廃工場の空間を埋め尽くすように弾けたのは、雷雲から落ちる自然の雷ではない。扇雄介という1人の男の脳内から溢れ出した、極限まで圧縮されたψ意識場が物理現象として顕現した余波だった。
赤黒い光の直方体――彼を概念ごと折り畳んで圧殺するはずだった妖霊の絶対の檻は、内側から生じた圧倒的な反発力に耐えきれず、まるで安物のガラス細工のように粉々に砕け散った。
宙を舞う無数の破片の向こう側に、その姿はあった。
夜空をそのまま切り取って凝縮したかのような、深く、どこまでも透き通った青い肌。
虹彩を持たず、万物を冷徹に観測する多面体状の結晶の瞳。
首元からは、大気そのものが意思を持ってうねるようなマフラー状の器官が静かに揺らめいている。
それはもはや人間ではない。20年という途方もない時間をかけ、自らの限界を削り、壊し、再構築し続けた狂気の果てに至った『人の原質』。
特撮番組のヒーローになりたいという、ただそれだけの純粋で異常な憧れが受肉した姿――それが、生き生きと躍動する。
走り抜ける高速の矢――鳥の怪人の1撃を、扇は、一瞥すらせずに阻む。
指を鳴らしすらせず、額から飛び出した羽状の器官を動かし――空間同士をつなげる。
擬似的な空間移動の扉。
突進の速度と質量が、そのまま対象への破壊力となるはずだった。
超高周波の振動を伴い、空間すら削り取る勢いで迫る猛禽の巨体。その必殺の軌道上に展開されたのは、薄膜のように歪んだ空間の断層だった。
激突の音は生じなかった。
怪人の鋭利な嘴と強靭な肉体がその断層に触れた瞬間、運動エネルギーのベクトルは一切の抵抗を受けることなく、全く別の座標へと丸ごと『転送』されたのだ。
鳥の怪人――ローンウルフの巨体が、廃工場の天井付近に突如として開いたもう1つの空間の扉から吐き出される。
自らが放った最高速度の突進。その殺意と破壊力は減衰することなく、無残にも彼自身を廃工場の分厚いコンクリートの壁へと激突させた。
轟音と共に壁が砕け散り、鉄筋がひしゃげる。
何が起きたのかすら認識できないまま、瓦礫の山に埋もれた怪人の肉体が痙攣を打つ。自らの全力の特攻が、自らの肉体を破壊する結果を招いたのだ。
だが、H.A.Dによって極限まで引き上げられた異常な生命力が、彼をまだ死なせない。
全身の骨が砕け、赤黒い甲殻がひび割れながらも、怪人は瓦礫の中から這いずり出る。その単眼に宿る狂気はさらにどす黒く濁り、喉の奥底で大気を震わせる超高周波の振動塊が再び圧縮され始めていた。
狙うは、悠然と中空に漂う青い超人。
今度こそ確実に仕留めんと、限界を超えた魔力がその口腔に集束していく。
しかし、その暴発が、彼の望んだ効果を発揮することはない。
放たれる超振動は、物を塵にできるほど激しかったが――それもまた、空間転移の鎧に阻まれる。
飛び込んだのは左心室の位置。
飛び出したのは――赤いスーツの女の残った顔面。
超高周波の振動が、寸分の狂いもなく標的の顔面を捉えた。
それは、空間そのものを削り取りながら進む不可視の破壊波。
本来ならば扇雄介の心臓を抉り出すはずだった必殺の暴威は、青き超人が展開した空間の断層――位相を繋ぎ合わせる見えざる扉を通り抜け、そのまま真紅のスーツを纏う妖霊へと牙を剥いたのだ。
精巧な石像を思わせる、妖霊の残された左半分の顔。
常に余裕を湛え、人間を嘲笑うかのような営業スマイルを貼り付けていたその滑らかな表面に、音を置き去りにした衝撃の波紋が直撃する。
回避する暇など、コンマ数秒すら与えられていない。
自らの手駒として利用していたはずの怪人が放った最高火力の攻撃。それが己の死角から、しかも至近距離で空間を跳躍して現れるなど、高次元の精神生命体である彼女の演算能力をもってしても予測の範疇を完全に超えていた。
メシッ、という不快極まりない破砕音が廃工場に響き渡る。
陶器のように白く美しい肌が、中心から放射状にひび割れていく。完璧な造形を保っていた鼻筋が歪み、無機質な光を宿していた瞳が衝撃の余波で濁り、弾け飛んだ。
3次元の物理空間に顕現するために構築された仮初めの肉体。その最も強固であったはずの頭部が、振動の乱反射によって内側から徹底的にミキサーにかけられる。
『くそがぁ!まだまだへばらねぇのかこいつは!』
自らの最強の切り札が、なぜか標的の背後にいた「味方」を粉砕した。
何が起きたのか、彼の矮小な脳では理解が追いつかない。
放たれたはずの振動塊は、確かに扇の胸元を捉えていた。しかし、命中する寸前で何もない空中に吸い込まれるように消失し、次の瞬間には妖霊の頭部を内側から吹き飛ばしていたのだ。
先ほどから行っている遅滞戦術が効果を示さない事に、ローンウルフは怒る。
エネルギー切れを狙う、それがこの化け物の一番効率のいい殺し方だと、彼は信じていた。
もはや、真っ向から立ち向かう気概など、彼にはない――あるのは、負け犬根性を虚飾で隠す、哀れな男の姿だけだった。