!お前らだけじゃ勝てないぞ!」
廃工場の宙に浮かぶ真紅のスーツの女――妖霊は、右半身の炭化した肉体を軋ませながら、無表情に彼を見下ろした。
「ん?ああ、これは失礼しました――これでどうでしょう?」
パチン、と指が鳴り響き、体の動きが元に戻る。
「ハァッ……ハァッ……!くそったれが、あの青いバケモノめ……!」
自由を取り戻したローンウルフは、よろめきながらも立ち上がり、周囲の空気を威嚇するように睨みつけた。自尊心を著しく傷つけられた苛立ちが、彼の醜悪な嘴を歪ませている。
「俺を誰だと思ってるんだ!私は選ばれた存在だぞ!あの程度、俺……私が本気を出していれば一捻りだったんだ!」
「ええ、重々承知しておりますよ、お客様。」
妖霊は、左半分の美しい顔だけでにっこりと笑う――その人形じみた笑みはその真意を悟らせない。
「あの女はどこ行った!あいつも集めて、3人がかりだ、そのざまでも戦えるんだろう!?」
「ええ、私としても捕まりたくありませんので、微力ながら尽くします。」
動揺からだろう、配信を生業とする男とは思えぬ主語も述語もあったものではない発言に、妖霊はまたしてもたおやかにほほ笑む。
ゆらり――と背後が揺らぎ、現れるのは怪人の妻、夫への愛をくすぐられ、夫と同じ領域に落ちた女。
「私はそれほどお役に立てないかもしれませんが……お二方の思いの強さならばきっとあの方を打倒できると信じておりますよ。」
「当然だ、あんな……あんな男に俺の主張の正しさを冒涜はさせない……!」
妖霊の言葉に煽られ、プライドを刺激されたローンウルフは、全身の白と黒の羽毛を逆立て、禍々しい赤黒いオーラを放出し始めた。H.A.Dがもたらした限界突破の変異が、彼の肉体をさらに異質で凶悪なものへと作り変えていく。
彼の喉元が不気味に膨張し、大気を震わせる超高周波のエネルギーが極限まで圧縮されていくのが、目に見える形となって表れていた。
一方、怪人の妻・美咲は、彼らの不毛なやり取りなど一切耳に入っていない様子だった。分厚い金庫のような重装甲の奥で、血走った瞳だけがギラギラと光り、ひたすらに「夫を返せ」という呪詛を吐き出し続けている。
彼女の両腕から伸びる極太の鋼索は、床のコンクリートを砕きながら自律的に蠢き、周囲に絶対的な迎撃の防陣を形成していた。いかなる外敵の侵入も許さない、狂気と絶望に満ちた牢獄の守り。
そして妖霊自身もまた、半身が焼け焦げた痛々しい姿のまま、残された魔力を総動員して空間の座標を固定していた。
扇が現れるであろうポイントに、致死の魔力トラップを幾重にも張り巡らせる。不可視の地雷原が完成し、一触即発の空気が廃工場を包み込む。
絶対死の布陣、少なくとも、この世界の人間にはそうとしか思えぬ姿――のはずなのだ。
はず、だったのに。
「――おや、招待状はもらってないが、何かのパーティーかね?」
――ローンウルフの耳元から、その一言が聞こえたのはその時だった。
振り返るよりも早く、彼は全身の羽毛を粟立てて前方へと飛び退いた。自らが絶対の安全圏だと信じていた立ち位置。その真後ろの、文字通り首筋に触れられるほどの距離に、青い超人が立っていたのだ。
まただ、また、またしても風もなくあの男が後ろに――
「ごぶっ」
口から息が漏れる――脇腹に鈍痛、明らかな攻撃だが、蒼い怪物によるものではない。
あの女だ、みじめな怪人の妻。
あの女があたりかまわずにあの蒼の怪物を攻撃せんと横薙ぎに払った1撃が、自分の体を打擲したのだ。
いかなる奇跡か、体を空中で縦に回転させた青の怪物によって攻撃が空振り、自分に当たったのだとローンウルフが気が付いたのはずいぶんと後のことだ。
圧倒的な質量を持つ鋼索の直撃を受け、白頭鷲の異形はゴム毬のように弾き飛ばされた。
無様に床を転がり、瓦礫の山に激突してようやく止まる。だが、立ち上がろうとした彼の両肩に、目に見えぬ万力のような重圧がのしかかった。
ミシッ、と膝の関節が悲鳴を上げ、強制的にコンクリートの床へと縫い付けられる。
扇雄介の放つ念動力が、先ほどよりもさらに冷徹で容赦のない拘束としてローンウルフを地面に埋め込んでいたのだ。
『動け――』
ない。
あるいは関節を強引に外してでも抜け出すほどの熱意があれば、彼は動き出せたかもしれないが――そんなことをする度胸は、安全圏から他人を叩くだけだった彼には微塵もなかった。
「……おい!なんだよこれ!ふざけんな、俺は選ばれた勇者だぞ!」
床に顔を擦りつけながら、ローンウルフは血反吐を吐き出すように叫んだ。彼の眼球は恐怖で充血し、ぎょろぎょろと虚空を睨みつけている。
そこで、彼は真実の恐怖を見た。