火蝶雨月 或いは「名探偵コナン 10人の名無したち」 作:都忘
扉の音が空しく木霊す。
微かに舞う埃が電灯の光に照らされ雪のように煌めいた。
そんな想像が脳裏を過り、ゆるく頭を振って思考から追い出す。
全く……思った以上に、自分は混乱していたらしい。
セーフティハウスの一つであるこのマンションは驚くほど静かだ。
自分の足音、椅子の軋み、コップが机を叩く音すら煩いほどに。
耳鳴りがしそうな静謐の中では否応にも己の思考と向き合わざるを得ない。
だからと埋め尽くそうとした騒音は、しかしぬりかべのような白い筺に吸い込まれて消えていく。
元より騒々しいのは苦手な質だ。
取り寄せたCDは棚に飾られたままそれっきりだ。
趣味、と言えるほど定着のしなかった手慰みの跡は、それでも一見違和感のないように規則正しく、かつ人間味のある乱れ方をもって並べられている。
心の仕組みに理解のある人間ならどこか病的な気配を感じただろう――本人には与り知らぬことだが。
何はともあれ。
コップ一杯の水をがぶ飲みし、椅子に自身を放り出すように座って天井を仰ぎ、安室透はため息をついた。
全体重を預けた椅子が悲鳴を上げるのも気にせず、肺の中に溜まった濁りきった空気を吐き出すように、深く。
手についたコップの水滴が気持ち悪い。身体をほっぽっても尚重い手足が煩わしい。
中でも、上を仰ぐ際に首に掛かる重みがやけに癪に障った。
飛び出しそうになった舌打ちをこらえ、もう一度肺の中から空気を絞り出す。
白い部屋のなか、自分が吐き出した空気がシミのように黄ばんでいる錯覚を覚える。
或いは――今まで流してきた誰かの血の色か。
そこまで考えてくっと食道の底から笑いが込み上がった。自嘲だった。
彼がここまで憔悴したのは、昼に起きた事件の顛末が原因だった。
なんてことはない。師匠である毛利小五郎とその一家と共に向かったデパートで殺人事件が起きたのだ。
尊い命がまた一つ理不尽に奪われたことを悼み、いつものように彼と彼らは解決の糸口を探した。
遺体を隠す商品棚。脳天に開いた風穴。握りしめた拳の中のカフスボタン。中途半端に血飛沫の付いたネクタイ。
聞き込みと現場検証を重ね、警察の情報も聞きながら真相を辿っていく。
事件が一日に何十と起こるようになった現代では、警察の手だけでは捜査が追いつかなくなってしまった。
故に探偵がいる。信用される。
信用が信頼へと変わるには幾つもの
警察だって一枚岩ではないしプライドがある。手が足りないからと言って一般人に全てを預ける訳にはいかないのだ。
そもそも、一般人を事件の危険から遠ざけるために彼らはいるのだから。
その点で言うと、毛利小五郎は経過をすっ飛ばす事が出来た希有な例かもしれない。
元刑事で、妻の知名度が高くて、そして実績がある。程よい重さの神輿だ。
気難しいようで人当たりも人格も良い。
探偵の実力云々はさておき、安室にとって好印象が強い人だ。
彼らを見ていると、この光景を守るために自分は警官になったのだという自覚が強く呼び起こされる。
それでも尚、気分が向上しきれないのは何故なのか。
どうしてこんなにも、腹の奥に鉛のようなものが転がった感覚に包まれるのか。
理由は分かっていた。
『……だから養子だって言ってるじゃないか。似てないのは当然だろ。今時見た目だけで判断するとか、警察としてどうなの?』
誰にでも聞こえる、だけど決して大声では無い静かな声。
喧噪に満たされたブースにその声ははっきりと響き渡った。
威圧するでもなく。かといって萎縮もしてなく。
音も無く降り積もる雪のような男声とじろりと睨み付けた蒼眼に、事情聴取中の警察もたじろいだ。
犯人ではない。そんな挙動では無かった。
見た目はただの子ども連れの親か兄。
少女二人からは「パパ」「お父様」と呼ばれていたから、きっと父親代わりになっているのだろう。後見人とかその辺りか。
事件が発覚したとき、彼らは丁度ブースの近くに来たばかりだった。
監視カメラを確認しても、建物に入ったのがつい直前だったので、犯人の候補から早々に外れていた。
容姿が全く違うのも……それ自体は、問題ない。人に歴史ありだ。
だがーーその容姿自体が見覚えのありすぎるものだとすれば?
最初に気がついたのは、父親が抱き抱える少女だった。
同じ金髪だったからすぐに既視感に気がつけたのだろう。
良きにしろ悪しきにしろ意識していたからではない。断じて。
或いは、目が合った瞬間に泣き出して父親に引っ付かれたのが、蟠りとして心に残ってしまったのか。
すぐに肩に顔を隠してしまった少女は、確かにベルモットとそっくりだった。
子どもがいた、という話は聞いていない。
迂闊に聞いて確認するのも悪手だ。
あの父親が組織の関係者であるかも分からないというのに。
全く無関係の人間を巻き込むなど、いくら悪事に手を染める事の多い潜入捜査官とて許されることではない。
だが、一度「そう」と気付いてしまえば、人の脳は簡単に都合良く解釈するものだ。
お腹が空いたと愚図る少女はキャンティに。
我関せずと宙を見ている青年はジンに。
年端の違いこそあれど、その顔立ち、声色は確かに彼らと同じものだった。気味が悪いほどにそっくりだった。
最も、本当に同一人物か確かめたわけでは無い。
声紋も採れなかったし、声をかける訳にもいかなかったから。
だが、公安の部下に手を回して後を付けさせれば、その足取りは雲のように掴めなかった。
見失ったのでは無い。「消えた」のだ。
さながら途中でワープでもしたかのようにーー彼らの在処は帰り道の途中で途絶えた。
本気で信じているわけでは無い。世の中には同じ顔の人間が三人はいると聞く。
一緒にいた彼も、その理知的な瞳と怜悧な思考を戸惑うように彷徨わせていた。
己が身を危険な目に遭わせた宿敵が一般人として光の袂に出ていたら誰だって驚くだろう。
安室だって幻覚か何かだと思っていたくらいだ。
だが、あり得ないと断言できないのも事実だった。
というのも、ここ最近、組織の中で奇妙な話が持ち上がっているからだ。
――組織が支援していた研究所が何者かによって襲撃され――
――研究者も実験体も一つ残らず始末され、亡骸すら残らず――
――資料は燃やされ、機器も砕かれ、データも全て改ざんを受けて――
裏切りと悪徳が常な裏世界でも一定の信用と道理はある。
お互いを利用し利益を奪い合う腹の探り合いはどこに行っても同じだ。
だが、話に出た研究所は、それとは無縁の筈だった。
極寒の土地。私有地の山奥。地下に広がる研究施設。
周りはおろか通信すらままならない程の僻地で成されていた研究を、誰がどうやって嗅ぎつけ、壊滅に追い込んだというのか。
しかもその研究はあろうことか――クローンに関係するものなのだとか。
「……」
しぱしぱと瞑目する。目の奥にゴミが入ったような感覚で疲れを自覚する。
理由もなく手を上へ伸ばし、過去の実像を掴もうとする。
見えるのは無色透明な息詰まる空気。幻視するは血に塗れた己の手。
あの友人達との誓いから、随分と遠くまで来てしまった。
罪の無い人を殺め、害にしかならない物を運ぶ度に、自分の立場が分からなくなる。
本当は潜入捜査官なんて「ちゃち」なものじゃなくて、悪徳を成す極悪人が自分の正しい肩書きなのではと錯覚に陥る。
揺らぐ正義と目眩のする悪行。それは確かに、何度も安室の頭にあざ笑うように木霊して囁きかけてきた。
……それでも。自分はやはり、国のために事を成す者だ。
これまでの行いも、実績も、やがてかの組織を潰しこの国に安寧を齎すための布石。
そう思ったし、願った。そうでなければやっていられなかった。
だから、今回も同じだ。
彼らが何者であろうと、組織に関係するのであれば逃れる手立ては無い。
此方としても、組織への何かしらの弱点になるならば――逃しはしない。
ぐっと拳に力を込める
気合いを入れるためにやったはずのそれは、手の内の何かを握りつぶしたみたいだった。
○探り屋
最近研究所が吹っ飛んで組織がピリピリしてるのにあてられている。
誰だ警戒させるようなことした奴は…
○波音
あのひと、こわい。
心のなかで、わたしのなまえ、言いあてたから。