「ぐわああああああ!」
一週間が経った。
今日は気分を変えて止水域ーー川のように流れのない、それでいて整備された場所がいいだろうということで、公民館のとなりにある沼に来ている。ここは農業などに利用するための人工沼で、広さは二十五メートルサイズの学校のプール三つぶん、といったところか。
水中に卵を生む蚊などの害虫を駆除する目的であったり、あるいは水に何らかの異常を発見しやすいように何種類かの魚が放流されているのだ。
「まーた引っかかった!」
景観のため植えられた桜の木に、バックキャストした晴のフライが引っかかってしまう。本日何度目かの出来事だった。
「またぁ? まったくもう……ちゃんと周り見ないから」
「バカがなげーんだよ、マジで難しい……」
幸いにも低い位置だ。ラインを手繰って軽く枝を曲げてやり、枝に食い込んだフライを外してやる。
「そういうときは、ロール・キャストって、いうのがあってぇ……!」
「やばいスイッチが入りそうだ」
「というかだ、ここまで来るとまずはキャスト練習のほうが重要じゃないか?」
呆れたように、怜は言う。ルアー釣りならば避けては通れないキャスト練習の重要さをよく知っている彼だからこそ、その説得力も増している。
「まぁ、確かにねぇ」
百均で売っているようなアウトドア用の椅子に腰掛け、竿掛け三脚、そこに九尺のコイ竿を掛けてのんびりと
「だったら、フライを外して、ヤーンを結ぶといいですよ」
「やーん?」
「なになに、えっちな言葉? カノジョに言わせるとかへんたーい」
「沼に突き落としたろうかこいつ」
「毛糸でもいいんですけど……」
用意していました、とばかりにボディバッグから、スプールに巻かれたオレンジ色の毛糸のようなものを取り出す。
「今回は、渓流釣り用の目印で代用しましょう」
「なんで持ってるのさ」
「フライって小さいですから、ニンフィングっていう、沈めるフライで
見失うと
晴が爪切りのような形の糸切りニッパーで糸を切ってフライを外してやると、栞はその切ったティペットの先に、簡単に目印糸を結んでやった。
「フライよりもっと軽いですから、すっごく、難しいですよ!」
「こいつ、楽しそうにいいやがる……」
「思ったよりもドSだよねぇ、シオリってば。これ、男を尻に敷くタイプだよ」
「ふむ……キャスト練習なら目標があったほうがいいだろうな」
怜が少し考え込むようにして、沼のほとりにある自販機横のゴミ箱へと歩き出す。程なくしてゴミ箱から、真っ赤なジュースの空き缶を取って戻ってきた。
「こいつに当てる……よりも、上に乗せるほうが難易度が上がって楽しいかな?」
「失敗したら罰ゲーム?」
「てめえ」
「もちろん」
「てめえら」
「じゃあ、デートしましょう。フライデート」
「てめえども」
「河川公園でオイカワ釣りが楽しいんですよ。婚姻色できれいで……楽しみだなあ……!」
「できないって決めつけないでくれっかな!?」
残念なことに、まともに釣りもできない今の晴はもっともカーストが低かった。
そこに拒否権などないのである。
「何メートル離そうか」
「仕掛けの長さ的に、めいっぱい伸ばして七メートルくらい?」
「いえ、シンプルフライはキャスト後竿は立てておくので……寝かせることももちろんありますけどぉ……」
「ざっと、五メートルにしておこうか」
スイッチが入りかけた栞を無視し、怜は、空き缶の中に沼の水を入れて重しにして適当な位置にぽんと置いた。
そこから、そのターゲットに背を向けて、一歩、二歩……。
「だいたいココか」
振り向いて、彼は自分のロッドを構えた。
「実は僕、キャストに限ればスピニングリールのほうが得意なんだけどね」
三十センチほどの
「よっと」
ひゅん、とまっすぐ飛んだルアーが、正確な弧線を描いて空き缶の上へ。
こつんと音を立ててプルタブの位置を叩き小さくバウンドするも、しかし怜はそれすら狙い通りだと言わんばかりに缶の上へ見事に載せてしまった。
「え、きも」
「うますぎてキモい」
「人間業じゃないですね……」
「なに、僕なんてまだまださ。十回に一度は失敗してしまうからね。それに、バス釣りのレジェンドはもっとすごいんだぞ。人によっては、マグカップの持ち手の穴を正確に通すしね」
「なにそれキモ」
「その前に障害物を置いても、カーブさせて入れてくるんだ」
「その方、ちゃんと人間です……?」
「ちょくちょく失礼だよね、君たち」
「てめえも人のこと言えねーだろ」
これに関してはお互い様としか言いようがない。あるいは、類は友を呼んでしまったというべきか。
「それじゃあシオリ、お手本を見せてやってくれ」
「えっ」
「できなかったら罰ゲーム、当然シオリにも適応だよな?」
「ええっ」
「もちろん。勝負はフェアにしないとな」
「えええっ!?」
実はピンポイントのキャスト自体は苦手である栞は、思わぬチャレンジ発生に悲鳴を上げてしまう。
「ふ、フライはぁ、ピンポイントで入れるんじゃなくてぇ……上流に置いて狙ったポイントにプレゼンテーションさせるって、いうかぁ……!」
「まー、シオリもかわいそーだし? 髪型変えたりするだけにしてあげよう。……いや、デートでツインテール地雷系ファッションさせるか」
「デート確定にすんな」
「そうだぞ、ナギサ」
「言ってやれレン」
「今の芋っぽい委員長スタイルのほうが好みかもしれん。まずはハルへの聞き取りだろう」
「口を出すなレン」
「でも普段が芋っぽいシオリが垢抜けた瞬間のギャップにくらっと来るかもしれないじゃん?」
「もういい黙れゴリラ」
「ああん!?」
晴の暴言に立ち上がり、凄んで見せる。
だが、今日はそれに引く晴ではない。
「ってか、言い出しっぺの法則だろ? まずはてめえが挑戦するのがスジってもんだろ!」
「なっーー」
「そ……そうです! 罰ゲームはフリフリの甘ロリファッションです!」
「シオリまで!?」
「なるほど撮影会か、悪くないな」
「レン!?」
「これに懲りて、少しおしとやかになってくれると助かるからね。普段の君はいささか、乱暴にすぎる」
「おー? 逃げんのか? 逃げんのかぁー?」
「くっ……や、やってやろうじゃん!?」
男子二人に煽られて、勝ち気で負けん気の強い渚は勢いよく立ち上がる。まだ何もかかっていないコイ竿を携えて、怜のスタート地点へとのしのし歩き出す……その背後で、目の前で餌に逃げられたコイがちゃぷんと水面を割り、残念そうにまた潜っていった。
「何回チャレンジ!?」
「延べ竿なら振り込みでピンポイントにキャストできるだろう? なら三回ぐらいが妥当じゃないか?」
「じょーとー!」
水を含んだ、針先のパンをつまむ。
目を閉じ静かに深呼吸を、三回。
「ーーせいっ!」
一回目、勢いをつけて振り子のように飛んでいったパンは見事に空き缶の上空をスルーしていった。
「やぁ!」
そのままの勢いで二回目、今度は空き缶の腹を叩いて、終わる。
「勢いしかねーな」
「まぁ、延べ竿だからね。普段から仕掛けいっぱいに飛ばせばいいなら、向きさえあっていればほとんどピンポイントにキャストできる。むしろ当然の結果だろう」
「だよなぁ。足元に落とすか、めいっぱい投げるかしかしてねぇもんな、このゴリラ」
「……ふー。ちょっと待ってて、今、集中するから」
ゴリラ呼ばわりにも反応できないほど、渚は追い詰められていた。
「ナギサちゃん……」
「なに?」
「……ふりふりの甘ロリ、持ってるんですよ、私」
「ねぇなんで今それ言うの!? なんでそれ今言うの!? てかなんで持ってんのよぉ!?」
「お母さんの趣味なんですよ……仕事が趣味の人でもあるんですけど……まあ、好みじゃないから、私は着てませんけどね……?」
ふふふ……と妖しく笑う。
渚を動揺させ、失敗させようとする魂胆なのは明白だった。
「はぁー……はぁー……!」
見事に術中にハマってしまった渚といえば、呼吸が荒くなり、大きく見開いた目は同様から揺れている。
成功するようには、見えない。
「ーーゴスロリもあります」
「ぐわあああああ!」
キャストするタイミングちょうどに合わせて告げられたダメ押しに、渚のキャストはみごと明後日の方角へと飛んでいってしまった……。
ーー同日、昼。
「よく考えたら、私、そんなに恥ずかしくないんじゃないかなって、思えてきました」
フリルのついたピンクのシャツに、黒いスカート。いつもの
「いやマスクのおかげじゃん! マシじゃん! マジましじゃん!」
頭に飾った大きなリボンが、彼女の大きなリアクションで揺れた。
あるいは頭のリボンさえ違えば童話の赤ずきんのようにすら見える。完全におとぎ話から飛び出してきたような、赤を基調にした白いフリル山盛りの、とういうかフリルがそのままスカートになったような、ホイップたくさんのふわっふわのいちごのショートケーキのような……もうなんと例えていいかわからないくらい情報過多な甘ロリ渚が、吠えた。
「こう、マンガだったら絶対描くのめんどくさいから出番減らされるタイプの服だな……」
「確かに。気がついたらまるで存在ごと消されるキャラの……哀れ過ぎて笑えないな」
「笑えよ! せめて!」
可哀想なものを見る目で見られて、もはや渚は自暴自棄だ。
「人を呪わば穴二つ……ですよね」
「言い出しっぺの法則ってやつだよな」
「もーイヤ……誰かに見られたら死ねる……腰ゆるくてスカート落ちそうだしさあ……」
「私いま喧嘩売られました?」
「代わりに胸元はぶかぶかそうだよな」
「ころすぞ」
「ひ」
地響きのように低く、殺意のこもったドスの聞いた声に小さな悲鳴が上がる。
「ハル、今のはだめだろう……」
「気にする人もいるんですよ?」
「ごめんなさい」
「でも私が太ってるみたいな言い方してくれたシオリちゃんへの仕返しとしてはグッジョブです」
「ナギサさん?」
「この話はやめよう、友情にヒビが入ってしまう」
「とっくに入ってるように思えるけどねぇ……?」
テンションが高いのか低いのか、もうぐちゃぐちゃで理由のわからない四人はトコトコと歩いてーーさすがにフリフリの甘ロリで自転車は危険すぎるためだーーたどり着いた先は、河川公園だ。さきほど約束した晴の罰ゲーム執行のためである。
天気の良い公園では、夏休みだからだろう、自分たちより低学年の子たちが滑り台やらジャングルジムやらで遊んだり、隣接する足首程度の深さの広い川で水遊びをしている。
「もーむり……明日から暫く引きこもる……」
「大丈夫です、普段のイメージとかけ離れすぎて、私たちだと認識しませんよ。きっと……」
「いやコイツらいる時点であたしら四人組ってわかるっしょ!?」
「夏休みデビューか罰ゲームって分かってくれるはずですよ、きっと」
だいたいにおいて田舎はほとんど顔見知りか、親戚だったりするのだ。普段の彼ら四人のやんちゃ具合を知る人なら、まぁ、さもありなんとスルーされるのもやむなしというもの。
「うちは客商売……!」
「そっとしてくれるさ、きっとな」
「うんまぁ、さっさと終わらせようぜ? 罰ゲーム」
「……デートのこと、そう言われるのは、ちょっと、ショックです」
「女心を学べよハル」
「察した結果ナギサのために早く終わらせようとする親切心だが?」
「なるほど確かに」
「レンくんはどっちの味方です……?」
人の多い公園をそそくさと通り過ぎ、人気の少ない下流へと足を進める。五分もしないうちに、ほとんど人もおらず、車の通りも少ない橋の下へとたどり着くと、渚は安堵するようにふぅ、とため息をひとつ。
「ここまで、ここまでくれば……少しはマシよね……?」
「そうだな」
「俺らしか見てねーな」
「なんか、えっちですね」
「えっちって思うやつのほうがえっちなんだぞ」
「シオリはむっつりだな」
「バカっていうほうがバカ理論やめません……?」
言い合いながら、晴はボディバッグから竿を取り出す。
「あれ、レンはやんねーの?」
「さすがに浅瀬過ぎて、ルアーだと根掛かりしてしまいそうだからね。僕はパスだ」
「そっかー」
「それに、だ。最近流行りのチャビングしようにも、僕のルアーのフックはほとんどバスかトラウト用だ。そもそも口に入らないよ」
「オイカワは大きくても十四番のフライですしね」
「シオリはやんねーの?」
「さすがにこの格好で川に入るのはちょっと。お母さんに怒られちゃいます」
「そっかー……念の為におうかがいたてまつりますがナギサさまは」
「イヤミかきさま」
「だよなー。まぁなんも持ってきてねーの知ってたけど」
「もちろん。わざと聞いて遊んでいるな、とは思ってるさ」
「だよなー」
当たり前のことを聞くいつもの遊びをしている間に、晴は竿の準備を終えた。
その後ろで、残った三人はレジャーシートを広げた。怜はリュックから水筒をふたつ取り出して、その上に置く。
「ちなみに片方にはあつあつの熱湯が入っている」
「てめえはいきなり何を言い出してんの?」
「もちろん、罰ゲームのためさ」
ことん、と追加で取り出したのは紙コップ。
そして、インスタントコーヒーのスティック。
砂糖は、ない。
「オイカワフィッシング三十分チャレンジ。釣れなかったらあつあつ激苦コーヒーの一気だ」
「このくそ暑いなかで、まじかよ……成功したら?」
「もちろん、僕が飲むのさ。今日は僕だけ罰ゲームを受けていないからね、平等にいこうじゃないか」
「おまえ……」
それは、晴なら釣れる、という確信か。
「ただのギャン中みてーだな?」
「ここは友情に感動するところじゃないのか!?」
「いや、今更じゃん?」
「もういい、タイマーをセットするからさっさと始めろ。まったく、友達甲斐のないやつめ!」
「へいへい」
怜の耳が赤いのは、気の所為ではないはずだ。しかし残念ながら、それをからかう余裕が、今の渚にはすこしもなかった。体育座りで顔を伏せ、少しでも姿を見られないようにしているからだ。
「……すこしくらい茶化してくれないと恥ずかしくてしょうがないじゃないか、シオリ」
「その羞恥心が罰ゲーム……みたいなものですし?」
ふふんとマスクの影で、栞が笑った。
川の上、橋の下ーー環境としては必然、風が強くなる。
「どーすっかなぁ……」
オイカワはコイ科の魚で、渓流魚よりは下流、いわゆるチャラ瀬などと呼ばれるような川底が小石の平場に数多く生息する。長靴やスポーツサンダルで川に立ち入って釣る姿は最も身近なウェーディング・フライフィッシングと呼べるだろう。
いまの風向きは、川の上流から吹いている。渓流においてのフライフィッシングの基本で言うなら、いまこそ逆風でキャストしづらい悪環境だ。
「ヤマメとかと違って、むしろ下流にむかって近くを流すといいですよー!」
風の音に負けないようマスクをずらして声を張り、川岸から、川中の晴に向かって栞がアドバイスを投げる。
「オイカワは、フライではメジャーな
むしろ禁漁期間のある渓流魚と違い、一年を通して狙えるオイカワこそをメインと据えるフライフィッシャーもいるくらいだ。特に夏場は繁殖期も重なり、オスの尾が伸びて引きが強くなる。さすがに尺超えのトラウト系には劣るが、同サイズの魚類と比べれば、そのファイトの強さに驚くことだろう。
「警戒心もさほどないです! 近場を流しても、ぱしゃっと来ますよ! キャストは気にしないでも大丈夫でーす!」
「なるほど」
アドバイスどおり、キャストにあまり気を使わず、気楽に振ることにした。
心のなかで、いーち、にぃ、と。肩の力を抜いて、いつもより気持ちゆっくり目に竿を振る。すると不思議なことに、それなりの風が吹くというのに、栞の作ったテーパーラインはするりと前に伸びていく。
「おっと……!」
ぴん、と空中で見事にターンし、水面にぽとりと落ちる。その様子に、むしろ驚いて無駄に竿を戻してしまう。水面に落ちたフライが、すい、と上流に移動した瞬間、
ーーぱしゃ。
「ああっ!?」
着水したポイントで、水柱が立つ。
「惜しいです!」
美しい緑の魚体が水面を割って飛び出して、また水の中に戻っていく。びっくりしすぎて空アワセをしてしまい、フライが頭上に伸びる橋の下に、ぱしんとぶつかってしまった。
「かなり活性が高いな。
「オイカワの特徴ですね! よく釣れるのでつまらないっていう人もいますけど、キャスト練習にリトリーブ練習、プレゼンテーションの研究からストライクの感覚を掴んだり、フッキングの練習にと、ぜーんぶできるすっごい楽しいコなんです!」
「なるほど。もともと数釣りができる魚だから、たしかに練習にはうってつけだな」
「はい! 釣れなきゃフライの感覚は掴めませんから!」
地方によってはヤマベ、ギンバエ、ハエなど呼び方が変わるのもこの魚が身近な存在である証拠だろう。名人になれば一時間で百匹以上も釣ってしまうくらいだ。
それほど釣りやすい魚なのだからと、怜と栞の話を川中で聞きながら、晴は失敗した理由を考える。
「今のは単純に、キャストが上手く行き過ぎたからだな」
だが逆に、キャストのコツは掴んだように思える。ハエ釣りなら竹竿のころからやっていたのだから、フッキングや取り込みに問題はないだろう。なら餌を、つまるところのフライに食いつかせればいいのだ。
「ゆっくり、ゆったり、落ち着いて……」
竿先で風を切るのではなく、むしろラインを空中で踊らせるようなイメージ。
夏休み初日、この竿を買ったあの日。里山の渓流で栞が見せた、フライラインの操作を思い出す。あれはまるで、新体操のリボンのようにも見えた。
そうーー力いっぱいに竿を振る釣りではないのだ、フライとは、テンカラとは。
「ん」
ぴっ、と竿を十時の位置で止めてやると、やはり先程のキャストと同じくラインが伸びる。狭く鋭いラインのループがするすると真正面に伸びて、空中でターン。静かにぽとりと、フライが着水する。
「ーーこうか!」
ぴたりとピースがハマったような感覚があった。ばかに長いラインでも、今なら木にも枝にも引っ掛けることなく投げられる気さえした。
「すごい! 完璧です!」
本業の栞からも絶賛するように声が上がる。
ーーぱしゃ!
「うおっ!?」
着水した瞬間に、また水面が爆発する。まさかもう来るとは思わず、それでいて食いついたという意識が同時に起こり、晴は一気に竿を跳ね上げた。
「ーー早いです!」
だがしかし、フライにはオイカワの姿形はなく、またもや橋の下をぱしんと叩いて終わってしまった。
「え、なんで?」
食ったじゃん、という認識があったにもかかわらず、針先に何もついていないことに呆然としてしまう。
「フライは心のなかでおじぎをするんです! 生唾を飲むとかとも言いますけどぉ!」
「お辞儀? 生唾?」
意味がわからない、とばかりに川岸の栞に目をやる。
「わざと遅らせるんです、フッキングは!」
「え、吐き出すんじゃね? 遅アワセだと」
「そうですけどぉ!」
なんと伝えればいいだろう? うーん、うーんと口に手を当て唸る。
「まぁ、言いたいことは分かるな」
しかし、すぐさま理解を示したのは怜のほうだった。
「ルアーでも確かにそうだ。一瞬ラインを送ってやると、深く食いついてバラシが減る」
「そう、そうなんです! たぶん!」
ルアーをやったことのない栞は、適当に同意する。
「もっと言うなら、ウキ釣りでウキに反応が出るのは、しっかりと餌を食いついた瞬間だけのはずだ。ハリスぶん、遊びができると想像できるからな。遊びの分、ウキへの反応がワンテンポ遅れるんだろう。いや、ウキ釣りのことは僕も良くはわからないが……」
「ーーへらぶなと一緒ってことよ」
黙り込んでいた渚が顔を上げて、そして静かに口を開く。
「ナギサちゃん!?」
「ウキがぴくぴく動いているときは、きちんと餌を咥え込んでないときよ。ついばんで餌の安全性を確認してから、餌を吸い込むの。吸い込んだあとで、口の中の針の違和感で逃げようとするから、ウキが
立ち上がって、右手で魚の口、左手で針を表現しながら説明を始めた。
「魚が餌の中の違和感を感じてから、吐き出すまでラグがあるわ。吐き出す前に逃げようとする、っていうのもあるけれど。味や硬さ、異物感……そういうのでどれくらいタイムラグが伸びるかは条件によって違うわ。けど、たぶんシオリの説明だと、お辞儀したり、生唾を飲み込んだりするくらい
「う、うん……そのとおりだよナギサちゃん!」
「ふふん、エサ釣りならあたしが一番だからね。コイがいちばん好きだけど。へらぶなだっておじいちゃんに教わったんだから!」
自信満々に、ふんすと鼻を鳴らして胸を張る。
「すごいな……餌はよく知らない僕でも、なんとなく理解できる」
「ナギサちゃん、実は私より頭いいもんね……!」
「ねぇ、実は、はいらなくない? スカート落ちそうってそんな根に持つこと?」
「ゴリラは森の賢者ってのは本当だな!」
「おいこら」
川の中にいるから、攻撃されないことは理解している。だからこそそんな軽口を叩いて茶化してやりつつも、
「さんきゅ!」
とうぜん、感謝の言葉を口にした。
餌でのつりとは違う、オイカワのフライフィッシング。初めてだというのに、もはやすぐにでも釣れるような気さえしてくる。
「よーし……!」
三度目、今度こそ釣れる。その意気込みをもって、竿を振った。
ひゅるり、ぽとんーーぱしゃり!
「ん」
一瞬、反応しかけるのを声を上げて抑え込む。水面を割って緑色の魚体が姿をあらわにし、フライを咥えて水中へと帰るーー
「いまだ!」
ここしかないとばかりに声が出た。
瞬間、カツン、という独特の手応えが竿を伝って手に返り、硬めのテンカラ竿が小さくしなって弧を描く。
「きたぁ!」
栞が歓喜の声を上げるのをバックに、長いラインの先でしっかりとフッキングしたオイカワがバシャバシャと右へ左へと泳ぎ回る。
「お、こいつぁ……!」
思ったよりも引きやがる、と。晴の広角が思わず上がる。釣り竿用とはいえ、乾燥した竹そのものだったかつての竿よりも、この竿はぐんぐん曲がる楽しさがある。
怜の持つカーボンロッドとはまた違う、グラスロッド特有のベナベナとしたしなりーーなかなか収束しない竿先のブレが、フッキングが外れてしまうんじゃないか、というおそれを生み出す。晴は必死にラインが緩まないよう高く竿を上げ、けれどもその暴れ具合を楽しむようにフッキングを維持する。
グラスロッド独特の、恐怖と歓喜の入り混じる引き味を楽しみながらーー
「ねぇこれ取り込みど―やんの!?」
ーーばかに長いラインは初めての晴にとって、ちっとも寄せられず、ただ暴れるオイカワを目の前に悲鳴を上げた。
「……あー、タモ、忘れちゃいましたね」
そういえば、と栞が口を開く。
「ルアーやフライと違って、手元でラインを引き寄せられないからな」
「たしかにねぇ。糸が長めのへらぶなだって、タモは必ず持ち歩くしなぁ……」
「竿がしなってぜんぜん抜けないんだけど!?」
あまりしならなかった竹竿では経験したことのない感覚だった。
「『剣豪』なのに抜けないのか」
「アーサー王だっけ、エクスカリバー抜いたのって」
「ほかの王子候補は抜けないんですよね、エクスカリバー……」
「ひとごとみたいに話してんじゃねーよ!?」
「仕方ないのでハルくん、歩いてこっちに来てください」
そのまま竿を高く上げ、ざぶざぶと川を歩く。思ったより引くとはいえ、小物の魚だ。引きを楽しむ余裕すらあった。
「転ぶなよ。逃がしたら激苦コーヒーだ」
「転べぇー! 転べぇ―!」
「おいこら甘ロリゴリラ!」
いつもの軽口を叩いて、ざぱんと岸へ上がった。
「……で、どうやんの?」
そのまま陸まで引きずり上げるか? とばかりに竿を指差す。
「えっと、シンプル・フライフィッシングだとですね。ラインの全長がロッドの二倍くらいにまで取ることがあってぇ……」
「ハルの竿だと……六メートル強か」
「そんなばか取るとかバカじゃねーの?」
「ベテランのフライフィッシャーはですね、ラインテンションを維持しながらこう……ロッドを後ろに回してぇ……」
「え、それ竿折れん?」
「テンカラ竿って柔らかいので、案外大丈夫みたいですよ? 外国の人ですけど、四十センチごえのブラウントラウト、そうやって取り込んでる人もいるみたいですし」
「うっそだろ外人さんパねぇな……」
「まぁヘラ竿だって、尺超えかかって竿立てても、案外折れないしねぇ」
「ヘラ竿もテンカラ竿も和竿といえば和竿か。まぁ大丈夫だろう」
「まじかよ……信じてるからな、シオリ」
「大丈夫です……折れたら一緒にフライ始めるだけだから」
「いま急に信じられなくなったわ」
「そんな、ひどい……」
「ひどいのはどっちだよ小遣いねーんだよこっちは……」
言いながら、右腕でラインテンションを維持したまま、竿を更に魚とは反対方向へと倒す。グラス特有のべなんとしたしなりに、心臓が凍るようなヒヤリとした感覚が走る……晴は慎重に左手を伸ばして、ラインに指を引っ掛けた。
「あ、つまんだりしないで、指に引っ掛けたっまラインを引っ張って……そうそう、そんな感じで……」
「指をガイドのように使うことで、竿がしなって魚をいなすのか」
「そうなんです。そうやっていい感じに弱らせてから……長く掛けてたから弱ってるでしょうし今回はやらなくてよかったんですけど……こう、ラインを手繰ればキャッチできます」
「今後のために覚えておくけど、そういうのは早く言ってほしかったな……」
暴れすぎて大人しくなったオイカワを、ラインを手繰って引き上げる。
釣り上げた最初の一匹は、ガングロの背中にエメラルドグリーンの体側、オレンジ色の胸びれを持った、見事な婚姻色のオイカワだった。
「おー、きれーい……!」
「この美しさ、川の宝石と呼ばれるだけはあるな。口元にも追い星が出ている、見事な番長オイカワじゃないか」
「可愛い男の子、ですね……」
「なんか含みのある言い方だけど……まぁ婚姻色がきれいに出んのはオスだしな」
大きいものなら十八センチにもなるが、今回のは残念ながらその半分程度か。それでも引きを楽しめるのだから、なかなかのパワーファイターだったと満足げに頷いた。
魚は人間の体温程度で火傷するほど繊細だから、川の水でしっかりと手を冷やしてから、優しく魚を掴んだ。針の刺さった傷口を広げないよう優しくひねってやれば、針は簡単に外れてくれる。
ひんやりとぬめる魚体を優しく水中に沈めて離してやれば、ぴゅーっと、そのオイカワはあっという間に逃げていった。きっと、今度出会うときはもっと大きくなって、楽しいファイトを繰り広げてくれるかもしれない……次も楽しみだと、そんな考えが巡って消えた。
「ハルくん」
「ん?」
「おめでと」
「ーーん!」
栞の称賛に、晴はにんまり笑って、ピースサインを出した。
参考文献:「身近で楽しい!オイカワ/カワムツのフライフィッシングハンドブック増補第2版」フライの雑誌社