そのイワナ、お小遣い三ヶ月分につき。   作:神楽風月

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#6

 決戦の日と定めた、日曜日ーー

 天気は快晴。風は少し強いが、先週と条件はなんら変わりない。

 前日は、万全の体調とすべくゆっくりと湯船に浸かり、早めに寝た。

 忘れ物がないよう、二日前から荷物の準備をし、確認を怠らなかった。

「今日こそ、釣り上げてやろうじゃんか」

「まぁ、カサネサクラの性質を考えるなら、ルアーの僕が一番最初に釣り上げるだろうね」

「いえいえ、フライのほうが自然に見えますし……」

「あたしも今日はフライなんだよね。初フライ」

「そして和式フライの、ハルくんの毛鉤を含めたら、三対一……!」

「ちょっと卑怯じゃないか?」

「別にルアーとフライでどっちが優れてるかとか争う気はねぇーよ? 俺は」

 あくまで今日は、釣りを楽しむつもりだ。

 できれば何匹も釣れれば嬉しい。

 そのうえで、一番大きなやつを、一番多く釣れたら、最高だ。

 晴たちは様々な思いを胸に、先週と同じくパークセンター受付で年券を提示して釣りの許可を得る。そのままはやる足取りでキャンプ場の向こう側、フィッシングエリアの放流区間へーー

「ん」

 今日は二人もキャンプ客がいるんだな、と。

「あれ」

 思って見やれば、一人はどこか見慣れた顔をしていて。

「あっ」

「げっ」

 ーー見覚えのあるそのキャンパーと、同時に声が上がる。

「カスねぇ!」

「キ……君たち、じゃない。奇遇ですねぇ〜?」

 いつもの「キッズ」じゃない。

 まるで猫を被ったように、取り繕った笑顔。

 家族を人質でも取られたのかと思うような、いつもより遥かに礼儀正しい口ぶり。

「どうしたカスねぇ!?」

 晴は、思わず声を上げてしまった。

「ど、どうしたって……何を言っているのかなぁ?」

 顔が引きつっていて、何かを必死に隠していることは明白だ。

「えっと……姉さん?」

 ふと、隣にいるもう一人が、霞を姉と呼んで、問いかける。

「この人たちは……」

 ボーイソプラノというのだろうか、少し落ち着きのあるような低さがあるが、しかし少年期特有の高めな声。

 短い髪に、目深に被った帽子の下は整った見た目をしている。背も、晴よりは少し高いくらいか、もしかすると中学生かもしれないような、美形。

「姉さんのバイト先の、常連さんたちだよ。うん、ちょっと……うん、いろいろ話があるから、先に行って、準備しておいて?」

「うん、わかった」

 言うや、すっと踵を返して川の方へと向かっていった。

 しばらく背中を見つめて、声が聞こえないだろう距離まで離れたのを確認すると、

「ーー取引、しようじゃないか。キッズ」

 いつもの口調で、しかし切実な思いを秘めた声で、霞は言った。

「え、アレだれ?」

「あれはね、お姉さんの家族なのよ。イケメンでしょ?」

「あー……」

 いつぞやの、実家が厳しい、という言葉が思い出される。

「カッコつけてんだな?」

「仕事のデキるお姉さんって思われてるのよぉおおお……! お姉さん自慢の家族だもの、ちょっとくらい取り繕うのを手伝ってくれてもいいと思わない?」

「そう思うんだったらなんでこんなところでキャンプしてんのさ。あたしら最近、カサネサクラ釣りに来てるって分かってたでしょ?」

「あの子も釣り好きでぇ……私は仕事も兼ねててぇ……!」

「え、じゃあ昨日から泊りがけて釣りキャンしてたってこと?」

「仕事場からあの子を迎えに行ったから、まだしてないわよ。釣りは今日から」

「というか……仕事、って、なんです?」

「ほら、店で、店員が釣ってきましたってやつ? レビュー書くのもお姉さんのお仕事」

「あー……」

 店長も休みの日はいろんな釣り場へ足を伸ばしているようで、ちょくちょく更新されている釣果報告のPOPが思い出される。

「カサネサクラ、大きいから。子供用のビニールプール用意してさ? それに入れてサイズ感出して、私が釣りましたって写真撮るの。カメラ係はいたほうが楽だし、さっきも言ったけどあの子釣り好きだし……」

「へぇー」

「まぁ、事情は分かった」

「気遣いのできるキッズはお姉さん大好きだよ」

「私としては、もうダル絡みしてこないって約束してくれるなら、いいかなぁ、って……」

「ショタと戯れるのは心のエリクサーなんだけど……」

「あの子なんて名前なんです?」

「ねぇそれ知ってどうする気?」

「普段、お姉さんにはお世話になってますし……挨拶です?」

「おーけい、わかった」

「それはそれとして挨拶しないと失礼だと思いますけど……」

「余計なこと言わないでね!?」

「それは……お姉さん次第、では?」

「ぐぬぬ」

「うふふ」

 いつもの鬱憤を晴らすように、栞は、歯を食いしばる彼女を見つめて、薄っすらと笑いかけた。

「シオリこわー……」

「なんというか、一度吹っ切れるとほんとうに強いな。シオリは」

「まー、ああやって晴を絡め取ってったんだし、そのうちカスねぇも頭上がんなくなるよ。絶対」

「え、俺あんな感じだったの?」

「おおむね、そう」

「たしかに」

「えぇー……」

 

 

 

(たまき)、です。付属小の……六年生で」

「同い年じゃん!」

 晴は思わず叫んだ。

「というか、付属小?」

「エスカレーター式の学校よ。町の方の。お姉さんと同じで頭いいのよ、たまきくんは」

「いや、ボクはそんなに……」

 照れ隠しに、帽子のつばで顔を隠す。

 どうにも、恥ずかしがり屋というか、引っ込み思案なようだ。最初の頃の、栞に似ているようにも思える。

「姉さんのほうが、ずっと頭がいいよ」

「へぇー……」

 見えねぇや、とばかりに晴たちの視線が集まる。

「ん、まぁー、ね? お姉さんは勉強を頑張ったから。ほらほら、それよりも! 今日はカサネサクラを釣りに来たんですよ? 釣れなかったらお姉さん、会社に報告できませんから。だからさっき、き……みたちにも協力をお願いしたんですよ?」

 キッズ、といいかけたのを強引に軌道修正する。

 胡乱な目で見られながらも、なんとか取り繕うことに成功した。

「でも、見たところだと管釣りみたいな状態だし……そうそう釣れないなんてことはないと思うよ?」

「やっぱりほら、他の釣り人がいたほうがいいと思わない? 誰もいない穴場も好まれるかもしれないけれど、やっぱり人が多いところのほうが、安心して釣りに行けるように思えるでしょう?」

「なるほど……そういうところまで考えなきゃいけないんだね。さすがだなぁ、姉さん」

「さすがだなぁ、カスねぇ」

 かすみねえさん、を略した愛称という説明(いいわけ)で、常連とも仲良くやっている姉を演じさせてやる。

「おほほ……」

 だが言葉の端々に若干残るトゲトゲしさを微妙に感じ取っているのか、このやろう、という目で晴を睨むのだ。

「ちなみにタマキの釣りって」

 環が手に持っているのは、延べ竿の竿袋だ。それ以外には何も持っていない。釣具屋でよく見かける背中のボディバックには、カサネサクラをキャッチするための大きなランディングネットがマグネットリリーサーによってくっついて、ぶら下がっていた。

「あ、うん。ボクは……テンカラ釣りをしているんだ」

 めずらしい、かな? と問うように見つめてくるのを、

「一緒じゃん、俺と!」

 晴は真っ向から嬉しそうな声を上げて答えてやった。

「きみも? わぁ、嬉しいな……!」

「なかなかいないもんなぁ」

「うん! 渓流じゃ、だいたいはルアーか、よくてフライ、だもんね」

 近年のアウトドアブームにのって、装備の少ない釣りとして存在が知られてきたテンカラ釣りは、かつては漁師の釣りということで門外不出のような扱いをうけ、フライフィッシングよりも知名度は低かった。

 それが、アメリカからの逆輸入ーーシンプルなフライフィッシングとして登場したことで、一般にも知られるようになったのは、実は最近のことである。

 それでも釣り人口ではルアーに負け、知名度ではフライに負けている。そうした意味では、初めて、同じ釣法を好む同志に会えたとも言えた。

「むぅ……」

 そうやって仲良くなる二人に、面白くないのは栞であった。

「フライの人口が減ってしまいます……あとハルくん取られちゃいます」

「最近は後者のほうを気にしているんじゃないか?」

「……当然です」

「思ったよりはっきり言うねぇー」

「思うんですよ、最近。ハルくんって、こう、人見知りしすぎないなぁ、って」

「いいことでは?」

「私だけ見てほしいって思うことが、あります」

「あー、うん、ね、なるほど?」

 あんがい、独占欲が強いらしい。

「それじゃあ、皆さん? そろそろ、釣り始めましょうか」

 猫を被りに被り、引率のお姉さんと化した霞が声を上げた。

「今日は勝負もなにもないので、邪魔にならない程度にお互い広がって釣りましょうか。あまり遠くに行かないで、お姉さんの目の届く範囲で釣りを楽しんでくださいね?」

「はーい」

「わかった」

「うん」

「わかりました」

「心配しなくても大丈夫よ?」

 各々が返事を返して、五メートル前後の幅を取るように広がっていく。

「あ、ハルくん」

 一緒に釣りませんか、と栞が声をかけようとしてーー

「いこーぜ! タマキ」

「うん!」

 同じ釣法ということで、すっかり仲良くなってしまった環に、そのポジションを奪われるのだった。

「……むぅ」

 この、なんとも言えない気持ちをどこにぶつけるべきか……そう考えながら、栞はフライロッドの準備を始めた。

 

 

 

「ボクは短めの竿が好みなんだ」

 言うと、環は自分の竿を伸ばして見せる。

「おー、白い。かっけぇ。剣みてぇ」

「きみのも、黒くてかっこいいと思うよ。同じメーカーのだけど、ボクのほうがいちだん下のモデルで……」

 少し縮めて、リリアンにラインを結びつけた。

「硬めの先調子でね。でも結構粘ってくれるんだ。おおきなフライを使っても、竿に余裕が出るし。なにより、フライみたいに毛鉤を操作するのに向いていると思う」

「なるほどなー。じゃあシオリとも気が合うかもな!」

「あはは……あの子、ボクのことはあまり好きじゃないみたいだけど……」

「話せばぜってぇ仲良くなると思うんだけどなぁ……」

 環が伸ばしきった竿は、確かに短いものだった。おそらく2.7mぐらいだろうか。晴の竿よりはるかに短い。藪沢などでは、むしろ振りやすそうだとさえ思える。

 その竿は白いブランクスに、竿先は銀色になっている。そもそもグリップもコルクではなく、EVE素材だ。和竿のようなイメージではなく、むしろバスロッドなどをはじめとした都会の洗練されたデザインのようにも思えた。

「この竿、一目惚れだったんだよね」

「分かるわあ」

 そのままラインもどんどん伸ばしていく。竿よりも若干長いフライラインだ。そのフライラインの先端を輪にして、更にその先に、編み込みされたテーパーラインが追加されている。

「フライみてぇ」

「というか、ボクにとってはフライフィッシングそのものだよ。ただ、リールが、ボクの好みじゃなかっただけ」

「あー……分かるわ」

「うれしいなぁ、こう言うと、リールは悪くないって言われるんだ」

「やっぱ男なら竿一本よ」

「ふふふ」

 フライフィッシングの入口として始めてしまったテンカラだったが、確かに、晴もリールはなんとなく苦手だった。特にドラグなんて、あんなのは卑怯だと思っている。

「短くて硬めの竿に、フライラインが、3mくらいで。そこに、リーダーが、2.1m。ハリスを1.5mくらいつけるのがボクの好み。もちろん、場所によっては、フライラインを1mくらいまで短くするけどね。毛鉤は、普通毛鉤。芯が黒いのが好き。今日はちょっと、大きめ。管付き丸セイゴで、バーブは折ってる」

 セッティングの終わったそれを、後方を確認し、手首を返してひょい、と投げる。竿が硬いぶん、晴のテンカラ竿よりはずいぶんと投げ方のリズムが早い。

「ボクはね、制限があったほうが面白いと、思っているんだ」

 フライの着水を確認して、すっと竿を倒す。ほとんどまっすぐに伸びたラインを流れに乗せて、フライにあえてドラグをかけることで誘い(・・)にする。

「制限?」

「ロマン、と言い換えても、いいかもしれない」

 自分の釣りを教えるように、落ち着いた、低めの声で語る。

「いちばん最初に釣った魚は、オイカワだったよ。流し毛鉤っていって、五メートルくらいの清流竿で、五本とか、七本とか。蚊鉤っていう、ちいさな毛鉤がついた針を、扇状に流す釣りでさ。ラインに引っ張られて動く毛鉤が、かってに誘ってくれるんだ。いちどに二匹、三匹って釣れてね……」

 下流まで流すと、竿先で「の」の字を描くように動かして、ラインをもう一度、上流へとキャストする。

「しばらくやっていると、釣れるのが当たり前になるんだ。当たり前に釣れるから、つまらなくなった。だから、針を減らしてみたんだ」

 アタリはない。

 諦めずにもう一度、同じように上流へとキャストし直す。

「針が減るごとに、ウキが大げさになっちゃって。ウキも小さく小さく、していったら、いよいよ、ラインごとウキにしちゃえ! って、フライラインを使うようになってね。それでも釣れるようになってきたら、今度は竿を短くして、ハリスを細くして……そうやって制限をかけて、シンプルにしていったのが、ボクのテンカラ」

 そう話しているうち、水面を割って、ばしゃんと魚が飛び出してくる。

 相手はもちろん、カサネサクラだ。

「ーーっ」

 しっかりと毛鉤を加えこんだのを確認すると、ばしっ、と竿を立てる。

 晴とはちがい、かなり落ち着いていた。片手で制するのが難しいと判断するや、ブランクス部分に手を添えるようにして、決して竿に無理させないよう、竿がのされないように立て続ける。

「竿が硬いから、パワーが、あるんだよね。胴調子より、ハリスに負担が、かかるけど……!」

 決して慌てない。ほとんど、魚が走るに任せている。ハリスの負担を考えながら、じゅうぶんに魚の引きを楽しむ。

「カサネサクラはサクラマスの三倍体……白身だろうから、それほど、スタミナはないはず……!」

 始まったのは数十秒の我慢比べ。

 跳ねようがラインテンションは緩めない。それどころか、抵抗がなくなった分で引き寄せて、逃げる魚を追い詰める。逆に、跳ねたぶんだけ空気を吸って、カサネサクラは弱るばかりだ。

 そうして限界ギリギリまで竿を立て、引き寄せーーラインに指をかける。

「ここまでくれば、釣れたかな」

 ぐい、と太いフライラインを指先で手繰り、程よいところでバッグにぶら下げたネットを広げてすくい上げた。

「ん、四十センチは超えてるかな……?」

 まったく危なげなく、それどころかこれくらいの大物などいくらでも釣ってきたとばかりの冷静な竿さばき。

「次はキミの番」

 そうして、にこり、と笑う。

「キミはどんなふうに釣るのか、見せてほしいな。まぁ、この子を、姉さんのビニールプールに、入れてからだけど」

 別に環が勝負を仕掛けてきたわけではない。

 が、まるで自分と似ているような、しかし真逆であるような存在に、妙な闘争心がめらめらと湧き上がってくるのを感じる。

「おう、大物、釣ってみせるぜ!」

「はは、楽しみだなぁ」

 

 

 

「俺さぁ。もともと、マンガとか、ラノベとか。そういうの読むのが好きだったんだよ」

 環が、自分の釣りの哲学を語ったのだ。

 ならば、自分も語らねばなるまい。

 竿と仕掛けの準備をしながら、語りだす。

「あんまり部屋に本がありすぎてさ、怒られたんだわ。かーちゃんに。たまには外で遊べって」

「想像できないなぁ」

「そうか? まぁ、しょうがないから外でできる遊びを考えたわけよ。でも、外遊びって言ったら釣りしか知らなくてさぁ。昔っから跳魚の里帰りに参加してたわけだしなー」

 あくまで、晴の釣りのルーツは跳魚の里帰りだ。夏祭りとして物心ついたときからずぅっと参加している。

「いままで親戚のにーちゃんや、とーちゃんについていって、自分で釣ったこと無かったんだよな。それまで。でもその日は、初めて自分の釣り竿を手に入れたんだよ。まぁ百均の竹竿だけど……ヤマメだったなぁ。最初に釣れたの」

 今でも鮮明に覚えている。

 そのへんにいたミミズを針にかけて川へ投げて、玉ウキがキュっと沈んだ瞬間だ。両手で力いっぱい、思いっきり釣り上げたのは、ちいさいヤマメだった。

「そこからずーっと竹竿で、エサ釣り。たまに糸の先にルアーを付けてみたりしたけど。そうしてるとやっぱ、いい竿が欲しくなってさ」

 小遣い三ヶ月分、頑張って貯めて、手に入れたのがテンカラ竿だった。

「買ったんだけどさ、竿。シオリにね、うまいこと転がされて。フライ人口増やすためだ―って、テンカラ竿。なんだっけ、シンプル・フライだっけ。結局、フライフィッシングみたいなの、やらされてるみたいな感じでさ」

 仕掛けは、前回と同じ編み込みの(ブレイデッド)テーパーラインを4.5m。

「でもリールはダメだ。性に合わねぇ」

「分かるよ」

「跳魚の里帰りでさー、一番釣れなくて。でも滝んところで、でっけぇイワナ! アレは震えたね……!」

「イワナを釣ったの? 羨ましいなぁ……!」

「今度来いよ、跳魚。また釣れるんじゃねぇかな」

「絶対行く」

「ははっ」

 食い気味に答えられては、次の跳魚の里帰りでは案内してやらなきゃならないな、と使命感が燃える。

「そのイワナが忘れられなくて、テンカラに絞ったんだよ。そしたら今度は、またでっけぇイワナが釣りたくてさ。強い竿探して、これ」

「なるほど、確かにその竿なら……」

「おまえの姉ちゃんに勧められたんだよな」

「……!」

「いーい竿だよなぁ。投げやすいし、一回カサネサクラ掛かったけど、折れなかったんだぜ?」

「もちろん、自慢の姉さんが選んだんだもんね!」

 まるで自分が褒められたかのように、満足げに胸を張る。

 ーーこりゃあいよいよ、普段の姿は教えられねぇなぁ……と。

 全幅の信頼を寄せる環に、必死になって猫を被る霞の気持ちが、分かったような気がした。

「べつに俺、みんなと比べて釣りが上手いわけじゃないんだよな。たくさん釣るならナギサが一番だし。どんな場所でも釣ってくるのはシオリだろ? レンはキャストがうまい」

「ふふっ」

「まっ、強いて言うなら、大物を釣るんだったら俺が一番かもな」

 ラインを繋いで、ハリスを結び、竿を伸ばす。

 前回と同じセッティングだが、今回は、毛鉤が違う。

「今日はこいつ」

 ほんとうは、茶色いものがいいのだろうが……残念ながら、備えはなかった。だからそこは諦めて、あくまでシルエットにだけ拘る。

 ピンク色の羊毛フェルトを、親から借りた裁縫針でひたすら突き刺して、太い円柱状にした。ペレット型だからハックルは、まぁいらないだろう。沈めるための重さは、エサ釣りのときに使っていたガン玉をアイの下にカマせて……と。あるもので作り上げた。

「へぇ、これ、手作りなんだ。なんていうか、モップシェニールに、似てるね」

「モップシェニール?」

「掃除用具の、モップの、ふとい毛をね。あれを一本使って……水生昆虫に、似せるんだ」

「ペレットみたいな形にしたかったんだよなぁ……」

「あ、ごめん……」

「いや、いいって。どうせ、こいつダメだったらこっちの、桜虫毛鉤のつもりだし」

 予備として三本ほど、スプーンフックに、普段の作り方で巻いたものも見せる。

「こっちもだけど、きれいに作るね。手先、器用なんだ? ボクはこっちが、好みかもしれない」

「昔は酷かったぞ」

「ぜんぜん、想像できないよ」

「そうか?」

 部屋が乱雑なことは自分も認めるところだから、そうした自己評価も込みでの感覚だからかもしれない。まぁいいかとばかりに新作毛鉤をハリスの先に結びつけた。

「釣りって工夫だと思うんだよな」

「工夫?」

「俺の場合は金がねぇーからだけど」

 新しい相棒の、竿尻近くをしっかりと握る。

「こいつだってほんとうは作れるかどうか、わかんなかった。でも作ってみると、案外なんとかなった」

 肘を支点に、大きめのフライだから、いつもよりわざとゆっくり振りかぶる。竿の重さを感じれば、いつもより大きく、しなっている気がした。

 竿に負担をかけすぎないように、優しくキャストする。ラインのループはいつもより大きいが、これでいい。メインラインは風に強いテーパーラインだ。毛鉤が受ける風の抵抗が気になったが、それでも問題なく狙った位置へと着水する。

 エサとしてのペレットが実際にどういう動きをするかわからないが、金魚の餌はすぐに沈んでいったはずだという記憶をたよりにカマせたガン玉の重みで、ピンク色のイモムシみたいな毛鉤が、静かに沈んでいくのが見えた。

「テンカラなのに、キャストは、フライフィッシングみたいだ。ボクが言えたことじゃ、ないけれど」

「そうなのか?」

「うん」

 毛鉤から若干視線を外し、となりで手首を動かしてみせる環に顔を向けた。

「日本の、せまい、急峻な川での釣りだから。手首の動きで、小さく、点を狙うんだ。ボクはもともと、蚊鉤の、流し毛鉤だから。手首で、振り込んだりするのに、慣れてたからだけど」

「へぇー」

「でも、竿が長くて、毛鉤が大きいなら……肘のほうが、怪我しにくいんじゃ、ないかな。ボクには真似できないや。短いのが好きなの、手首、痛くなるからだし」

「まぁ教えてくれたやつがフライだったしな」

 良し悪しというやつだ。

 安鎮川に戻ったら、手首でキャストする練習をしても、いいかもしれない。

「ピンク色だから、水中でも、見やすいね」

 その日は、赤金川は澄んでいた。

 魚も住まない死の川というイメージから、最初はずいぶんと濁っているように見えたが……霞の話を聞いた後では、水じたいは透明で、水量が多いから見えづらいだけで、とてもきれいな川なのだということに気づく。なんなら、黒い背中のカサネサクラが何匹も泳いでいるところも見えた。

「先入観、って怖ぇな……」

「ん?」

「なんでもない」

 そのうちの一匹が、毛鉤に頭を向ける。ゆらり……と近づいて、すんでのところで見切って、そっぽを向いた。

「あぁ、惜しい……!」

 環がとなりで、悔しそうに呟く。

「一発で釣れるとは思っちゃいねぇよ」

 毛鉤を引き上げるように、バックキャスト。

 肘を支点にフォワードキャストで、先程のカサネサクラよりもやや上流に、着水させる。

「不自然に見えたかな」

 ペレットに似せて作ろうとした、桜色の芋虫だ。誘いをかけるよりは自然に流したほうが釣れるだろうと判断して、竿をやや立て気味に、メインラインは水面にあまり漬けないように、ハリスだけが水中を流れるようにする。

 できるかぎり、タナも合わせようと観察する。流れの速さを計算に入れ、竿の角度を調整してタナをあわせる技術は、かつて竹竿でのミャク釣りで培ったものだ。

「もう少し、深く……」

 巨大なぶん、やや底に居着いているようだ。反応はするが、頭上を通り過ぎる桜芋虫毛鉤を見送る姿を見て、三度目のキャスト。

 先程よりも上流へ、カサネサクラの鼻先に毛鉤が近づくころにはタナが合うように。竿もやや寝かせ気味にして、水中のハリスを緩めて流す。

 すぅっと先程よりも深く沈んでいく桜芋虫は、狙い通りにそいつの目の前へ。

「……!」

 ふたりの呼吸は、緊張からか、止まっている。

 食え、食いつけ……竿先から情念が溢れて、気づかれてしまうのではないかと思うほど、二人はそいつを睨みーーそして、

「っ!」

 かじりつくように食いついて、違和感からか、反転。

 大イワナで感じたときのように、曇り空の隙間から桜色の稲妻が走ったような錯覚ーー水が澄んでいるから気付いたが、あれは反転したときの、魚の腹の色だったのだ。

「食った!」

 ばしん、と思い切り竿を立てる。

 アワセは完璧だった。太いハリが、反転したカサネサクラの口の端、かんぬきに掛かったのが見える。もっとも理想的なフッキング位置で、バラシの確率がもっとも低い場所だ。魚種によっては、ココにかかれば水の抵抗も少なく釣り上げられるほどだ。

「ぐおぉ……!?」

 それでも、随分と重い。

 五十センチを難なく寄せられるという触れ込みに惹かれて買った竿は、満月のようにぎゅんぎゅんと曲がる。コルクグリップを両手で握り、

「ブランクスを、支えたほうがいいよ。てこの原理で、楽になるし。竿が折れづらいんだ」

「なるほどっ」

 素直に、左手を竿のブランクスに当てた。そういえば環も、そうやっていなしていたっけ、と。その姿を思い出す。握るのではなく、支えて、テコの原理の応用……確かに少し、楽になったように思える。

 だが、その間もカサネサクラは大きく暴れる。ヤマメやイワナよりも大きく首を振るせいで、キュィイイ……! と悲鳴を上げるハリスが、水面を右へ左へと切り裂いて走る。

「すごい、ボクのより大きいみたいだ……!」

 水中での暴れ方が尋常ではない。サクラマス特有の首振りもそうだが、かんぬきに掛かった針を外さんと体をよじり、ローリングする。迂闊にハリスが巻き取られれば、エラやヒレを傷つけるし、同時にハリスを傷つけられて、切られる可能性もある。

「こいつ……っ!」

 しなる竿の性能を信じて、強引にいなす。

 無理に引き抜くようなことはしない、というか、できない。

 これは、漁ではない。自分と魚との真剣勝負だ。

 釣りの醍醐味。釣り上げた魚こそが、釣り人の栄誉。

「寄ってこいよ……っ!」

 パワフルな引きに、晴も思わず、護岸を走る。

 走らせすぎないように引いて止めてやり、逆へ走ろうと方向転換する瞬間に強く寄せる。

 一歩、一歩と護岸を登り、カサネサクラを岸へと近づける。

 浅くなればもうひと暴れし始める。引き上げられてしまうことを本能で悟るようだが、しかし、一度いなし方さえ覚えてしまえばなんということはない。川底が近づき、水面が近づき、暴れるほどに頭が水面を割ってバシャバシャと騒がしくなる。

「キャッチするかい?」

「いや、俺が取るわ」

 そうすれば、さしもの大物でも力なく釣り糸にぶら下がって水面に顔を出す。

 あとはラインを手に取り、手繰るように近づいて……改めて、自分のネットですくい上げた。

「……っしゃ!」

 思わずとったガッツポーズ。

 晴は、一段、成長した気がした。

 

 

 

「ハル、おっそーい」

「おー……キミも大きいの、釣ってきたようだねぇ」

 いつのまにやら、ビニールプールを囲んでリラックスしている霞や栞、渚の女子チームが、出迎えてくれた。

「あれ、何してんの?」

「鳥が狙っているでしょう?」

 霞が指差すと、上空を、くるりとまわるトンビが見えた。

「あたしも、釣れすぎて疲れちゃってさ」

「ジュース、奢ってくれたんです」

「これだけ釣れれば十分アピールになるでしょう?」

 お礼の代わりよ、というほどに。目の前のビニールプールには、大小様々なカサネサクラが泳いでいる。

「私は今回、小さいのしか、釣れませんでした」

 残念そうに、栞は苦笑する。自分が釣った魚を指差せば、それでも三十センチをオーバーしている。

「指が痛くなっちゃって」

「シオリの弱点だよねー。大物が難しいのって」

 構造上、フライフィッシングは大物に向かない。もちろんリールを巻いて釣ることはできるが、リールのギヤ比は1:1、ふつうのリールと違ってなかなか寄せることはできない。中型でも大物と遜色ないほどのビッグファイトを楽しめるという意味では、面白いのだが。

「お姉さんも釣れたんだよ、まぁ、一番小さいけど」

「いまんところあたしが一番釣ったかなぁ。ずぅーっと、ここと川と、行ったり来たりで、運動会みたいでさ」

「まぁお前は半分卑怯だもんな」

 身近な大物であるコイをかけてもびくともしないような長竿で、よく釣れるペレットフライを使用して、力づくで一気に引き抜くのだ。

 ややもすればカツオの一本釣りにも似た、漁みたいなものである。

「まぁいまんところ二番目よ、大きさも。……今三番目になるっぽいけど」

「お、図ってみるかい?」

 丸めたフィッシングメジャーを、びろん、と伸ばす。幅広で、地面の熱をなるべく魚に伝えないよう、全身がすっぽりと収まるようなタイプだ。

「俺、こういうふうに図ったことないんだよな」

「うふふ、そうでしたね。……あの時のイワナ、どれくらいの大きさだったんでしょうか……」

 懐かしむように、栞はまぶたを閉じる。

「ちなみにナンバーワンの環は48cmよ?」

「でっか」

「キミのも十分、大きいよ」

「そうです! ハルくんのほうが、お腹がでっぷりしてますし!」

「くふふ、まるでハルがデブになったみたいな言い方……!」

「シオリはそういう意味で言ったんじゃねーだろ」

「そ、そうですよ……!」

 言い合いながら、晴はランディングネットから、慎重にカサネサクラを横たえた。

「えーっと、四十」

 五、は超えている。正確な値を出すために、尾びれを伸ばして整えてーー

「六センチ」

「あぁ〜……!」

 一歩及ばず、残念そうに声を上げる。

「ざんね〜ん」

「でもハルくんのほうが太いです」

「はは、確かに。体高では負けているかな」

 別に勝負をしているわけではなかったが、それでも競い合うのは楽しいな、とばかりにくすくすと環は笑う。

「ま、今回は負けちまったけど。いろいろ勉強になったよ」

「今回は、たまたま勝てただけだよ。ボクも楽しかったよ」

 差し出された右手に、ハルはしっかりと握り返す。

 あんなに大きな魚を釣ったというのに、思ったよりも柔らかく、小さかった。

「いやー、それにしても十匹以上じゃない? これどうしようかなー……?」

「どうしようって?」

 逃がすんじゃねぇの? と問いかける。

「リリースしてもいいんだけどさ。いちおう、持ち帰りできるのよ。今のところは」

「えー? 赤金川ってなんか汚いイメージあるんだけどー?」

 渚は眉をひそめた。

「そこなのよ」

 その言葉を待ってましたとばかりに、霞は続ける。

「試験放流をしているのは、魚の生存が確認できるか、の実験。持ち帰りできるのは、赤金川で育った魚が、食べられるイメージを持ってもらうためなの」

「よく知ってんのな」

「姉さん、大学で魚の養殖を研究しているんだ」

「私じゃなくて教授がね?」

 あくまで霞はゼミ生で、研究のお手伝いだと話す。

「ほーん」

 だから詳しかったのか、と。

「初年度は採算度外視のアピールにつっこもうって、方針。そこから先で赤字が出たら……まぁ、考えたくないわね……」

 研究自体が続けられなくなる可能性があると言う。

「まぁ、そこを考えるのは教授の仕事よ。私はゼミ生として、頼まれた仕事をこなすだけ。上手く行けば、論文にゼミ生の名前を載せてもらえるのよ」

 研究者になりたい霞としても、非常に大切なチャンスらしい。

「だから、みんなにはぜひ食べてほしいのよね。サクラマスの三倍体だから、不味いはずがないんだから……とはいえ、大きいのを二匹も、っていうのはキツいわね?」

 

「いや、三匹だ」

 

 唐突に、最後の一人ーー怜が、帰ってきた。

「レン!?」

「あ、忘れてた」

「君は頭の中まで筋肉なのか?」

「あにおう!?」

「それより手伝ってくれ。大物すぎて、そろそろ肩が痛い……」

 大きなランディングネットを肩に担いでいるのは、カサネサクラが重すぎて、両手で持っていられなかったからだろう。

「うぉ、おっき……!?」

 大人として霞がそのランディングネットを受け取ると、ネットの中には、あまりにも巨大なカサネサクラが横たわっている。

「え、これ、五十超えてる……?」

「うっそ!?」

「ふ……」

 カサネサクラの研究に参加している霞ですら絶句するサイズに、怜は思わず、ニヤけた。

「サクラマスの三倍体だったな。なら、およそランカーサイズと呼べるだろう? こういった巨体は、縄張り争いでいちばんいいところを確保しやすい。つまり障害物(ストラクチャー)の影とかな」

「いや、障害物なんてこの川に……」

「あるだろう、川底の大岩が。夏場の渇水期に現れる中洲の写真は、すでに知っていた。そこに大岩が転がっていることも、航空写真で確認している。僕はそこを、真っ先に確保させてもらったのさ」

 寝不足になるほどの、徹底した研究。

「こういうサケ科は、大物になるほどのっそりと捕食する。その捕食レンジも狭く、岩ギリギリを狙う必要がある。それだけじゃあない。水温から底に居着いているだろうことは予測していた。深く沈め、レンジをキープし、根掛かりの恐怖と戦いながらのルアー操作……その上で、スレないうちに釣り上げるための挑戦権は、ほんの数回……まったく。久々に燃えてしまったよ」

 この一匹を狙うための研究が、実を結んだと満足気に頷く。

「えぇ……キモ」

「マジでストーカーみたいでキモい」

「ちょっと……執念深すぎて……」

「女の子にはやらないようにしなさいね?」

「どうして君たちは僕にそう辛辣なんだ?」

「あはは……」

 身内のノリではあるが、環も苦笑いを浮かべるしかないほどの執念だった。

「とはいえ、僕の釣った魚も、測定してくれるか?」

「いやアンタのが一番じゃん。測定する必要ある?」

「実測値は知っておきたいじゃないか。どれほどのサイズを釣り上げたか、貴重なデータであると同時に、僕の勝ち取った栄誉でもある」

「はいはい。……まぁ測るまでもなく五十は超えているわね」

 ランディングネットからそっと……持ち上げたかったが、大人の霞にとっても、重いうえに滑るから持ちづらかったらしい。やや乱暴に、どん、とメジャーの上に載せてしまう。

 尾ひれの形を整えて、読み上げたのはーー

「五十五センチ」

「だろうな!」

 巨大すぎて、感動よりも先に「当たり前だろ!」の気持ちしか、出てこなかった。

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