分身スキルの最強戦術って自爆特攻じゃね? 作:sasarax
拳を振るう。
黒騎士の力をもって放たれた一撃は、なんの変哲もないパンチでありながら、大気を震わせるほどの威力を発揮する。
命中した大型モンスターの肉体が弾け飛び、血と肉が雨のように降り注ぐ。
その汚らしい雨から逃れるように加速して、次のモンスターに攻撃を仕掛ける。肉薄する勢いのまま蹴りを食らわせれば、先のモンスターと同じく汚い花火になる。
それを都合五回繰り返したところで、最初の第一陣の駆除は終了した。
「あたしの出番はありませんでしたね」
後ろに控えていたパトリシアが、使わなかった弓を手に近づいてくる。
「全部任せてしまってすみません」
「いいさ。万が一を考えれば、俺がやった方がいい」
「あたしの方がフィアーさんの護衛なんですけどね」
パトリシアは茶化すように口にするが、どこか声に悔しさをにじませていた。
今日、俺とパトリシアはナルマッシュの街の近くでモンスター退治をしていた。
ジャイアントトードと呼ばれる巨大な蛙に似たモンスターが大群で現れたとのことで、その始末をナターリアに頼まれたのだ。
俺たちが役に立てば立つだけ、リリエッタの捜索に力を入れてくれると信じてパトリシアは張り切っているようだが、最初に確認できた分は俺が全部やってしまったため、どこか消化不良気味な様子だ。
「それに、フィアーさんはあんまり力を使わない方がいいと思うんです。デスシードの消費する寿命は、再生とかでどれだけ力を使ったかで変わってくるんですよね?」
「そういう話だな」
「なら戦いはあたしに任せてください。近づかれる前に全部撃ち抜いてみせますから!」
「わかった。なら次は任せるよ。もしも近づいてくる敵がいたら俺が前に出るから、安心して撃ってくれ」
「うぅ、微妙に信用されてない。あ、噂をすれば増援が現れましたよ」
地面から這い出るようにして追加のジャイアントトードが現れたのを確認し、パトリシアが弓を構えて撃ち始める。
その邪魔をしない位置で待機しつつ、横目で彼女を観察する。
真剣な眼差しで敵を睨み据え、一射で脳天を撃ち抜いている。
相変わらず素晴らしい技量だ。ナルマッシュの街で弓と矢を新調したパトリシアは、慣れない弓でも変わらず活躍してくれていた。本人の宣言どおり、接近を許さずジャイアントトードの二陣を片付けてしまう。
「どうですか? フィアーさん。あたしのこと、少しは信じてくれました?」
「……パトリシアのことは信じてるさ」
「嬉しいです。よ~し、この調子でがんばりますから、フィアーさんは休んでいてください。一日でも長く、少しでも長く、なんなら呪いから外れて長生きできるように、全力でお守りしますからね!」
パトリシアはこちらを気にかけてくれていた。つまるところ、あれから五日経った今でも俺は彼女にデスシードを解除できることを伝えていなかった。
現状、俺はクインシアさんを怪しんでいる。
アルフィリアさんを狙って、一連の犯行に及んだ可能性を捨てきれずにいた。
となれば、娘であるパトリシアも協力している可能性が高いだろう。
もちろん、二人のことは信じたい。仲間だという意識はあるのだ。パトリシアもリリエッタを助けるため、まだ動けないクインシアさんに代わって俺の手伝いをしてくれている。今だって俺を気遣ってくれている。
感謝している。
でも……リリエッタが見つからない。
ナターリアによる捜索は続いているが、リリエッタの居場所どころかその手がかりすら見つからない状況が続いている。
本体とアルフィリアさんには日本語で手紙を送っておいた。届いたかどうかは定かではなく、届いたとしても返事がくるのはずいぶんと先の話になるだろう。これは状況の共有以上の意味は持たない。
リリエッタを助けるためには、今ここにいる俺ががんばらないといけない。
そう思っているのに、やれることはほとんどない。ナターリアに捜索に集中してもらうため、彼女の元に舞い込んでくる厄介事を代わりに引き受けることくらいしかできない。
それにしたって、俺にできるのはモンスターや野盗退治くらいだ。
殴って、蹴って、倒して殺して殺して殺す。
それくらいしか、今の俺にできることはなかった。
ジャイアントトードの大群を片付けたあと、館に戻ってナターリアに報告する。
「よくやってくれたわね、フィアー。それと、パトリシアだったかしら?」
「は、はひー! 恐縮ですぅー!」
玉座に腰かけるナターリアに向かい、パトリシアがぺこぺこと頭を下げていた。
彼女がナターリアと直接対面するのは、これが初めてのことだった。代官として忙しく動き回っているため、俺としてもこれが二度目である。
「なにか褒美でもあげないといけないわね」
「そんな滅相もありません。ナターリア様にはお母さんを助けてもらいましたし」
「そうですね。リリエッタの捜索もしていただいている以上、モンスターの討伐に協力するのは当たり前のことです。お礼なんて受け取れません」
「遠慮しないでいいのよ。信賞必罰は必要なことだもの。あたくしはケチではないの。役に立ってくれたのなら相応の褒美は与えるわ。と言っても」
ナターリアは俺を見て、
「フィアーへの褒美についてはなかなか思いつかないわね。金銭を与えても、その身体では食事もできなければ女も抱けないでしょうし。ああでも、買い物くらいはできるかしらね」
「言われてみれば、今の俺はもらって嬉しいものはあまりありませんね」
「でしょう? 歴代の黒騎士は、それこそ次の戦場を用意してあげると喜んだらしいけれど。ああそれか、専用の武器とかかしらね」
「武器ですか」
たしかに、黒騎士状態で使えるような武器を俺は持ち合わせていなかった。
普通の剣では黒騎士の力に耐えられないのだ。先代も鉄塊みたいな巨大なバトルアックスを武器として使っていた。あれくらい頑丈な代物でないと、武器としては使い物にならないだろう。
そこまでの武器が今必要かと言われたら、首をかしげざるを得ないが。
「そんな強力な武器が必要な敵がいるのでしょうか?」
「そうね。今は必要ないかもしれないわね。けれど、今後のために用意だけはしておいた方がいいと思っているわ」
暗にどこかでそういった敵と相まみえることがあるということか。配下にしたらいいように使い倒すつもりだな。
「フィアーの武器はこちらで用意しておくわ。他にもなにか必要なものがあればいいなさい。サンドバックくらいなら、いつでも用意してあげるわよ」
「サンドバック?」
パトリシアがどうしてそんなものをという顔をしている。
彼女を横目に、ナターリアはニヤリと嗤って俺を見た。
「いつでもどこでも暴力を振るえる肉塊は必要でしょう?」
「……今のところは大丈夫です」
「今のところは、ね。フフッ、必要になったら、遠慮しないで言ってちょうだい。ストレス発散は健康を維持するには必要なことだもの。それは恥ずべきことではないわ」
ずいぶんとナターリアは黒騎士の衝動についてご存じのようだった。
一方、そこでようやく意味を理解したパトリシアが、愕然とした表情をこちらに向けてくる。
「ま、まだ一週間くらいしか経っていないのに、そんなにお辛いのですか?」
「悪い。聞かないでくれ」
「……はい、すみませんでした」
パトリシアは言おうとした言葉を飲み込み、足元に視線を落とす。
「さて、じゃあ次はパトリシアへの褒美ね」
「あたしにもいただけるのですか?」
「もちろんよ。なにがいいかしら?」
「ですが、あたしだけもらうのは……」
「遠慮するなよ、パトリシア。俺の分まで美味しいものでももらえばいい」
「あら? 食べ物がいいの?」
ナターリアが意外そうな顔でパトリシアを見やる。
「ずいぶんと小食だと聞いていたものだから、食事に興味がないと思っていたわ」
「小食? パトリシアが?」
「あ、いえ、その」
動揺を見せるパトリシア。どうやら事実のようだ。
黒騎士になってからは、パトリシアと一緒に食事をとっていなかったので気付いていなかった。
「体調でも悪いのか?」
「そういうわけではないのですが……」
あはは、とパトリシアは恥ずかしそうに頬を掻く。
「なんだか最近、なにを食べても美味しく感じられなくて。食事を一人ぼっちでとってますし、その所為ですかね」
「食べられないけど、俺が一緒にいようか?」
「そんな、大丈夫ですよ! フィアーさんにご迷惑をおかけするわけにはいきませんので!」
パトリシアに勢いよく断られる。
「偶々、偶々です! あたし、水が変わるとちょっと食事量が減ってしまうタイプの繊細な生き物なんです! ですから心配しないでください!」
旅から旅の生活で、その設定は無理があると思うけど。
「まあ、いいわ。それじゃあパトリシアにはお金を渡すから、街で好きなものでも食べてきなさい」
「あ、ありがとうございます」
俺たちの会話を聞いていたナターリアが結論を出す。今日まで会わなかったところなどを見るかぎり、俺に比べてパトリシアの扱いは適当だった。パトリシアもスキル持ちのはずだが、ナターリアは興味がないらしい。
もしかしたらクインシアさんから娘のスキルの内容を聞いていて、それで大して価値がないと判断しているのかもしれない。
即ち、二人の関係値が俺の想像していたものよりも深いことになる。
そうだ。考えてみれば、クインシアさんが行き先に指定したのはこの街だ。もしかしたら、ナターリアもクインシアさんの仲間なのではないだろうか?
いや、立場から考えれば、むしろナターリアが黒幕か?
帝国と教会は仲があまりよくないと聞く。いや、だからといって皇女であるナターリアがアルフィリアさんを狙えば、帝国と教会の全面対決に発展しかねない。そんな馬鹿な真似をするはずが。
だから俺とリリエッタを人質にしたいのか?
そうすれば、アルフィリアさんを操れると思っている?
なるほどたしかにアルフィリアさんを仲間に引き入れられれば、ナターリアは皇帝に大きく近づけるだろう。教会の権威はそれだけの影響力があるはずだ。
馬鹿な。それこそないだろう。いくらアルフィリアさんでも、教会と俺たちを天秤にかければ俺たちを見殺しにすることを選ぶはずだ。
そもそも、俺が分身であることは彼女を知っている。切り捨てることに遠慮があるわけがない。でもそうなるとリリエッタの身が危ないかもしれない。敵の狙いがアルフィリアさんにあるのなら、リリエッタに人質の価値がないと思われた時点で、口封じのために殺されてしまうかもしれない。
そうなる前になんとしても助け出さなければ。
「ナターリア様。リリエッタの捜索はどうなっていますか?」
「もちろん、全力をあげて行っているわ。ただ、手がかりがあまりにも乏しいのだもの。もう少しだけ待ってちょうだい」
「もう少しとは具体的に?」
「もう少しはもう少しよ。なにあなた? あたくしがさぼっているとでも言いたいの?」
たしかにクインシアさんの仲間であれば、その可能性はある。
「フィアー! 答えなさい! あなた、あたくしを疑っているの!?」
「あわわ、そんなことありません! ありませんので!」
肩を怒らせて立ち上がるナターリアに、パトリシアがぺこぺこ頭を下げて仲裁しようとしてくれる。
「フィアーさんは妹が心配で心配でたまらないだけです! どうかご容赦ください!」
「……ふんっ! まあ、いいわ。許してあげる。どうも、あたくしが思っているよりも、ずいぶんと余裕がなくなっているようだし」
玉座に座り直し、こちらをせせら嗤うようにナターリアは流し目を送ってくる。
「やっぱりあなたにはサンドバックが必要みたいね。本当に耐えられなくなる前に言いなさいよ。あたくしは寛大だもの」
「……感謝、申し上げます」
俺はそう言った。
今はそう言うしかなかった。
その夜のこと。
俺は自室として用意された館内のベッドに寝転がり、色々と考えていた。
襲撃者のこと。リリエッタのこと。そして、自分の状態のこと。
……冷静さを欠いている。その自覚があった。
ナターリアが味方だろうと敵だろうと、あのタイミングであの発言はするべきではなかった。どちらであろうと下手に出て、取り入るなりするべきなのだ。
でもできなかった。いっそのこと、暴力で脅して本当のところを吐かせてしまおうか。そんな馬鹿げた選択肢すら、あのときの俺の脳裏には過ぎっていた。
すべては黒騎士状態を解除できないことによる精神の疲労が原因だ。
デスシードの恩恵により、俺に肉体的な疲労はない。デスシードを使って以降、水の一滴すら口にしていないが、肉体にはなんの問題も起きていない。こうしてベッドに横になっていても、眠気に襲われることもなかった。
だがそれは健康であることを意味しない。
食べなくても生きていられるだけで、眠らなくても生きていられるだけで、両者の欲求を満たしてくれるわけじゃないのだ。
特に眠れないというのが、思っていたよりも辛かった。
気持ちをリセットすることができないのだ。
頭を休めることができず、絶えず思考が垂れ流されている。一度なにも考えずに休めるべきだと思っているのに、脳内ではあらゆる可能性が堂々巡りを繰り返している。
クインシアさんが怪しい。ナターリアも怪しい。パトリシアが敵かもしれない。リリエッタとこのまま二度と会えないかもしれない。カインズさんは本当に死んでしまったのかもしれない。アルフィリアさんを危険な目に遭わせてしまうかもしれない。
ああもう、いっそのこと自爆して本体に情報を共有するか。いやそれだけはあり得ないだろ。リリエッタはどうするんだ。システィー先輩になんて説明すればいい。やはり俺はここから動けない。くそっ、頭が重いな。デスシードも周りが敵しかいないこの状況では解除できないし。警戒はし続けるべきだ。どこから敵が襲ってくるかもわからないのだから。誰が敵かもわからないのだから。
俺は常にナターリアの監視下に置かれていた。今も天井裏で息を潜めている人間の存在を、黒騎士の鋭い知覚が感知している。
この状況では解除できない。もしかしたらその瞬間、殺されてしまう可能性があるからだ。俺は死ねない。今は絶対に死ねないのだ。なんだそれ。死ねない分身に価値なんてあるのか? 命をかけられない俺になんの価値が……。
ああ、イライラする。
……いっそ身体を動かしてこようか。
黙ってじっとしているよりも、よっぽどその方が精神的に落ちつけるだろう。
どこかにモンスターでも転がっていないか。拳を思い切り振るうことができれば、この苛立ちも少しはおさまるかもしれない。
そう思いベッドから起き上がったところで、部屋の扉がノックされた。
「誰だ?」
「あたしです。パトリシアです」
「パトリシア?」
疑問に思いつつ扉を開けると、寝間着姿のパトリシアがそこにいた。
「どうしたんだ? こんな夜更けに」
「えへへ、すみません。ちょっとお邪魔させてください」
「……まあ、いいけど」
パトリシアを部屋に招く。
彼女は俺の部屋をぐるりと見回すと、
「立派な部屋ですね。あたしが用意してもらった部屋は、もっと小さい部屋でした」
「それはなんというか」
「言われずともわかっています。期待値の差ですよね。むしろフィアーさんと同じ期待をされたら、あたしは困ってしまいます」
「……それで、パトリシア。なんの用なんだ?」
「と、そうでした」
パトリシアは緊張した顔になると、ぎくしゃくとした動きで俺のベッドにちょこんと腰かける。
「今日のお昼、フィアーさんがとてもお辛そうでしたので、なにか力になれないかと思いやってきたのです」
「力に? こんな夜更けにそんな格好でか?」
「ええはい、この時間にこういう格好じゃないとできないことと言いますか」
顔を真っ赤にして、もじもじしているパトリシア。
えっ? まさかそういうことか?
「いや、パトリシア。気持ちは嬉しいが、黒騎士状態はあっちも使えないから」
「あっち?」
パトリシアは小首をかしげる。
その視線が空中をさまよい、やがて理解したのかあっちに向けられる。
「あっち!?」
「いや、悪い。違うみたいだな」
イライラもあったが、ムラムラもあったからつい。
「い、いえ、そうですよね。年頃の娘が男性の部屋を夜に訪ねるとなれば、そういう意味もありますよね。こちらこそ勘違いさせてごめんなさいです」
耳まで真っ赤になったパトリシアは、そこでようやく部屋を訪ねてきた理由を口にした。
「あたしはただ、フィアーさんと一緒のベッドで眠ろうと思ってきただけで」
「……パトリシアはえっちだなぁ」
「違います違います言い方を間違えましたそういう意味じゃありません!」
「じゃあどういう意味なんだ?」
「じゅ、純粋にフィアーさんを休ませてあげたかっただけです。その、あたしのスキルがそういうスキルなので」
「スキル」
そういえば、パトリシアのスキルがなにか俺は知らなかった。
「お母さんと違って、戦闘にはまったく使えないスキルなのですが、もしかしたら今のフィアーさんでも眠らせてあげることができるかもしれません」
「ということは、相手を強制的に眠らせるスキルなのか?」
なるほど。たしかに黒騎士は睡眠無効ではあるが、それはあくまでも生理的なものが対象であって、スキルの効力まで無効化できるかはわからない。
「それならまだ使えたんですが。あたしができるのは相手の同意をもって寝かしつけることだけです」
「そうなのか。でももし本当にこの状態でも眠れるなら助かるな。試してもらってもいいか?」
「はい。それじゃあ」
パトリシアは意を決した様子で、ころりとベッドに横になった。
「ど、どうぞ」
「……なあ、本当にえっちな意味じゃないんだよな?」
どう見ても誘っているようにしか見えないだけど。
「ち、違いますよぅ。うぅ、自分で説明するのも恥ずかしいのですが、あたしのスキルは『安眠』スキルと言いまして、あたしを抱きしめて眠ると安眠できるっていうスキルなんです。お母さんが試したところ、眠気を増大させる効果もあるとのことで、その、試していただければと」
赤い顔で目をつむり、手を差し出してくるパトリシア。
「そういうことなら」
俺もベッドに戻り、彼女をそっと抱きしめた。
パトリシアはどこもかしこも柔らかかった。惜しむべきは、今の身体が鋼で覆われていることだろう。生身の身体でこうできたら、きっと最高の気分だったに違いない。
「悪いな、パトリシア。こんな冷たい身体で抱きしめて」
「い、いえ、お気になさらず。もっと強く抱き寄せてもらって構いませんよ」
お言葉に甘えてしっかりと抱きしめる。
大きくなった俺の身体は、すっぽりとパトリシアを腕の中に包むことができた。
スキルの効力なのだろうか。不思議なことに、そうしていると彼女の温もりや心臓の音まで伝わってくる。どくん、どくん、とパトリシアの心臓が大きく高鳴っているのが伝わってきた。
「ひ、ひぇええ、男性にベッドの上で抱きしめられています。す、すごい体験をあたしはしています」
恥ずかしいのだろう。胸の中でこちらを見つめるパトリシアの瞳は潤み、吐息も熱くなっていた。
「でもでも、フィアーさんにはゆっくりと休んでほしいので。どうでしょうか? 眠ることができそうですか?」
「……いや」
残念ながら、眠気は訪れなかった。そこまで強い誘発効果は持たないのだろう。
「そうですか。ダメ、でしたか」
パトリシアは申し訳なさそうな顔をする。
「すみません。無駄なお時間を取らせてしまいました。あたしは自分の部屋に戻りますね」
「いや」
離れようとしたパトリシアの身体を逃がすまいと、俺はもう一度抱きしめた。
「悪いけど、今夜はこのままでいてくれ。眠れないけど、休むことはできそうだ」
「フィアーさん?」
パトリシアが俺を見る。そのあと、自分を抱きしめる俺の手が震えていることに気ついたようだった。
情けない話だが、この身体になって初めて人の温もりに触れることができて、自分でも不思議なくらい感動していた。久しく忘れていた生の実感を、今、俺は取り戻すことができている。
「……どうぞ。あたしみたいな抱き枕でよければ」
パトリシアはなにも言わず、目をつむって俺の冷たい身体を抱き返してくれた。
とくん、とくん、と先ほどよりも少しだけ落ちついた鼓動の音が聞こえてくる。
その鼓動に耳を澄ませながら思う。
クインシアさんは怪しい。ナターリアも怪しい。
でも……パトリシアのことは、信じてみてもいいのかもしれない。
単純かな。もしかして術中にはまっている?
けど俺、パトリシアのことは信じたい。
そうだ。信じたい。それだけで行動しても別にいいじゃないか。
「パトリシア」
「はい」
「ありがとな」
「どういたしまして、ですよ」
心地よい眠りはいつまで経っても訪れない。それでも俺は、長い夜を久しぶりに安らかな気持ちで過ごすことができたのだった。