――グヂュ、と。
それは、決して人間が立てていい音ではない。
水風船が破裂するような、あるいは、濡れた雑巾を限界まで絞り切って引きちぎったような、湿った破壊音。
「――っ、下がれ!」
七星が御影を抱えてアスファルトを蹴ったのは、本能的な危機察知によるものです。
一瞬前まで竹林と呼ばれていた少年が立っていた場所から、爆発的な勢いで何かが膨れ上がった。
「あ、ア、ぁぁぁぁガァァァァァァッ!!」
絶叫。
だがそれは、言葉としての意味を成していませんでした。
喉が、声帯が、口腔が、内側からあふれ出した「異物」によって作り変えられていく苦悶の響き。
街灯の明かりの下、少年のシャツが内側から突き破られる。
裂けた皮膚の隙間から覗いたのは、骨でも肉でもない。
濡れそぼった、赤黒い甲殻だった。
「な……」
七星の腕の中で、御影が息をのむ気配がした。
無理もない。彼女は勇者として多くの魔物を見てきただろうが、これは違う。
魔法陣から現れるファンタジーの住人ではない。
ついさっきまで言葉を交わしていた人間が、物理法則を無視して、メリメリと音を立てて「中身」をさらけ出しているのだ。
人間の形をした蛹(さなぎ)が、無理やりこじ開けられるかのように。
顔面の皮膚が左右に裂け、その奥から、複眼を思わせる無機質なレンズと、呼吸音を鳴らす排気ダクトのような器官がせり出してくる。
異臭が鼻をついた。
血の匂いと、錆びた鉄の匂い、および薬品特有のツンとする刺激臭。
変身、などという生易しいものではない。
これは――
「……変態(メタモルフォーゼ)、ってか?」
シャレにならない。
『この前の怪人とは違う個体……やっぱり薬か?』
薬品ごとに、変態先の姿が違う?またずいぶんと特撮じみたものだ。
あの構造変化が、先立って自分が見た怪人と同じものである確証はないが、少なくとも――
『このまま、放置はできん。』
それだけは確かだ。
それは、爛々とこちらを見ながら光る瞳を見ても明らかに思えた。
「――ほら、みてよぉ、御影さぁん!僕も、僕も勇者に――いや、それを超える存在になれたんだぁ!」
けたけたと哄笑を上げる。
その声の震えに、明らかに正気のそれではない。
見た目は――カニに、近いのだろうか?
全身を覆うのは赤黒い甲殻だ。
だが、自然界に存在するカニのように整ったものではない。
右腕だけが異常に肥大化し、指が癒着して1つの巨大なハサミを形成している。対して左腕は細く長く、まるで鞭のように地面を引きずっていた。
シオマネキを思わせる非対称な不均衡。
背中からは甲殻類の脚のような突起が数本生えだし、わしゃわしゃと空気を掻いている。
口元からは泡があふれ、複眼のようなレンズの奥で、かつて竹林だった瞳がぐるぐると回っていた。
『シオマネキング……じゃねぇな、あれよりもっと生物的だ。』
おまけに、足も動いている――まったく、質が悪い個体をさらに悪くしないでもらいたいものだ。
「かっこいいだろう? 強いだろう? これなら、君を守れる! 君を僕だけのものにできる!」
「カニの横恋慕か?前を向けないのは歩きだけにしてくれ。」
服の前を開く、胸に装着された装置のスイッチを入れる――トランサーが動く。
腰から引き出された1枚のカードが、踊るように胸に飛び込んだ。
「――変身。」
刹那、七星の体を銀色の輝きが包み込む。
キィィィィン! という甲高い駆動音と共に、空間そのものが震えた。
衝撃変身。
変身の瞬間に発生する余剰エネルギーを、光ではなく物理的な『衝撃波』として周囲に撒き散らす、彼独自の変身プロセスだ。
「っち。」
至近距離でその衝撃を浴びたスレイバーが、たまらず後ずさる。
徒手空拳で戦うことに特化した、殴るためだけのヒーロー。
インパルス・バングル。
その銀色の仮面の下で、七星は冷徹に眼前の怪人を見据えた。
「――腐れ蛮族がよぉ!出張ってきてんじゃねぇぞ!」
口から泡が飛ぶ――何とも、語彙力のない煽りだ。
「――淑女を誘おうってわりに、無礼が過ぎるぞ男の子、不調法は嫌われるぜ。」
銀色の仮面が、あきれたように首を振る。
その余裕が、スレイバーの逆鱗をさらに逆撫でした。
「うるせぇ!死ね!死ね!死ねぇぇぇ!!」
理性を失った怪物が、右腕の巨大なハサミを振りかぶる。
その質量は、軽自動車1台分にも匹敵するだろう。
魔力によって強化された筋繊維が悲鳴を上げ、空気を切り裂く轟音と共に、銀色の脳天目掛けて振り下ろされた。
直撃すれば、コンクリートの電柱すら粉砕する一撃。
だが――七星は動かない。
避けない。
ただ、静かに腰を落とす。
断頭――読んで字のごとくだ――斧が迫る、数秒後の惨劇をカニの怪人は哄笑と共に受け入れる。
それを阻む者がいるとすれば、それはやはりただ1人。
――王心七征拳・回し受け――
――銀の手甲を纏った、この世で3人だけの正義の味方だ。
大きな円を描くように、腕がくるりと回される。
回転する腕が、まるで羽のように優しく、断頭の力を込めてふるわれたはさみに触れ――流す。
流れる川の水のように、滑らかで淀みのない誘導は、接触を接触と感じさせない。
さきだっての怪人にも使ったこの技は、しかし、今回は一段先の技もあった。
右上段から左への振り下ろしの一撃を右手で受け流す、そうした時起こる現象は1つ――体が、右に流れる。
結果、カニの左手は自分の体が障害となって右側の防御を行えない。
結果、生まれる隙を見逃すインパルス・バングルではなかった。
右の腕を流す過程で生まれた力を、余すことなく腰に、回転と捻じりの似て非なる2つのものが合致した時、左手がうなりを上げる。
――王心七征拳・正拳――
拳を縦に、体に打突痕を残さぬのが、彼のささやかな自慢だった。
「――ごぼっ……ごぼっぼおぉ!」
口から激しく泡を飛ばし、少年は再び襲い掛かる――その目には、もう、七星しか見えていない。
やはり――
『錯乱してる。』
先立っての事件の犯人らしき男もそうだった。
あの後の警察の捜査によると、あの事件の犯人らしき怪人は、あの時、集団で会社を出てきた社員たちの内、1人を執拗に追いかけまわしていたらしい――あの時、足元で転がっていた人物だ。
体に生えた牙とも刃ともつかないあの刀身で、彼をずたずたにしようとしたその時――突如、彼は集団の中にいた女性社員を見つけて、ふらふらと近寄り、何かを訴えるように体を誇示し始めたのだという。
だから、あの時、七星たちは間に合ったのだ。
その話を聞いた天才の反応は1つ――錯乱しているのではないか?だった。
「いや、まじめな話――自分の中で、目標が定まらなくなっているのでは?」
だから、殺害対象がいるのに、手を出さず、ほかのことにかまけた。
要するに、『その時、思考に上がった行動』が、あの怪人たちのすべてになるのだ。
だから、殺害対象よりも女を優先するし、告白に来た女を放置して、七星を狙う。
厄介な性質だった――つまり、この怪人を相手にするときは、少しでも注意を引くものをほかに作ってはならないのだ。
例えば、音、何かが壊れる音がすれば、すぐにそちらに気を取られるだろう。
あるいは匂い、好きなにおいなどさせれば、同じことだ。
「……何あれやばぁ。」
――および、光。
特に、写真のフラッシュなどもってのほかだ。
――今のような。
パシャっと、スマホのシャッター音が、した。