『それ』が立ち上がった時、明らかに空気が変わった
何がと言われたらわからない、誰かが放屁でもしたように匂いがしたわけでもないし、毒性のある物質が放たれたわけでもない。
だが……100人の人間をこの空間に入れた時、100人がこう言うだろう――何かがおかしいと。
肌を刺すような微細な静電気。鼓膜の奥で低く鳴り続ける、水圧にも似た圧迫感。
重力のベクトルが狂ったかのように、足元の頑強なコンクリートがぬかるんでいるような錯覚に陥る。
扇雄介が、パイプ椅子からゆっくりと腰を上げただけで、それが起きたのだと、この場の人間で気が付けたのは天塚新だけだった。
この世界で最初の超能力者にして、おそらくこれから先の人類にも2人と現れない高く険しい道を歩む彼が『怒る』というのがこういうことだと、一体このビルにいる何人の人間が気が付いただろう?
実際、水鏡の勇者は混乱の極みにあった。
彼が正確に事態を認識できていたのは、目の前で座っていた普段からどこか抜けている男性が立ち上がったところまでだ――いや、座ったのだったか?
そう確か、横向きに壁にそそり立つ太陽が、黄色の花とあいさつをして、壁が月の涙と接吻をしたから僕は今日も元気だったと母に伝えなくてはならない……?
いや、待て、そもそも母とは昨日会って、水が今日も七色に輝いていてかわいい!と叫んでいるさまを見ながら、5歳の時小鬼を殺した記憶を見せて襲い掛かってくる友人たちとは母が明日の晩御飯につくるだろう月の隕石とプランクプレーンのチャクラを赤と青の二重らせんの中にひそめてミッドナイトにハートを滅ぼす――
「――今は寝てろ、君にはちょっと早い。」
自分の周りに渦を巻いていた宇宙が優しげに毒を吐いて、水鏡の勇者は意識を失った――彼は最後まで、自分が錯乱していると全く気が付かないままだった。
これが、扇雄介が本気を出せない理由だ。
彼の発達し過ぎた精神は周辺の精神力場――即ち、天塚がψ意識場と呼んでいるあれ――に通常の段階でも決して小さくない影響を与える。
普段は自己暗示による方向性の変更によってそれが人に感じさせる穏やかさであったり、居心地の良さとして表れているが――それが、時折、強い激情のもとでタガが外れる。
ただそれだけのことで、水鏡の勇者は行動不能に陥った。
常に変身していればいい――そう思う人間がこれを見た時、同じことが言えるだろうか?
彼がほんの少し、自制心をなくし、怒りをあらわにするだけで人の精神とはこうもやすやすと惑乱され、自分の形を見失う――『変身していない今ですら』それは変わらない。
これが、世界で最初の超能力者にして、この世界で最高のESP能力者である男の怒りの形だった。
『あら、ずいぶんと手荒ですね、意外です。』
かすかな驚きと、明確なこわばりもって妖霊が告げる――やはり、この男を向こうに回すのならば、いかに妖霊といえど一筋縄ではいかない。
よもや、この檻であり鎧でもある入れ物越しに、自分の魔法に守られた精神に直に攻撃を仕掛けてくるとは、やはり病原菌どもとはものが違う。
「今朝からいろいろあってね、すこぶる機嫌が悪い――なぁ、赤い服の女、僕を見てどう思う?」
肩をすくめて、扇雄介は尋ねる。
『実に理想的な人間でいらっしゃると思いますよ?』
勇者すら立っていられない精神波の中において、妖霊はそれでも整然と告げた。
『善行を成し、万人に慈悲を与え、他者の罪をぬぐうためにその身を捧げる――理想的な人間かと。』
「ずいぶんと美化するね――ちなみに、僕の部屋には4日洗ってない服がある。」
事実だ、というか、たぶんこの2人とつるんでいなければ、ゆかりが自分をしたっていなければ、その服は2か月は放置されているだろう。
「ごみを捨てるのも苦手だし、書類は間違いだらけで、何回天塚に直してもらったかわからん。」
その程度の男だ、超能力がない扇雄介という男は。
その程度の男だから。
「――何が違うんだ、妖霊。」
それがわからない。
「いま、黒土灯は妹のことを思って泣いてる、救えないことを悔いて。」
それは、自分が友人たちをこの道に巻き込まなければよかったと悔いている今と一体どう違うのだろうか?
「今、黒土御影は泣いてる、お前らの与えた加護のせいで自分を見失ってるせいだ。」
それは、毎晩何もかもを失う夢を見る自分と一体何が違うのだろう?
「水面は今疲れ切ってる、本来、人と付き合うのが得意じゃないのに、加護に強いられてそうせざるを得ないからだ。」
それは、ゆかりにふさわしくないと、天塚や七星と友人でいるには不相応だと、泥水をかぶせられた自分とどう違う?
「勇者狩りはお前たちの与えた加護のせいで家にも帰れない。」
それは、この夢を追いかけると言って、父と母に負担を強いた自分とどう違うのだろう?
「――設楽天京は、今もなくなった加護を求めてる。」
それは、毎晩、無くなった力を求めてのたれ死ぬ夢を見る自分とどう違うというのだ?
「――何も変わらないんだよ、何も。」
あの日、工場でも同じことを言った、今もまた、同じこと言う。
「僕はお前が思ってるほど清廉潔白じゃあない、そうなりたかったけどなれない。勇者みたいに犯罪をしなかった、それは認めよう。設楽は絶対に許されないことをした。それも認めよう。だが――お前たちが作った彼らが、普通の人間とどう違う?」
それが、人間と何が違うというのだ?
「どんないい人間だって追い詰められて犯罪を犯すことはある。お前たちの加護はそういう状態を作ってる。それをお前は病だというのか?」
そうしてくれと頼んだ覚えもない人間を浚って、勝手にその力を与えて、副作用で狂人にして――それが、勇者召喚というものだ。
その果てに待つものが、苦痛に満ちた毎日であるとわかっていても、さらわれた側にはそれを避ける手立てすらない――それが、どうしようもなく気に入らない。
「――僕はそういう人たちがよからぬたくらみの対象になるのが非常に嫌いだ。」
本心であり、建前だ。
20年、この建前と共に、それが本心である人間に近づくようにしばり続けた精神は確かな苛立ちを彼にもたらしていた。
「今朝は何かと客が多いし、喧嘩を吹っ掛けられることも多くてな、さっきも言ったが―ー非常に、機嫌が悪い。」
バギリと飴をかみ砕いたような音と共に、精神を守っていた魔法の盾が砕ける――あと526枚、ただ、この速度から見てそれほど余裕はない、1分か、もっと短いか。
魔法を増設する、速度は拮抗、抵抗する余裕はない。記憶を消すことを考えるべきか?
「――いいか、ディーラー。僕はお前に情報を出してくれと頼んでるんじゃない、善良さの指標に従って、お前を許す機会を探してるだけだ。」
『真なる善とは、一度ならず悪行を許し、償いの機会を与える者である』――そう書かれていたのは、なんの本だったか、今では思い出せないが……それが、今の彼の指標になったのは間違いない。
だから――怒っていても、そこの一線は譲らない。
「――それとも、お前の精神をずたずたに切り裂いて、必要な情報を絞り出した方がいいか?」
だが、だからと言って、唯々諾々と見逃すつもりもない。
立ったまま眠る水面に抱えられて、こちらを見つめる妖霊の顔を見下ろす――その顔には