ズルリ、と。
女の真紅の袖口から飛び出したのは、人間の腕ではありませんでした。
骨や関節といった概念を捨て去った、粘液のような真紅の触手。それが鋭い刃となって、3人の首を狩るべく放射状に伸びてくる。
「あら、急に異形系。」
驚いているのか、あるいはおちょくっているのかわからない七星が、ぽつりとこぼしてバックステップで触手の先端を躱す。だが、女の攻撃は止まらない。壁に刺さった触手はそのまま軌道を変え、蜘蛛の巣のように3人を囲い込んでいく。
「物質的には完全に人間だというのに、細胞分裂の回数も気にしないとは、よくわからない体ですねぇ。」
すでに半透明の実体と化している天塚が冷たく吐き捨て、両腕に回転する眩い光の刃を発生させた。
光刃が触手を切り裂くと、血の代わりに黒いタールのような液体が滴り落ち、床をジュッと焦がす。
「いくら手数を増やそうが――」
蒼い人間の原質――扇が静かに目を細める。彼を中心に発生した猛烈な圧力が、迫り来る触手の群れをまとめて上空へと吹き飛ばした。
「――本体を潰せば終わりだろ?」
風の道筋を通り抜け、七星が女の懐へと瞬動する。
迎撃しようと女が口を開いた瞬間、その腹部に七星の膝蹴りが深々と突き刺さった。
「――ええ、潰せれば……そうかもしれませんね?」
「!」
膝の接触点に異常。チャクラで変異した肉体を、酸のように溶かそうとしている――まあ、その程度で溶ける体はしていないが……
『こいつ――』
これでわかった、こいつ、人間の体を奪ったタイプの人外ではない、これは――
『なんかの技術でこの体を作ったな?』
目を細める――となると、やはりこの生き物は――
「……やはり、この体ではお相手できませんね……残念ですが、お暇するしかなさそうです。」
「逃がすとでも?」
「いいえ?ですが、私としても、ここで捕まって差し上げるわけにはいかず――お客様のご期待に沿えないのは心苦しいのですが、弊社の力不足ということで1つ――」
にこやかにほほ笑む――明らかに何かを企んでいる、笑み。
またしても表情のずれか?
「――ご容赦くださいね。」
言いざま、砲撃が来た。
天から降り注いだのは、極太の熱線だった。
音すら置き去りにして飛来したそれは、廃ビルの屋上を丸ごと蒸発させるほどの熱量と質量を持っていた。
狙いは七星ではない。真紅の女ごと、この場にいる全員を焼き尽くすための面制圧攻撃だ。
「――――雄介!」
ゴアァァァァッ!という大気の悲鳴と共に、落ちるそれは、しかし、余人の目には映らぬ1撃だった。
可視光外の光だけをかき集め、人の目に映らぬ熱線に変える――なるほど、意味の分からぬ妙技だ、まさしく魔法と言っていい。
天塚の声が響くのと、夜の闇をその身に湛える人の原質はするりと、手を熱線に向けた。
「――《逆行》」
――次の瞬間、人の目に映らぬ殺意が『反転』する。
彼の『脳からはみ出してしまった精神』の塊であるψ力場が生み出す奇跡。
飛来する物体の運動エネルギーを念動力で受け止め、瞬時にその『ベクトル(方向)』だけを180度反転させて打ち出す。
要するに、空間に『あらゆるものを跳ね返すトランポリンを作っている』と思えばいい、相手の攻撃力をそのままそっくり逆流させる妙技。
万物を焼き尽くす熱線を前にしても、その力は全く衰えることを知らない。
バジン!と、空気を強引に焼き切るような破裂音が廃ビルの屋上に響き渡った。
誰の目にも映らぬほど極限まで圧縮された不可視の熱線が、天空に向けて逆流していく。超高熱によって大気が1瞬だけ陽炎のように歪み、人工衛星すら穿ちかねない破壊の光条が上空へと消え去った。
「あぶねーな。軌道衛星兵器か何かか?」
銀の生体装甲に覆われた顔をしかめ、七星が忌々しげに唇を尖らせる。
「ん? んにゃ、もともとこのビルの直上に仕込まれた罠だ……やっぱり、逃げたな。」
夜空のような青い肌を持つ扇が、大気に残る魔力の残滓を読み取って冷静に告げた。
「ん、想定通りだ」
七星が右腕を掲げる。
固く握りしめられていたのは、先ほどまであの女が身に纏っていた、鮮血のように真紅のタイトスーツの残骸だった。
だが、その中に「肉体」はない。
スーツの表面には、まるで生物の消化液か劇薬のようなドロドロとした泡がこびりついており、ぼこぼこと不快な音を立てて沸き立っている。
中身の肉体ごと『溶かして』逃げたのか。あるいは、最初からこの服自体が彼女の擬似的な体を構成する一部に過ぎなかったのか。
得体の知れない気味の悪さだけを残し、謎の女は特撮班の前から完全に姿を消した。
「……やっぱり予知は外れずか。」
苦々しくこぼす――この逃走もまた、扇にはわかっていた未来だ。
それを避けられるように方策をいくつか立てたが――うまくはいかないものだ。
「やっぱ本体は捕まえられんな……で?ネタは?」
筋膜を結晶化させた生体装甲の腕をぶらりと下げ、七星が忌々しげに首を鳴らした。
「正体はわかった」
夜空色の肌を持つ扇が、女が消え去った空間の残滓にそっと指先を触れ、静かに答える。
そのために、逃げられるとわかっていながら、3人がかりでここに来たのだ。
「予想通りですか?」
半透明の流線型の頭部を揺らし、天塚が尋ねる。彼の胸に穿たれた三角形の穴から漏れる光が、かつてない危機を告げるように明滅していた。
「そうらしい」
扇は多面体状の結晶の瞳を細め、眼下に広がる平和な街のネオンを見下ろした。その声には、かつてないほどの警戒と、およびほんのわずかな闘志が混じっていた。
「――とうとう、『妖霊』本人がこっちの世界に直接ちょっかいをかけてきたらしい。」