「カサネサクラは肉食だ」
月曜日、いつもの放課後ーー目の下にくまを作った怜は、唐突にそう口にする。
「あれから家中の図鑑と、ネットの資料を当たった。サクラマスの三倍体であるなら、あれはヤマメが海へ下った魚と同等であるはずだ」
トラウト系は、海へ下るか、川へとどまるかで成長の度合いやその姿形を変えてしまう。それを、陸封型と降海型と呼び分けている。ヤマメは陸封型という一生川に住む魚で、海へ降りて育ち産卵のため川に戻る鮭などは降海型と呼ばれる。
「お、おう……それより大丈夫か? レン」
「なに、久しく味わっていなかった好奇心に、少しばかりハイになったが、僕は大丈夫だ」
「いちたすいちは?」
「たんぼのた」
「ダメだ、こいつもう限界だぞ」
普段なら言わないことを言い出したのだ。危険な状態であることは明白である。
「連れ帰って寝かしつけるしかないわね……」
「レンくんが万全だったら、隣の市まで行こうかなって思ってたんですけど……」
こんな限界状態で釣りにでも行ったら川に転げ落ちかねない。
「なに、もともと今日は釣り場に向かう気など、なかったさ。今日はとりあえず、研究発表を兼ねた禁漁日のつもりで、狙いは日曜日だ」
あくまで冷静に、怜は答える。
「とはいえ、さすがに僕も体力の限界を感じる。……申し訳ないが、僕の家に集合でいいか?」
「いいも悪いも、あんたんちしか無いでしょうが。あたしんちで寝落ちされても困るし」
怜の部屋は、男の子らしい寒色系の色でまとめられたベッドやカーテンの、こじんまりとした場所だ。その一角に黒塗りの竿が何本も並び、ルアーやリールが飾られているのはさすがの釣り好きといったところか。
「ついさっきも言ったが、カサネサクラは肉食だ」
ノートパソコンを開いて、勉強机に座る怜はまるで講師のように説明を始める。
「まず確認したいのは、カサネサクラとはサクラマスの三倍体、ということだ。サクラマスとはつまり、ヤマメだ」
「ちょっとあたし、そこがよく分かってないんだけど」
「ざっくりとした説明で申し訳ないが……もともとサクラマスは低温の水中で生活する魚だ。故に川の水温が高くなる地域ではより水温の低い海へ向かうというのが本能だが、まれに川の水温が低く、そのまま残留する個体がいる。それがいわゆるヤマメだ」
「へぇー」
「すると僕たちの、安鎮川で培われたヤマメの知識が生きる事となる」
「ヤマメが食ってるものが、そのまま使えるってわけか」
「そうなる。ヤマメは獰猛な性格で、飢餓状態や過密な環境下では実は共食いもするほどだ」
「そうなんだ?」
「ルアーに反応する理由だな。あるいは縄張り争いを行う魚でもあるから、そうした点も見過ごせないが……今回はいいとしよう」
考えなく放流ができない理由の一つであり、一部の研究者間で放流は意味のないものとする理由の一つでもある。放流により過密な状態となり、餌不足を招けば共食いをし、逆にその数を減らしてしまう魚なのだ。
むしろ魚影の濃い安鎮川が、奇跡の川と呼ばれるのも当然のことだろう。
「三倍体の特徴は、性格の獰猛さはそのままに、生育として妊娠しない……つまり生殖にエネルギーを使わない分、体は巨大になる」
「かなりデカかったもんな」
「ラグビーボールみたいな形、でしたね……!」
あの時逃がしたカサネサクラは、脂肪を溜め込み膨れた腹のせいで、頭が相対的に小さくみえた。
「そして体が大きくなるということは……その体を維持するため、常に食欲を満たそうとする。つまり、一日の殆どを食事に費やすことから、かなりの頻度でライズが発生する」
水面の昆虫を食べるため、活性が上がり、魚が跳ねる行動である。この状態のときは、非常に釣れやすいのもそうだが、
「
「ドライフライの出番というわけですね……!」
当然だが水面上の釣りは非常に視認性が良い。加えた瞬間を確認できるのだから、針掛かりも良くなる。日曜日の晴のように、びっくりアワセでもないかぎりはしっかりとフッキングでき、テンションさえ緩めなければしっかりとキャッチできるはずだ。
「そして、今回の研究の目玉である、エサと認識している水生昆虫などだが……かなり、偏食家である可能性が高い」
「どういうこと?」
「赤金川は酸性に傾いた水質をしている。そうなると、ヒゲナガカワトビケラや、ユスリカばかりが住んでいる可能性が高いんだ。酸性の水質では、特定の生物しか生きられない。だからこそ、特定の生物にとっては天敵のいない楽園となる……が、僕らはこれを確かめたことがない」
「あー……」
川底に沈んでいる岩をひっくり返すなど、わざわざ隣の市の川で、しかも魚がいないだろう川でやることはない。だから実際に、何を食べているのかがわからない、とも言えた。
「だがもう一方で、こいつらは養殖だ。そうすると、必ず食べるだろう食物がひとつ、ある」
「必ず食べる?」
「ペレットだ。想像しやすいように言えば、クラスで飼ってる金魚のエサだ」
「ああ!」
晴は合点がいったとばかりに膝を打つ。
「そこで僕の切り札の一つとして用意したのが、こいつだ」
わざわざ準備していたのだろう、机の上においたルアーケースを開いて、見せる。
それは茶色い円柱のような形をしたものに、ルアーフックがついたものだ。
「なにこれ?」
「ペレット系と言われるルアーだ。たいがいの管釣りでは禁止されている」
人工的に作られたエサそのものを模したルアーである。
「とうぜん、主なエサとして食わせているんだ。エサとして認識しているなら、こいつにも食いつきがいい」
「ずるっこだ」
「そうだろうな。だからこれはあくまで、切り札……だいいち、こんなもので釣ってしまうのは、ロマンに欠ける」
言って、改めてルアーボックスを閉じる。
「そこで最終的な僕の結論は……スプーンだ」
「スプーン?」
「大本は食器のスプーンだな。それを水中に落としたら、魚がよく反応したことからルアーになった」
キラキラとしたフラッシングや、まるで小魚のようにひらひらと泳ぐことから釣り人たちにも根強い人気のあるルアーである。これを使って釣ることを特にスプーニングと呼ぶことがある。
「ミノーイングもいいだろうが、ここまで獰猛な性格であれば、むしろもっと奥深く難しいルアーを使いたくなってね。そのほうが、ロマンがある」
「いいんじゃない? わざわざ難しくする必要って無いと思うけど」
釣る過程を楽しみたい怜に対して、針掛かりのあとの釣り味のほうを楽しみたい渚はあっさりとしたリアクションで返した。
「わかりますよ……自分が選択したフライがピッタリとハマって……たくさん釣れたときはとても楽しいですもんね……!」
そして栞は、質よりも数のほうを楽しむ派である。
微妙にお互いの会話が噛み合っていないが、だからといって相手の釣り方をダメだと貶すわけではない。そういう仲なのだ。
「あー、でもあたしどうしようかな。あそこ、いまんところエサはダメだったみたいでさ」
「延べ竿にペレット系でも付けたら?」
「茶色いエッグフライ、って手もありますよ! ペレットルアーだと高いでしょうし! なくしたらもったいないですし! だから、フライです!」
「んじゃ、それでいっか」
「やったぁ!」
「ロマンのないやつらめ……ハルはどうするんだ?」
「俺ぇ? まぁ桜虫でいくよ。それで食いついたし」
食いついたということは、何らかの虫もエサにしているということだろう。気づかなかったが、ユスリカが飛んでいたのかもしれない。
工夫を凝らして、あるもので釣る。
晴にとっては、そういうのが楽しいのだ。
「とは言ったものの……」
釣れなかったら悲しいのは事実。
怜のように切り札として用意するペレット系といった具合で、ボウズ逃れに、釣れる毛鉤を作るというのもアリだろう。
勉強机の一部を占有するタイイングバイスに、
「デカいから、大きめの針で……」
持っているなかでも一番大きな#12のフックを取り付け、
「……いや、こいつじゃあ細すぎるか?」
ふと、あの巨体を思い出してしまった。同時に、ボロボロにされた桜虫毛鉤は、少し、伸びかけていたことも。
そうすると、いつものフライフックではいささか頼りなく見えた。
かといって、これ以上大きな針はーー
「いや、確か……」
なにか、かすかに覚えている。買ったはいいものの、結局使わず道具箱の肥やしになっていたものを。
「……あった」
一般の釣具屋では、フライフックを購入するのは難しい。だから今持っているものは、栞がネットで注文する際に一緒にまとめて購入してもらった渓流用のフライフックだ。
しかし、なんとか自分で手に入れられないものかと試行錯誤をしていたときに買ったのが、
「まさかこんなところで役に立つとはなぁ」
フライフックよりも太軸で、管釣り用のバーブレスだから魚へのダメージも少ない。
しかし、針のサイズとしては大きく太すぎたため、毛鉤が巻きづらかった。結果として捨てるわけにもいかず、道具箱の奥底で腐らせていたのだ。
「エッグ系……だったか」
そのままスマホでぽちぽちと。
調べて出てきた動画を数本見るが……。
「んんー……そもそもこのエッグヤーンってのがないとダメなのか」
それ以外では、百均でよく売っている手芸用のポンポンとした丸い玉を針に突き刺して使う方法も紹介されていた。
だが残念なことに、そんなものは買っていない。
「しょうがないなー……巻きづらいけど、こいつで桜虫を作って……?」
参考になるものがないかと何度かスワイプしているうち、ふと、
「べつに、ペレットとかに見えればなんでも良くないか?」
最初に毛鉤を作ったときの、栞の言葉が思い出された。
『雑でいいんです』
最近は見た目をしっかりと、ちょっとデザインに凝って作っていたからこそ忘れていた言葉だ。毛鉤は漁師の釣り、ならば、はっきりときれいに巻く必要なんてない。
それっぽく見えれば、なんの問題もない……!
「かーちゃーん! ちょっと針貸してー!」
ひらめきを形にすべく、母親に手芸道具を借りにいくのだった。