その瞳の奥には、かつて市民を救うために燃やしていた気高き正義の光はなく、どす黒く淀んだ紫色の狂気だけが揺らめいている。
「――ごめんなさいね。あんたが悪いわけでもないんだろうけど、邪魔なのよ」
彼女の唇から零れ落ちた冷酷な拒絶。
刀身に纏わりつくのは、触れる万物の構造を腐敗させ、塵へと還す絶対的な崩壊の魔力。
相棒の未来を奪った「勇者」という不条理への憎悪、そして自らの過ちから目を背けるための歪んだ正義が、極限まで圧縮された殺意となって刃に宿っている――それを成し遂げるのが、自身の嫌った勇者の力であることは、気にしていないのだろうか?
「お前は――桜花乱舞か? 何をしているんだ、止まれ!」
知り合いだろうか? 一人のヒーローが声を上げる――その目に宿った狂気の色に、彼は果たして気が付けただろうか?
「……邪魔をしないで。私は、間違った世界を正すだけよ」
桜花乱舞は、振り返ることすらなく吐き捨てるように呟いた。
制止の声など、今の彼女の耳には届かない。彼女の視界を埋め尽くしているのは、隔離カプセルの中で不気味な営業スマイルを浮かべる「絶対悪」の顔だけだった。
カチャリ、と鍔鳴りの音が議場に響き渡る。
その微かな音を合図とするように、彼女の刀身からドス黒い紫色の靄が間欠泉のように噴き出した。
その異様な魔力の奔流に、周囲の警備陣がようやく事態の異常性を完全に理解した。
最前列に配置されていたプロヒーローたち、そして政府の要請で集められていた数名の勇者たちが、一斉に武器を構え、彼女を取り押さえるべく動いた。
「捕らえろ!」
「狂ったか乱舞! ここがどこだと思ってんだ!」
怒号が飛び交う中、二人のヒーローが左右から乱舞の腕を拘束しようと飛び込んだ。一人は風の魔術を操り、もう一人は強靭な捕縛用ワイヤーを射出するベテランだ。
かつて同じ戦場で魔物と戦ったこともある同業者。彼らは彼女を傷つけるのではなく、あくまで「制圧」しようと動いていた。
だが、彼らが乱舞の身体に触れようとした、まさにその時だった。
乱舞は足元の重心を一切ブラすことなく、手首のスナップだけで刀を円を描くように振るった。
斬撃ではない。ただ、刀身に纏わりついた紫の瘴気を、自身の周囲に薄い膜のように撒き散らしただけだ。
しかし、それだけで十分だった。
「なっ……!?」
ワイヤーが瘴気に触れた瞬間、ジュワッという嫌な音を立てて飴細工のように溶け落ちた。風の魔術で距離を詰めようとしたヒーローは、見えない腐敗の壁に激突したかのように苦悶の表情を浮かべ、床に膝をついた。
彼の強化スーツの表面が、まるで数十年もの風雨に晒されたかのようにボロボロと崩れ始めている。
「近寄らないでと言ったはずよ」
乱舞は冷たく言い放つ。
その瞳は、かつての相棒を奪われた絶望を、独善的な暴力で塗り潰した女の顔だった。
「私は正義よ。悪を討つための力なら、それがどこから来たものであろうと正しいのよ!」
血を吐くような――しかし、どこか陶酔を感じるその一言が、周囲にどう響いたのかはわからない。ただ……勇者というのは、基本的にそのような感傷など感じぬ物だ。
「はっ、人に責められ続けて狂ったか、年増なだけはあるな……!」
ヒーローたちの後方から、屈強な体躯を持つ勇者が躍り出た。
彼は大剣を召喚し、前方に強固な光の結界を展開しながら乱舞へと猛進する。通常ならば、大型の装甲車すら両断する勇者の圧倒的な膂力。
両断の勇者。その異名にふさわしい威容でもって、その男の一撃が迫る。
だが、乱舞は慌てるそぶりも見せず、下から跳ね上げるように自らの刀をぶつけた。
ガァァンッ!!
金属同士が激突する轟音が議場に響き渡る。
純粋な力比べならば、本来のヒーローである乱舞が勇者に敵うはずがない。だが、刃が拮抗したのはほんの一瞬だけだった。
勇者の大剣の刃こぼれから、紫色の靄が侵食を始めたのだ。
「何だ、これは……! 剣が、俺の魔力装甲が……腐っていく!?」
勇者が驚愕の声を上げた。鋼鉄の剣であろうと、高密度の魔力で編まれた障壁であろうと、乱舞の刃から放たれる『腐毒』の加護は、あらゆる構造を無差別に瓦解させる。
大剣がボロボロと錆び落ちて崩れ、バランスを崩した勇者の腹部に、乱舞の容赦ない前蹴りが突き刺さる。巨体が宙を舞い、後方の官僚たちが座るひな壇へと無惨に激突した。
腹部からしゅうしゅうと煙を上げる――生きてはいる、が、同時にもう動けないだろう。
「ヒィィッ!」
「逃げろ! 早く逃げろ!」
次の瞬間、乱舞は躊躇うことなく刀を抜き放った。
瞬きほどの暇もない。彼女の放った一撃は、ただそれだけで周囲の大気を焦がすほどの鋭さを持っていた。
この一撃で、目の前の妖霊を断ち斬る。そうすれば、私の物語は正しい形で完結する。
「死ねェッ!」
叫びと共に、紫の凶刃がカプセルへと叩きつけられた。
けたたましい音と共に激突――
「―――っち」
――するはずだった。