「ん…ふぁ……キュレネ…」
あの後──あの後、そうだ。遊び疲れて、夜になったから眠ったんだ。そして朝になったから起きた。ここは確か、エリュシオンにあるキュレネの家で
「キュレネ………?」
キュレネ、キュレネは───いない。少なくとも目の届く範囲には居ない。一瞬不安に駆られて、ドアの外から漂ってくる良い匂いに安堵した
夢じゃなかった。僕たちの掴んだこの未来は現実のもので、これからも続いていく。……できればこんなところに閉じ込めたくはなかったけど、僕にはこれが限界だったんだ
「おはよう、よく眠れたかしら?」
「起きたのバレちゃった…」
「寂しそうな声が聞こえたもの」
キュレネは全部お見通しらしい。ほんの少しだけ赤くなった頬を見られたくないから布団を被って顔を隠そうとしたけど、すぐに取り払われてしまった
「おいで?」
そう言って、両手を広げるキュレネの誘惑に抗えない。座っている僕に、立っているキュレネ。身長の関係は逆転して、僕の頭はちょうどキュレネの胸の辺りになる
「ぎゅー……ふふっ、本当に甘えたさんになっちゃったわね?」
「ごめん…」
「謝らなくて良いわ。よしよし、たくさん可愛がってあげないと……」
撫でられると、どうしようもなく嬉しくなる。胸元に顔を埋めて、背中に手を回して、その隙間を埋めるようにぴったり密着して。キュレネの鼓動を聴いて、温もりを感じる
まるで自分が小さい子どもに戻ってしまったかのようだ。それでも幸せで満たされていれば、どうでも良くなってしまうのがなんとも罪深い
「したくなったらいつでも言って?こうしていると安心するでしょう?あなたも、あたしも、ちゃんと生きてここにいるわ」
「…………うん」
「あなたはたくさん頑張ったもの。寂しい思いなんてさせないから、ね?」
甘い、甘い声が耳朶を蕩かせる。ずっとキュレネに囚われていた。ただ一人、僕の全てを知っていてくれた人。最初の輪廻から最後の輪廻まで、傍で寄り添い続けてくれた人
「満足するまでこうしていましょうか」
「……そうしたい」
「いいわよ」
どれだけ自分勝手に求めても、全て受け止めてくれる。愛されている事が、ありありと分かるから。嬉しくて、離れがたくて、また手を回して。何度も自分の存在を示すように触れている間、キュレネはずっと髪を撫でてくれていた
こうして自分の手で人に触れられるのが、どれだけ幸福な事なのか、僕は嫌というほど知って──いや、刻まれてきてしまった
「今日は………ふふ、昨日はあたしが案内をしたんだし、今日はプロメイアに案内してもらおうかしら」
「うぇ………良い場所あるかな…」
「どこだって構わないわ。あたしは…ここ以外で過ごした記憶が少ないの。都会っ子のあなたなら、きっと素敵な場所もいっぱい知って────」
「キュレネ?」
急に言葉が止まったキュレネを心配して見てみれば、ハッとしたような表情で口元を抑えている
「……その、あたしがしたい事ばかり言っちゃってたわね。あなたは長い旅を終えたばかりなんだし、もっとゆっくり休みたいんじゃないかしら?」
「あぁ……その、ほんとは何週間かは何もせずにいるつもりだったんだけどね?その…」
もっと恥ずかしい事もしてるのに、それをちゃんと言葉にするのは中々恥ずかしかった。でも伝えなくちゃいけない。だから勇気を出して
「キュレネがいてくれて、すごい元気になったというか、疲れが吹っ飛んだというか……だから、その……キュレネといっぱいいたい……っていうか」
「──────」
キュレネ、キュレネ、今の僕は何をするにもキュレネが第一に来てしまう。ずっとずっと不足していたキュレネが傍にいてくれるのが、とにかく嬉しいんだ
そう言えば、キュレネはポカンと口を開けて──その後、本当に、心の底から嬉しそうに微笑んだ
「……ふ、ふふっ、ふふふっ。そう、そんなにあたしの事が好きなのね?」
「もう言わない……二度と…」
「ふふっ、ごめ、ごめんなさい。我慢できなかったの。……安心して?あたしも同じ気持ちだもの」
「…………同じ?」
「えぇ。あなたに会えて嬉しかったし、疲れなんて感じないし、ずーっとあなたと一緒がいいの。お揃いね?」
「……ぅん」
絞り出すような肯定と共に俯いた頭を撫でつけられる。今日はずっと、キュレネのペースに乗せられている。僕が慣れていないのか、キュレネが何枚も上手なのか。どちらにせよ僕は弄ばれていて、キュレネはそれを楽しんでいるらしい
でも、決して嘘を言ってるわけじゃない。これはキュレネからの純粋な好意なんだと、そう理解してるからこそ羞恥が生まれてしまう
「それじゃあ、ご飯を食べたら出かけましょうか。楽しみにしてるわね?」
「良い場所考えとく」
いつまでもベッドの中でじゃれ合ってる場合ではない。それはそれとして離れてしまうのは名残惜しくて、そんな思いは簡単にキュレネにバレてしまう
「もうちょっとだけ、こうしていましょうか」
「……………ちょっとだけ?」
「ふふっ、やっぱり甘えたさんね?だめよ、歯止めが効かなくなっちゃうもの………あたしが」
「キュレネが、なの?」
「えぇ、こうしてると、あなたが可愛くてしょうがないの」
「……そっか」
何だか複雑ではあるけど、昨日から幼児退行してるみたいなのは事実だし、キュレネの目に映る僕がそうなら、それはそれで悪い気分はしない──ので、大人しくされるがままになっておこう
──────────────────
「相変わらず大きな木よね───しかもその中がこんな事になってるんだもの、ふふ、何だか不思議よね?」
「樹庭に来るのも久しぶりだ……」
ここで講義を受けてたのは永劫回帰に足を踏み入れる前だから、それこそ何百億年とか前になるんじゃないだろうか?
当たり前だけど、樹庭には誰もいない。人はいないけど、書物系統は丸ごと残ってる──というか、読みたいものがあれば好きに追加できる筈だ。現状、このセプターの管理者は僕とキュレネの共同だし、その気になれば全く面影のないような世界にだってできるわけだ。やらないけど
「あなたは真面目な学生だったのかしら?それとも不良だったり?」
「講義は受けてたし宿題も出てたものはやったよ、たぶん……あ、でも卒業はしてないんだっけ?」
「あら………ふふ、ならあたしが先生になってあげましょうか?」
「免許取ってから言いなよ……」
「もう、つれないわね」
大樹の内部にある研究施設やら教室やら、図書館などなど……騒いでいたせいで、かつての自分の立場なんかも多少は喋ってしまった
意外にもキュレネは勉学に関して興味津々だったらしく、今では教師役を買って出て僕に講義まで始めようとしてくる始末
「そういうキュレネはどうなの?」
「あたし?あたしにできない事があると思う?」
「詩とか詠めるもんね、僕には無理だよ」
そういえばキュレネは詩が詠めるし、僕よりずっと語彙が豊富だった。そんな人が勉強だけできないなんて事ないだろうし、本当にできない事なんてないのかもしれない
「……明日はヒュペルボレイオスに行こう。もうちょっとだけ歩くのに慣れたいし…移動だけなら座標を書き換えればいいけど、ほら、どうせなら自分の足で行きたいでしょ?」
「えぇ、時間はいっぱいあるものね」
「北国だから寒いけど、その分雪も降ってるんだ。綺麗だと思うし、雪遊びだってできるよ」
「雪だらけにされちゃうわね?」
「手加減なんてしないからね」
「風邪を引かないと良いけれど」
まだ一人では歩けないから、キュレネと手を繋いで樹庭を歩いた。次に向かうのはオクヘイマで、離れる前に適当な黒板に大地獣の絵を描いてみたりして
「………上手ね」
「何年あったと思ってるのさ、僕だって色々できるよ」
「何だか負けた気分だわ……」
中々良い出来栄えだと我ながら満足して、キュレネはそれに対抗意識を燃やしている。何千年かかけて上手くなったわけだから、そう簡単に追いつかれても困るというもの
「そろそろオクヘイマに行こっか。絵ならまた描いてあげるからさ」
「あたしにも教えてちょうだいね?」
「もちろん」
あぁ、楽しくて仕方がない。オクヘイマについたら何をしようか。僕ら以外誰もいなくても、二人いれば世界はこんなにも鮮やかだ
話していれば道のりはすぐで、気づけばオクヘイマに辿り着いていた。どこに行くかと言えば、僕としてはやっぱり一つしかなくて
「ここね。生命の花園って言うんだけど、ここの木の下で寝るのが好きだったんだ」
「へぇ、とっても良い所……静かで落ち着くわ」
「でしょ?キュレネと見られて良かったよ」
色とりどりの花が咲き乱れる花園。命に溢れた場所。昔から見晴らしが良くて、景色に飽きが来ない最高の場所
ずっと昔は、よくここで皆と────皆、と
「プロメイア?」
「………え、あぁ。久しぶりだったから懐かしいなって」
「……そう。ふふ、それなら…どう?」
木の下に座り込んで、ぽんぽんと膝を叩くキュレネ。勿論何をして欲しいかなんて察してしまうわけで
「………だ、だめ。何年経つかわからない」
「あら、寂しい……」
「だ、だから、後で!後でして!」
「約束よ?忘れないでね?」
よりにもよってここで膝枕なんてされようものなら、冗談抜きで何年もそこに居座ってしまうような気がする。あまりにも危険すぎる……後でしてもらうという形で落ち着いてしまったけど、それも危険だったかもしれない
「それじゃあ……ここでゆっくりするのも良いけど、ピュエロスに行ってみたいわ!案内してくれる?」
「勿論。あっち行ってすぐに、一番良いところがあるよ」
エリュシオンを出てからずっと、キュレネは結構はしゃいでる。あの村から出ることなく生涯を終えていた彼女にとって、外界の姿はとても新鮮なものらしい
「じゃーん。来たことある?」
「何回かはあるけど、すごく久しぶりだわ。ほとんど始めてかしらね」
「僕も似たようなものだよ」
下からだと昇降機を使って行く高級ピュエロスも、生命の花園からだとそのまま歩いていける。若干金色っぽいお湯も、何もかも記憶通りの姿を保って僕達を迎え入れてくれた
「貸し切りだし、泳いだって文句言われないよ」
「もう、お行儀が悪いわよ!」
「あはは、泳ぐのは……スティコシアの海にしよっか」
「そうしてちょうだい。ふふ、その時までに水着も用意しておかなきゃ」
「今泳げるか───な?」
ゴウン、と背後から聞こえる音
聞いたことのある音だ。ここに来るまでの、昇降機の音。でもオクヘイマには誰もいないし、そんなものが稼働するわけはなくて、それでも現実としては動いていて
「キュレネ」
庇うように後ろに下げて、斧に手をかけた。僕の様子を見て状況を把握したらしいキュレネも警戒態勢に入った
相手は何だ。早速セプターのことを嗅ぎつけて誰かが訪ねてきたのか、或いは何か別の要因があって迷い込んだか
いずれにせよ、それが僕らにとって脅威になりうるのであれば排除しなければならない。キュレネに害を成すというのであれば尚更、何者であろうと殺す
昇降機が昇り切る。背の高い、金髪の女性に、猫耳のある少女────
「────は」
何で、どうして、二人が、ここに
「知り合いだったみたいね?」
キュレネの声も、よく聞こえなかった
「メイア!」
「プロメイア……!あなたなのですね…!」
表情を綻ばせ、こちらへと駆け寄ってくる二人。セファリア姉さんとアグライア。ずっと、ずっと昔に別れた、僕の家族
「アグライ────」
『このような行いが、本気で世界を救うとでも?』
『さっきから何?自分で殺しといて罪悪感って?……なぁんだ、意外と良心はあったんじゃん。いっつも何かが憎くて憎くて仕方ないって顔しといて』
「────あ」
駆け出そうとした足が、止まった
心に刻まれてしまった記憶が、ひどく重い足枷となって体を縛り付ける。何で、足を動かそうとした?僕に名前を付けてくれた人。僕を弟のように扱ってくれた人
僕を、確かに愛してくれていた人たち
そんな人たちを、僕は───あんなに惨たらしく、殺したのに
「…………」
足は前には動かない。けれど、後ろには動いた。怯えるようにキュレネの後ろに回り込む。視線を合わせないように背後に隠れて、ただキュレネの手を握る力だけを強くする
「メイア?」
「どうしたのですか?」
呼びかけが聞こえる。何か、何か答えなきゃ。せめて、何かを────
「………ひ、人違い、です」
僕の口から溢れでたのは、そんなあまりに苦しい誤魔化しだった