昼休みの教室は、得体の知れない熱気と喧噪で満ちていた。
色とりどりの弁当箱が広げられ、机を寄せ合ったグループからは、テレビ番組の感想や他愛のないクラスメイトの噂話、部活動の愚痴が絶え間なく溢れ出している。
そんな「絵に描いたような青春の一ページ」の只中で、黒土御影はぽつんと自分の席に座り、机の木目をただじっと見つめ続けていた。
彼女の周囲には、まるで不可視の防護壁が展開されているかのように、不自然な空白地帯ができあがっている。
遠巻きにこちらを窺う視線。ヒソヒソと交わされる囁き声。勇者としての超感覚を使わずとも、彼らが自分に向けている感情の色は痛いほどに読み取れた。
畏怖、警戒、そして――できれば関わり合いになりたくないという明確な拒絶。
少し前まで、勇者という特別な肩書きに擦り寄ろうと群がってきた有象無象の生徒たちは、相次ぐ怪人事件の余波と、御影自身が時折隠しきれずに滲ませてしまう『他者への氷のような無関心』を敏感に察知し、潮が引くように去っていった。
現在、彼女に気安く話しかけてくるのは、姉の灯と親しくしている眼鏡の少女、あかねくらいのものである。
だが、御影にとってその孤立は、決して悲劇ではなかった。
下心に塗れた馴れ合いに応じるのも、作り笑いを浮かべて話を合わせるのも、ひどくエネルギーを消耗する。
ましてや、自分の内側でどす黒く渦巻く『勇者特有の異常性』をいつ他人に悟られるか分からないのだ。誰にも干渉されず、ただ一人で息を潜めている方が遥かに精神衛生的にはマシだった。
友人がいないことに不満はない。そもそも最初から求めていないのだ。
それでも。
あからさまに「腫れ物」として扱われるこの教室の空気は、彼女のささくれた神経をチリチリと逆撫でし続けていた。
「……鬱陶しい」
無意識のうちに、毒を含んだ呟きが唇から零れ落ちる。
御影が眉間に深い皺を寄せてガタッと席を立つと、近くにいた生徒たちの肩がビクッと跳ねた。怯えたように道を空ける彼らに一瞥もくれず、御影は足早に教室の扉を潜った。
廊下を抜け、外の空気へ。
中庭のベンチではスマホの画面を覗き込む少年や、円になって談笑する女子生徒たちの姿がある。それらの人目を避けるように歩みを進め、人気のない旧校舎の裏手へと辿り着く。
ここなら誰の視線も気にせず、不快な感情の波をやり過ごすことができる。そう思って冷たい壁に背を預けようとした、まさにその時だった。
「――ずっと、西方くんのことが好きだったの!」
静寂をぶち壊す、ひどく場違いで甘ったるい嬌声。
御影の足がピタリと止まる。曲がり角の向こう側から聞こえてきたのは、どうやら古典的な告白の修羅場らしい。
他人の恋愛模様など、興味の欠片もない。出歯亀をする趣味もないし、さっさと踵を返して退散しようとしたのだが――告白された側の名前に、彼女の意識がわずかに引っかかった。
『西方……あの、風紀委員長の?』
この学校に西方という名字の生徒が何人いるかは知らない。だが、御影たちに『学内で出回る魔法の薬の出所調査』を依頼してきた、あの風紀委員長の名前が「西方雄二」であることは記憶に新しい。
教師陣すら凌駕するほどの絶対的な権力と情報網を持ち、学園の裏の支配者とまで囁かれる優等生。
あの融通の利かない鉄面皮の権力者が、この手の「取り入り」にどう対応するのか。ほんのわずかな好奇心から、御影は足音を殺して曲がり角の先をそっと覗き込んだ。
そこに立っていたのは、アイロンの効いたシャツを隙なく着こなす整った後ろ姿。間違いない、風紀委員長の西方だ。
彼と対面しているのは、彼と同じ緑のネクタイを締めた上級生の女子生徒。派手なメイクと、校則違反ギリギリまで短くしたスカートが目を引く。
「……本気で言っているのかな? 散々僕のことを、陰で『いい子ぶったウザイ糞方』と呼んで嘲笑っていた君が?」
甘酸っぱい空気を一瞬にして絶対零度へと凍てつかせる、氷のような宣告。
西方の声には、微塵の動揺も、照れもなかった。
「僕も随分と見くびられたものだね。あんなに僕を嫌悪していたくせに、こうもあからさまに態度を一転させるとは」
「ち、違うの! 私は……その、素直になれなかっただけよ! 気を惹きたくて、つい意地悪を……そう、ツンデレってやつ!」
「見え透いた嘘は無駄だよ。君の瞳には、僕が背負っている『風紀委員長』という絶対的な権力による保身が目当てだろ?それに、君が先週、裏庭で井上さんから不当に金銭を巻き上げていたのも知ってるよ」
「……なっ!?」
女子生徒が息を呑んだ。
なぜそんなことまで知っているのか。恐怖と焦燥が、彼女の顔を醜く歪ませていく。
どうやら、ただの不良というだけでなく、カツアゲまで働いている手合いらしい。御影にとっても、これはあまり気分の良い情報ではなかった。
「失せたまえ。僕の清廉な空間に、君のような悪辣な人間を近づける気はない」
「ちょっと、待ちなさいよ! あんな地味で取り柄もない女の味方して、何になるって言うの!?」
女子生徒は半狂乱になりながら、自分の身体を誇示するように身を乗り出す。
「これだけの権力を持ってるんでしょ!? だったらもっと自分の欲望に忠実になりなさいよ! 逆らう奴は潰して、私みたいな都合のいい女を傍に置けばいいじゃない!」
「ハァ……」
西方は、心底見下したような特大の溜息を吐き出した。
「僕を、下半身にしか脳がない愚民どもと同列に語るな。僕は君のような『奴隷』を必要としていない。色欲で僕を操ろうなど、片腹痛い」
色仕掛けなど、彼には一切通じない。
己の正義と秩序のみを絶対視するこの男を、肉欲で籠絡することなど不可能なのだ。
「もう一度言う。失せろ。僕の欲望は、お前らのような害虫を駆除し、この学園を正しい秩序で統制することだ。証拠はすでに揃っているからね。相応の処分を楽しみにしているといい。それとも、君の取り巻きの不良どもをけしかけるかい? やめておく方がいいとだけは言っておくよ」
「あ……うっ……!」
何もかもを見透かされた女は、悪態をつく余裕すらなく、蒼白な顔でその場から逃げるように走り去っていった。
その惨めな背中を見送りながら、御影は内心でわずかに溜飲が下がるのを感じた。
権力に群がり、私利私欲のために他者を利用しようとする卑劣な輩。長いものには巻かれろという世の理を完全に否定するつもりはないが、あのように露骨に利用しようとする態度は純粋に腹立たしい。
ざまあみろ、と彼女が内心で冷たくほくそ笑んだ、その時だった。
「……で、いつまでそこで息を潜めているつもりかな、黒土さん」
不意に、西方がこちらを振り向くこともなく、細いフレームの眼鏡を中指で押し上げながら言った。
「……気づいていたんですね」
御影は隠れるのをやめ、静かに壁の陰から姿を現した。
「最近、調子が悪いと聞いてるけど、大丈夫かい?」
「ええ、まあ……」
「それはよかった、君には薬の一件を解決してもらった貸しがあるからね」
「……別に、私は何もしてませんよ」
「それでもだよ、君のおかげで問題が早く済んだ――だから、君に助言だ」
「……?」
「――加護には従った方がいい、君は選ばれたんだから」
「――!?」
何を――そう言おうと思った御影は、しかし、何も言えなかった。