公民館の真横には、主に農業用に作られた人工のため池がある。ここには何種類かの魚が放流されている。理由のひとつとして、有害物質などが紛れ込んだ際に異常をいちはやく察知するためだ。異常があれば、ため池の魚があっという間に死んでしまうからである。
同時にこのため池は洪水調整や生態系保全、親水空間など……様々な用途で用いられている。この場所で釣りをしてもよいと解放されているのも、そうした理由だ。
「あー。キッズー」
地元民の憩いの場として解放されているこのため池で、会いたくない相手に出会ってしまったとばかりに、晴は大きくため息をついた。
他の三人は、まだ来ていなかった。
「カスのねーちゃん」
「かすみお姉ちゃんでしょー? キッズー」
「仕事はどーしたんだよ仕事は」
スピニングリールをつけたルアーロッドを、腰のフィッシングバッグのロッドホルダーに差した霞に対して、クビにでもなったか、と問いかける。
「ふふん、大人にはね、休みがあるんだよ。お姉さんは平日休みのシフトだからね」
「てか学校は? 大学生だって言ってなかったかぁ?」
「キッズにはわからないんだろうねー、大学生は基本、暇なんだよー」
「全国の大学生に謝れカス」
せっかくの鱗付けだというのに、最悪の相手だ……はやく他の奴らもこないかなぁと視線を彷徨わせる。
「……てか、カスねぇも釣りしにきたの?」
「これでも釣具屋の看板娘だしねー」
「サンドイッチマンの間違いだろ」
「よく知ってるねぇキッズのくせに」
マンガやラノベに偏ってはいるものの、晴は読書家なのだ。相応に知識はある……偏ってはいるが。
「ちなみにキッズは何を釣りに来たのかなー? ま、キッズだからきっとギルなんだろうねー」
ブルーギルはとにかく雑食性が強く、初心者でも釣りやすい魚だ。扁平な体であるためか水の抵抗を強く受けやすく、小さくともかなり強い引きが味わえる。ともすれば、20cmのギルは同サイズのブラックバスより引くだろう。
別に、悪い魚ではない。
「悪いかよ」
「いやいや、別に。まぁキッズは実力が足りないからねー、ギルでも釣ってなさいってことだよ。お姉さんは、ブラックバスを釣りに来たんだもんねー」
ブラックバスは平成の時代に、一大ブームを巻き起こした魚だ。今でもトーナメントが行われるほど人気の高いゲームフィッシュである。エラ洗いと呼ばれる水面ジャンプは釣り人にスリルと興奮を与えてくれる。
特段、悪い魚ではない。
「でもキッズー? キッズはちゃんと、外来生物法と特定外来生物に関する条例とかちゃんと守っているのかなー?」
「は?」
いきなりこいつは何を言い出すのだと、うろんな顔をする。
「よそに放流しちゃ、ダメだからねー?」
「してねぇーよ」
どちらも悪い魚ではない。
ただーー存在するだけで在来生物を駆逐してしまうだけだ。
「ならいいんだ。自分だけの釣り堀ー、なんて言って知らないところに密放流は、ダメだからねー? お姉さんとの、約束だぞー?」
「約束するほどのことじゃなくねぇ?」
「約束するほどのことなんだけどねー」
にまにまと笑いながら、霞はロッドを引き抜いた。
「お姉さんはね、今日はストレートワームのネコリグで釣るんだよ。これがすごく良く釣れるんだって、店長から聞いたんだ」
「さてはシロウトだなカスねぇ」
「お姉さんは海釣り派だからね。今の世の中は、アジングだよキッズー?」
言い返してやったとばかりに胸を張る。
「ーーげっ、カスねぇじゃん!」
そこへ、遅れてやってきた渚が声を上げて、
「こんにちはカス姉さん」
続けて怜が、
「カスのお姉さんこんにちは」
最後に栞が挨拶をする。
「こらこら、キッズたちー? 年上は、敬うものじゃないのかーい?」
「尊敬されたけりゃ子供に混じって釣り場荒らしするのやめたら?」
ごもっともな一言を、晴は言ってやった。
「まぁダルがらみしてこなけりゃ別にいいんだけどさ」
言いながら、晴は新しく買った竿の先に、フロロのレベルライン3.5号をつなぐ。購入した日に作った仕掛けだ。ハリスとはコブ仕掛けでつなぐため、先端にエイトノットでの結び目がついている。作りたてだから巻き癖がほとんどないのでそのまま竿を伸ばし、先端にぶしょう付けでフロロの0.8号ハリスを繋いだ。
「ギルって口小さいっけ?」
「#14ってところですね」
基本的に渓流ばかりだったから、栞に針のサイズを確認してから毛鉤ケースを開いた。
最近のマイブームで巻いているのは桜虫という普通毛鉤で、春先らしく黒の糸でヘッドを作り、白黒のハックルを巻いて、ダビング材として百均で売っている羊毛フェルトの、ピンク色を使用したものだ。
「あ、可愛いですね……!」
「よく見えるし気に入ってるんだよな」
雑な黒虫毛鉤が多かった去年と違って、今年はそこそこ、デザインに遊びを出している。
「私は、今日は沼だし……なんでも釣れるから、逆に悩むぅ……!」
「まだまだ水温も低い、底に居着いているはずだから僕はクランクベイトにしておこうか。小さいフックもないし、数より大型狙いだな……」
「今日のあたしは変わり種持ってきた」
「ほう?」
「じゃーん、ひもグミー」
「なるほど、食べられるワームか」
「いやまぁそうだけど! あたしがグミ食べられなくなるじゃん!」
いつものようにやいのやいのと釣具を広げる。渚に至っては折りたたみの小さいイスまで出して、腰を据えてすらいた。
「鱗付け、第一投ーー!」
投げ味を確かめるように肘の動きで、ひょい、と投げる。
「ーー」
柔らかい。が、反発力が高いためにしゃっきりと竿先が戻る。
かつ、キャスト後のロッドティップの震えも素早く収まり、ぴたりと狙ったところへ打ち込める。
「ーー投げやすい!」
口をついて出た言葉は、感動からくるものだ。
最初は竿全体が重く感じたが、いやさ、竿のしなりが素早く戻るためか、キャストに関して言えばかつての剣豪よりも軽く感じる。
竿の値段でここまで違うのか……それほどの感動だった。
「いいだろー、キッズー。お姉さんに感謝しなよー? それを教えたのはお姉さんだからねー?」
投げては竿先をちょんちょん、投げてはちょんちょんと動かして誘いをかけるも、ちっとも釣れない霞が絡んできた。
「そこでドヤ顔ダル絡みするからカスって呼ばれるんだよ」
「照れるなよキッズー」
「ちょっとウザいのでハルくんに話しかけないでくださいね? カスのお姉さん」
比較的温和なはずの栞ですら塩対応である。
「てかカスねぇ、ちっとも釣れてなくないかー?」
「別に釣れてないわけじゃないよ? これはワームを洗っているんだよ?」
「言い訳がましいな」
怜がそう言ってクランクベイトをキャストする。着水させる位置は、対岸にある木の枝でブラインドになっているポイントだ。とても狭い。缶ジュースが数本程度の幅、といったところか。
だが怜にとって、そんな障害は少しの問題にもならない。正確なキャスト技術で、低弾道で狭い場所へルアーを入れ込むと、着水音もほとんどなく、狙ったようにすっと落とした。
「あそこに入れるとかキモ」
「いつ見てもキモいわ、あんたのその技」
「ちょっと変態じみてますよね」
「き、キッズのくせにやるじゃないか……」
「どうして僕は毎度自分の技術をけなされなければならないんだ?」
小学生のくせに技術としてかなり完成されているからだろう。
「まぁ、君たちはそこで指を咥えて見ているんだな。止水域、低い水温、ならアピール力で魚の本能を刺激してやればーーっと」
ぱしっ、と竿を立てる。
ロッドティップから水中へと消えていく真っ直ぐなラインは、確かに何らかの魚の口へと掛かったのだろう。ぴんとまっすぐに張ったかと思えば、竿先から逃れるように走り始める。
「えー、はや……」
「ルアーのチョイスが良かったな」
ジージーと、ラインを吐き出す音がする。
それでもお構い無しにベイトリールでラインをゴリゴリと巻き上げれば、暴れながらも少しずつ怜の足元へと寄っていく。
「やっぱドラグって卑怯だわ」
「ランカーを引きずり出すという目的であれば、これほど理にかなった釣具はないからな。とはいえ、力負けしてロッドを倒しては糸切れか、フックが外れてしまうのはどの釣りでも一緒だろう?」
やや濁り加減だった水中に、うっすらと魚の姿が見えてきた。
扁平な姿をして、胸元が婚姻色でオレンジに染まった、大きめのブルーギルだ。
「フィッシュ!」
かつて釣り人たちの間で一世を風靡した掛け声と同時に、怜はそいつを水中から引き抜いた。
「番ギルじゃねーか」
大きなサイズの魚のことを、番長、と呼ぶことがある。今回はまさしく、二十センチに達しそうな番長サイズだった。
「すまないな、ハル。僕が一番乗りで釣り上げてしまった」
君の竿の鱗付けだというのにな、と挑発するように口の端を上げて笑った。
「いーなー!」
さっきからちっとも釣れない霞が、まるで子供のように唇を尖らせて、言った。
「いやカスねぇが言うんかい」
「バス狙いだって言ってなかったっけ?」
「それとこれとは別だよキッズー!」
「子供に対してそんのだから、カス呼ばわりされるんじゃないんですか?」
珍しく辛辣に、栞は言い放った。