そのイワナ、お小遣い三ヶ月分につき。   作:神楽風月

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十二フィートの黄金イワナ
#1


 安鎮川にも、藤の花が咲く季節がやってきた。

 季節を終えた山の桜も青く染まり、淡い紫の花がまだらに垂れて、頭上を飾る。

「ぶつかるんだよなぁ、竿先が……」

 美しい景観ではあるものの、3.6mもの長竿を使っている晴にとってはいささか邪魔に思えてしまう。風情がないと言えばおしまいだが、釣り人にとっての風情とは、その藤の花の下で釣る渓魚の美しさのほうである。

「たった三十センチ違うだけで、こんなに違うもんなんだな」

 かつての竿は3.3mの6:4胴調子。

 今は3.6mの7:3本調子だ。

「カスねえは源流から本流まで使えるとか言ってたのに……」

「使うためには、それなりに技術も、必要なんだよ」

 赤金川で仲良くなった環が、くすくす笑う。

「もっとも、ボクは短いほうが好みだから。こういうところは、むしろ得意」

 世間は今、ゴールデンウィーク。

 跳魚の里帰りに向けて、安鎮川を案内しているところだった。

「とはいえ、今日はあくまで、下見だし」

 竿はいつもの、2.7m。フライラインが1mに、リーダーが2.1m。ハリスが1m。

 赤金川のときよりずっと短い仕掛けを振って、上流へ毛鉤を落とす。

「まさか、ふたりきり、なんて。思いもしなかったけど」

「みんな都合が悪くてなー」

 わいわい釣り上がるのが好きだから、少し残念に思える。

 夏休みのように子どもたちだけが休みの日とは事情が違い、祝日の続く大型連休ともなれば、親の休みも重なって、ちょっとした旅行に行ってしまう。

「栞は、今度はイトウだったか釣りに行くって、こないだから家族して北海道だろ? 渚は、今日はじいちゃんのところに顔出してへらぶな釣りしてくるって言ってたし。怜のところは……まぁたまには駐在所(ケーサツ)も休みたいもんな、父親といっしょに山奥のダム行ったわ。バス釣りの聖地らしい」

「ふふ、みんな釣りに行ってるね」

「だよなぁ」

 跳魚の里帰り、という釣り人のための行事が夏祭りとして根付いている村なのだから、そこに住んでいる者もみな、何かしらの釣り好きである。

「君は? どこか旅行に行ったりしないの?」

「かーちゃん小物釣り好きでさ、そのためだけに庭に金魚の池作ってんの。ぜってぇ行かねぇわ、アレ」

「き、金魚、釣るんだ……」

 金魚といえば教室の水槽で飼う魚といったイメージが強い環にとってそれは、衝撃的だった。

「なんならとーちゃんと並んで釣ってる」

「並んで……」

「金魚って水槽のサイズに合わせてでっかくなるんだってな。うちの長生きしてるやつは十センチ超えてんだぜ? 小物のくせにやべぇくらい引くんだ」

「まぁ、コイ科、だものね……っと」

 話しながらキャストしていたら、ぱしゃん、と食いつく。

 跳ね上げた短い竿は天井の藤の枝に引っかかることはなく、釣り味を確かめるようにゆっくりと近づけて、ランディングネットにキャッチする。

「ヤマメじゃん、おめでとう」

「わぁ……! ヒレもぴんぴんだ」

 いわゆる良型の、とも呼ばれるヤマメだ。

 川の水でしっかりと手の温みを取って、環はそっとヤマメを掴む。さっと針を外してやると、そのまま川へと帰してやった。

「なんていうか、ほんとうに魚影が濃いんだね。何も考えずに、釣れてしまうというか」

「つまんないか?」

 環は首を振る。

「癒やされる」

「わかるわぁ」

 カサネサクラはまさしく戦っている気分だったが、安鎮川はその逆、存分に遊んでもらっている(・・・・・・・・・)気分になるのだ。

「いいなぁ、晴くんは。ボクもこういう川が、身近にあったら、よかったのに」

「こればっかりは俺らの特権だな」

「みくまり祭りは、ボクら以外の大人も、参加するんだよね? それでも釣れるんだ……いいなぁ……」

 おそらく数百年かけて育まれた、自慢の川なのだ。

 おそらく数百年後も、こうやって遊んでもらいながら、川を守っていくはずだ。

「……晴くん?」

「ん?」

「ボーっとしちゃって、どうしたの?」

「いや」

 かぶりを振って、晴は改めて竿を構える。

「短い竿がほしいなぁーって」

「……栞ちゃんに、怒られるよ?」

 呆れながらも、ふふ、とおかしそうに笑う。

 もうじき、夏が来るーー

 

 

 

「環くんとのデートは楽しかったですか?」

 にっこり、と。栞が問いかける。

 大型連休も終わった、初登校日。

 夏が来るのに、教室の空気はヒエヒエだ。

「いや、デートって。安鎮川を案内してただけだぞ?」

「デートじゃないですか」

 むぅ、と頬をふくらませる。

「まぁ、初対面から男と思ってた相手だ、別になんとも思ってないんじゃないのか?」

「ただの友達でしょ、あんなの、とか考えてそう」

「実際そうだろ?」

「ダメです。あれはライバルです」

「いや毛鉤とフライなんて親戚みたいなもんだろ? それどころかテンカラフライだぞあいつのスタイル」

「いいえ。あれは外来種(ライバル)です」

「栞ってば我が強いから……」

「去年は気弱だったのになー」

 人間は成長するもんだな、と呑気に呟く。

「まぁ、でも、栞? 向こうは付属小だし、学校違うしそうそう会わないっしょ」

「エスカレーター式のはずだから、余計に会わなくなるだろう」

「それはそれ、これはこれです」

 ぷい、とそっぽを向く。

「ほら、晴。なんか適当にデートしてやりな?」

「機嫌が悪いやつがいるだけで、魚が逃げてしまう」

 渓魚は警戒心が強い。

 怒りから少し乱暴になった足音で逃げていってしまう可能性は、十分ある。

「デートってお前ら……」

 少し悩んで、

「じゃあオイカワでも釣りに行くか」

「晴、あんたほんとうに」

「君は馬鹿か」

「えぇ……?」

 なんでこんな辛辣に言われなければならないんだと、眉根を寄せた。

 

 

 

 安鎮川中流、いわゆる清流域と呼ばれる開けた里川にやってきた。

「なーんか、ここも久しぶりだなぁ」

「禁漁期間になったらほとんどオイカワやカワムツでしたから、それでも半年ぶりくらいでしょうか」

 なんだかんだと、ふたりとも釣り好きだ。ランドセルを置いて、竿を持って、自転車を走らせて……そうして来るのは結局、川なのだ。

 なにより時間もいい。夕マヅメだ。

 夕方に近づくにつれ、小さな虫が飛び交う。それを捕食するためにオイカワが水面でぱしゃぱしゃと波紋を広げ、ライズし始めるのだ。

 垂直に飛び上がって頭だけだし、そのまま水中に戻っていくもの。じょうずに跳ねて、水泳選手の飛び込みみたいに戻っていくもの。魚ごとに個性がある。

「今日も元気ですねぇ……」

 栞はいつもの7ft5in、番手は#3。長いこと使い込んだ、手に馴染むフライロッドには視認性のよいオレンジのダブルテーパーのフライラインを合わせている。

 水面がぱしゃんと弾けるドライフライが好みで、今日の気分は視認性の良いピンクをポストに使った茶色いダン・パラシュート。小物の中の大物を狙うため、フックサイズは#14。

 リーダーは7ftのスタンダード。ティペットは細めのx5を繋いで、フライをクリンチノットで結んでいく。締め込むときに摩擦を減らすため、軽く咥えてツバをつけるのも忘れない。

 ものの数分もしないうちにセッティングが終われば、リールから軽くラインを引き出して、フォルス・キャストで竿の調子を確かめる。

「今日も、いいしなり、です」

「そいつでも、いろんなの釣ったよな」

「そうですね。ヤマメとか、イワナとか……さすがにカサネサクラには使えませんでしたけど。もしかしたら、これグラスロッドですし、いけたかもしれませんね」

 右手で持った竿を振り、左手でラインを掴んで振った竿に合わせてラインを引っ張るーーホールをかけて、ラインを加速させて竿を曲げる。きっと誰もが見たことがある、フライフィッシングの代名詞、ダブルホール・キャストは、軽いフライをゆうに10mもの距離を飛ばすことができる。

 ひゅるり、と狭いループを描いてラインが上流へと飛んでいく。

 空中でぴんと伸び切って、反動で少し戻る。そうやってラインを一箇所にぐねぐねとした状態ーーラインスラックを出してフライを着水させてやれば、ラインが伸びながら流れていくので、ドラグもかからず、自然にフライが流れていく。

 ぱしゃん、と。あっというまに魚が食った。

「はや」

「オイカワだけに、です?」

 くすくす笑って、軽く竿を立ててフッキング。イワナやカサネサクラのように強く立てれば、魚が弾丸のように飛んでくるからだ。

「番長ですかね? 意外に引きます」

 ロッドを通してやり取りするのはライン一本のみなのがフライの面白いところだ。

 自分の指先で、じかに魚との綱引きを楽しむのは、リールにはない喜びだ。

「あは、婚姻色」

 夏に近づけば、美しい婚姻色のオイカワが釣れる。

 エメラルドの魚体に、ガーネットのようなオレンジ色の腹、オスはピンと尾が伸びて引きが強くなる。追い星と呼ばれる真珠のような顎の突起も面白い。

 川の宝石と呼ばれるだけはある、夏を迎えたオイカワは美しかった。

「きれいだよな」

「たくさん釣りましょうか」

 吸い込んだフライを外してやって、川へ静かに帰してやる。

「そういえば、北海道でイトウ釣ったんだっけ?」

「釣れませんでしたよ?」

「釣れなかったんかい」

「大きい魚ですから、力負けしちゃったんですよね。のされて、切られちゃって。お父さんは、釣ってましたけど」

「カサネサクラよりも?」

「んー、どっちが引きましたかね……釣れた、というならカサネサクラのほうが引かないかもしれません。私にとってはどっちも、怪物でしたけど」

 苦笑する横顔を見ながら、晴も竿を伸ばしていく。

 今日はフロロのレベルラインの3.5号を竿と同じ長さだけ、ハリスに同じくフロロの0.8号を腕の長さ程度引き出して使う。だいたい80cmくらいか。

 今日の毛鉤は黒。頭にゴールドの軽いビーズを使ってやって、魚へのアピール力を高めた黒毛鉤だ。サイズは栞と同じ、#14で大物を狙う。

「これでも成長したんですけどねぇ。背とか、一年でけっこう伸びましたし」

「そうか?」

「晴くんは私よりずっとずっと伸びてるじゃないですか」

「そうか?」

 言われても、実感はなかった。

「そういえば、ゴールデンウィークのときさ。藤の枝が邪魔でこいつが振れなかったんだよなぁ」

「それは……」

 軽く振りかぶって、ひょい、と投げる。

 テーパーラインよりレベルラインのほうが投げづらいが、もはや慣れたものだ。狭いループを描いて、ぴと、と水面に着水する。フライと違ってラインは空中に浮かせる分、遠くは狙えない。だが夕マズメのオイカワは、難しく考えなくてもすぐ食いついてくる。

 ぱしゃんと食ったところに一礼し、くん、と竿を上げてやればきれいにフッキングする。

「ん、なんか引きが違うな……」

 竿の先がお辞儀する程度にはぐんぐん引いてくるのを手首の力でいなしてやると、水面に背中の真っ黒なカワムツが出てきた。婚姻色が出てきていて、腹はオレンジに染まっている。

「カワムツのほうかー」

 同じくコイ科の魚だ。生息域が被るから、オイカワの外道として釣れることもある。

「でも、こっちも好きなんだよな」

「そうなんですか?」

「オイカワはヤマメに似てる引きだけど、こいつはどっちかっていうと、イワナみたいな引きだからな。こう、水中に潜って、踏ん張るみたいな感じでさ」

「なるほど、いいですねぇ。イワナ、釣ってみたいな……」

「今年は釣れるだろ」

「じゃあ、練習しないとですね。カワムツで」

 言って、もう一度キャスト。

「そういえば晴くん」

「なに?」

「藤の枝が邪魔でキャストしづらいって、言ってたじゃないですか」

「うん」

「やっぱり、背が伸びたからですよ」

 ぱしゃん、と食いついたのを確認して竿を立てる。

「去年は、3.3のロッドでもぜんぜん振れてたじゃないですか。そりゃあ、ロッドも30cmは長くなりましたけど……それでも上には、じゅうぶん余裕がありましたもん、去年は」

「そうかな?」

「みんな、ちょっとずつ成長してるんですよ? カサネサクラ、釣ったじゃないですか」

「……そうかも」

「あ、オイカワでした。残念……」

 唇を尖らせて、それでも、釣った魚は優しくリリースしてやる。

「……上が狭くても、キャストできる方法。教えましょうか?」

「それは知りたい」

「ふふふ。晴くんのそういう正直なところ、大好きです」

 

 

 

 ーー日曜日。

 朝早くから来たのはもちろん、御水山を流れる安鎮川の、渓流域だ。

「実践に勝る経験無し、です」

 ふんす、と胸を張る。

 邪魔者は許さないとばかりに、その日も二人きりだった。

「怜も渚も、結局、都合つかなかったなぁ」

「ついてもらっちゃ困ります。ふたりはおじゃま虫ですから」

「冷たくねぇ?」

「怜くんのルアーで釣り場を荒らされたら大変ですよ?」

「そりゃあ、そうだけど……え、じゃあ渚は?」

「晴くん、早く行きますよ?」

「無視かよ」

 いつもの入渓ポイントから降りていく。吊り橋の脇から川へと下る獣道もずいぶんと固まっていて、ところどころで靴を食い込ませた跡から、自然と出来上がった土の階段ができているほどだ。

 下へ降りると、川緑は小さな丸石が積み上がった砂利になっていている。雪解けや大雨ではここも川底へ沈むが、水量が安定した今の時期は十分な準備ができるスペースになる。

 ふたりはそこで、いつものように竿を伸ばして実践のための準備を始めるのだ。

「やっぱり、去年とおんなじくらいの高さです」

 頭上は今日も、大型連休のときと同じく、藤の花がまだらに垂れ下がり、天蓋のように川の上を彩っている。栞は、伸ばした自分のフライロッドを地面に立てて、頭上の藤棚までの長さを測った。

「予想通り、晴くんの背が伸びたのも原因の一つですね。竿も長くなりましたけど……来年や、再来年は、もっと狭く感じるかもしれませんね」

「それは、ちょっと困るなぁ……」

「私は、かっこいいと思いますけど?」

「うーん……良し悪しだよなぁ」

 腕を組んで真剣に悩む。

「私も、もう少し背が伸びてくれるといいんですけどね。すらっと背の高い、格好いい大人になりたいです」

「小さい方が便利だと思うけどなぁ」

「晴くんは背の低い子が好きです?」

「特に考えたこと無いなぁ……」

「ふぅーん」

 思ったような返事が返ってこなくて、不満そうに唇を尖らせる。

「ともあれ、身長は小さくできませんからね」

 栞はフライラインをリールから引き出す。グリップエンドから1.5mほど長く出したあたりで止めて、フライリールのドラグを最大まで締める。

「これで、よほど大物が掛からなければ、この子も、テンカラとおんなじ状態です」

 フライラインも、ロッドティップからほんの少し出た程度で止まっている。

「たぶん、環くんのセッティングと同じじゃないですか? 私のほうが少し、短いと思いますが」

「確かに、そうかも」

 ラインを押さえることもなく、フォルスキャストを繰り返して川に近づき、流芯を避けるようにキャストした。

「当たり前ですけど、ロッドが短いから頭上の藤棚にぶつかりませんよね。でも、ループを大きくしたりすると、ロッドじゃなくてラインが、ぶつかっちゃうと思います」

「そうだな」

 実際には藤の花を傷つけてしまうのでやらないが、しかし想像するに難くない。

「なので第一にループは、狭くします。川は陸との温度差で風が吹きやすいので、風に負けないためにも必要ですね。……代わりに、大きめのフライは苦手になりますけど」

 空中のフライフックに、ラインを引っ掛けてしまう可能性があるからだ。大きめのフライを使うときは、あえてループの大きいゆったりとしたキャストをすることがある。

「渓流だと特に問題はなさそうだな」

「ですね。#10を使った大イワナを狙うときだけ、注意ですけど」

「その時はその時だな」

「はい」

 魚が食いつく前に、ロッドを振ってフライをピックアップする。

「続いて竿を倒したキャストですね。サイド・キャスト。完全に水平だと、ホリゾンタル・キャストなんて呼ぶ人もいますが……」

 そのまま竿を若干右へ倒してキャスト。ループは竿の向きに合わせて斜めになって、川の方へと飛んでいく。

「横に開けてないとダメですし、実はこうすると……」

 フライが、ほんの少し左へ曲がって着水する。

 斜めに傾いたループを描いていたのだから、当然ではあるが。

「カーブします。ライン操作でキャストするフライフィッシングは、こうやって岩の影とか、川の中から飛び出た草とか、障害物を避けてポイントに落とすことがよくあります」

「怜みたいに曲げて入れられるんだな」

「フライは、新体操のリボンと一緒なので。空中でしならせて曲げることは簡単なんです。怜くんのあれはわけがわからないです」

 とにかく怜のキャストは高等技術がすぎるのだ。

 小学生がなぜそんな技術を持っているのかと疑問が浮かぶほどである。

「サイド・キャストで攻めるなら、竿の長さを活かして、竿先だけ川の上でキャストするのが一般的かもしれません。 川の上を低弾道なら、障害物は皆無でしょうから」

「だよなぁ」

「竿は長いほうが有利ですから、活かしたいところです」

 特にドラグのない延べ竿では、長さの有利が如実に現れる。

 竿のしなりがクッションになって、ハリス切れを防ぐ。その上で暴れる魚を抑え込み、ファイトを容易にする。水の屈折率も含めてほとんど全方位を見ることができる魚から、姿を隠して釣り上げるのにも長さの優位が現れる。

 だから竿は、望めるならば望めるだけ、長いほうがいい。

「でも、こうやって川から少し離れてキャストは難しいところもありますよね?」

「あるな」

 源流域では、場合によっては川に立ち入る必要がある場所もある。

「ボウアンドアロー、っていいます」

 ロッドを横倒しに、フライをつまんで引っ張る。弓を引き絞るように狙いを定めて、ぱっと離せば竿のしなりでぴゅんとフライが飛んでいく。

「見たままですね」

「見たままだなぁ」

「竿が振れないときはこれですね。リーダーとかティペットが長いと難しいので、源流域では仕掛けの長さは竿と同じか、ほんのちょっと長いだけのほうが快適だと思います」

「確かに……」

 あくまで遠くを狙うため、竿の長さより仕掛けを長くしていたが、その考え方は捨ててもいいのだという気付きがあった。

「仕掛けの話って流れで言いますが、やっぱりレベルラインよりテーパーラインのほうが、ピンポイントに入りやすい分、源流では評価が高いと思いますね。なにより、構成がフライに近くなりますし」

 欠かさず、フライフィッシングのアピールは忘れない。

「フライライン使ってないのに?」

「16世紀のフライフィッシングは……あれ、前に説明しましたっけ? まぁいいです。馬の尻尾を撚って作った馬素(バス)ラインっていうのを使っていました。PCV素材で加工したラインができる前の話ですね。だから撚り糸テーパーラインを使うテンカラは、原点回帰したオールド・フライフィッシングなんです」

「ふぅん」

「ちなみに当時のフライも、うずらとか、にわとりとか……そういう羽を絹糸で巻いただけの、テンカラにとても近いフライを使っていたんです。それこそ、ダビング材を使わなかったり……」

 そう聞くと、一番最初に巻いた、自己融着テープによる毛鉤にとても近いように思えた。

「……なんか俺、最初から最後まで、栞にフライフィッシングさせられてねぇ?」

 そうすると浮かんでくるのが、この一年、ずうっと栞の手のひらの上で転がされていたのではないかという疑念である。

「ーーあは」

 否定も肯定もせず、栞は、嬉しそうに笑った。

「じゃあ次のキャスティングに行きますね?」

「なんで答えてくんねぇの?」

「ロール・キャストはできてましたので、いいですよね」

「いや無視かよ」

「あれって岩とか流木とかに根掛かりしたとき使えるんですよ。深く掛かってなければ外れます」

「話聞いてる?」

「それの応用的に、ウィンド・キャスト」

 実践してみせる。バックキャストからのフォワードキャスト。そのとき十時の位置で止めていたロッドを、それこそ九時のあたりまで倒し込んで、低弾道でループを作ってキャストする。

「風があるならロールキャストのほうが、安定します。けど、水面近くまでロッドを倒して、せまいヘアピンループを維持しながらキャストできるこれを覚えておくと、さらに便利です。強風のときも安定してキャストできるので風の(ウィンド)・キャストって言われてます」

 わざわざ重いラインを使わなくとも、風に強いキャストはできるという。

「これも、ボウアンドアローも、ロッドを止める位置は普通とはちょっと違います。だから実は、ロッドを止める位置はべつにどこでもいいんです。きれいなループが描ければ、フライは勝手に飛んでいきます。それを楽にするのが、しなりだったり、重さだったり、ラインのテーパーだったりなんです」

 ラインをたぐり、フライをつまむ。

「……昔ですけど、こういうキャストがあるよ、と教えて貰ったことがあります」

 フライを持ったまま、竿を振りかぶり、フォワード・キャスト。ラインが引っ張られるのに合わせてフライを離してやることで、ひょい、と飛んでいく。

「名前はわかりません。ある本には『こそ泥(・・・)法』として、こっそり近づいてこっそりキャストする方法と紹介されていました」

 ラインを手繰ってもう一度、フライをつまむ。

「それの応用でやっている人がいて……」

 今度はロッドを振ってしならせて、ラインを波打たせる。

「その人はスネーク・キャストだって言ってたんですけど、どう調べてもスネークロール・キャストやスカジット・キャストが出てしまって、本当の名前は、結局わからなかったんですよね」

 ロッドの先は数十センチ程度しか動いていない。しかしラインをしならせて運動エネルギーを与えてやり、竿のしなりを活かしてそのままフライを離してやればーー

「ーーっ!」

 まるで普通にキャストしたように、せまいループを作って飛んでいく。

 晴にとっては今日一番の衝撃だったかもしれない。

 やっていることは実に単純なのに、それがまるで手品みたいに見えてしまう。自分はキャスティングにこだわりすぎていたのではないかという、なにか枷が外れたような気持ちすらあった。

「フライキャスティングは一種の手品みたいなものです。手品には、分かってしまえば本当にバカバカしい仕掛けがあるみたいに、フライキャスティングにもちょっとした種と仕掛けがあるんです。難しいと思うことに罠があるんですよ。受け売りですけどね」

 それを察してなのか、栞はにっこり笑って、そう付け加えた。

「それじゃ、実践に勝る経験はなし、です。……フライフィッシング・デート、楽しみましょ?」

 もうじき、夏がくる。

 おそらく、一番暑い夏になりそうだった。

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