#1
四月、東京では桜の咲く頃だろうが、東北某所のここではいまだ雪の残る寒い季節だ。満開の桜と同時に入学式、なんていうのはテレビの向こうのおとぎ話のように感じてしまう。
それでも、季節は春。一ノ瀬晴たちは、とうとう六年生となった。
「むぅ……」
村から自転車を三十分以上走らせて、やってきたのは町の釣具屋だ。全国展開しているチェーン店だから、正直なところ、品揃えはおおむね日本三大フィッシングメーカーのものに自社ブランドを加えたものが並んでいる程度しかない。だから、いつ行ってもだいたい似たようなラインナップだった。
去年購入したテンカラ「剣豪」も実はこの釣具屋の自社ブランドのもので、とっくのむかしに廃盤となった。今はそれよりも性能の良いものがほとんど同じ値段で、竿の長さや調子違いでいくつか売り出されている。
六年生になったのだから、せっかくなら竿もちょっといいものを買ってステップアップしてみようと思い、お年玉を握りしめて一人自転車を走らせてきたものの……、
「わっかんねぇー」
正直、竹竿とグラスのテンカラ竿しか使ったことがない。晴はお小遣いを使い切ってしまうタイプの万年金欠児である。それでも最近は、何かと世話を焼き諌めてくれる栞のお陰で、マシにはなってきたほうだ。まぁ、代わりに、タイイングバイスやマテリアル……フライを作るための道具をちょこちょこと買い揃えさせられたような気がするが。
「長さは3.3mか3.6mか……調子は6:4か7:3か……」
自社ブランドのテンカラ竿はそれらの組み合わせで四種類しかない。あるいはちょっと背伸びをして、二倍か三倍くらい高いメーカー品を購入するか……しかしメーカー品は自社ブランドより品数が少なく、選択肢はほとんどない。
「なぁーにを悩んでいるんだい? キッズー」
頭上から、低い女の声がする。
「あ、カスのねーちゃん」
「カスミおねえちゃん、でしょー?」
その店の名札にはシンプルに「霞」と一字で書かれている。去年の十月頃にこの店で働き出した二十歳そこそこの女子大生、と本人は証言している。晴のことを「キッズ」呼ばわりするので、彼も対抗して「カスのねーちゃん」と呼んでいる。なんとなく年の離れた姉弟のような関係性を築いていた。
「新しい竿が欲しいんだよ」
「しょうがないなぁハルタくんはー。どこが濡れてて力がでないのかなー? お股かなー?」
「誰ももらしてねーよ。そんなんだからカスのねーちゃんって呼ばれるんだぞ」
「おねえさんショタは好物だけど君は嫌いだわ」
どちらからともなくついて出たため息が重なる。
「えーっと? 竿だっけ?」
「悩んでんだよなー。ちょっといい竿が欲しいんだ。六年生になったしな」
「ふーん」
ちらりと棚を見て、
「こっからここまで、うちの竿はどれもおんなじだよ」
「えー?」
「コスパは悪くないんだよねぇ。安いから。長さ違いで胴調子の方を二本選んだほうがいいよ。仕舞寸法が小さいほうがいいなら先調子を二本選んだらいい」
「いくら売りたいからって二本も買わせようとかカスだな!」
「いやいや、まじで。信じらんないなら振らせてやるけど、硬いよ? キッズは剣豪持ってるって言ってたでしょ? あれより遥かに硬い。マジ棒。エサ竿じゃないんだから。カチカチなのは好きだけど限度があるだろって。思わず言ったもん、上司の前で。あれ、これコイ竿の色違いでしたっけ? って」
「そんなんだからみんなにカスのねーちゃんって呼ばれてんだぞ」
「ふぅ~、キッズ特有のみんな言ってるってセリフぅ〜」
茶化すように両指を突きつけて、唇を鳴らす。
「まー実際のところさ、長さ違いがあると便利だよね。君の主戦場は渓流から源流でしょ? お姉さんは知ってるんだぞー? キッズが地元の夏祭り皆勤賞なの」
「地元民ならだいたい皆勤賞になるだろうが」
田舎だから、よっぽどの事情がなければだいたい夏祭りには強制参加である。
「そうじゃなくて、こう、もっと……強い竿がほしいんだよ」
「キッズだねー。フィールドと対象魚と釣り方に合わせるんだから、強い弱いなんてあるわけないじゃーん」
ぐぬぬと顔をしかめる晴に対して、彼女はケラケラと笑った。
「大物が釣りたいのかなー? じゃあ硬い竿のこいつで十分だし。それとも剣豪に似てて投げ易くてハリス切れしにくい柔らかい竿が欲しいのかなー? それだったら……んー、こっちかな?」
数少ないメーカー品のラインナップから、それを手に取った。
「柔らかい本調子の3.6m。適応ラインはレベル&テーパー。適合ハリスはなんと0.8から1.2号」
「へぇー、ハリス1.2号まで? けっこう大物いけるなぁ……」
「3.6mだから源流から本流までいけるんだぜー?」
「ほんとうかー?」
「あー、キッズにはわからないかー、このレベルの話は」
「なにおう」
「まー、お姉さんを信じてみなさいって、こっそり振らせてあげるからさ」
「いやいつも振らせてくれてただろうが」
「素直になりなよー、キッズー」
「ほんとムカつくなぁカスねぇ……」
ほれほれ、と差し出された商品を手に取る。
プラスチックの箱から取り出して、まだ買っていない商品なのだからと優しく竿を伸ばしてやる。するりすると長くしていくと、今まで使っていた3.3mの竿より、ほんの30cm程度長いだけのはずなのに、妙に長く感じた。
「……なんかちょっと重くねぇ? カーボンなんだろ?」
「その重さの差がスペックの差なんだなー。ネジレ防止カーボンシートに回転トップとか、ブランクスは大物を寄せるパワーを持たせるために肉厚にしてるとか。グラスのふにゃふにゃロッドとはワケが違うんだなー」
制作時点での目的が違う、と続ける。
「管釣りで放流されてる、50cmオーバーの大物トラウト。それこそハコスチですらいなして寄せるパワーを持ったロッドでこの軽さ。キッズは知らないだろうけどさ、今のフィッシング業界でのトラウトは、ネイティブより養殖、自然渓流より管理釣り場が主体なんだぞ? まぁ田舎キッズにはちょっとむずかしかったかなー?」
「ほーん」
50cmオーバーと聞いて、去年釣り上げた黄金イワナが思い出される。
あのときはそうとう曲がって、そうとう寄せるのに苦労したが……それがすこしでも楽になるのか、と考えれば、この重さも頼もしいように思えた。
「カスねぇ、これいくら?」
「おー、これ買うの? なんと今なら、たったの17,000円になりまーす」
「いちーーっ!?」
ひゅ、と喉が鳴る。
「うそうそ、メーカー希望がそれってだけ。うちなら実売だとセールこみこみで13,000円かな。今ならレシートについてきてる割引券とか溜めたポイントでさらにいくらか安くなるんだけどー? キッズはポイントあったかなー?」
「それでもたっけぇ……」
「ほーら、だから最初に言った通りこっちを二本買ったほうがいいって言ったんだぞー? キッズー」
「ぐぬぬ……!」
予算内ではある、だがしかし、高い……という苦悩。
「今なら『カスミお姉ちゃん大好きー』の合言葉でもうちょっと考えてあげても、いいんだけどなあー?」
「そ、そんな権限がカスねぇにあるわけ……!?」
「ちっ、賢しいキッズめ」
「ないんかい!」
「考えるって言っただけだしぃー?」
「カスが!」
「おほほほ」
楽しげに高笑いを浮かべ、
ーーごほん、と。
「霞くん?」
「あっ……てんちょ……」
ーー竿は買った。そして、カスねぇは、怒られた。
「それで……まんまと買わされたのか」
翌日の放課後、次々と教室をあとにしていく生徒たちの喧騒に、怜の呆れたようなため息がかき消された。
「私も、あんなに協力してお小遣い貯めてたのに……」
無駄遣いをしそうになったら「ダメですよ?」と諌めてくれていた栞が、悲しそうな顔をする。
「まぁー、ハルらしいっちゃらしいわ。そうやって、無駄遣いするところ……まぁー、でも、四ヶ月ぐらい? いろいろ我慢してたしねぇー? ハルにしてはよく頑張ったんじゃないの?」
呆れてはいるものの、普段の彼を知る渚からすれば十分立派に成長したとも言える。その成長っぷりに、思わず感心してしまう。
「お年玉、まぁちょっとは残ったんじゃない?」
「かーさんにいくらか抜かれたうえで、だけどな」
いわゆるお母さん貯金というやつだ。子供としては、実際に貯金してくれているのか証拠もないので使われていると思わざるを得ないが。
「じゃあ、また少しずつ節約しましょう? 私も手伝いますから……」
「どんどんシオリの彼女化が進むねぇー」
「ほとんど尻に敷かれてしまっているな」
「か、からかわないでください……!」
恥ずかしそうに耳を赤くし、両手で眼鏡を押し上げるふりをして顔を隠す。
「んで? 鱗付けは済んだの?」
「いや、まだだな。カスねぇのせいで時間食ったし」
「あー……」
怜たちも一応、彼女とは顔見知りである。竿とエサならば渚の雑貨屋で買えなくもないが、しかし大きな釣具屋といえばそこしか無いのだ。あとはせいぜい、ネット通販を利用するくらいしか方法がない。
「ダル絡みしてくるよね、あの人」
「私、あの人、苦手です……」
「もう少しおしとやかだったら好きになっていたかもしれないな」
「おやおや、レンも思春期だねぇー?」
「あくまで可能性の話だが?」
言外に好みではないと断じて、ランドセルを背負う。
「ともあれ、鱗付けがまだなら今日は釣りに行くとするか。ちょうど、渓流も解禁されているしな」
ここ、東北某所での渓流の解禁は四月頭から八月末までである。
この地方に伝わる跳魚の里帰りは夏祭りとしての風物詩ではあるものの、同時にこれから禁漁期間に入るという合図でもあった。
「やっぱり安鎮川か」
「んー、でも雪代が残ってるんだよなぁ。水も冷たくて……」
「それを言い出したらどこの川も同じだろう」
「んじゃ沼じゃん」
「近場だと……やはり公民館のところか」
「その竿でコイでも行くつもり? 折れるって」
「いちおう、へらぶなとブラックバスとブルーギルもいますよ?」
「毛鉤で行けるやつら?」
「それが、フライならぜんぶいけちゃえてぇ……白いエッグとかワタっぽいふわふわしたパターンでコイとへらぶながいけてぇ……ぽてっとしたソフトハックルでもふなが釣れた例がぁ……!」
「スイッチを入れるなハル」
「悪い」
晴は、肘で脇腹をこつんと小突いてやる。すると、はっ、としたように栞は正気に戻った。慣れたものだなとばかりに怜は肩をすくめてみせた。
「こほん……ハルくんの毛鉤って虫のイミテートなので、ブルーギルとバスぐらいしか掛からないから、かえって安全だと思いますね」
「ハルの毛鉤は、沈んだとき、プランクトンの塊に見えたりしないのか? ちょうど今の時期は産卵期だから、ミミズみたいな動物性にも食いつくと聞く」
怜は頭の中で魚類辞典を開き、食性を思い出しながら聞く。
「基本の毛鉤しか巻いてないのなら、たぶん大丈夫じゃないでしょうか? ハックルがぼろぼろになって、ボディのダビング材がぼさぼさになってたら、もしかしたらプランクトンクラスターに見えなくもないですが……」
「あー、万年金欠だもんねぇ、ハル」
ケチってボロボロの毛鉤もずっと使い続けそう、と晴を見やる。
「むしろボロボロになってきた頃のほうが釣れることがあるんだよなぁ」
「じゃあ今回は巻いたばっかりの新品を使ったほうがいいですね。知らないうちに、プランクトンクラスターっぽくなってるのかもしれませんので」
「まぁ、うっかり大コイとか掛けたら大変だもんなぁ」
プランクトンをエサとする魚にとって、その塊に見えるようイミテートされたフライはさぞかしご馳走にみえるのだろう。毛鉤も、使い続けてボロボロになってくると、そうしたものに見た目が変化することがある。
それこそ毛がぜんぶなくなるまで使えるのだから、漁師の釣りとはよく言ったものだ。
「買ったばっかりの竿折ったら泣いちゃうもんねぇ」
「誰だってそうだろ」
「その前にハリス切れするだろうが……まぁいい。帰ったら公民館に集合だな」
「へいへーい」
「んじゃまた後でー」
「楽しみですね……っ!」
怜のひとことで、四人は急ぐように教室を後にした。