第203話:Bの拍動/いずれ来る未来
泥のような紫の靄が、桜花乱舞の呼吸器から肺腑へと滑り込み、脳髄の奥深くへどす黒い根を張っていく。
物理的な苦痛はない。あるのはただ、思考のタガが外れ、今まで必死に抑え込んでいた己の醜悪な感情が、極彩色の万華鏡のように脳裏で乱反射する快感だけだった。
『そうだよ、君は間違ってない。君の信じる正しさを、世界に刻み込めばいいんだよ』
鼓膜を通さず響く妖霊の囁きが、彼女の意識を5年半前の「あの日の雨」へと引きずり戻していく。
雨がアスファルトを打ち据える、薄暗い裏路地だった。
当時の桜花乱舞は、まだヒーローとしてのキャリアも浅く、己の未熟さを痛感する日々を送っていた。そんな彼女を常に隣で支え、背中を預け合っていたのが、当時の相棒――『シールド・バンガード』だった。
彼は大柄で寡黙な男だったが、その名の通り、どんな過酷な現場でも彼女の前に立ち、巨大な盾となってあらゆる脅威を弾き返してくれた。
「お前は斬り込むことだけを考えろ。防御は俺が引き受ける」
無骨なヘルメット越しに響くその不器用な声が、どれほど彼女の心を救っていたか。彼と肩を並べていれば、どんな強大な魔物が相手でも恐怖など感じなかった。2人の連携は完璧であり、いずれは関東一円でトップクラスのコンビになれると、そう信じて疑わなかった。
あの下劣な肉の塊が、彼らの前に現れるまでは。
それは、中型の魔物を討伐した直後のことだった。消耗し、互いの健闘を讃え合おうとしていた彼らの頭上から、場違いな哄笑が降ってきた。
見上げれば、ビルの屋上に1人の男が立っていた。脂肪でだらしなく膨れ上がった腹を揺らし、不潔な髪をべったりと額に張り付かせた、見るからに不摂生な男。
だが、その男の全身からは、空間を歪ませるほどの暴力的な魔力が溢れ出していた。
異世界からの帰還者。勇者だった。
「なんだよ、せっかく俺様が直々に手を下してやろうと思ったのに、もう片付いてんのか。つまんねぇの」
脂ぎった顔を歪め、男は唾を吐き捨てるように言った。
彼は魔物を倒した彼らを労うどころか、己の「活躍の場」を奪われたことに激しく腹を立てていた。勇者という絶対的な肩書きを手に入れ、万能感に酔いしれていた男にとって、ヒーローという存在は自分より劣る「目障りな虫」でしかなかったのだ。
「まぁいいや。暇潰しに、お前らで遊んでやるよ。」
冗談ではない。本気だった。
男が脂ぎった指を鳴らした瞬間、空気が爆ぜた。
警告も予備動作も一切ない。見えざる高質量の衝撃波が、2人の立っていた路地裏を丸ごと更地に変える勢いで殺到した。
「伏せろ、乱舞!」
バンガードが咄嗟に彼女を突き飛ばし、展開可能な最大出力のエネルギーシールドを構えた。
だが、理不尽な暴力の化身である勇者の攻撃を、一介のヒーローの装備で防ぎきれるはずがなかった。
ガラスが割れるような音と共にシールドが粉砕され、相棒の巨体が宙を舞う。
「あ……」
乱舞が手を伸ばした先で、彼は壁に激突し、血まみれになって崩れ落ちた。
その後どうやって生き延びたのか、彼女の記憶は曖昧だ。勇者が「つまんね」と興味を失って立ち去るまで、彼女はただ、ピクリとも動かなくなった相棒を抱きしめ、泥水に塗れて泣き叫ぶことしかできなかった。
後日、病院の白いベッドで目を覚ましたバンガードは、下半身の感覚を永遠に失っていた。
「すまないな、乱舞。もう、お前の盾にはなれそうにない」
力なく笑う彼の顔を見た時、桜花乱舞の中で何かが決定的に壊れた。
理不尽だ。
あんな、自己管理すらできない醜悪な男が、ただ異世界で運良く力を手に入れたというだけで、なぜこんなにも尊大な振る舞いを許されるのか。
なぜ、日々血の滲むような鍛錬を積み、人命を守るために戦っていた誇り高き相棒が、あんなゴミ屑のような男の気まぐれで人生を奪われなければならないのか。
法の裁きなどない。勇者という絶対特権階級の前に、警察機構は沈黙を貫いた。
その日からだ。彼女の心に、「不摂生で穢れた外見を持つ男=駆逐すべき邪悪な存在」という極端で歪な方程式が深く刻み込まれたのは。
そうでなければ、やりきれなかった。相棒から光を奪ったあの男と、同じような不快な容貌を持つ連中は、1人残らず「社会のゴミ」であり、自分が容赦なく斬り捨てていい絶対悪でなければならなかった。
「――前も言ったが……あんたの境遇には同情してる。」
「そう?ま、あんたはそう言うわよね。」
けらけらと、桜花乱舞は笑う。
夜の都市を見下ろすビルの屋上。上空を覆い尽くしていたのは、毒々しい紫に染め上げられた無数の桜の花びらだった。
それは1枚1枚が鋼を容易く両断する魔力の刃。妖霊の加護に魂を喰われ、己の主観のみを絶対の法とする新たな『勇者』へと堕ちた桜花乱舞が、街全体に展開した広域殲滅の檻である。
「綺麗な眺めでしょ、扇雄介」
眼下に広がる無知な人々の営みを見下ろしながら、乱舞は歪な笑みを浮かべた。彼女の瞳は、すでに狂気と全能感の泥濘に沈んでいる。
「あんたみたいな、不摂生で小賢しい『悪』がのさばるから世界が狂うのよ。だから、私が正しい法としてすべてを裁いてあげる」
彼女が刀を天に掲げると、上空の桜吹雪が共鳴するように禍々しい殺意を帯びて震えた。
「この数百万の毒の刃が一斉に降り注げば、下にいる連中は数分で挽肉に変わるわ。あんたがどんな頑張ったって、ヒーローごときじゃ止まらないわよ?」
乱舞の口角が残酷に吊り上がる。相棒を奪われた絶望を、独善的な暴力で塗り潰した女の顔だった。
「でも、私だってヒーローの――勇者の端くれ、無辜の民は守らないと、でしょう?だからチャンスをやろうと思ってね。」
それは、何万もの命と、扇個人の命を天秤にかけた極限の二者択一。
「――あんたが私の作った毒球を飲んで、その身のすべてを溶けたチョコレートみたいにドロドロになってくれるんなら、この刃、振り下ろさなくて済むのよ。」
――だから死んで?――
だが、その理不尽な脅迫を突きつけられた扇は、夜風に乱れた髪を掻き上げながら、ただ静かに、深い憐憫すら混じる平坦な視線で狂える同輩を見据えていた。