這いつくばった床を、汚い唾液と共に男が何度も叩いた。
無機質な彫像の如き表情を崩さない青い超人。その全身を包む瑠璃色の肌は、精神の深層という不確かな場所にあってなお、一切の揺らぎを見せない。
扇雄介は、一歩も動いてはいなかった。
膝を動かさず、足を踏み出すこともせず、ただ泰然とそこに立ち尽くしている。だが、夢幻の勇者には、目の前の怪物が一刻一刻と距離を詰めてくるような、逃げ場のない錯覚に苛まれていた。
――ゆえに、男は……夢幻の勇者はそれを振り払う、宿主である笹藤春華から汲み上げられる精神に帰属する、いまだ名もなき力を、自身の身体を起点に物理的な重圧へと変換した。
男が床を叩きつけると、天井と床から数万トンの岩盤に相当する圧力が具現化し、巨大なプレス機となって扇を上下から押し潰さんと閉じた。逃げ場のない空間。大気のない精神世界において、その激突音すら生じぬ無音の圧殺。
だが。
衝突の刹那、扇の周囲数センチに固定されたψ意識場の表面で、迫り来る岩の壁が文字通り「停止」した。
扇は腕1本上げることなく、ただそこに泰然と立ち尽くすだけだ。
男は逆上し、さらに深い精神の階層からエネルギーを汲み上げる。
空間を漂う光の粒子を強引に収束させ、それを1本の「槍」として扇の眉間に向けて射出した。熱量も、魔術的な術式も介さない、ただ純粋な「衝撃」の塊。
放たれた光の槍は、音の壁を容易く置き去りにし、空間を歪ませながら扇を貫かんと殺到する。
しかし、扇はその1撃に視線すら向けなかった。
槍の先端が彼の顔面に到達する寸前、扇の眉間から伸びる2本の羽根状の器官が微かに震える。
キィィィィィン……という、空間がきしむような音。
光速に近い速度で迫っていた槍は、扇に触れることさえ許されず、何もない空中へとベクトルを捻じ曲げられ、明後日の方向へと滑り落ちていった。
男の顔が、絶望と憤怒で赤黒く染まる。
男の四肢が異常に膨張し、皮膚を突き破って鋭利な結晶の刃が全身から生え揃う。もはや人の形を維持することすら放棄し、ただ扇を殺すためだけの「凶器」へと変貌を遂げた。
男は獣のように地を這い、四肢のバネを爆発させて、静止したままの扇へと突っ込んだ。1撃で鉄骨をひしゃげさせるほどの膂力を乗せた、結晶の腕による刺突。
だが、夜空の青を湛えた超人は、その突進を直視したまま、ただ掌を前に翳した。
衝突。
男の振り下ろした結晶の腕が、扇の掌の数センチ手前で、目に見えない強固な障壁に阻まれて火花を散らした。
扇は腕に力を込めることもしない。
ただ、掌のψ意識場を僅かに「収縮」させる。
それだけで、男の腕を覆っていた結晶の刃が、内側から生じた強烈な振動によって粉々に砕け散り、その衝撃が逆流して男の肩を激しく打擲した。
男の身体が木の葉のように吹き飛ばされ、床の上を無様に転がる。
「がぁぁああああああ!」
絶叫。
本来目に見えないはずの衝撃が、まるで映像の中のようにエフェクトと共に飛び込んでくる――が、これもまた、意味をなさない。
振動を示すようなエフェクトも――
もう一度――今度は衝撃ではなく吸い込みを放ち、体の細胞を食い荒らそうとした勇者の顎が跳ね上がる。
再び、壁を飛び越えて放たれた拳が顎をぶち抜いた、治癒の魔法――本来は扱えないが、この領域ならばいくらでも扱える――によって治ったはずの顎が再び砕ける。
やはり、無限の次元壁ではあの男の攻撃は止められない――となれば、もはや、攻めるしか選択肢はない。
地面を、存在しない物をたたき、空間を揺るがす。
結晶の刃を再び宿す。
脚に力を込める――普段なら枯れ枝のように細い足に、気が付けば筋肉の鎧が宿っていた。
精神の次元ならば、肉体を強化する呪文の力でこれほどの力を生み出すこともできる。
重力をゼロに、空気抵抗などは初めからない。
勢いよく地面をける。
一瞬の加速――その速度は光のごとく……いや、光そのものと同じだけ速い。
この空間において、物理法則はそれほど意味をなさない。
拳の一振りが、宇宙を切り開き、たやすく滅ぼす。
精神の領域とはそういうものだ、この領域に侵入する存在はそれを自在に扱う権利を得る――だから、夢幻の勇者はここにいる、ここから出ない。
いつの日か、自分のヒロインをここに導き、永遠をここで過ごせるその日まで、彼は自分の行いをやめるつもりがない。
それを証明する1撃、あらゆる物理法則を超えて迫るその刃は、あるいは妖霊すら捕らえうる。
彼はそう信じていたし、実際、よほどのろい妖霊ならばそうだったかもしれない。
光速で、剣が奔る。
誰も見えない、誰も捕らえられない攻撃が精神領域を貫き――
「――ふむ……思ったよりは遅いな。」
――止められた。
あり得ないことのはずだった。
あらゆる生き物を切り裂く必殺技だ、魔王だってこれで殺した。
負けるはずがない、だってここは精神の領域。
「――つまり、超能力者の場所さ。」
雷劫が、響いた。
地面から走る稲妻を、彼はおそらく初めて見たのだ。