薄暗い廃倉庫の一角。外界から完全に遮断されたコンクリートの壁に囲まれたその空間で、唯一の光源となっているのは、ひび割れた木箱の上に無造作に置かれた小型の携帯モニターだった。
ノイズの走る液晶画面の向こう側では、堅苦しいスーツを着た報道官が、数日前の公聴会を経て急転直下で決定された国家の方針を、感情のない声で淡々と読み上げている。
『――以上の検証結果と公聴会での答弁を踏まえ、H.A.Dの危険性を全世界に周知する動画、映像資料を順次公表し、その危険性を明らかにするとともにより厳格な規制を進める方針を……』
そこまでニュースが流れたところで、苛立ちに満ちた手が乱暴にモニターの電源スイッチを叩き切った。
ぷつり、と音を立てて鬱陶しい報道官の顔が消え、空間は再び淀んだ暗闇へと沈み込む。
モニターを叩き切ったのは、かつてはヒーローとして正義の矢面に立ち、誇りを持って責務をこなしていた30代の女性――桜花乱舞であった。今は国家から追われる極悪非道なテロリストと同等の扱いを受ける身となった彼女は、忌々しげに画面を睨みつけていた。
「……だそうだけど。で? これからどう落とし前つけるつもりよ、このお粗末な結果」
乱舞は、傍らに立てかけてあった大太刀の柄をぎりりと握り締めながら、背後の暗がりへと鋭い視線を投げた。
彼女の足元からは、触れるものすべてを無差別に瓦解させる『腐毒』の紫の瘴気が、まるで彼女自身のどす黒い鬱憤を代弁するかのようにチリチリと音を立てて這いずっている。
彼女の冷酷な怒りの矛先を向けられたのは、暗がりの中でゆらゆらと不定形な輪郭を揺らす、極彩色の紫の靄だった。
「そんな怖い顔で睨まないでよぉ」
靄の中から、どこか間の抜けた、しかし聞く者の神経を芯から逆撫でするようなねっとりとした声が響く。
それはゆっくりと空中で人間の顔に近い歪なパーツを構成し、まるでひどく落胆して駄々をこねる子供のような表情を作ってみせた。
「僕に言われたってさぁ、今更どうしようもないじゃなーい? むしろ僕の方がガッカリしてるくらいなんだから」
「ガッカリしてるのはこっちよ。あんたが『大衆の面前で奴らを暴れさせれば、人間社会は必ずパニックになって自滅する』なんて偉そうに言うから、わざわざ泥を被ってあんな茶番に付き合ってやったんじゃない」
「そうだよぉ。せっかく僕らが一芝居打って、あの得体の知れない三匹を明るみに出してあげたっていうのにさぁ……」
『忍び足で現れる腐毒』の妖霊は、ぐにゃりと輪郭を崩しながら、心底げんなりとした様子でぼやき続けた。
「人間ども、思ったほどあいつらを叩いてくれなかったんだもーん。普通さぁ、あんな見た目からしてヤバそうな化け物が議事堂のど真ん中に現れたら、『ヒィィ、お助けを!』って大騒ぎになって、勇者だろうが何だろうが手当たり次第に排除しようとするでしょ? なのに、なんだいあの背広のオジサン。化け物より薬の方が危ないから、化け物と手組みます、なんてさ。人間ってホント、可愛げがないっていうか、理屈っぽすぎてつまんないよねぇ」
妖霊の不満は、高次元生命体特有の『人間という下等生物への根本的な理解不足』から来るものだった。
彼らは、人間が未知を恐れる脆弱な生き物だと知っていた。だからこそ、扇たち特撮班の異形な姿を世間に晒せば、人間は必ず彼らを恐れて迫害し、やがて特撮班と人間社会との間で修復不可能な亀裂が走ると計算していたのだ。
だが、妖霊は「官僚」という生き物の異常なまでのしたたかさを、そして黒土幸太郎という男の泥臭い政治的判断力を完全に甘く見ていた。
彼らは未知の恐怖よりも、目先の『H.A.Dによる社会秩序の崩壊』を天秤にかけ、遥かにマシな「話の通じる化け物」を抑止力として利用する道を選んだのだ。大衆の面前で恐怖を煽れば自滅するという安い盤面は、人間の泥臭い政治的判断力によってあっさりとひっくり返されてしまった。
――まあ、もっとも、それも天塚新が仕込んでいるという事実を、彼女が知っていれば、あるいは納得したのかもしれないが。
「っち、使えない……」
「あはは、耳が痛いなぁ。でもさ、そんな結果論で怒らないでよ」
腐毒の靄が、ずるりと蛇のように這って乱舞の足元にすり寄る。それはまるで、間接的な盤面作りが失敗した今、残された道は『純粋な暴力』しかないのだと、彼女の心の中にくすぶる独善的な欲望を優しく撫で回すかのようだった。
「一つ計画が失敗したら次、もう一つ失敗したらさらに次!あきらめなきゃいつか夢はかなうよ――あの連中がそうだって言ったでしょ?」
けらけらけらけら。
嘲るように、鼓舞するように、クルミがこすれあうような耳に心地よく、腐った泥を耳に押し付けられているかのように不快な音が桜花乱舞の耳に届く。
「……あいたちの正体をばらすのはダメなわけ?」
「ダメダメ、そんなことして『最初の人たち』が自由に動けるようにしたら、僕らあっという間につぶされるよー?この前、精神の領域でさえまともに戦えないくらいなんだから、物質領域で戦ったらあっという間だって。」
それが、あの場で桜花乱舞が彼らの正体をばらさなかった理由――ばらせないのだ、自分達が追撃される危険性があるから。
扇達が『自分達の存在を秘匿し、その正体を疑惑で包むことで勇者の動きを制限している』ように、妖霊たちも『正体を明かさないこと』で扇達の動きを制限しているのだ。
もし、この関係が崩れれば、扇達はその圧倒的な力をフルに使い、自分達を見つけ出すだろう。
「あの三人の目的が何かは知らないけど、あの三人は何かの目的を達成するまで自分達の正体を隠して、勇者を牽制したい、その思惑に乗れてるから私たちはぶじなのーわかったー?」
「……っち!」
「怒らない怒らない――君の正しさは、僕がしょうめいしてるでしょー?私/僕/儂/我/己が言うんだもん、間違いないよ?ね……?」
その甘く、魂を腐らせるような囁き声に、乱舞は小さく息を吐き出した。
もはや引き返す道など、とうの昔に絶たれている。彼女自身の正義の刃は、この紫の腐毒なしには成立しないところまで腐り落ちていた。