そのイワナ、お小遣い三ヶ月分につき。   作:神楽風月

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#6

 環は確かに、大口を叩く(ラージマウスな)だけはある。

 初手を難しいイワナで技術を見せ、そこからは数釣りのルールに戻る。

 一手目がまるで「ハンデをつけてやった」ようにさえ見えるほど、渚に迫る勢いで釣り上げてくるのだ。

「なんか去年を思い出すなぁ……!」

 渋い顔をするのは晴だ。

 去年は圧倒的だったのが渚だけだったが、今年はそれが二人になった。

 どちらも腕を認めている相手だけに、よけいに敵わないと理解させられてしまう。

「テンカラは職漁師の釣りだった、と言われているだろ? その本質は数釣りだよ。一日で二百匹を釣った記録があるくらいさ。そうでなくとも、安定して卸すために三十匹とか五十匹とか、普通に釣らないとね」

 彼女は自分の竿を両手で曲げてみせた。

「そうやって数を釣るなら、針にかかったら一気に抜くほうがいい。ならこういう、硬い先調子が有利だ。世間様は柔らかい竿だとか、胴調子だとか、細いレベルラインだとか、言うけれどね……ボクにしてみれば、最新のテンカラはゲーム性に寄りすぎている」

 あのとき電話越しに感じた、毒蛇(ヤマガカシ)とばったり出会ってしまったときのような恐怖の正体を、晴はようやく、理解した。

 環は、狩猟本能が強いのだ。

 それこそ、その場を釣り尽くしてしまいかねないほどに。

 才能に恵まれたせいで、それこそつまらなく感じてしまうほどに。

「まぁ、実際にやっちゃったら釣り場がなくなっちゃうからね。ボクはゲーム性が高いほうが好きだな」

「……ほんとうに、外来種みたいな人ですね」

「ボクはみんなと仲良く釣りをしたいだけだよ?」

 本心ではあるのだろう。

 それを信じてくれる人が、きっとあまりいなかったのだ。

「ちなみにさ? こうやって圧倒されてた晴くんは、逆転できたりした?」

「できなかったに決まってるだろ」

 当時はテンカラとしてもフライとしても、中途半端な形での釣りだった。

 だが、いまから環と同じように釣れるようにはならない。

「だから、大物勝負にしたんだ」

「なるほど」

 まっすぐ見つめ返す晴を見て、環はニンマリと笑う。

「きみは、去年も最後まで、諦めてなかったんだね」

 

 

 

 山上湖の下、鏡ヶ池から流れ落ちる澄んだ水が安鎮川へと変わるポイントーー鏡落としの滝に足を踏み入れた。

 時刻は正午、去年の跳魚の里帰りで、黄金イワナを釣り上げたときと同じ時間帯。

 去年と違うのは、今年は空梅雨による若干の渇水があることだろう。水が少ないぶん、川の水は濁らず澄んでいる。渓魚の警戒心が高まる、悪条件でもあった。

 滝下のプールは、去年よりは小さくなっている。それでも、十メートル程度はある。すり鉢状で、それこそ手前に多くのヤマメが泳いでいるのが見えた。

「わぁ……やっぱり魚影が濃いや。まるで管釣りみたい……」

 これが自然に存在する場所なのか、と。環は感動したようにそこを見つめていた。

「去年、私はここで、大イワナを掛けて……ティペットを切られました」

「そして晴くんが、大イワナを釣ったんだね」

「ああ」

 もうすぐ一年。ともすればここに、あの黄金イワナが、潜んでいるかもしれないーー

「僕はこの一年、どうすればあいつ(・・・)を釣れるか、ずっと考えていた……」

 感慨深く、目を閉じて。

「だが正直、今日来るとは思わなかった」

「おい」

「今日の目的は別だったから、装備がない。……去年も同じ理由で挑めなかったな?」

 今日はあくまで、渚とギクシャクした関係を戻すための釣りだ。

 専用の装備など、用意していなかった。

「まったくアンタってば……ほんと、もったいないわねぇ」

 くす、と。渚が笑う。

「ま、今に始まったことじゃないけどさ」

「む……跳魚のときにはイワナ用の装備にするつもりだった」

「じゃ、そんとき釣り上げなさいよ? 今年もあたしがキャッチしたげるから」

「……頼む」

「ちなみに何で挑むつもりだったの?」

「フェザージグだ」

「なんか栞に毒されてきたわねぇ……仲間外れ嫌だし、私も夏休みに、巻いてみようかな?」

「いいですねぇ……!」

 いい傾向です、とばかりににんまりと笑う。このまま全員をフライフィッシャーにしてしまおう、という邪悪な思念すら感じた。

「……ボクより外来種じゃない? 栞ちゃんってさ?」

「あれは外来種っていうよりただの捕食者だからなぁ」

「きみは、栞ちゃんに甘すぎ」

「そうか?」

 まぁ、恩はあるからなぁ、と頬をかく。

「…………ま、だいたい、いい雰囲気になったんじゃない?」

 晴にだけ聞こえる程度の声音で、囁く。

「さんきゅ」

「あんなの、ほっとけば自然と仲直りするっていうのにねぇ……?」

 呆れたようにため息。

「さて、と。それじゃあ始めようか? 晴くん」

「何を?」

「ボクとの大物勝負さ!」

 ほんとうに、心の底から楽しそうに環が笑う。

「きみは、去年も諦めなかった。じゃあ、今年も全力で挑んでくれるんだろ?」

「環、おまえ……」

 もしかすると彼女は、学校ではこうやって競い合える相手がいないのかもしれないーー晴には、そう思えた。

「……なんか、友達いない理由が分かったわ」

「ひどいね!? あー、傷ついた……」

「雑に扱われるのが好きなんじゃないのか?」

「……ずるい言い方じゃない?」

「当たり前だろうが。友達だろ?」

「ははーーだからボクは、きみのことが大好きなんだ」

 いうや、竿を縮め、仕掛けを外す。

「ボクはね、やっぱりお互いにぶつかり合って、高めていける関係がいいと、考えているんだ」

 仕掛け巻きにラインを巻き取り、しまう。

 そうして、別の仕掛けを取り出した。カサネサクラを仕留めたときのーーこういった場のための、長い仕掛けだ。

「どっちから行く? きみが決めていい……いや、ボクはきみに決めてほしい」

 先手でも後手でも。

 相手に判断を委ねるという制限を、自らかけてくる。

「……後攻で」

「いいね。スレても釣れる自信があるみたいだ」

 それはそうだが、同時に、

「邪魔なヤマメを片付けさせようっていう、魂胆もいい」

 簡単に、見抜かれている。

「それを踏まえて、ボクはスレさせてしまえばいい。ボクだけ釣れて、きみには釣れない……そういう一方的な勝負になる、そのリスクを背負う覚悟も素敵だ」

 ラインをしごいて巻き癖を取っていく。

「三投かな?」

「ーーいいえ、五分間です。前回は」

 割って入ってきたのは、栞。

「というか、勝手に話を進めないでもらえます?」

「勝手に進めてるつもりはなかったかな? 今日は準備ができていないっていう話だろ?」

「むぅ……!」

「でもボクたちは準備ができている」

「……晴くん、ぜったいに、ぎゃふんって、言わせてやって下さいっ!」

「今どき言うかぁ……?」

「言ってあげるよ? 負けたらね」

 自信満々に、にやりと笑った。

「……投げればキャッチできる、それくらいの魚影」

 再び竿を伸ばす。ティペットを両手いっぱいに広げたほどの長さに引き出し、リーダーの先につなげる。

「その中から、五分以内に大物を引きずり出す。というのは、なかなか厳しいね?」

「去年は跳魚の最後だったから、ほとんど釣られてたんだよ」

「なるほど。今はそれがないわけだ」

 そしてどうやら、ここは人影をあまり恐れていないようにも見える。

 それだけ釣り人と出会うからなのか。あるいは毎年の跳魚の里帰りで慣れてしまったのか。それとも密集しすぎて隠れ場がなくなったからか。

 ならば、数釣りで片付けていくしかない。そう覚悟を決めて、毛鉤を……。

「……ドロッパーはルール違反かな?」

「いいですよ?」

「なんだそりゃ?」

「晴くんには、連バリって言ったほうが伝わる? 毛鉤とか、フライとか。二本使う釣り」

「あー。へらぶな釣りみたいにか」

「繋ぎ方はちょっと違うけどね」

 改めて、環は浮きやすい普通毛鉤を選んで、つなぐ。

 そのフックのベントにティペットを結びつけ、50cmほど伸ばし、その先に沈みやすいビーズヘッドの花笠毛鉤を繋いだ。

「ボクとしては邪道だと思ってる。けど、大物のために数をこなすなら、こっちが最適だ」

「竿の負担が強くならねぇ?」

「単純に考えれば、倍だね。ヘラブナでも二枚同時に掛かったら、だいぶ重いでしょ? でも、雑魚ならカサネサクラほどじゃあない」

「関西だったか、リャンコは下手くその代名詞らしいな。小さいアタリを取れないから二枚もかかる、だとか」

「あれ、簡単に大物の気分になれるから好きなんだよねー。あたし」

「要するにサビキとかオランダ釣りか」

「テンカラ竿は基本的に、とても柔らかい。特に最近のものはね? でもボクのロッドは流行から外れた、先調子。竿元のパワーもかなり強いタイプだ。フライロッドの使い心地を目指して作られているらしいからね。だから、こういう釣り方もできるーー!」

 長いラインを折りたたみ、スペイ・キャストのように水面にフライラインを置いて、畳んでーーシュートする。

 水の表面張力を使って竿を曲げ、小さく水しぶきを上げながらラインが水面から引き剥がされ、ロールし、狙ったところへキャストした。

 ひとつはぴちゃ、と水音を立て水面に浮き、もうひとつはぴちゃんと少し大きな音を立てて沈んでいく。滝壺から、安鎮川の始まりとなるべく水が流れるのに合わせて、毛鉤が下流へと流されていく。

 ーー最初に掛かったのは、浮いたほう。

「ん……っ!」

 アワセは完璧。ロッドが曲がり、そこそこのサイズのヤマメを引く。魚が一瞬暴れたかと思えば、ぐん、と一瞬で竿が満月のようにぶち曲がった。

「いきなりかっ!」

 下バリにも食いついたようだ。魚が暴れた瞬間、思わぬ動きをした毛鉤が誘いになって、ヤマメの捕食スイッチを入れてしまったようだ。一投目で二枚抜きというのは、魚影が濃いせいだろう。

「本当に、面白い川だね……っ!」

 逆方向に走ろうとして、上バリのヤマメに止められる。ならばとばかりに同じ方向へと走るせいで、まるで四十オーバーのカサネサクラを引いていたときのようにぐんぐん曲がる。

 時間制限があるのだ、無駄なファイトは避けさせてもらおうとばかりにさっさとラインに指をかけ、一気に引き抜きにかかる。魚の突進をいなす竿のクッション性が無くなる代わりに、強引に引き抜くならこちらのほうが早い。なにより、フッキングさえしっかりしていればそうそう外れない。

「……大口を叩くだけは、ありますね」

 去年も栞が語っていた。外国のシンプル・フライフィッシャーは、ああやって四十オーバーのサーモンを寄せてキャッチしてしまうと。

「二十台か。勝ちには繋がらないね」

 目測でヤマメのサイズを大雑把に判断し、一匹ずつフォーセップで針を外してさっさと逃がす。

「ちなみにあと何分?」

「三分程度か。フライの着水時点からの測定だ」

「ファイトが長引いちゃったか……!」

 魚影は濃い、だが二匹同時は、ファイトに時間がかかる。あるいは一匹ごとのほうが良かったかと考えがよぎるが、今更交換しているヒマはない。

 急ぐようにもう一投。ロール・キャストで毛鉤を弾き出す。狙いは同じ、大物が潜んでいるだろう滝壺付近の、流れの巻き返し。

「あと二分」

「くぅ……!」

 焦れる。それが楽しくて、思わず口角が上がる。

 より大物を、きっと晴は大きな魚を釣るだろうという信頼があった。

 だから、勝つためには、少なくとも尺以上ーーそれよりもっと大物を。

「掛かったーー今度こそっ」

 ばし、と竿が立ち上がる。一匹だけだ、引きは弱い。二本目にかかってしまってはもう一投行けないかもしれないと、針掛かりを確認するやラインに手をかける。

「短竿ですからラインに指をかけるのは楽でしょうね。でも、ラインが長すぎますから……」

 あれでは間に合いません、とばかりに。栞は、冷酷な解説を挟む。

 確かに引き寄せて、目視して、それでも二十台だと測定せずにすぐリリース。

「残り」

 ほとんど怜の声は聞こえていない。

「一分」

 かなり手返しの良い釣り方ではあった。

 しかし、

「あと三十秒」

 かかる。

 引きは強いが、尺超えの手応えはない。

「残りーー」

「くそっ!」

 一度も測定がなければ、記録は無いようなものだ。これを確実にキャッチするしか無い。

「十秒」

 竿を傾け、ラインに指をかけ、素早く引き寄せる。

「五、四、三ーー」

「ーー測定お願いっ!」

 ネットイン。弱らないよう水中に半ば残したままで、環は叫んだ。

 同時に、アラームが鳴る。

「五分で四匹とかヤバわねぇ」

「二本バリで、キャストに時間がかかるロングラインだ。それを考慮しても、とんでもない手返しだな」

「大口を叩くだけはありますよね」

 メジャーを取り出しながら、栞が近づく。

「んー……泣き尺ですねぇ、27cmです」

「くそっ!」

 五分制限。数釣りなら確実に勝てていただろうが、残念ながらこれは大物勝負だ。

「でもヤマメで27cmは十分大きいわよ?」

「イワナを取られたら、負ける可能性が、あるからね……!」

「晴くんは、ここぞってときの勝負運がありますからねぇ」

「まぁ、一番の大物を釣ったことがあるのは俺だが……」

「いやあたしでしょ? あれ、けっこう前の、あの時のコイ。メーター近かったじゃん?」

「七十超えたくらいじゃなかったっけ?」

「それでも、さすがにコイは別計算にしないか……?」

「え、コイを抜いたの? 七十オーバー?」

「さすがに抜けないわよ。ずり上げたけど」

「だからゴリラ呼ばわりされてたんだぞ?」

「次ゴリラって言ったらぶん殴るからね?」

 じとり、と冷たい目で怜を睨む。

「でもメーター級のコイを釣るのはすごいね? よく上げられたね……」

「確かに、抜いてはなくても、小学生が陸に引っ張り上げていい重さじゃないですよねぇ……?」

「ゴリラだろう? ーーあいたっ!」

 有限実行。即刻、渚の拳が振るわれた。

 

 

 

「んで、俺の番、か」

 環のヤマメ、27cm。これは十分に大きなサイズだ。

 ヤマメは、エサが豊富であれば一年程度で尺に届くものもいる。本流のヤマメならば十分に尺超えすることもありうる。そのうえで、安鎮川は跳魚の里帰りのおかげで川を下ることと登ることを繰り返す、尺超えヤマメが成長しやすい環境だ。

 だから、大きそうな魚影を狙い、釣り上げれば十分に勝率はあるーーが、

「イワナだよな。狙うなら……」

 今年もいるかは、わからない。

 しかし、安鎮川にはぬし(・・)のようなイワナがいることを、晴は知っている。きっと生涯、忘れることはないだろう。あの、黄金イワナのことは。

「……よし」

 使う仕掛けは決まったとばかりに、大場所用のブレイデッド(編み込み)テーパーライン4.5mを竿につなぐ。

 テーパーラインの先には、1.2号のナイロンハリスを両手いっぱいに広げたぐらいの長さでつなぐ。

「え、あれハリス? かなり長くない?」

「つなぐフライによりますけど、まぁまぁ普通ですね」

「そうだね。テーパーラインなら、ターン性能が高いから、むしろあれくらいがちょうどいいよ」

「ドライフライで、ドラグ回避を目的とするなら……私なら7ftくらいつなぐかもしれませんね」

「7ftって」

「2.1mぐらいだな」

「なっが」

「あれだと……ウェットフライの長さくらいでしょうか?」

 正解、とは口に出さず、晴はハリスの先にビーズヘッドの、黒くハックルの長い毛鉤を繋いだ。

「ビーズヘッドのソフトハックルですね」

「いや花笠毛鉤だろ? 黒花笠」

「まぁ俺はどっちでもいいんだけど……」

 栞と環の言い合いは続きそうなので、今度は口を開く。

「……投げたら開始だっけ?」

「着水したら、だ。テンカラとかフライは、あの前後に振る……なんだったか」

「フォルス・キャストですね」

「それだ。それがあるからわけが分からんからな」

「テンカラではフォルス・キャストはあまりやらないね。毛鉤を乾かすメリットは少ないことが多いから」

「どっちにせよキャストのタイミングが取れん」

 よく知らないのであれば、そうなるか。と納得したように頷く。

「じゃあ、ちょっと落ち着いていけるな」

 上を見る。伸びた新緑と、枯れ藤のツタが垂れている。竿先が触れそうだ。去年はなんとも思わなかったが、今では低く感じてしまう。

 後ろを見る。スペースはある。が、長いラインを振るには向かない。取り込むときには問題ないかもしれないが、注意は必要だろう。

 そして目の前。ざぁざぁと滝の音が響いて、十メートル程度のプールが広がっている。今の竿の長さ、ラインの長さから言えば全く問題なく対岸を狙える。空梅雨で雨が少ないせいで、川底が見えるほど澄んでいる。魚影が濃く、迂闊に投げれば環の二の舞いだろう。

 ーー去年は対岸の、巻き返しにイワナが潜んでいた。

 だが、今年はいないだろう。

 警戒心が強いなら、あんな見えやすいところにはいないはずだ。

「なら……」

 狙うは、滝壺直下。白く泡立ち、視界を遮る絶好の隠れ場所。こちらからは見えないが、向こうからも見えない……そんななかで、さぞかし目立つことだろう、この黒い毛鉤は。

「いくぞ」

 鉤を持って、竿のしなりを活かしながらラインを波打たせる。十分に運動エネルギーを蓄えた頃に、針をパッと離せばひゅんと小さいループを描いて、前へと飛んでいく。

「ーーあは」

 あれは自分が教えたものだ。そう気づくや否や、栞は思わず、声を上げて笑っていた。

「上手いね。あれから練習したみたいだ」

 環は逆に、大型連休で彼がもらしたぼやきを思い出して、感心する。しっかりと対策して、練習してきたのだろうと。

「晴くん、すごいでしょう?」

「カサネサクラのときから、そう思っていたよ?」

 言い合っている間にも、毛鉤は滝壺へと落ちていく。激しい水の流れにあって、ラインであたりを取るのは難しい。

 片膝をついて、頭上に引っかからないよう竿の高さを落とす。

「いち、に、さん……」

 そして、三秒数えて、ロール・ピックアップ。

 毛鉤が一瞬、水面に浮いたところをもう一度、ロール・キャスト。

「あれこそフライマンのテクニックですよ……!」

 うんうん、と後方で理解者ヅラをする。

「いや、あれはテンカラでもやるから。むしろ短い間だけ流すのはテンカラだよ」

 対抗するように環が口を挟む。

 晴は、どっちでもいいわ、と言いたくなるが……残念ながら、今は釣りに集中しなければならない。集中を乱さないよう、ラインの先を睨む。

「いち、に、さん……っ!」

 ロール・ピックアップのため軽く後ろへ引いた瞬間、びぃん、とラインが張る。

掛かりました(ストライク)!」

 テンカラでは短く流す。理由は様々だが、もともと活性の高い魚を釣り上げていくのがテンカラだ。

 毛鉤を短く流すことで見切られるのを防ぎ、かつ、活性の高い魚はその三秒以内に食いつく。ラインでアタリを取れなくとも、ピックアップした瞬間に自動でアワセが入る……こうして効率を高めていった結果に生まれたのがテンカラなのだ。

「ーーお前じゃない」

 竿のしなり、引きの強さから大物ではないと判断する。

 わざとラインを緩め、それどころかロール・キャストぎみに竿を振ってやる。あっという間に、魚の口から外れた毛鉤が水面にはじき出された。

「そうくるか……っ!」

 ラインが長い分、取り込みにも時間がかかる。

「わざとバラした、というわけか」

「いや、よーやるわ……」

 ともすれば、あの魚の暴れ具合で釣れなくなってしまう可能性がある。あるいは魚のザラザラとした牙に触れ、毛鉤がダメになって釣れなくなってしまう可能性もある。

 リスクを負って勝ちに行く。

 強い勝負度胸で挑む。

 今の晴には、あの一匹だけしか眼中にない。

「あと何分?」

「三分ちょっと、だ」

 わざとバラしたぶん、時間の余裕はある。

 流す時間も短くしている。焦らなくても大丈夫だと、ほんの一歩程度、キャストするポイントをずらす。

 キャスト、三秒流す、ピックアップする。

 三度繰り返し、ポイントを一歩程度ずらして、再びキャストする。

「シンプルフライの、おじいさんの動画を思い出しますね……」

「ボクが知っている動画と同じなら、あのおじいさんのことか。……まぁ確かにそっくりだ。キャスト後に竿を寝かせるところなんて、それこそフライマンの動きだ」

「言ったでしょう? 晴くんは、オールド・フライフィッシャーなんです」

「いや、あれは最新のフライスタイルテンカラだろ? メーカーの商品紹介ページにわざわざ乗せているくらいだ」

「どっちでもいいわ」

 思わず口が出てしまう。うっかり気を反らせてしまったな、と。ラインを引いてピックアップの準備に入るーー瞬間、入道雲から閃く、かつて見た黄金の稲妻のような錯覚が走る。

「ーーっ!」

 久しぶりだな、と。心で一礼。

「食った!」

 ばしっ、とラインが伸びる。

 まるで満月のように、驚くほど曲がる竿先。

 きゅきゅきゅ、とナイロンのハリスが鳴り響き、水面を引き裂いて走り始めた。

「え、ヤバ! 竿ヤバ!」

「随分と大物がかかったな!」

「晴くん落ち着いて下さいね!? これカーボンだからポキっと行きますから!!」

「落ち着いてるっての」

 ラインのテンションは緩めない。竿は立てるが、しかし、大物のぶんだけやや寝かせ気味に。竿元に手を当て、寝かせすぎないようにしながらゆっくりと立ち上がる。

 カサネサクラで大物とのやり取りを学んだのだ。

 一年前の自分じゃあない。

 背も伸びたし、竿も長くなった。

 ゆっくりと後ろに下がりながら、魚の突進とは逆に竿を倒していなす。その間もラインのテンションは決して緩めない。

 魚は、水面に寄せすぎないようにする。これは大物とのやり取りで気づいたことだが、魚は水面に近づくとパニックを起こして余計に暴れるようなのだ。

 もちろん、暴れさせて体力を削るのもいい。だが今回は、余計に暴れさせず、竿の柔らかさを信じて確実に寄せるつもりだった。

「あと一分だぞ!」

 怜が叫ぶ。だが、大丈夫だ。

 後ろに下がって竿を寄せ、少しずつ岸に寄せていく。

 水面が近づいて暴れ出しそうだ。だが慌ててはいけない……唇を舐めて落ち着くように自分へ言い聞かせ、ラインを指に引っ掛ける。

 掴むわけではない。あくまで引っ掛けるだけ。

 竿をしならせ、突進をいなすよう仕事をさせながら近づけるのだ。

「三十秒ーー!」

 落ち着け。

 暴れる勢いが弱まって、足元に寄ってきた瞬間に、完全にラインを掴んで引き寄せる。ここまでくればもうキャッチするだけだ。

「ーーご、よん、さん、に」

 自分のランディングネットよりも遥かに大きなイワナは、黄金色に輝いている。

「……久しぶりだな、黄金イワナ」

 怜のスマホから、アラームが鳴り響く少し前に。それを頭から掬い上げるようにして、晴はランディングネットに取り込んだ。

 

 

 

「尺上の、イワナじゃん……!」

 呆然とした環の口から、感動の言葉が漏れた。

「け、計測しましょう……!」

「まてまて、体が曲がったままだ」

「いやこれ、うっかり逃がしちゃいそうじゃん!?」

「四十ですかね? 五十ですかね? 夢の二尺もありえますよねぇ!」

「だから落ち着け。体が曲がったままだ」

 去年は感動と神々しさから、測定もせずに里帰りさせた黄金イワナに似ている。だが晴には、同じやつだという直感があった。

「なんか、測るのもったいないなー」

「もったいなくないですよ!」

「思ったより小さいと逆にショック受けそうで……」

「あー、うん、分かるけども……」

「魚のサイズは釣り人の名誉だぞ」

 落ち着いて、怜は川の水で手の温もりを取る。そうして近くの石を川岸にいくつか並べて、簡易的なプールを作った。

「とりあえず、魚が弱るといけない。ここに」

「ん、ああ」

 まってろ、とばかりに、口の端に閂に掛かった黒い毛鉤を外してやった。そうして、そっと、即席のプールに横たえてやる。水に体の半分ほど浸からせてやると、イワナは大人しくエラを動かし始める。

「さ、測定しますよぉ……!」

 こいつはいったい、どれほどの大物か。これに心躍らない釣り人はいないだろう。

 逸る気持ちを押さえながらメジャーを伸ばし、

「ーーきゃっ!?」

 やらせるものかとばかりに、黄金イワナの最後のひと暴れ。

「あっ」

 しゃがみ込んでいた怜の、膝ほどの高さまで跳ね上がったかと思った瞬間、水しぶきを上げて川へと逃げ込んだ。

「あー……逃げられちゃったぁ……」

 メジャーを構えたまま、すんでのところで逃げられた栞は、ため息とともに言葉を漏らす。

「けっこうデカかったよなぁ」

「去年くらいあったんじゃない?」

「去年も結局測らなかったしな」

 あるいは、測らないほうが良かったかもしれない。釣り上げた記憶は残り、この日のことを、生涯忘れることはないはずだ。

「まぁ……運が良ければまた会えるだろ」

「跳魚は来月だからな」

「ーーいや先に来た大人に釣られちゃうでしょ!」

 いちばん悔しがっていたのは、環だ。

「もー……きみたちはそうやって、魚に対する執着がなさすぎるっ」

「いや、まぁ、こんなもんじゃね?」

「いずれ釣れるだろうし、いずれ釣るからな。僕は」

「そもそも、いっぱいいるし、ねぇ?」

「なんなら私、カサネサクラも釣れなかったので。まずは尺イワナからですかねぇ……」

「だめだめっ! もー! 来月は朝一番で釣るからねっ!?」

 あんな大物を見て、燃えない釣り人もまた、いないのだ。

「いや、跳魚はエントリーが八時ぐらいだぞ」

「そんなに遅いの!?」

「いちおう神事だからなぁ……」

「くぅ……!」

 もどかしいが、釣り場のルールは守らなければならない。分かってはいるが、環は身を捩って悔しがる。

「ーー晴くん、前日は泊まっていい?」

「駄目です。お泊りは」

「えー? 夏休み最後の思い出ってことで、みんなで泊まるの楽しそうじゃん?」

「そうそう、いいこと言うじゃないか、渚ちゃん」

「僕は賛成できない。興奮しすぎて眠れなくなったら、万全の体調で挑めなくなってしまう」

「じゃあ怜だけお泊まり会不参加?」

「待つんだ、渚。それとこれとは話が別じゃないか?」

「てか、どこに泊まるんだよ。俺の家は無理だぞ。本が多すぎて」

「晴には期待してない」

「ボクひとりくらいならいけるんじゃない?」

「駄目です、いけません」

「じゃー、あたしんち? 庭先にテント立ててさー」

「渚の家だと、庭先というか店先になりかねんぞ」

 やいのやいの、ぎゃあぎゃあ。

 勝負の行方などどこへやら。

 今年の夏は熱く(・・)なりそうな予感がした。




※くう疲、これにて完結です。

完結したので設定的なのを自己満足で。

1.作品として
 発想の元は「川のぬし釣り」シリーズ。

2.釣りの実力
 環≧渚≧怜>栞>晴>>>>霞

3.晴
 選ばれた男主人公。
 フライフィッシングとテンカラを行き来する。
 どっちを選ぶかは知らないが、たぶん栞を選ぶ。
 敬語囁きASMRが弱点。

4.怜
 こいつにデータを与えて研究させたら黄金イワナを普通に釣る。
 ようするにTAS御用達の男主人公。
 今回は選ばれませんでした。
 データにないものが弱点。

5.渚
 持ち前のパワーと知識で釣り上げる、選ばれなかった女主人公。
 言ってしまえば無双キャラなので、竿が届くなら黄金イワナを普通にぶち抜く。
 キャストが下手くそなのが弱点。

6.栞
 おさげで眼鏡でフライ狂いの委員長系ヒロインです。
 コンスタントに釣る事ができるので、RTAでは重宝される女主人公です。
 パワーがないので大物が苦手。

7.環
 ぽっと出のヒロインであり、ライバルキャラです。
 外来種がモデルなので突然やってきました。
 場合によっては普通に食い荒らして晴たちの仲をバラバラにしました。
 友達がいないのが弱点。

8.霞(カスねえ)
 外来種を放流したやつがモデルです。
 外来種が入ってきた理由は、最初は高尚だったかもしれません。
 それがいいか、悪いかは、さておいて……。
 酒に弱い。

9.黄金イワナ
 川のぬしです。べつに願いを叶える力とかあるわけじゃないです。
 誘いに弱い。
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