深夜の自室。赤坂猛は、豪奢な革張りのソファに深く腰を沈め、クリスタルグラスの中で溶けゆく丸氷をじっと見つめていた。
体内を巡る、未体験の熱。あの薄暗い地下のバーで遭遇した、底知れぬ気配を持つ紫の靄。それが自らの精神の奥底へと滑り込んできて以来、彼の思考を覆っていた鬱屈としたモヤは完全に晴れ渡っていた。
「これで……やっと、すべてを正しい形に戻せる」
誰に聞かせるでもない独り言が、静寂に満ちた部屋の空気に溶けていく。
彼の視線の先、壁一面を埋め尽くしているのは、無数の写真と綿密な行動記録を綴ったメモ群だった。
その大半を占めているのは、愛らしいショートヘアの女性――従妹である白雲ゆかりの姿である。通勤時に見せる微かな疲労の表情から、休日にスーパーで買い物カートを押す足取り、果てはマンションの窓の奥に映るシルエットまで、常軌を逸した粒度でファイリングされている。
そして、その周囲を忌々しい黒いマーカーで幾重にも囲まれているのが、小太りで冴えない風貌の男、扇雄介の盗撮写真だった。
あの男の顔を見るだけで、赤坂の胃の腑からドロドロとした嫌悪感が酸液のようにせり上がってくる。
赤坂にとって、ゆかりは単なる親族ではない。自らのちっぽけな自尊心を保つための、絶対不可侵の聖域だった。
赤坂家と血が繋がる黒土家や白雲家は、誰も彼もが眩いほどの才覚に恵まれていた。黒土未来は若くして巨大製薬企業を束ねるカリスマ性を発揮し、ゆかりに至っては幼少期から天才的な知能の片鱗を隠しきれずにいた。それに比べ、赤坂自身はどこまでも凡庸な、しがない会社員に過ぎない。
親族の集まりがあるたびに突きつけられる、残酷なまでの才能の格差。彼は常に、拭い去れない劣等感の泥濘でもがいていた。
だが、あの頃だけは違った。
多忙な大人たちに代わり、まだ幼かったゆかりや、黒土の双子たちを預かって面倒を見ていた時間。
「お兄ちゃん、すごいね」
無垢な瞳で自分を見上げ、純粋な尊敬と信頼を向けてくれる彼女たち。その閉鎖された箱庭の中においてのみ、赤坂は「頼りがいのある絶対的な保護者」として君臨することができたのだ。彼女たちを守り、正しい道へと導くという役割が、彼にとって唯一の誇りであり、心の拠り所となっていた。
だからこそ、ゆかりが成長し、自分の理解の及ばない高度な研究の世界へと羽ばたいていった時、赤坂は言い知れぬ喪失感と孤独に苛まれた。
自分の手から、最も美しい宝物が音もなく滑り落ちていく感覚。
それでも、彼女が幸福なエリートとしての人生を歩むのであれば、ただの親戚の兄として距離を置いて見守ることもできたかもしれない。
だが、現実は違った。
ゆかりの隣に居座り、あの子の輝かしい才能と人生を不当に食い物にしているのは、社会のルールを大きく踏み外した異常者だったのだ。
扇雄介。
「正義の味方」などという陳腐な妄想に取り憑かれ、危険な魔物や勇者の跋扈する戦場へ平然と足を踏み入れる狂人。あまつさえ、その薄汚いヒロイックアカウントなどという弱小組織にゆかりを引き込み、あの子の純粋な好意を利用して己の身の回りの世話をさせている。
赤坂の目から見れば、扇の存在は「大切な箱庭を土足で踏み荒らす害虫」以外の何物でもなかった。
ゆかりは騙されている。あの男の言葉巧みな妄言によって、洗脳され、正常な判断能力を奪われているに違いない。
だから、自分が目を覚まさせてやらねばならない。
あの危険極まりない男を完膚なきまでに排除し、ゆかりをあるべき安全で清廉な日常へと連れ戻す。それが、かつて「お兄ちゃん」と呼ばれ慕われた自分の、神聖なる義務なのだ。
「……目障りなゴミは、一つ残らず駆除しなければならない」
赤坂はグラスを乱暴にテーブルへ置き、立ち上がった。
妖霊が彼に与えた「加護」――それは、物理的な腕力や炎を操るような分かりやすい魔術ではない。
それは腐乱の象徴、腐食の表れ――『すでに腐り果てた物を支配する』力。
壁に貼られた扇雄介の写真に手を伸ばす。
その指先から、ドス黒い魔力の波紋が静かに広がり、写真に写る扇の顔がジュワッと焦げたように歪み、ボロボロと崩れ落ちた。
「小松の件は、俺にとっても想定外だったが……結果的には都合の良い布石となった。あの男が怪人化という禁忌に触れたことで、奴らの胡散臭さがより一層際立ったのだから」
部下であった小松がH.A.Dに手を出し、怪物へと成り果てた事件。
赤坂は会議室で、小松を庇い、桜花乱舞や扇たちに怒りをぶつけた。その怒りに嘘はなかった。
だが、その根底にあったのは部下への純粋な愛情などではない。
「自分の完璧な管理下にある人間が、見知らぬ異物に汚染されたこと」に対する、潔癖症的な不快感だったのだ。
そして何より、あの場で扇が見せた、底知れぬ静けさと威圧感。
一般人の自分など、端から眼中にないと言わんばかりのあのフラットな視線が、赤坂の劣等感と憎悪の炎に油を注いだ。
「扇雄介。お前の化けの皮を剥がし、ゆかりの目の前でその惨めな本性を暴き出してやる」
赤坂は、暗闇の中で歪な笑みを浮かべた。
彼の心はすでに、妖霊の「平等な救済」という猛毒の甘言に完全に呑み込まれている。扇たち特撮班を社会的な孤立へ追い込み、そして物理的に抹殺するための計画が、異常に亢進した脳内で次々と組み上がっていく。
勇者や魔物といった超常の力すら、今なら己の手駒として操れるという全能感が彼を支配していた。
「ゆかり……もう少しの辛抱だ。お兄ちゃんが、必ず君を迎えに行くからね」
壁に貼られた、無邪気に笑うゆかりの隠し撮り写真を愛おしそうに撫でる。
――彼は、その写真を『ここ四日で撮ったこと』をもう思い出せない。
ずっと前から自分がこういう人間だったと、彼自身すら思い込んでいる。
だから、彼の眼にはもう、白雲家に送るはずだった『ゆかりは幸福でいる』という報告の手紙が風呂場で腐乱した汚泥に変わったことも映らない。
その瞳は、己の正義を盲信し、他者を無自覚に蹂躙する「狂った勇者」のそれと、何一つ変わらぬ濁った輝きを放っていた。
――彼は、もう自分がかつて小松のために怒りを感じたその一言に彼が感じていた感情を思い出せない。
あの時、彼が勇者に食って掛かった心に、偽りもなく、自分をよく見せる虚栄心がなかったことも、彼には思い出せない。
あの日、数年――いや、それ以上ぶりだった再会のあの日、拒絶された心だけが暴走した彼には、もう、ゆかりを思いやっていた善良な心はない。
一つ確かなことは、妖霊と出会わなければいずれ成し遂げられていたかもしれない、扇との和合の道は、すでに遥か遠く、星々の隙間にある宇宙の暗闇に溶けてしまったことだけだ。