夏休みも終盤となった、某日。
立て続けにきた台風も通り過ぎ、しばらくの快晴が続いて、川の増水も収まるころ。
みくまり祭りは、例年通りの開催となった。
「えー、本日はみくまり祭りの、跳魚の里帰りに集まっていただき、まことにありがとうございまーす!」
公民館の前で、青年団の実行委員会のひとりが大きな声を張り上げて言う。この祭りがあるからこそ、この村では釣り好きの人口がそこそこ多い。この日に合わせて都会に就職したご近所の兄さん姉さんが戻ってくることもあるほどだし、なんなら釣り好きの同志を旅行に誘うものもいたりする。
晴たち四人組を抜いたとしても、十数人もの釣り人がこの日のために集まってきていた。
「毎年のことではありますがー! 跳魚の里帰りでは御水山の鏡ヶ池から落ちる鏡落としの滝の滝壺からー! 登山口付近までの安鎮川でのみの釣りになりますー!」
この説明も毎年のものなので、初参加でもない限りは聞き流してしまっても問題ない。
この日を楽しみにしていた晴や渚は、もはや待ちきれないとばかりにソワソワとしている。
「場所によっては急流になっている川なのでー! 万が一のため毎年のことですがー! 参加費として千円頂いておりまーす! これはいざというときの積立保険金としてプールしておりまーす!」
「ハル、ちゃんと参加費はあるか?」
「かーちゃんに言ってもらってきた」
村の大事な行事なので、まったくすんなりと出してもらえたのである。いつも困難だったらなぁ、と呟いたら、硬いげんこつまでもらってしまったが。
「それではー! 参加する方はこちらの名簿に名前と緊急連絡先をご記入の上でー! 参加費をお支払いくださーい!」
「ーーうーっし! そんじゃあ始めっか!」
御水山の登山口から少し入って、吊り橋の横から降りたいつもの場所で、晴は体の柔軟をしながら、やる気に満ちた声を上げる。
「その前に再確認だが、釣った魚は僕たち四人あわせて、この活かしバケツに入れる」
怜は片手を上げて、まだ水も入れていない活かしバケツをふたつ、掲げる。柔らかな素材のクリアカラーで、必要ないなら畳んでおけるタイプだ。電池式の酸素ポンプを付けて、魚の窒息防止も万全である。
「跳魚は殺しちゃダメだもんねぇ」
「他の参加者もいるから、ポイントは登りながら探していく。本来なら、数キロ離れるのがマナーだが……まぁ、伏見川はそんなに長くもなければ、参加者も僕たち合わせて二十人を超す。今回ばかりは追い越しも目をつぶってもらうし、つぶるしかない」
「別に競技大会でもないしねー? ま、あたしたちは違うけど?」
今日は一味違うぜとばかりに、渚が不敵な笑みを浮かべた。いつものコイ竿でなく、ちゃんとした専用の渓流竿を担いできている。長さもいつものコイ竿とは倍ほども違う。その上で餌まで事前に用意しているのだ。
ーー今日は、本気度が違っている。
「僕たちは小学生だから、とにかく事故と遭難には注意だ。みんな、緊急ホイッスルは持っているか? 熊よけの鈴は? ファーストエイドキットは……」
「おかんじゃないんだから。てか、持ってきてるに決まってるでしょ?」
「きのう、みんなで確認したもんね……!」
「念の為さ」
「その慎重さ具合がな、まぁ、お前らしいわ。実際助かってるし」
「特に君が心配だからな、ハル」
「ほいほい、注意しますよ」
改めて帽子を深く被る。
「じゃ、いつものルール!」
「三投交代。でも今日だけは、順番はじゃんけん」
「今回ばかりは、僕が最初に行っても恨みっこ無しだからな?」
すでにロッドを組み立て、ルアーをセッティングしている。三投交代というルールからか、最初からアピール力の強いスピナーが、フックキーパーに引っかかっている。恐ろしいことにこのこのルアーは、すべての
「普段はそれほど数を釣れないが……しかし対人勝負なら、僕が一番であることは揺るぎないさ」
アピール力が強すぎて、スレるのも早いのだ。
「うんまあそれ使うならそうだろうな? 大人気ねぇけど」
今日のような対人勝負において、釣ったり探ったポイントを潰すことができてしまうという、恐ろしい武器を持っている。
「残念だったね、僕は小学生さ」
「だからって何やってもいいってわけじゃ……いやまぁいいや、今日は恨みっこ無しだし」
今回ばかりはしょうがない、みんな、そう納得しているからこその手段だ。
「ふふ……私も本気、出しちゃいますよ?」
「いやシオリは手加減すらしてねーだろ毎回」
「手加減してましたよ? 今日はカディスまで使うんですもん」
「ハル、カディスとはなんだ?」
「俺が知るわけねーだろ」
「カディスっていうのはですねぇ、トビケラモチーフの……とにかく釣れるフライなんですよぉ……釣れすぎて封印しちゃう上級者が、いるくらいです」
「大人気ねぇーな!」
「しかも今日のセッティングは、この川に合わせてきています。流芯の抵抗を避けて、ナチュラルにドリフトさせるためのロングリーダー、ロングティペット……たぶんこれ以上無いくらい、ここに特化させてきました」
「ほんと大人気ねぇーな!」
「ちなみにあたしの今日の餌はイクラだよ」
「えっぐ!?」
「ふふーん、卵だけにねぇー?」
「笑えねぇ……!」
ヤマメやイワナなどは、流れてきた他の渓流魚の卵を食べてしまう習性がある。匂いに色、形やツヤ……魚の食欲へダイレクトに、強烈に働きかけるのが、イクラなのである。もはや釣れなければそこに魚はいないとまで言えるだろう。
「え、これ俺が一番釣れないまである?」
「ありますよ? だから私達は、いくつかのフライを巻くんです。……ね? ハルくん」
「くそぉ……小遣いもらったら覚えとけよ!?」
「ちなみにハックルって、そこそこお高いんですよね。……だから、また、うちに来ても、いいよ?」
「なんか絡め取られていく気がするぅ……!」
「いよいよ逃げられなくなってきているようだな、ハル」
まぁ助けんが、と呟いて。怜はすっと、拳を前に突き出した。
「早速だが、ここでの釣り順を決めようじゃないか。どうやら大人たちは、良いポイントに早く行こうと、さっさと上の方に登っているようだからね」
だからこそ、この、スタート地点は穴場だとばかりに。
「……いいね、でも、初手はあたしがもらうから」
「じゃんけんは公平だからな、そうなったとして、是非もないさ」
「いくわ、せーのーーーーじゃん、けん!」
「あ、ちょ、待っーー」
「ぽぉん!」
渚のいきなりの掛け声で、まだ心の準備ができていない晴は慌てて、手を出す。
「あわわ……!」
そして慌てたのは晴だけではなかった。
栞も慌てたように、そのまま手を出す。
奇しくもふたりとも、パーだった。
「ーーその奇襲、読んでいた……つもり、だったんだけどね」
怜もまた、パー。
「よっしゃあ!」
チョキを出していたのは渚ただ一人。
「いまのズルくねぇ!?」
「ずるくないでーす。てか、人って慌てるとグーを出す確率が高いって言うじゃん? なのにみんなパー出したってことはさぁ……実は同じく奇襲するつもりだったんじゃないのぉー?」
「くっ……!」
それを言われると弱いとばかりに、そもそも奇襲を読んでいた怜こそは、唸った。
小狡い手を使い、煽るように論破して……渚は気分よく竿を手に取った。
「最近なーんか釣れなかったからねぇー、今日はあたしが一番釣ってやるんだからねぇー」
手汗で竿の操作を誤らないよう、指先だけ切り落としたゴムの滑り止めがついた軍手をはめる。指先だけ出るようにしているのは、細い糸を扱いやすくするためだ。
そうして手袋をした渚は、手に持った今回の相棒の竿栓を抜く。先端からリリアンを引き出し、仕掛け巻きから仕掛けを、ぶしょう付けで竿につなぐ。
そのまま仕掛け巻きから手を離すと、ひらひらと仕掛け巻きが地面に落ちて仕掛けがあらわになっていく。
「ん? やけに短いな、仕掛けを間違えたか……?」
「いや、おま」
そうして出来上がった仕掛けに、その全貌を知る晴だけが、絶句した。
それは、一メートルとちょっと程度の仕掛けに、五メートルを超す硬めの竿。
「ちょうちん釣りじゃねえか!?」
ある意味で、渚にもっとも合う釣りだ。
「なんだ、その、ちょうちん釣りとは」
「渓流の場合のちょうちんってのは、竿より極端に短い仕掛けが、ちょうちんとその持ち手みたいに見えるから、そう呼ばれていて……渚とクッソ相性がいい釣り方だ」
なぜならこのちょうちん釣りーーキャストをしない。
「封印してた、ってわけじゃないけどさぁー……あたし、最近、どーも舐められてんじゃん? だから、マジ本気ってやつ?」
不敵に笑い、竿を縮めたまま針先にイクラを一粒、二粒とつける。ついで川を睨み、鋭い目で魚影や、魚の潜むポイントを探りーーようやく、竿を伸ばした。
「ま、今日の一番はあたしかな?」
見定めたポイントまで静かに竿を伸ばす。そうして狙った位置まで竿を伸ばせば、それ以上は不要だ。竿を伸ばしきらず、そぅっと、イクラのついた針先を川の中へと沈めていく。
針の穴を通すようなキャストは真逆の方向性で、渓流のスナイパーとも呼べる精密な送り込み。渚は真一文字に唇を引き締め、真剣な瞳で川の流れを読む。
餌が不自然に流れれば、違和感から魚は警戒する……短すぎるハリスであるがゆえに、竿の操作で補う技術こそ必要だが、手慣れた渚にとって、それはとても簡単なことだった。
「ーーきたっ」
竿の操作に気を取られすぎず、川の流れに合わない不自然な動きをする糸を察知すると、渚は鋭く竿を立てる。
硬くあまりしならない渓流竿のパワーによって引き抜かれた針先には、まるでそれが当然とばかりに、餌を深く咥え込んだヤマメがついてくるのだ。
「いっぴきめー」
ニコニコしながら竿を縮めていき、程よいところまで近づけて、暴れるヤマメは渚のタモに吸い込まれるようにしてキャッチされる。
「どーすんだよこれ……」
晴は思わず頭を抱えた。
「まさか、こんな釣り方が……」
「ふつうはやらねーもんよ。邪道とは言わねーけど、ぶっこ抜くからあんまり釣り味は良くねーよ? カツオの一本釣り漁じゃねーんだし。だから俺、この釣り方嫌い」
「基本って、竿より長く、ですもんね……?」
「そう、竿と同じか、やや長めにするのが基本だ。けど、この釣り方は……釣れたあとが、ヤバいんだ」
「え、どういう……?」
「あと二投、あと二投」
恐怖におののく晴たちを尻目に、ふたたびいくらを針先に付けて、竿を伸ばす。
今日の安鎮川は、最近の晴れ間で水量が安定していて、深くとも一メートル程度だろうか。流れもさほど速くなく、穏やか。
だから普通なら、食いついた魚が暴れることで場も荒れ、釣れづらくなっていく。
そう、普通なら。
「ーーよっしゃきたぁ!」
キャストしないことで着水音は限りなくゼロになる。仕掛けが短いから、自然と
ーーつまり、場が荒れない。
必然、この釣り方は、
「ある意味で、究極の数釣り釣法だ……!」
終始、渚の有利で釣りが進んでいく。
「くそ……あんな倒木のところに、ルアーは投げ込めない……!」
正確なキャストができる怜ですら匙を投げる、投げ込めたとしても操作ができない倒木ポイントですら、渚の独壇場だ。
「いやー、ごめんねぇー? 今日はあたしの日だからさぁ」
キャストしない、という優位性は恐ろしいまでに、自然の源流域においては有効だ。竿さえ通れば、餌が入る。餌が入れば、
「ーーほいっと!」
渚なら、釣り上げてしまう。むしろ彼女が釣れないときは、それこそ魚がいないときしかないというほどだ。
先へ進んだ大人たちは、もちろんエサ釣り師もいたが、多くは渓流ルアーを楽しむ者が多かった。そしてちょうちん釣りは、エサ釣り師の間ではそれなりに有名だが、だからといってわざわざ選ぶ釣法でもない。
自然と、渚が狙えるポイントは多くなる。
多くなるからこそ、
「これでーーじゅうにひきぃ!」
渚の独壇場である。
「もはや漁ですよこれ……」
宣言どおり三投交代とはいえ、ほぼ一投一匹の凄まじさには恐怖すら覚える。
「先行したほかの参加者にも、ルアーマンがいた……多少なり、場が荒れていることは容易に想像がついたはずだが……まさかここまで圧倒的とはな……」
「まぁ、場所によってエサ釣り禁止の渓流があるくらいだからな。安鎮川自体の魚影が濃いってのもあるけど……」
漁協によってはキャッチアンドリリース区間に指定して渓流魚を保護する場所もあれば、今の彼女のように漁まがいの釣果を上げるせいで完全に禁漁とする場所もある。漁協も慈善事業ではないので、運営資金集めのために遊漁券発行などにより資金を得ているのだから、必死にもなろうものだ。
「カディスで釣れても一匹程度ずつですし……」
「先手を取ってスピナーで場を荒らしてしまおうが釣ってしまうのは卑怯じゃないか?」
「場荒らしておいて卑怯もヘチマもなくない?」
「一番の被害者は今日いちばん釣れてない俺なんですが?」
場荒らしに、根こそぎのちょうちん釣り、それでもなお強力なカディスフライ……そんなものが揃ってしまえば、テンカラ歴の浅い晴が太刀打ちできるはずもない。むしろ数匹釣り上げているのを褒めるべきだろう。
「てか、そろそろ活かしバケツも満員なんだけど?」
見通しの甘さは小学生と言うべきか、むしろ小学生がここまで釣り上げるのは想定外だからと言うべきか。気がつけば活かしバケツにはたくさんのヤマメが泳いでいる、というか泳げないくらいまで詰まっていた。
これ以上詰め込めば、ともすれば酸欠で死んでしまうかもしれないほどである。
「えー? あたしはまだまだ釣れるんだけど?」
「いつものキャッチアンドリリースじゃないんだ、さすがに諦めてくれ……」
「うん……そうですね。今日の一番は、ナギサちゃんだよ、さすがに……」
さすがにこれには二人とも戦意喪失である。
「しょーがないなぁ。これっくらいで勘弁してあげよう」
渚は満足げに竿を縮める姿に、ほっと胸を撫で下ろす。
「んじゃあさ? 頂上の神社まで行くついでだけど……滝のところで、今度は大物勝負とかいいんじゃない?」
ついでといわんばかりの提案に、二人ははっと顔を上げた。
「負けっぱなし、嫌いでしょ? みんな」
その言葉に、釣り人としての闘志がむくむくと湧いてくるのを覚えるのだ。
「……いいだろう。数では流石に負けてしまったが」
「今日はフライ、色々、用意してきましたから……!」
「ま、俺はもともと大物ねらいでしたが?」
「負け惜しみを」
「負け惜しみじゃねーよ」
「ま、どっちでもいいよ」
やるならみんなで楽しくなくちゃね、と。渓流竿の竿栓をしっかりと締めて、やる気の戻った二人を楽しげに見つめた。
山頂の鏡ヶ池のすぐ下、落差にして五メートル前後か。バケツを引っくり返したときのような勢いでざあざあと途切れることなく降り注ぎ、この安鎮川の始まりとなるのが鏡落としの滝である。
滝の前にはプールが広がっている。広さとしては、学校の二十五メートルプールの、半分ぐらいか。滝を中心に、半円のすり鉢状だ。そのすり鉢の一箇所から、下流へ向かう安鎮川のスタート地点になっている。
「誰もいないのは意外だなー」
「まぁ、お昼だし?」
「跳魚を山頂に届ける必要がある、ずっとキープしながら釣り続けるのは大変だ」
「さすがにもう、疲れちゃいました……」
それでも、獣道が出来上がるほどに毎年の行事として続けられてきたこの川だからこそできるといっても過言ではないだろう。それくらい、渓流で魚を生きたままキープして釣り上がっていくのは大変なことなのだ。
あまり運動が得意ではない栞は、ふぅ、と近くの岩に腰掛ける。晴や怜も、抱えていた活かしバケツを地面に置いて、食い込んだ紐の痛みを振りほどくように両手を振った。
「さて順番だが」
「もちろん、じゃんけん。今日はそれで統一でしょ?」
「そうだな。まあ、魚がスレてしまっても僕を恨まないでくれよ?」
「それなら、せっかくの大物勝負だ。三投交代じゃなくて、五分交代にしないか?」
「それと、一匹釣れたら交代も条件に入れるといいと思います。バケツ……もういっぱいですし」
「決まりだね。それじゃーー」
「おっと。奇襲はなしだ」
「ちぇー」
四人で円陣を組んで、右手を出す。
「さいしょは、ぐー」
「じゃーん」
「けーん」
「ぽん!」
掛け声を合わせ、始まるじゃんけん。その勝敗はーー
「やった……私から、です!」
パーを出した、栞からだ。
「ま、安牌だなー」
「一番場が荒れないから、順当な勝負になりそうね」
「タイマーは僕がセットしておく。君が投げた瞬間がスタートだ。シオリが釣っている間に、僕らは二番手を決めておこう」
「うん、よろしくね?」
栞がそう告げると、改めて、準備を始める。
「大物……投数制限、なし……!」
垂れ目気味の瞳をきりりと細め、人差し指を保護するために革製のフィンガープロテクターを右手にはめる。フライフィッシングでは、リールから出したフライラインを、指で抑えて制御する。それを指ドラグ、などと呼ぶ釣り人もいる。
大物を釣るなら、その引きも強い。フライラインは重さと張りを確保するためにゴムで覆われており、摩擦力も強い。素手で指ドラグをすれば擦過による怪我を負うことさえあるからだ。
しっかりと指にフィットすることを確認すると、今度はフライロッドを伸ばし、リールからフライラインを引き抜いて、ガイドにラインを通す。
「問題は……」
フライラインも、フライロッドも、番手が四番ということに一抹の不安がある。
小渓流に合わせた硬さ、重さだからだ。だからリーダーもティペットも、それこそフックサイズも、この番手に合わせた太さにしなければならない。合わないサイズは破損につながるおそれがある。そればかりか、想定外のサイズの魚が掛かれば、竿がのされるか、ティペットを切られるかもしれない。
「……十番、エルクヘア・カディス……!」
それでも、今はこれしかない。
今日持ってきたフライの中で、もっとも大きなフックに巻いたトビケラを模したフライをつなぐ。今の番手に合わせるならば十四番以下、せいぜい十二番までと考えればかなり思い切ったチョイスだ。
「あとは……」
狙うポイントは、滝壺の両脇、それも、今栞が立っている場所からみて奥の方だ。獣道があるこちら側よりも、奥側のほうが警戒心の強い魚が溜まりやすい。
そして今日のセッティングは、流れの速い渓流に合わせたロングリーダー……軽いフライを投げるための太いメインラインを使わなければならないという都合上、フライフィッシングは水面を大きく叩いてしまう。なにより長いラインは水の流れに乗って、不自然にフライを引きずってしまう。
そうした問題点を解消するべく考案されたのがこの、ロングリーダーシステム。フライをつなぐティペットや、投げるためのメインラインも含めれば、それこそフライロッドの三倍、四倍の長さほど竿先から出す必要がある。大きく広い主流を攻める事が多い海外だからこそ可能とは言われるが……。
「私なら、ぜんぜん、投げられる……!」
栞は闘志を燃やす。
フライのキャストは前後に振って投げるのだが、それ以外にも、ラインが重く張りがあるからこそ可能になった方法もある。竿先からラインを引きずり出し、伸ばしたラインは足元の流れが緩やかなプールの上に置いていく。
狙うポイントまでの距離を目視で図る。その距離に合わせて、リールからフライラインを出す。
「……いきます」
竿先から出したフライラインを、水面上に折りたたんで形を整えるように、竿を左へ、右へと倒す。水上のラインがまっすぐになったことを確認して後ろへ振りかぶり、フライロッドとラインが背中側でDの字を描くような形にしーー
「んっ……!」
ーー鋭く振り抜く。
フライラインが受ける水の抵抗を受けてロッドが大きく曲がり、それが復元する強い力によってフライラインが、はじき出されるように水面をロールしながら進む。
ロール・キャストと呼ばれるフライフィッシング特有の、キャスティング方法だ。
横から見れば、フライラインでできた輪がコロコロと水面を転がりながら伸びていくように見えるだろう。ベテランともなればこのキャスティングで
そうやって狙った場所にフライが落ちれば、
「ここから……っ!」
フライフィッシング本来の強みが顔を出す。
「んっ!」
間髪入れずロール・キャスト。正確にはロール・ピックアップという技術か。
本来は水の表面張力で張り付くラインを浮かせ、再度キャストしやすくするためのテクニックではあるが、これはその応用。コロコロとラインの輪が先へと伸びて、フライを水面から引き剥がしーーまた同じポイントへと着水させる。
それを、二度、三度……!
「まじかよ」
晴の口から思わず出た、驚愕の声。
「まったく同じポイントを、ずっと維持している……!?」
ルアーでは、特定条件下を除いて、ずっと同じポイントを攻めることはできない。竿の動きやリールでの巻き取りで、必ず動く。しかしフライフィッシングは、フライラインの重さと張りでキャストする独特の釣法であるがゆえに。玄人は流れの早いポイントですら、同じ一点をひたすら攻め続ける事ができる。
ルアーやちょうちん釣りが渓流のスナイパーなら、フライフィッシングは渓流の絨毯爆撃機なのだ。
ーーばしゃんっ!
「ーーんっ!」
水面で、特大の爆発。
水柱を上げて飛び出したのは、黄金色にすら見える、輝く大きな魚体。水面のフライをしっかりと咥え込んだのを確認し、お辞儀をするように頷いて、鋭くロッドを立てる。がつん、という手応えは、まるで針が川底にでも引っかかってしまったときのようですらあった。
「イワナだ!」
いるとは分かっていたが、その姿を見ることは多くなかった。
なぜならイワナはとても神経質で、警戒心が非常に強いからだ。
人影や光に敏感で、一度警戒してしまえば岩陰に隠れ、餌を追わない。それこそ竿やラインの影にすら反応してしまう。普段からやいのやいのと言い合い楽しみながら釣り上がる晴たちとまったく相性が悪い魚だ。
「デカいぞ、かなり!」
「知って、ます!」
今までにない手応えに、栞は歯を食いしばる。
ヤマメよりも重量感があり、深く潜ろうとするためか水の抵抗も凄まじい。それこそまるで、川底の巨大な岩でも釣り上げようとしているみたいだった。フライラインを指でしっかりと押さえていてもなお、栞の握力では少しずつラインが出ていってしまうほどだ。
「タモ、タモ!」
「慌てるな! まだぜんぜん寄ってない!」
後ろで慌てる渚を怜が諌める声が聞こえる。
「ん、にぃ……!」
歯を食いしばり、両足を踏ん張って、腰を落としてなお、栞ごと水中に引きずり込もうとする力強いファイトに、彼女の喉から言葉にならない声が出た。
右へ、左へ。逃げようと走るイワナをいなすように、左へ、右へと竿を倒す。
いよいよ指ドラグも意味をなさなくなり、フライリールからラインが引きずり出される。ジージーとリールのドラグが鳴り響き、少しでも抵抗するため栞は手のひらでリールを掴んで抑え込む。
「ばけものか……!」
それでもなお走る。左の手のひらに痛みを感じ、しかしそれでもと力強く抑え込んでーーぱちん、と。
「きゃっ!?」
抑え込みすぎて、ティペットの限界を超えてしまった。糸を切られないようにするためのドラグ機能を無視してラインの放出を止めたのだから、当然かもしれない。
「ーーシオリっ!」
勢いよく尻餅をつきそうになったところで晴や渚によって支えられ、かろうじて転ぶことはなかった。
「大丈夫か?」
「う、うん……!」
「よかったぁ〜〜……」
無事を確認して、渚はへなへなと力なく座り込んでしまった。
「まじで、なにあれ?」
「イワナだ」
「いや見れば分かるけど? あたしはサイズのこと言ってるんですが?」
「尺は余裕で超えている、ように見えたな」
「なんていうか、根掛かりしたみたいに全然動きませんでした……四番手だと、ちょっとパワーが足りなさそう、っていうか……せめて五番じゃないと、ロッド、折られてたかもしれないです……」
親指と薬指にからめ、手首の動きで巻き取るようにしてするするとラインを引き戻して、切られたティペットの先を見せる。伸び切って、ちぢれて、千切れていた。
「とんでないパワーね……!?」
「細めのティペットだから、やられるかも、って思ってたけど……」
抑え込みすぎず、落ち着いて巻けば、ともすれば取り込めたかもしれない……焦りが生んだ結果に、悔しさからか涙が込み上げてくる。
「……手、大丈夫か?」
リュックから小さい救急バッグを取り出して、晴は言う。
なんのガードも付けていなかった栞の左手は、リールの回転で擦れて、少し赤くなっていた。ひとまずの応急処置として消毒液をかけてやり、ガーゼを当て、包帯をぐるぐる巻いて保護してやる。
「あ、ありがと……」
「針のお礼、にはちょっと足りないか」
「……んーん、全然」
すこし不器用な形ではあるものの、栞は少し、嬉しそうに微笑む。
「しかし、まさかあんな大物イワナが潜んでいるとはな……」
怜は顎に手を当て、考え込む。
「目測だけど、明らかに尺超え……っていうか、四十とか五十センチ、あったりしなかった?」
「逃がした魚は大きいとも言う。釣れなかったから大きく見えるだけかもしれない」
「かーっ! 普段ロマンロマン言ってるくせにロマンのない男だねぇー!?」
「僕はロマン主義ではあるが、現実が見えていないわけじゃない。ロマンとは、現実を知ってから初めて語るべきものさ」
物の道理を知らない奴め、とばかりに肩を竦める。
「てか、安鎮川にもいるんだな、大イワナ」
「ある研究によれば、ごく普通の渓流にも五十センチを超える大イワナはいるらしい」
「ある研究って?」
「正確な研究は忘れたが……水産庁の、放流用の渓流魚に関する調査だな」
「んなもんよく知ってるな……」
「なに。君が、地元の昔話に詳しいのと同じことさ」
納得するような、しないような……晴はむっつりと、複雑な表情を浮かべる。
「渚の目測が正しいなら、悔しいが、僕のタックルでは釣れないな」
今日の怜は渓流ではポピュラーなベイト・フィネス。本来なら硬い竿と太い糸と重いルアーを使用するベイトリールで、柔らかい竿と軽いルアー、細い糸を扱うセッティングだ。
もともとベイトリールはラインにある程度のテンションを掛けてルアーを沈ませていくことができるため、キャストしてすぐ食いつく、いわゆる
「もともと僕は大イワナをターゲットには考えてなかったからね。釣り人としては悔しいところだが」
せいぜいで尺ヤマメが釣れれば良いと思っての選択だった。
……もっとも、今日は出だしから渚の戦術に完封されてしまったわけだが。
「冷めてんねぇ」
「ロマンは好きだが、現実は見えているつもりだ。実のところ、ナギサ、君の対策として今日はスピナー勝負するつもりだったわけだしな」
「あら、光栄。そんな警戒されてた?」
「俺も一番警戒してたのは実のところナギサなんだよな。ちょうちん釣りは想定外だったけど」
「ほー。んじゃやっぱり、これは封印かなー?」
「やりすぎると変なあだ名がつくからな。チョーチンのナギサ、とか」
「だっさ。やめとくわー」
互いの悔しさを誤魔化すためか、あるいは涙を浮かべる栞の気を紛らわせるためか。いつもの軽口を叩いて、一呼吸置く。
「てか、あの位置はあたしも無理だわ。長さが足りない。ここからじゃ、九メートルぐらいのがないと」
極端な距離制限、これがエサ釣りの弱点だろう。竿より長いところは攻めづらく、逆に近すぎても攻めづらい。
「もしくは、玉ウキで振り込むかだけど……」
「お前キャスティング苦手だもんなぁ」
「そーなんだよねぇー。悔しいけどさぁ、ピンポイントの振り込みは無理だわ」
渓流魚はその習性上、狙ったポイントへエサやルアーを送り込むのが必須技能だ。エサの匂いなどで寄せられるとはいえ、それでもなお渓流魚自身が餌場と定めたポイント以外では釣れないものである。
特に玉ウキ仕掛けは、水面の波にさらわれてアタリが判別しづらかったり、ウキ下のエサが狙ったポイントを通っているか判別しづらいなどのデメリットがある。流れの速さや向きは、思ったよりも複雑なのだ。
だからこそ、流れが速い渓流域や源流域では、ウキを使わないミャク釣りや、彼女のようなちょうちん釣りが主流なのだ。
「アレを釣れれば、ぜったい一番だったのになぁ……」
数釣りでは一番だったためか、渚には気持ちの余裕はあった。
だが、釣り人としての悔しさだけは消えなかった。
「アレを釣れば、一番、か……」
四人の中で、晴だけが闘志を燃やすように、にやりと笑った。
参考文献:「フライフィッシング教書 初心者から上級者までの戦術と詐術のために」シェリン・アンダーソン、田渕義雄共著