特撮オタクたちは、勇者を超越する   作:猿マン

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第190話:接敵

 激突の衝撃で、エアバッグが弾け飛ぶくぐもった音が車内に響いた。

 

 金属が軋み、ひしゃげる嫌な音が高速道路の夜気に溶けていく。

 

 雨傘の咄嗟の判断と、元ヒーローとしての人間離れした脚力による強引なブレーキングがなければ、間違いなく車体ごと横転し、後続車を巻き込む大惨事になっていたはずだ。

 

 それでも、車は側壁に深く突き刺さり、完全に沈黙している。

 

「お嬢様……! お怪我は!」

 

「……ええ、なんとか」

 

 雨傘の切迫した声に、後部座席で身を固くしていた麗華が震える声で応じる。

 

 シートベルトが胸を締め付け、呼吸が浅い。だが、肉体的な痛みよりも、彼女の理性を激しく揺さぶっていたのは、今まさに目の前で起きた「現象」の異常性だった。

 

 エンジンだけが、消えた。

 

 物理的な破壊も、爆発の予兆も一切なく、何100キロという質量を持つ内燃機関が、ある1瞬を境に「この世界から切り取られた」のだ。

 

 勇者の権能、アイテムボックス。

 

 本来ならば武器や日用品を収納するための便利なポケットを、対象の心臓部をノーモーションで奪い取る暗殺の刃として振るう。

 

 そこに、血の通った人間の手触りはない。どこか遠くの安全圏から、ゲームのオブジェクトを処理するように命を摘み取ろうとする、圧倒的で絶対的な悪意。

 

 これが、勇者。

 

 姉を壊し、今また自分たちをゴミのように処理しようとしている者の力。

 

『――そうだよ。』

 

 ――何もないはずの空間に、突如として、その声が響く。

 

『わかってるだろ、君たちは僕からは逃げられないんだ、あの部屋から出たのは失敗だったね?』

 

 その声は、鼓膜を震わせたものではなかった。

 

 歪んだスピーカーを通したような、ひどくノイズまじりの声が、直接脳髄の奥底へと滑り込んでくる。

 

『彼女は僕に見初められたんだよ。選ばれた勇者である僕の、所有物になる栄誉を与えてやったんだ。だというのに、隠れて逃げ回るなんて……本当に、礼儀を知らない姉妹だ』

 

 押し殺した笑い声が頭蓋の中で反響する。

 

 圧倒的な安全圏から、決して反撃されない場所から他者を弄ぶ、絶対的優位に立つ者の傲慢な声。

 

「……雨傘」

 

「お嬢様、決して言葉を返してはいけません。相手の術中に引き込まれます」

 

 大破した車内で、額から一筋の血を流しながらも、雨傘は冷静に麗華を制した。

 

 ひしゃげたドアを内側から蹴り開けようとするが、車体のフレームそのものが飴細工のように歪んでおり、人力ではびくともしない。完全に鉄の棺桶に閉じ込められた状態だった。

 

『無駄だよ、元ヒーローのおじさん。僕の力はね、空間そのものを切り取るんだ。君たちの心臓だけを直接、このアイテムボックスの中に収納してあげることもできる。……お姉さんの居場所を教えれば、命だけは助けてあげるよ?』

 

 甘く、ねっとりとした脅迫。

 

 物理的な距離を完全に無視した理不尽な暴力の提示に、麗華は自分の指先が氷のように冷たくなっていくのを感じた。

 

 これが、勇者。

 

 常識も、財力も、物理法則すらも通じない、理不尽の権化。

 

 そんな相手に2人は――

 

「――――あはははっははははは!」

 

「――――フフフフフフフフフ!」

 

 笑った。

 

 狂ったように、あるいは、愚弄するように。

 

 死の淵に立たされた人間が上げるべき悲鳴ではなく、それは心底から込み上げてくるような、純粋な嘲笑だった。

 

 大破した車内。ひしゃげたドアに寄りかかりながら、額から血を流す雨傘が肩を揺らして笑う。

 後部座席でシートベルトに身を縛られたままの麗華もまた、ドレスを埃で汚しながら、上品さなどかなぐり捨てて声を上げていた。

 

『……な、何がおかしい!』

 

 脳裏に直接響く勇者の声が、初めて明確な動揺に裏返った。

 恐怖で泣き叫び、命乞いをするはずの獲物たちが、自分を指差して笑っている。安全圏から一方的にいたぶるという、彼が最も好む極上のエンターテインメントが、根底から崩れ去った瞬間だった。

 

「ええ、おかしいですよ。おかしくて、おかしくて、涙が出そうです、だって――」

 

 麗華は目尻に浮かんだ生理的な涙を優雅に拭い去り、何もない空間に向けて冷ややかな視線を放った。

 

「――ここまで完璧に化かされるとは思ってなかったからな。」

 

 ――耳元から、声がした。

 

 あり得ないことだ、この空間――精神空間に入り込める存在など、自分以外にいるはずは……!

 

「だ、誰だ……!?」

 

 勇者は、声帯のないはずの空間で、声ならざる悲鳴を上げた。

 

 ここは現実ではない。彼が自身の加護によって構築した、他者の精神や夢の隙間に寄生するための絶対の安全圏。無意識の深層に築かれた、彼だけの不可視の王城だ。

 

 物理的な肉体を持ったままでは決して到達できない。現実の干渉を一切受けず、一方的に世界を監視し、アイテムボックスの『穴』を開いて現実に干渉するためだけに作られた、彼という神が君臨する完璧な箱庭。

 

 豪奢な玉座、天を衝くような大理石の柱、黄金に輝くシャンデリア。彼が想像力で生み出したその絶対の城の真ん中で、玉座に深く腰掛けていたはずの彼の背後に、あり得ないほどの質量を持った気配が張り付いていた。

 

 ――いる。

 

 この空間に似つかわしくない者、全身を蒼で染めた、夜の闇のように蒼く、鮮やかな――人間のようなもの。

 

「――誰だ!勇者か!魔人か!」

 

「あほいえ。お前も勇者なら知ってよう、召喚魔法はないことぐらい――お前の敵って意味合いなら、まあそこは否定せんよ。」

 

 苦笑したようにそれは――扇雄介はそう言った。

 

「どうも『寄生の勇者』様、年端もいかん娘の思考に勝手に住むのは正直どうかと思うぜ――本当の名前は違うのかもしれんが、知らんから許してくれるだろう?」

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