ようこそ実力至上主義の教室へ〜完全無欠の君が送る高校生活〜 作:必殺仕事人Black
教室へ続く廊下は、妙に静かだった。
昼休みでもなく、授業間の喧騒でもない。
張り詰めた沈黙。
高度育成高等学校という場所では、それが時々ある。
誰かが空気を飲み込み、誰かが言葉を失い、そして誰もが“今ここで起きていること”を測ろうとしている時間。
椎名ひよりは、静かにその廊下を歩いていた。
規則正しい足音。
長い水色の髪が、歩くたびにさらりと揺れる。
胸元で抱えているのは、一冊の文庫本だった。
癖だ。
緊張すると、本を持っていたくなる。
ページを開かなくてもいい。
そこにあるだけで、少しだけ呼吸が落ち着く。
茶柱佐枝の背中を追いながら、ひよりは小さく息を吸った。
——不思議です。
心の中で、そう呟く。
編入。
本来なら、もっと緊張していてもおかしくない場面だった。
知らない教室。
知らない空気。
知らない人間関係。
特に、この学校は普通ではない。
Sシステム。
クラスポイント。
競争。
序列。
表向きは穏やかでも、水面下では誰もが他人を測っている。
そんな空間へ、一人で飛び込む。
怖くないわけがない。
けれど。
ひよりの胸にある感情は、恐怖だけではなかった。
むしろ。
それ以上に大きな感情がある。
期待。
安堵。
嬉しさ。
真希くんと、同じ教室にいられる。
その事実だけで、胸が温かかった。
中学時代。
席が隣になった日。
太宰治の『人間失格』を読んでいた少年。
あの時から、少しずつ積み重ねてきた時間。
読書。
会話。
帰り道。
静かな共有。
真希は、ひよりを急かさなかった。
無理に笑わせようともしなかった。
“分かろう”としてくれた。
それが、どれだけ嬉しかったか。
ひよりは今でも覚えている。
だから。
この学校で何が起ころうと。
どれだけ環境が変わろうと。
自分たちの関係は壊れない。
そう信じている。
——ですが。
そこで。
ひよりの歩みが、ほんの僅かだけ止まりかけた。
教室の前。
扉の向こう。
まだ中は見えていない。
なのに。
何かが、引っかかった。
女の勘。
そう呼ぶには曖昧で、非論理的で、説明不能な感覚。
けれど確かに、ひよりの中で何かが反応した。
……あ。
小さく思う。
きっと。
何人か。
真希に好意を抱いている。
理由は説明できない。
直接見たわけでもない。
誰かに聞いたわけでもない。
それでも分かる。
真希は優しい。
ただ優しいだけではなく、人の尊厳を傷つけない。
相手を否定しない。
しかも頭が良く、落ち着いていて、頼りになる。
ああいう人間を好きにならない方が難しい。
特に、この学校は極端だ。
不安が多い。
競争もある。
孤独もある。
だからこそ、人は“安心できる誰か”へ惹かれる。
ひよりは、それを理解していた。
そして。
少しだけ。
胸がちくりと痛んだ。
——取られたくない。
その感情に気づいた瞬間、ひよりは小さく目を伏せた。
自分でも少し驚く。
独占欲。
嫉妬。
そんな感情とは、あまり縁がないと思っていた。
本の中では何度も読んだ。
恋愛小説にも、古典文学にも、そういう感情は必ずある。
けれど、自分の中にここまではっきり生まれるとは思っていなかった。
真希は優しい。
だから、誰かに好かれる。
真希もまた、誰かを見捨てない。
それは、ひよりが一番よく知っている。
だから怖い。
もし。
誰かが真希へ本気で想いを向けたら。
真希は、その気持ちを無下には扱えない。
ひよりは唇を薄く結んだ。
本来。
交際をわざわざ公表するつもりはなかった。
騒がれるのは苦手だ。
目立つのも得意ではない。
静かに、穏やかに。
二人でいられれば、それで十分だった。
でも。
それでも。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
抵抗したくなった。
自分は、真希の特別だと。
それを、ちゃんと形にしたくなった。
子供っぽい。
独占欲なんて、文学的にはありふれているのに、実際に抱くとこんなにも落ち着かない。
ひよりは小さく自嘲する。
——でも。
嫌ではなかった。
こんな感情を抱けるくらい、自分は真希を好きなのだと、改めて分かったから。
茶柱が教室の扉へ手をかける。
その瞬間。
ひよりは、静かに覚悟を決めた。
もし必要になったら。
ちゃんと言おう。
恋人です、と。
それは牽制でもあり。
抵抗でもあり。
そして。
何より、自分自身の気持ちを隠したくなかったからだ。
扉が開く。
教室中の視線が集まる。
その中心で。
天道真希が、少し驚いた顔でこちらを見ていた。
ひよりは、その姿を見ただけで。
少しだけ、安心してしまった。