「……え?」
赤坂猛は、微かに目を見開いた。
いつも大人しく、自分の後ろを影のようについて歩いていた妹分からの、予想外の反論。
「御影……自分が何を言っているのか分かっているのか? ゆかりが彼をどう思っていようと関係ない。あれは正常な判断じゃないんだ。あんな落伍者の元に居ればいつか必ずゆかりは傷つく。身内として、それを見過ごすわけにはいかないだろう」
「……そうかもしれない、たぶん、それは正しいんだと私も思うよ。」
御影は、溶けかけた氷が浮かぶグラスを両手で強く握りしめた。グラスの表面に結露した冷たい水滴が、彼女の真っ白な指先を濡らし、ぽたぽたとテーブルに落ちていく。
実際、扇雄介の――あの正義の味方を名乗る者たちの人生は苦難の連続だろう、無人の砂漠をたった三人、行く先も見えず、足跡すら残さずにあゆみ、何処にたどり着くとも知れぬ道行きの果てで、待っているのは決して素晴らしい終わりではないように思える。
現に、今の状態がそうだ、彼らは多くのいじめられっ子や、村八分にされた者を助けてきた、時には武力で、時には英知で、時には執念で。
不良に金目的で襲われたホームレスを救い、壊れた機械を直して、町工場を倒産から救った、離れ離れになった友人を執念で探し出したことだってある。
だが、その気性について来れる者は極端に少なかった――いや、あの三人だけといってもいい。
そう、誰もが皆、尻込みするのだ。
彼等の正義を、共にすることを。
髙く、険しく、そして茨のごとき道を歩み、それでいて、共立つ者はほとんどいない。
結局、誰からも頼られる救世主には、頼ることのできる仲間がいないのだ。
彼等の歩く道は、足跡の無い無限 of...(※失礼いたしました。不要な文字を排除して)彼等の歩く道は、足跡の無い無限の荒れ野であり、あらゆる足跡を吹き消す熱砂の海である。
行く先も、方向も、果ても、何もかもが分からない道を歩むことに二の足を踏まない者があるだろうか?
「――それが、お姉ちゃんなんだと思う。」
いる、ただ一人、この世であの娘だけは、あの三人の後ろから、消えた彼らの足跡を追い続けた。
「それは、たぶん安全じゃないと思う、だから、兄さんの心配も、わかるよ。」
ただ。
「だからって、それをわたしたちが止められることでも、ないと思う。」
それは、きっとただのきれいごとだ。
後悔するのが目に見えているのだから、やめさせるべきだ。
死ぬかもしれないから、危険な事はやめろと諭す。
それは、単純で、当然の心配だ、否定はしない。
だが、歴史に名を残せる人間は、往々にして自ら進んだものだけだ。
あるいは、誰も知らないところで、その生活に後悔したかもしれない。
あるいは、誰も知らない裏では、もっと悪い奴と取引をして、その名声を得た偽り者なのかもしれない。
それでも、リスクを何も取らない人間は何も残せないし、リスクを取ってでも無人の荒野を行くことを望む者を止められる理由にもならないから。
「だから、私はお姉ちゃんに何も言えないし、言うつもりも、ないよ。」
自分が今、彼女のために加護にあらがおうとしているように、人は、自分の行く末を定めることができる。
「確かに、扇さんは変な人だよ、いまだに特撮とか見てるし、たぶん、世間一般で魅力的な人とか、成功者ってわけじゃない。」
きっと、そのことで苦労する日は来るだろう。金がないと嘆き、あるいは、その人生を後悔する日が来るのかもしれない。
それでも。
「私は、お姉ちゃんがそうしたいって思うなら、お姉ちゃんを応援したい。きれいごとだっていう人もいると思うけど……私は、勇者だもん、それぐらいはできるし、それぐらいは、したい。」
そのための加護で、そのための力だ。
御影の言葉は、静かだが、ひどく澄み切っていた。
赤坂は、息を呑んだまま絶句していた。
「……御影」
赤坂の声は、微かに震えていた。
反論の余地など、どこにもなかった。常識や世間体という安全な場所から石を投げているだけの自分に、自らの足で荒野を歩む覚悟を決めた少女の強い意志を、止められるはずがない。
「……君は、強いんだな」
「ううん。私は、弱いよ」
御影はグラスから手を離し、ふわりと微笑んだ。
それは先程までの、身内に対する無邪気な愛想笑いではない。
もっと深く、もっと確かな芯を持った、一人の人間としての穏やかな笑顔だった。
「……わかった。僕の負けだ」
そう言って、彼は力なく笑って、昔と同じように頭を撫でようと――その
彼の力――『すでに腐り果てた物を統べる』右手は、御影に触れるやその力を解き放ち、彼女の心の腐った部分……あの男たちが来てから重要視されていないように感じる心や自分の力に対する恐れ、周囲への無理解に侵入し、たちどころに彼女を支配するだろう。
そうなれば簡単だ、この娘を使って、ゆかりに会うだけでいい、あの一件以来、こちらを避けているあの娘の中にある、あの扇雄介への不満や不信感を支配し、あの男から引きはがすだけで、事は――
「――あれ、御影女史何してん?」
――声がした。
どこか気の抜けた、しかし、芯の通った声だ、聞き覚えはない。
御影の視線が流れる――その視線を追って、声の方向に目を向ければ、そこにいたのは……
「あ、七星さん。」
「お疲れお疲れ、さぼりかい?お母さんに叱られるでよ。」
どこか気の抜けた様子の男、ひょろりと長いその体躯は、どことなく頼りなく、しかし、なぜだか、眼を離せない恐れのようなものを纏ってそこにいた。
ビクリ、と。
赤坂猛の右手が、空中で不自然に硬直した。
掌に込めかけていた『紫の輝き』――相手の心の腐敗に干渉し、精神を意のままに支配する悪辣な異能が、まるで絶対的な天敵を前にした小動物のように、彼自身の意志を完全に無視してシュルリと鳴りを潜めたのだ。
赤坂は弾かれたように右手を引っ込め、声のした背後を振り返る。
七星。特撮班に所属する、扇雄介の部下であり、昨日の食事会でゆかりの口から名前だけは聞いていた男。
「……御影、そちらの方は……?」
「――っと、これはどうも失礼、七星一也と言います、そちらの御影さんの……同僚になるんでしょうか、いつも御影女史にはお世話になってます。」
「これはご丁寧に、赤坂猛です、お噂はかねがね。」
「ああ、あなたが……この前はうちのリーダーがお邪魔したのにもめてすいませんでしたね。」
そういって、差し出された手を握る――紫の輝きを宿したまま。
こんな事態になるとは思っていなかったが、好都合だ、こちらを一般人だと思っている隙に、この男の内面を腐らせ、連中の正体を白日の下に――
「――俺にこの下らん腐敗の力は効かんぞ。」
「!?」
「いいか、お前がだれだろうが構わんが、二度とこの薄汚れた手でこの娘に触ろうとしてみろ、両腕引きちぎって犬のえさにするぞ。」
――その声が聞こえたのは、この場において唯一、赤坂だけだ。
調整した振動を、狙った位置にだけ、吹き矢のごとく飛ばす異形の妙技、およそ余人には扱えぬそれを成し遂げた七星は、にこやかな表情を変えることすらなく、赤坂から手を離した。