#1
ろくせんえん。
好きなお菓子や読みたい漫画、欲しいゲームを諦めて、貯めに貯めたお小遣い、三ヶ月分。すべてはこの竿のためにーー
「いよっっしゃあああああ!」
髪を短く刈り込んだ少年の雄叫びが、真夏の青空に吸い込まれて消える。
騒がしく鳴いていたミンミンゼミが驚いて飛び去り、田んぼのカエルもパシャンと水の中へと飛び込んだ。
夏休み初日、現在のお小遣い残金ーーなし。
されども彼は、
「ハル、うっさい!」
「まぁまぁ、ナギサちゃん……ハルくんあんなに頑張ってたんだし、ね?」
「でもさっきからずっとだよ!? うっさいでしょ!? シオリもそう思ってるでしょ!?」
「えっと、まぁ、うん……それでも、ね?」
「とはいえ、ハルのあれはしょせん頑丈さが取り柄のエントリークラスだ。それほど喜ぶほどのものか?」
「うっせぇ。金持ちレンにゃわかんねぇーだろうな、この気持ち!」
「僕は金持ちじゃない。計画的に使っているだけだ」
見渡す限りの山と田んぼに囲まれた田舎道、仲の良い四人組はやいのやいのと言い合いながら自転車を転がす。
東北某所、川と田んぼと池と沼しか無いような田舎の村で、少年少女の楽しみといえばお祭りかこれくらいなものだと言わんばかりに、それぞれのカバンや自転車のかごの中には釣りの道具が入れられていた。
「俺も! やーっと! 竹竿から卒業したんだぞ! あの! 百均のやつから!」
「君はお小遣いの使い方が、無計画にすぎるからだ」
皮肉屋気取りの
「月々少しずつ貯めていけば、安くても僕みたいに高感度カーボンのロッドとベイトリールがだね……」
「バックラッシュして釣る時間が少なくなるやつよりはマシだと思うぜ?」
「……今日はバス釣りにしよう。君がルアーだ」
「てめぇを餌にしてバボバボ釣ってやろうか?」
「やめなよふたりとも」
呆れたように、ボーイッシュな少女の
「いてぇ」
「ちょっと、折らないでよ?」
「折れるわけねえーだろグラスひゃくぱーのコイ竿なんて!」
「確かに、想像できないね。五十センチを難なく寄せるゴリラの竿なんて」
「つぶすぞきさまら」
「だめですよナギサちゃん……」
気の弱そうな委員長タイプの、眼鏡の
「川に落としたほうが楽ですよ?」
「あの、シオリさん?」
「……冗談ですよ?」
気は弱いが腹は黒い彼女の釣具は、まるで誰かのお下がりのように古めかしいハードケースに収められている。
「まぁ、私より釣れるようになってから喧嘩してくださいね? お二人とも」
「数釣りでフライは卑怯だろー!?」
「いや餌のほうが釣れるでしょ」
「ふふ。ハルくんもやってみない? フライ、楽しいですよ?」
「シオリもあたしを無視して布教を始めるな」
「そうだぞ、シオリ。ハルにはまずルアーの良さを教えないといけないんだ。横入りはやめてもらおうか」
「いや金ねぇーよ。なんだよ一個七百円からって」
「フライなら自分で巻いたら数十円だよ?」
「餌ならタダじゃん。そのへんの虫とかミミズでいいんだし」
「私、生き餌はちょっと……」
「いちいち探すのめんどくさい」
「いもようかんでも十分釣れるんだけど?」
「確かに十分釣れるだろうね。けれど、僕に言わせれば、ロマンに欠けるね」
「分かります……! 季節ごと、川ごとにフライを選ぶ楽しみ……いいですよねぇ……」
「ロマン語るやつらがリールはどうなんだよ。ゴリ巻きしてもドラグ効いてりゃ糸切れねぇのに」
「フライはゴリ巻きできないよ?」
「そもそも君はマシンを操るロマンを知らないのか? それでも男か?」
「それとこれとは話が別だろー!?」
やいのやいのと右へ左へ、ジグザグに隊列を入れ替えながら自転車を走らせる。
向かう先はいちばん近くの里山の、冷たい清水をたたえる山上湖を水源にした、細長い源流域の川だ。
四人は山の麓の、申し訳程度に整備された登山道入り口に自転車を止めて、それぞれのリュックサックを背負い直す。そうして少し登山道を歩くと、長らくこの村の釣り人たちから愛された川にかけられた吊り橋が見えてくるのだ。
ざぁざぁと、いちばん深いところで一メートル程度だろうか? 川幅は十メートルもないようなその川へ、四人は吊り橋の入口脇に出来上がった先代釣り人たちの獣道を慎重に降りていく。
「転ぶなよー」
先頭を行く晴が言えば、
「危ないのはシオリくらいでしょ」
と渚が答え、
「ナギサちゃん……ひどくない?」
渋い顔をして栞が呟き、
「いちばんころんだのはハルだった気がするね」
そうして怜が皮肉を言うのだ。
「いや、あれは竿が引っかかってだな……」
「いまはもう引っかからないよねー、新しい竿買ったんだし?」
「そうそう! もうこんな短くなる竿は初めてだよ!」
「継数が増えれば固くなるがね」
「硬いのがいいんだよ! 名前もかっけーし!? 剣豪だぞ! 剣豪!!」
「竿の名前にあるまじきダサさ!」
「いちおう、
「長さが
「ださっ!?」
「うっせー!」
思わぬ語呂合わせに上がった晴の絶叫は、川の音や木々のざわめきにかき消される。
そうしたほんの少しのやり取りの間に、四人はもう川岸へと到着した。
「うーっし、誰から釣る?」
源流域のこの川では、四人並んで竿を伸ばすには、いささか流れが早すぎる。やった日にはあっというまに仕掛けが絡んでしまうだろう。
「あたしは餌取ってからだから、お先にどーぞ」
渚はカバンのなかから、小さな玉網を取り出して言う。短パンにそれの柄を突き刺して、さっさと川へと入っていった。
「僕はルアーだからね。最初にやってしまっては魚がすぐにスレてしまうだろう?」
怜は川に入っていった渚に目をやりながら、二分割になった竿とリールを組み合わせ、組み立てながら口にする。
「俺も餌ないからなぁ」
「何しに来たんだ、君は」
「あいつに分けてもらおうかな? って」
晴も、川べりにしゃがみ込んで、バシャバシャと岩の下や水底をつま先で引っ掻き回して水生昆虫を集める渚を見つめた。
「あ、じゃあ、私が最初でいい、かな?」
「フライならほとんど荒れないだろうし、いいんじゃね?」
「ああ。いつも通り三投交代で、釣り上がっていこう」
「うん。じゃあ今日のいちばん、もらうね?」
四人の中で決まっている、いつものルールを再確認し、栞はロッドケースからフライロッドを引っ張り出した。
「今日は……気温、高めで……十二番、パラシュート……ううん。気分的に、十四番、アダムス……!」
呟きながらあっというまにセッティングを終えて、小さな小物入れを開いた。小物入れにみっちりと、いくつも並んだフライは、すべて彼女の手作りである。遠目からはほとんど虫に見えてしまうほど、完成度の高いものばかりだ。
その小さな偽物の虫の宝石箱から、一つのフライを選択する。透明な釣り糸の先にそれを結びつけ、軽く口先で結び目を湿らせ、更にきゅっと締め上げる。そうしていくらか、竿先から
「行きます……!」
「ほぉーい」
気の抜けた晴の声と同時に、フライロッドを小さく後ろへ振りかぶる。竿先から出したフライラインが、木の枝の間をきれいに抜けて、ぴんと伸び切るのを栞は手応えで感じ取りながらーーひゅん、と。
前へとロッドを振ってやれば、ラインは鋭いループを描いて、川の上流へと伸びていく。
狙いはいちばん流れの早い流芯の、その隣。川底の石にぶつかって、ぐるりと流れの巻き返しが起こるポイントに、彼女のフライはぽとりと静かに着水した。
「きれーなもんだなぁ……」
「ああ。ほんとうにアメンボかなにかが、ぽとんと着地したみたいだ」
「え、へへ……」
褒められてはにかむ。はにかみながらも、水面に落ちたフライをじぃっと見つめる。
川の流れに従って、ぷかぷか浮いたフライはくるりと上流、下流。まるで花びらがくるくる数回回って、そうしてゆっくりと下流へ流されていく。
「に」
投げた数を口にして、フライロッドを立てる。体の後ろに、竿とラインがDの字を描くような形にすると、ひゅん、ともう一投。
まるで新体操のリボンみたいに、水面を転がるようにフライラインがロールしていき、糸の先のフライがもういちど、ぽとり、先ほどと同じ位置に着水する。
ーーぱしゃん!
川が急に、爆発したみたいに。水面に小さな水柱が上がった。
「出た!」
「ーーん……!」
晴の言葉からワンテンポ、わざとずらすように頷いて、栞はロッドを立てた。
水面を漂っていたフライラインが
「お、ヤマメか?」
「アマゴかもしれないです……!」
力を込めて、しかし落ち着いて。竿先から伸びるラインを手元で手繰る。
「シオリ、アミいる?」
魚が飛び出たことを知った渚が、玉網片手に戻ってきて問いかける。
「大きくないから、抜こうかな、って……!」
慎重に、それでいてやり取りを指先で楽しむように。ギリギリまで近づけてーーぐいっと引き抜く。
「やった……!」
「おー、ヤマメじゃん!」
「小さいですけど、今日の一匹目、釣れました!」
十センチ程度だろうか。ヤマメとしては小さな幼魚だが、それでも小学生の彼女らにとっては、両手で掴んでもなおはみ出すほどの大型に見えるものだ。
「やっぱきれいよねー」
「当然だとも、渓流の女王だからね」
思い思いの感動を共有する、これも釣りの醍醐味だろう。
「じゃあね、ありがと」
びちびち暴れる幼いヤマメから針外しを使って手際よく外してやると、栞はそっと水中に戻す。その小さなヤマメは、逃げるように川上へと泳いで行った。
「一匹目、シオリに先越されるとはなー」
「ふふふ……まぁ、フライですから」
胸を張り、楽しいですよ? と布教を忘れない。
「じゃ、次は俺かー?」
「いや分けてやんないわよ? クロカワムシ」
「はぁ!?」
「三匹しか取れなかったのよねー。シオリが思ったより早く釣っちゃったから」
「あはは……ごめんね?」
「あー、くそ、そっか、そりゃ、しゃあないか……」
残念だとばかりに、渋い顔をして諦める。
次はあたしだと鼻歌交じりに竿を伸ばし、仕掛けを付ける渚を尻目に、晴は「どーっすっかなー」と呟いた。
「練りエサくらいは持ってくるべきだったんじゃないのか? それか、食パンか」
「こないだ、かーちゃんに怒られたんだよなー」
「なるほど」
「ナギサんちみたいに冷蔵庫に
「あたしんちだってさすがに家の冷蔵庫はだめにきまってるでしょーが、お店の冷蔵庫だから怒られないだけよ」
「雑貨屋の娘つえー」
「せめてうちで釣り竿買ってくれたらサービスで付けても良かったんだけどね」
「コイ竿とヘラ竿とハエ竿しかねーだろお前んち」
「バカいわないで。アユ竿とタナゴ竿もあるわよ!」
「ぜんぶ硬さくらいしか変わらないよナギサちゃん……」
「長さと太さと調子と持ち手が若干違うわ!」
「細かすぎて伝わらない竿とかいうニッチな芸を披露するな」
怜が、はぁ、とため息をついた。
「で、どうする? せっかくの新しい竿で釣りに来たのに、何もせず帰るのもかわいそうだ」
「フライ」
「いや借りねぇーよ?」
「ち」
「……ちょいちょい腹黒いのなんとかなんね?」
「ハルくんだからとくべつ。わざとだよ……?」
「うわー、シオリ魔性の女ー」
「性悪女ー」
「……今日の川、きっと冷たくて気持ちいいんじゃないかな?」
「冷たかったね、たしかに」
「ごめんなさい」
「ん」
いつものやりとりを経て、栞は、こほんと咳払いを一つ。
「実際のところ、ですけど。選択肢は一つ、なんですよ」
「ほう?」
すちゃり、と眼鏡を押し上げる栞に、腕を組んで怜が答える。
「シンプル・フライフィッシング。つまりーーテンカラです!」
普段からでは想像できないような、力強い言葉で言い切った。
「てんから?」
「なるほど……」
「知っているのかレン!」
「いや、知らないね」
「知らんのかい!」
「だがシオリの言葉でなんとなく理解できる……そして、いままでの彼女の言動も……」
「あー、うん、そうね……だからめっちゃ勧めてたんだ? その竿……」
「ふふふ……そう、全ては私の思い通り……!」
「ど、どういうことだシオリ……!」
その場で、理解できていないのは晴ひとりきり。
黒幕と化し、不敵に笑う栞。その姿に恐れおののく晴。まるで日曜朝の特撮でやっているようなワンシーンであった。
「ねえ、ハルくん……その竿、どうして、買ったんだっけ……?」
「あ、新しい竿がほしかったから……?」
「なんでその竿を選んだんだっけ……?」
「え、ええっと……」
晴は思い出すように、難しい顔をしながら空を仰いでみせる。
「……そうだ、たしか」
「釣具屋にいくたび、『私のおすすめはこの竿かな……!』と、言っていたな」
「あたしんちの店で『ここのハエ竿もいいんだけど、やっぱりあの竿のほうがスペック高くってぇ……!』って、よくもまぁひとんちの営業妨害してるなぁ、と思ってたわ」
「名前がかっけぇから……!」
「君は馬鹿か」
「そういうところ、かわいいな、って思います」
「でもやってることは悪役よね」
「フライ仲間を増やすためですから……!」
ぐ、と拳を握り、力強く答える。目的のためには手段を選ばない女である。
「海外だとシンプル・フライフィッシングとか、イージー・フライフィッシングとか。いろいろ呼ばれてますけど……私個人としては、オールド・フライフィッシングって呼んでも、まちがいじゃないかな、って思っててぇ……!」
ようやく語れるとばかりに、栞はにんまりと笑い、両手でメガネを押し上げた。
「あ、私はですね? 古い海外の小説とか、映画とか、お父さんの影響で好きじゃないですか。それで、ブラッド・ピットの映画とか、ヘミングウェイの小説とか……そこからフライに興味が出て、やり始めたんですけど」
「確かにそんなこと話したな」
「覚えていてくれたんですね……嬉しい……!」
「そりゃあ一ヶ月ごとにそうやって布教されてりゃあバカでも覚えるよ?」
「洗脳じみてたよね」
「僕ですらあやうくフェザージグに手を出すところだったさ」
「話を戻しますけど。フライフィッシングも当然ですが、最初からリールとかフライラインとかリーダーとかティペットとか、なんかもういろいろいっぱい、あったわけじゃないんですよ」
「うん、そうだね」
「ハル。うんそうだね、って言っておけば聞き流せるな、とか考えたでしょ?」
「かんがえてないヨ」
「バカ正直というか、嘘が付けない男だな君は」
「ものの本によれば、竿はチェストナットオーク、長さは四メートルから五メートル。そこに馬の毛を撚ってテーパーを作ったラインに、蚕からとった天然のテグスを結んで、鳥の羽根を巻いたフライを使う、なんていうのがあってえぇ……!」
「この流れで話を進めるのかい!?」
「うまいことボケて流れを切ったと思ったのにか!?」
「気ぃ弱いのに、あたしらの中でいちばん我の強い子だもんねぇ、シオリってば」
「日本だと馬の尻尾やテグスは共通しているんだけど竹竿を使うのが一般的なんだけど私ハルくんが竹竿を振るたびにずぅっっと目をつけてたんですよこれはフライを布教するのにちょうどいい男の子がいるなぁってぇ!」
「やばいやばい目がこえぇえって誰かシオリを止めろぉ!」
はぁはぁと鼻息荒く、ずいっと晴に顔を近づけて、眼鏡の向こうの瞳はギラギラとしていて、まるで肉食獣のように彼を見据えている。
「ーーだから、テンカラ、やろう!」
「……はい」
とかく、強い圧により、晴はテンカラなるものを始める決意を付けさせられたのである。
「フラ……テンカラはね、とってもシンプルなの」
「いまフライって言いかけたぞ、こいつ」
「シオリって、呼んでほしいな……?」
「ちょいちょい女の武器ちらつかせるとか卑怯じゃねえ?」
きらきらを通り越してギラギラの眼光から、瞬時に瞳をうるませる、とんだ女優であった。
助けを求めようにも、怜も渚も、意図してこちらから視線を外している。かたやわざとらしく何度もルアーを投げ、かたや餌漁りだ。無駄に水場を荒らしているようにすら見える二人を恨めしそうに睨めば、栞がちょんちょんと袖を引っ張って注意を引いてくる。
「竿一本、ハリス一本、針一本……たったこれだけなんです。普通の釣りがウキとかオモリとか合わせて七物なんて言われてるけど、フライについてはたった三物なんです」
「完全にフライって言い切っちゃったよ」
「あ、フライじゃないですね......! フライだとラインとリーダーとティペットがありますし……でも近代テンカラではフライの構成を真似る流れもあってぇ……」
「流れるように布教やめて?」
「……こほん」
咳払いを一つ。
「竿に付けるメインラインはテーパーラインとレベルラインがあるんです。あ、レベルラインっていうのはもともとフライの」
「進まねぇって、話が」
「確かにそうですね! ハルくんは習うより慣れろタイプでしたから、今は二種類あるんだって覚えてもらえたらいいです。……こんど、じっくり教えてあげますね?」
「いつか、いつかね!?」
「じゃあ、はやく釣りが始められるように、現場でさっと作れるメインラインを、今から作りますね!」
「今から!?」
ニコニコと嬉しそうに、彼女はカバンからいくつかのものを取り出した。
それはハサミと、太さの違うナイロンの釣り糸である。
「振ったときにきれいに空中でターンするようにテーパーをつけるのに、多くはナイロンラインを何本か合わせて撚って作るんですけど、今回はノッテッドテーパーリーダーと同じ作り方で、太さの違うナイロンラインを繋いで作ります」
「用意いいなぁ」
「狙っていたっていうのもあるんですが、フライのリーダーって普通の釣具店じゃなかなか売ってないんですよ……今の釣りってルアーか、餌かの二択ですから……」
だから、いざというときは自作できるように持ち歩いているのだと、少しばかり悲しげな顔をする。
「だから、フライ人口が増えれば、普通に売ってくれるようになるはずなので……!」
布教する理由のひとつは、彼女にとっては割と切実だったりするらしい。
だからといってその布教方法はさすがに許容できないとも思ってしまうが。
「つなぎ方は何でも。基本はブラッドノットですけど、今日は手早さ重視で電車結びにしちゃいます。メインラインの長さは竿と同じ長さだから……えっと、八号から始めるとして割合が……」
ぶつぶつ呟いては、体感で覚えた長さに合わせてラインを伸ばし、ちょきんと切る。すぐに少しだけ細くしたラインを引き出して結び、長さを感覚で合わせて、切る……それを数度繰り返せば、
「あっという間に完成です」
ほんとうに、あっというまに一本のメインラインを完成させてしまった。
「太い方を、竿のリリアンにつなげてもらって……」
「はいはい」
「竿を伸ばしてもらって」
「へいへい」
「……長さ、合ってます?」
「…………合ってる。こわっ」
「よかった!」
体感だけで長さをピタリと合わせるなどというトンデモ技術だったが、手慣れたフライフィッシャーなら容易にやってしまえるのかもしれない……そんなふうに考えさせられる熟練技巧を目の前でまじまじと見せられ、晴はすこし、恐ろしさを感じてしまった。
「次はティペット……いわゆるハリスですね。フライを沈めるか浮かせるかで違いますけど、一メートルくらいです」
「長くねぇ?」
「いえ、全然。フライだったらロングリーダーで十五フィートでさらにティペットつなげるて二十二フィート……えっと、七メートル弱とか有り得るので、むしろこれくらいじゃ短いかな? って」
「これで? 短いの?」
「はい」
「うっそだろ……」
竿より長くするのを、バカを取る、などと言う。長すぎると扱いに困るし、思わぬトラブルの元となるためだ。あまりバカを取るのは馬鹿のやることだという認識に、真っ向から喧嘩を売られた形となって、晴は複雑な表情を浮かべた。
「フライはものすごく軽いので、テンカラだとこのリーダー……じゃなくて、メインラインの重さで投げるんです」
「ふ、ふうん?」
「じゃあティペットの先につなげるフライですけど……」
「もう突っ込まないからな」
「私、テンカラの普通の毛鉤って持ってないので」
「だろうな」
「それに似た形のアダムスをプレゼントしちゃいますね!」
「え、あ、うん? ありがとう?」
「ちなみに普通毛鉤との違いって尻尾のあるなしみたいな感じなのでほんとうにこんな見た目ですけどせっかくですから毛鉤をまくならフライを巻いてくれると嬉しいなっ、って……」
「いずれね?」
「……こんど、うち、きます?」
「反応に困ること言わないで?」
「うふふ」
誤魔化すために笑ったのか、それとも……なかなか判断に困るようにはにかみながら、栞は、晴の持つテンカラ竿のラインの先に、そのフライを結んでしまう。
「ーーレンくん、ナギサちゃん。準備、できました!」
「やっとかい?」
「いつまでもいちゃいちゃしてて日が暮れるかと思ったわ」
「いちゃついてねーし!?」
「ハルくん、かわいくありません?」
「いや小生意気に見えるわ、あたしには」
「こういうのはスルーしたほうがかえって恥ずかしくないぞ、ハル」
「うるせぇ!」
「ふふ……」
からかわれ、顔を赤くしながら晴は竿を立てて、構える。
「あ、投げ方ですけど……!」
その晴に、まるで追撃をかけるようにして、栞は後ろからそっと体を寄せた。
「わああああ!」
栞の柔らかな体の感触に、晴は思わず、叫び声を上げてしまった。
「小学生か」
「小学生だよ! 俺も! お前も!」
「いやー、ハルちゃん思春期だもんねー?」
「思春期だろ! 俺も! お前も!」
「……これ、耳にふぅってしたりして、いたずらしたほうがいい流れだったり、します?」
「そんな流れは一度もねぇ!!」
「じゃあ続けますね?」
「はぁああ……勘弁してくれ……!」
わざとボケて、突っ込ませて、一息つかせる。
いつものやり取りではあるものの、フライ布教のため押せ押せムードの栞がやるとは思わず、晴の口から思わずため息が出た。
「十時の角度から初めて……後ろに振って、十二時で止めて……?」
「こ、こう?」
「はい、そう……ふふ……上手、ですよ……?」
「耳元で囁くのやめて!?」
「ハルはいじると楽しいからな」
「わかるわー」
「わからんでいい!」
からかわれているのか、教えられているのか。
ハルの頭はぐちゃぐちゃだ。
「これが、バックキャストです。竿がぐぅーっとしなるのを感じて……ラインが後ろに伸び切ったときに、十時まで振って、止めます」
「こう……こぅ?」
「はい。この竿は硬めですけど、テンカラ竿は他と比べると柔らかいので、ゆったり……いーっち、にぃ……」
竿の重さ、しなりを感じながら。栞の合図に合わせて、竿をゆったりと振る。十時の角度でぴたりと止めてやれば、ラインが弧を描きながら伸びて行きーーぴんと伸びたラインが、反動でぽんと後ろへ戻ってしまう。そうして、狙ったところよりもはるか手前に、フライがぽとりと落ちてしまった。
「強すぎると、あんなふうに戻ってきます。おつり、とか言ったりします」
「難しくねぇ?」
「なれると楽ですよ? ルアーみたいに力ずくじゃないですし、ずっとキャスティングしても疲れませんから」
「誤解があるようだが、ルアーも竿の反動で投げるものだよ」
「いや力いっぱい投げてるじゃん、沼とか湖で」
「特殊例を上げないでくれたまえ」
ルアーに一家言ある怜が補足を加え、渚が茶化す。
そうそう、これこれ、こういう感じ……と、さきほどまで栞にさんざんいじられた晴は一息つくように頷いた。
「あとは周囲に注意してくださいね。……間違ってもスカートとか釣っちゃだめですよ? めくっちゃったら、大変です」
「ここの誰もスカートなんぞ履いてねぇーよ」
「……お望みだったら、履きますよ?」
「茶化すのやめてくんねーかなぁ!?」
「とうとうシオリもハルいじりを覚えたか」
「しかしハルいじり四天王の中でもシオリは最弱……」
「誰だよあとひとり!?」
またしても、晴の絶叫が木霊する。
「まっったく……今日は散々な目にあった……」
「うちらは楽しかったけどねえー」
「一時間で五匹、シオリの最初の一匹も含めるなら六匹か。僕たちにとってはまぁまぁの釣果だったな」
「俺は一匹も釣れなかったの!」
「シオリのフライなのにね」
「なるほど、腕の差か」
「えっと……マッチザハッチっていってぇ……!」
「やめろシオリのスイッチがまた入る」
夕焼け小焼けとばかりの赤い空に、げごげごとカエルの大合唱が始まっている。近年の殺人的な暑さも、水をたたえた田んぼに囲まれたうえ、夕日は小高い山に遮られて暗くなるのが早いこの田舎では、気温はすぐに下がっていってしまう。
風邪をひく前に、と。自然と四人のペダルを漕ぐ速度が上がっていった。
「明日の天気予報、雨らしいけど」
「流石に増水で危ないだろうな」
「そういうときはフライを巻いたりしてぇ……」
「いや宿題やらねーとだめだろ」
「最終日にまとめて終わらせるアンタからその言葉が出てくるとか……!」
「明日が雨なわけだな」
「シオリの気をそらそうとしてんだよ言わせんなボケ」
大事なことを後回しにするような晴ですら、今日の栞はぐいぐいと積極的だった。怖いくらいに。もうフライなんて懲り懲りだよー! ……なんてアニメチックに言おうものなら、一体どんな目に合わされることやらと、晴は鼻を鳴らす。
「でも……確かにそうですね。……明日は勉強会、します?」
「いつものシオリちゃんだ」
「戻ってきたな」
「そのままでいてくれ」
晴の切実な願いである。
「誰んち集まる?」
「えと、じゃあ……」
「シオリんち以外で」
「……あぅ」
「カノジョを雑に扱うとかサイテー!」
「カノジョじゃねーよ!」
「どっちでもいいが。それなら、僕の家でいいだろう。ナギサの家にお邪魔するのは商売の邪魔になるだろうし、ハルの家は……汚いからな」
「汚くねぇよ失礼だな」
「いやあんたの部屋散らかりすぎで四人座れるか座れないかじゃん」
「日頃の無駄遣いが知れるというものだ」
「えと……私は好き、かな……? 図書室みたいで……」
「マンガばぁあああっかだけどねー?」
「わざわざ溜めていう必要あったかぁ!? マンガ以外もあるだろーが」
「ラノベとか?」
「……ぐぅ」
「地震があったら蔵書の雪崩で死ぬかもしれないからな。悪いことは言わない、片付けておけよ?」
「……こんどな!」
けっして果たされることのない決意を固めるのであった。