――白雲ゆかりは不快だった。
なぜかわからないが、隣の彼氏――本人は決して認めないが、自分がそう思っているのだからそれでいいのだ、1回フラれたが55回も告白すると拒否されなくなったし――が、こちらに明らかに気を使っているからだ。
間違いなく、あの男である。
赤坂猛、まったく忌々しい男――もし、この人に何かいらぬことでも言っていたら社会的に抹殺してやろうか……
あの男と直接接触を持ちに行くつもりなのは知っていたし、その過程で、多少なりともギクシャクするのは想定していた。
だが、この異様なほど重い車内の空気はなんだ?なぜ彼は自分の方を一度も見ない?
いらいらと、そんなことを考えているその時だった。
「……その、さ、僕、会社辞め――」
ぶちっと何かが切れる音がした。
それから数秒ほどの記憶はない。
次に気が付いた時、走っていたはずの車は路肩に止まり、自分は扇雄介に覆いかぶさるように運転席側の扉に手を押し付け縮こまっている彼を見下ろしていた。
俗にいう壁ドンだ――ドアドンか?――まあ、何でもいいが……いや待て、この男何と言った?
「――やめ?」
「や、やめ、た、ほうが、いい、かなっ、とおも――」
――さて、幾度となく語ってきたとおり、扇雄介は精神的に超人である。
9日間の断食を乗り越え、不眠不休で戦い続ける化け物である。体の不調を思い込みで乗り越え、あらゆる恐怖とあらゆる苦痛を精神で乗り越える男。
だが、彼にも唯一弱点と呼べるものがある。
それが――『好意』である。
これまでの20年、彼は彼自身の行いに好意を向けられたことがない。
赤坂しかり、ゆかりの両親しかり、実の親も、彼を愛してはいるがこの行いを肯定したことはついぞない。
だからだろう、彼は、罵倒あるいは精神的苦痛に異様なほどの耐性を持つ――のだが、逆に『混じりっけなしの好意』の精神放射に驚くほど弱くなったのだ。
もっとも、そこに悪意や敵意を感じ取ればそれを軸に平常でいられるのだが――混じりっけなしの好意、すなわち、今ゆかりが彼に向けているような好意の発露を受けると、体が硬直してしまう。
今だって、顔をザクロもかくやというほど赤く染めて、膝を抱えるように縮こまっている――まったくかわいい人だ、一生このまま自分の部屋に飾られてほしい。
「まったく、平和ボケした間抜けにいいようにされて……かわいいのは結構ですが、あんまり変なこと言うとなにするかわかりませんよ?」
そう言いながら、体を扇に摺り寄せる――どんどん小さくなっていく様が妙に面白かった。
が、それどころではない――辞める?あの勘違い男のせいで?冗談ではない!こちらが、この男を捕まえて、自分の行為を受け止めさせるのに何年かかったと思っているのだ、こちとら、父と母と同じ家にいた時間以上にこの男を納得させるのに使ったというのに。
彼は一生自分のものだ、力があろうなかろうと誰にもやらない。
「前提が間違ってるんですよ――この世の中に、安全な職業などありませんよ。」
ゆえに、勘違いを解くことにした。
「歴史とあの男《赤坂》本人が証明しているでしょう――あいつは、勇者にかかわる職業でしたか?」
「違う、けど。」
「そうです、あそこはただの製菓会社、ヒーローも関係がなければ、勇者とだって関係がない――だというのに、あの男はあの勇者に殺されそうになっていた、でしょう?」
実際、あのまま扇が間に入らなければ彼がどうなっていたかは……想像したくなかった。
輪切りのソルベならまだいい方だ。
「そもそも、思い出してください、設楽天京――あの男が、先輩と私の関係を知っていて黒土製薬に来たんですか?」
「ちがう、けど……僕を追ってヒロイックアカウントに入ったから……」
「そうですね、確かに、私はヒロイックアカウントにいた時にあの男に操られました、ただ、逆に言えば
それが勇者の恐ろしいところと言っていい――あの連中の行動はいつだって余人には測れない計算で動くのだ。
まるで天災のようだった。
「単にあの男が
その動機が何かなど関係がない、設楽に騙されていたというヒロイックアカウントの令嬢は、いまだに父親を見ると自分の行為を思い出し、パニック状態になるという。
扇が昔のよしみでと訪問するようになったが、治療は牛歩だ。
「先輩だって知ってるでしょう?勇者連中は常に、『ヒロイン』を求めます、そして、大抵その『ヒロイン』は優秀かつ美人です――それを探すために、あの連中が大企業に潜り込んでいるなんてよく聞く話でしょう?」
そして――
「――そういう勇者に、『女性の名簿を売って稼いでいる連中がいる』のも、知ってるはずですよ。」
知っている。まだ、ヒロイックアカウントにいたころ、ごくひそかに七星や天塚と共にそういった連中をこっそりと摘発し、ウイルスで名簿データを消す『ボランティア』に従事していたことだってあるのも、ゆかりは知っている。
「あの名簿、大企業ほど早く漏れるんですよ――ちなみに、私は大学卒業時点で漏れてました。」
要するに『優秀で美人』というのは、現代社会において決して利点にならないのだ。
「わかりますか――どこにいるかなんて、連中には関係ありません、麗華の姉が証明しているでしょう。何もしていなくても、あの連中は生活の影に忍び寄っているんです。」
徳光を欲し、美しい娘を欲し、勇者の加護によって肥大化した自我は他者を顧みることを忘れさせる。
ゆかりを欲した設楽が、黒土製薬を欲したように、人の欲には際限がないものだから。
「確かに、この手の内情を知らないあの男からすれば、私の仕事は危険に思えるでしょう、ただ、いいですか――私が顔面の半分を焼きつぶしでもしない限り、あの連中はどこからでも寄ってきますよ。」
いや、それだけやっても、あの連中は彼女を手に入れようとするだろう――顔を魔法で直し、魅了の力で支配して、逃げきれない奴隷を作る。
そんな勇者を何人となく見てきた。
「今相手をしてる見えない勇者は私を狙ってくるかもしれませんし、来ないかもしれません。ですが――喧嘩を売っていようがいまいが、特権階級だと思い込んだあの連中はためらいなく私を狙ってくるんです、設楽天京がそうしたように。」
そんな世の中で「ふさわしい仕事がある」だのという妄想――どうせこんなことを言ったのだあの勘違い男は――など何の役にも立たない。
「あの勘違い男が妄想するのは仕方ありませんが……あなたまで惑わされないでくださいよ。あなたのそばにいた程度で、私の危険度は変わりません、何より――守って、くれるんでしょう?」
そう言って、彼女は扇雄介の唇に顔を近づけ――
「お疲れ様です、新情報が……あー……なんでうちのリーダーはフリーズしてるんですか?」
「ふざけたことのたまわったのでわからせました。」
「……あー……はい、なるほど、落ち着きました?」
「満足しました!」
「それは何より。」