夏休みっ……!
朝、目が覚めた瞬間、心の中で小さく叫んでしまった。
カーテンの隙間から、もう真夏の光が差し込んでいる。蝉の声が聞こえる。山の風が、開けっ放しの窓から入ってきて、私の前髪を揺らした。
ふふっ……今日から、夏休みだっ……。
枕元の目覚まし時計を見ると、まだ六時前。いつもなら学校の支度を急いでする時間だけど、今日は違う。今日は、何時に起きてもいい日。何をしてもいい日。
……ううん、違うな。
私は、今日「やりたいこと」がたくさんある。
布団から飛び起きて、机の上に広げてあったノートを開いた。昨日の夜、寝る前にこっそり書いたリスト。
『夏休みにやりたいこと』
一番上に書いてあるのは、もちろん――『おばあちゃんのお手伝いをいっぱいする』。
その下には、『新作のお菓子を考える』『お店のお客さんを増やす』。それから、ちょっと遠慮がちな字で、『余裕があったら、自分の本も読む』。
ふふっ……我ながら、地味なリストだなぁ。
でも、これでいいんだ。これが、私の好きなことだから。
普通の女の子だったら、夏休みっていうとお友達と海に行ったり、お祭りに行ったり、いろいろあるんだろうな……。私には、そういう予定はひとつもない。お友達がいないから。
……でもね、寂しくないよ。
おばあちゃんがいるから。「タカラ」があるから。山の風と、蝉の声と、隣の家から聞こえる風鈴の音と、おじいちゃんが残してくれた思い出と――そういうものに囲まれていると、私はちゃんと、満たされている。
「よしっ」
私は小さく声を出して、ベッドから降りた。
エプロンを取って、髪をひとつに結んで、メガネをかけ直す。鏡の中の自分は、いつもの自分。地味で、ちょっと寝癖のついた、メガネの女の子。
……うん、今日もこれでいい。
おばあちゃんに見せる顔は、これでいい。
「おばあちゃん、おはようっ……!」
階段を降りて、台所に顔を出すと、おばあちゃんはもう起きていた。お味噌汁の匂いが、家じゅうに広がっている。
「ほっほっ、愛、おはよう。今日は早起きだねぇ」
「だ、だって、今日から夏休みだから……」
「あらまぁ、嬉しそうな顔だこと」
おばあちゃんが、お玉を持ったまま振り向いて、目を細めて笑ってくれた。その笑顔だけで、なんだか胸の奥がぽかぽかしてくる。
「おばあちゃん、お味噌汁、私が作るよ……!」
「もう、ほとんどできちゃってるよぉ。今日は私が作ろうと思ってねぇ。愛は夏休みなんだから、ゆっくりしていいんだよ」
「えっ……でも」
「でもじゃないよぉ。たまには座っておきなさい」
おばあちゃんは、少し意地悪そうな顔で笑って、私を椅子に座らせた。
座っているのは、なんだか落ち着かない。お手伝いをしないと、自分が何のためにここにいるのか、わからなくなってしまうような気がして……。
ううん、これは、おばあちゃんの優しさだ。
ちゃんと、受け取らなきゃ。
「……ありがとう、おばあちゃん」
「いいんだよぉ」
おばあちゃんが、湯気の立つお味噌汁をお椀によそって、目の前に置いてくれた。お豆腐とわかめの、いつものお味噌汁。あったかくて、優しい匂い。
ふぅ……おいしい。
おばあちゃんのお味噌汁は、世界で一番おいしい。
「愛、今日はね、お店のあとで、お菓子の試作したいって言ってたねぇ」
「うん……!夏休みになったら、新作を作ろうと思って、ずっと考えてたんだ」
「どんなお菓子なんだい?」
「えっと、ね……ふふっ、内緒……!できてからのお楽しみっ……」
「あらあら、楽しみだねぇ」
おばあちゃんが、嬉しそうに笑ってくれる。それだけで、私の心の中がぽうっと明るくなる。
新作のアイディアは、もう決まっている。
夏に合わせた、レモン風味のシフォンケーキ。生地にはレモンの皮を細かくすり下ろして、上に薄く焼いたメレンゲをのせて、レモンカードを添える――おばあちゃんが昔、「夏の味って好きだねぇ」と言っていたのを思い出して、考えたものだった。
おばあちゃんの好きな味で、おばあちゃんに喜んでほしい。
それが、私の一番の動機。
「愛、ほんとに毎日働きものだねぇ」
「ふふっ、好きでやってることだから」
「そうかいそうかい。でもねぇ、夏休みなんだから、たまには遊びにも行きなさいよぉ。お友達と、海とか、お祭りとか」
「……えっとね、おばあちゃん」
私は、お味噌汁のお椀を両手で包みながら、ちょっとだけ照れて笑った。
「私、おばあちゃんといるのが、一番楽しいから」
おばあちゃんは、何かを言いかけて、それから少しだけ目を細めた。お皿を持つ手が、ほんの一瞬だけ止まったような気がした。
「……愛は、優しい子だねぇ」
その声が、いつもよりも少しだけ低くて、私はちょっと不思議に思った。
でも、すぐにおばあちゃんは、いつもの笑顔に戻って、「さ、たくさん食べなさい」と言ってくれた。
きっと、気のせいだ。
朝の光が眩しすぎて、おばあちゃんの顔が、ちょっとだけ違って見えただけ。
朝食を食べ終えて、お店の準備にとりかかる。
「タカラ」の開店は十時。それまでに、お店の掃除と、ランチの仕込みと、コーヒー豆の補充と――やることはたくさんある。
夏休みの初日くらい、いつもより念入りにやろう。
お店の床を雑巾がけしていると、外から虫の声と、葉っぱの揺れる音が聞こえてくる。日差しがどんどん強くなって、窓ガラスがじりじりと熱を持ち始めている。
ふぅ……夏だなぁ。
昨日まで、教室の冷房の中で過ごしていたのが嘘みたい。今は、汗が額を伝っていくのを感じる。でも、不思議と嫌じゃない。お店の床がだんだんピカピカになっていくのを見ると、心まで磨かれていくみたいで、気持ちがいいんだ。
「愛、コーヒー豆、棚に並べておいたよぉ」
「ありがとう、おばあちゃんっ……!じゃあ、私はランチの仕込み始めるね」
「今日のランチは何だったかねぇ」
「今日はね、夏野菜のキーマカレーと、冷たいトマトのパスタと、サンドイッチが二種類……!」
「ふふっ、豪華だねぇ」
おばあちゃんが嬉しそうに笑ってくれて、私もつられて笑顔になる。
夏野菜のキーマカレーは、おじいちゃんが好きだったメニュー。茄子とピーマンとパプリカを、しっかり炒めて入れる。スパイスは強くしすぎないで、お子さまのお客さまでも食べられるように、優しく仕上げる――それが、おじいちゃんが教えてくれた「タカラ」の味だった。
私のキーマカレーは、おじいちゃんのには、まだまだ及ばない。
でも、毎日ちょっとずつ、近づけているはずだ。
おじいちゃんが、見ててくれるよね……?
私は天井をちらっと見上げて、心の中でおじいちゃんに話しかけた。返事は、もちろんない。でも、なんとなく、頷いてくれているような気がした。
九時半。
お店の準備がほぼ終わって、私は厨房でお菓子の試作の下準備を始めた。
レモンを四つ、丁寧に洗う。皮の部分を、おろし金でゆっくりとすり下ろしていく。爽やかな香りが、ふわっと鼻に届いて、思わず目を細めてしまった。
ふふっ、いい匂い……。
レモンの果汁を絞る。砂糖を量る。卵を割る。一つひとつの動作に、心を込める。
おばあちゃんに、喜んでもらいたい。
常連さんに、「おいしい」って言ってもらいたい。
それから、いつか――いつか、私が大人になったら、ここにお菓子のお店を作って、おばあちゃんと並んで仕事ができたら――そう思いながら、生地を混ぜる手に、力を込める。
「愛、お客さんが――」
おばあちゃんの声が、お店の方から聞こえてきた。
ん?こんな朝早くに、お客さんかな?開店までまだ三十分あるのに……。
私はエプロンで手を拭いて、お店の方に出ていった。
「あ、いらっしゃい――」
お客さんに挨拶しようとした言葉が、途中で止まった。
お店の入り口に、立っている人がいる。
でも、それは、お客さんじゃなかった。
最初に目に入ったのは、白いワンピースの裾だった。
夏なのに、まったく汗をかいていない。山道を歩いてきたはずなのに、土埃ひとつついていない。それが、最初に変だなと思ったこと。
ゆっくりと視線を上げる。
細い腰。すらりと伸びた、姿勢のいい背中。長い髪は、栗色がかった金色――染めているのか、それとも、生まれつきなのか。陽の光に当たると、毛先が透き通るように光って見えた。
そして、顔。
私は、思わず、息を止めてしまった。
人形みたいに整った顔だち。長いまつ毛。すっきりとした鼻筋。少し薄めの唇は、何かを見定めるように、わずかに引き結ばれている。瞳は、薄い茶色――ううん、もしかしたら、ほんの少し緑がかっているのかもしれない。
その瞳が、私を見た。
正確に言うと、私を「視界に入れた」と言った方がいい気がする。
見つめられた、という感覚は、なかった。ただ、私が彼女の視界の中の風景の一部として、存在を確認された――そんな目だった。
「……お邪魔します」
その声を聞いて、私はもう一度、息を止めた。
低くもなく、高くもない。けれど、一音一音に、不思議な重さがある。日本語の発音が、ほんの少しだけ、丸い。よく聞いていないとわからない程度の、わずかな違和感――外国の言葉に慣れた人の、ちょっとした癖。
「あらまぁ、まぁまぁ、本当に来てくれたのねぇ」
お店の奥から、おばあちゃんが出てきた。その声には、私の知らない種類の感情が混じっていた。
懐かしさ、と、緊張と、それから――喜び。
「ご無沙汰しております、優希さま」
少女が、丁寧にお辞儀をした。動作のひとつひとつが、まるで舞台の上のように、無駄がなくて、美しい。
「あらあら、そんな堅苦しい挨拶、やめておくれよぉ。さ、入って入って」
おばあちゃんが、彼女の背中をぽんぽんと叩く。少女は、小さく頷いて、お店に足を踏み入れた。
その瞬間、お店の空気が、変わったような気がした。
うまく言えない。けれど、何かが――何かの密度が、変わった。
「愛、紹介するねぇ。この子は――」
おばあちゃんが、私の方を振り向いた。
「桜小路 蓮華(さくらこうじ れんげ)ちゃん。フランスから帰ってきたばかりなんだよぉ」
蓮華さん――。
私は、その名前を頭の中で繰り返した。
桜小路、蓮華。
きれいな名前だな……。
「蓮華ちゃん、この子はね、私の孫の愛だよぉ。あんたとそんなに歳は変わらないんじゃないかねぇ」
おばあちゃんに紹介されて、私は慌ててお辞儀をした。
「は、はじめまして……ゆ、優希愛、です……」
声が、少しうわずってしまった。
人と話すのが苦手な私は、こういうときに、いつもうまく言葉が出てこない。
蓮華さんは、私の方を見た。
正確には、やっぱり「視界に入れた」と言うべき視線で。
「……よろしく」
それだけだった。
冷たくはない。でも、温かくもない。挨拶として必要な最小の言葉だけが、必要な分量だけ、口から出てきた感じ。
私の自己紹介への返事として、それは、十分すぎるくらい十分だった。けれど、なんだろう、ほんの少しだけ、心の奥に小さなさざ波が立った。
ううん、変なふうに考えちゃダメだ。
蓮華さんは、長旅で疲れてるんだ。きっと、フランスから日本に来るのは、すごく大変だったはず。それに、初めて会う人にいきなり打ち解けるのは、誰だって難しい。
私こそ、もっとちゃんとした挨拶をすればよかった……。
「愛、蓮華ちゃんはね、おじいちゃんの遠縁にあたる子なんだよ。お父さまがフランス人で、お母さまが日本人でねぇ。事情があって、しばらく日本でうちに泊まることになったの」
「えっ……そう、なんだ……!」
「愛にはちゃんと話してなくてごめんねぇ。昨日の夜にお電話があってねぇ、急に決まったんだよ」
おばあちゃんが、申し訳なさそうに眉を下げた。
ううん、おばあちゃんが謝ることなんてない。突然の事情なら、仕方がないことだ。
「お、おじいちゃんの遠縁……?」
私は、もう一度蓮華さんの顔を見た。
おじいちゃんと、似ているところは――よくわからなかった。蓮華さんは、どちらかというとお父さまの血が強く出ているのか、明らかに日本人離れした顔だちをしている。
でも、おじいちゃんの遠縁、と聞くと、なんだか急に親しみが湧いてきた。
おじいちゃんに繋がる人なら、私にとっても、大事な人だ。
「あ、あの……長旅、お疲れさまでした……ね、よかったら、何か飲み物とか、お持ちしますよ……?」
私は、勇気を出して声をかけた。
蓮華さんは、私を見て――今度は、ほんの少しだけ、視線の意味が変わった気がした。それでも、温度は依然として、低い。
「いえ、結構です」
それだけ。
「あらあら、蓮華ちゃん、遠慮しなくていいんだよぉ。愛のいれてくれるお茶は、おいしいんだから」
おばあちゃんがそう言ってくれて、私は少しだけほっとした。
蓮華さんは、ちょっとだけ考えるように沈黙してから、「……それでは、お言葉に甘えて」と言った。
私は急いで厨房に戻って、冷たい麦茶を用意した。氷を三つ。グラスは、夏用に出したばかりの、薄いガラスのもの。お盆に乗せて、慎重に運ぶ。
「どうぞ……っ」
「ありがとうございます」
蓮華さんは、グラスを受け取って、一口、麦茶を飲んだ。
私は、つい、その様子をじっと見てしまった。
飲み方ひとつまで、きれいだった。グラスの傾け方、口をつける角度、飲んだあとに、静かにグラスを置く所作――どれもが、私が今まで見てきたどの女の子とも違っていた。
何だろう、この人。
まるで、別の世界から来た人みたい――。
「愛、蓮華ちゃんは、しばらくこの家にいるんだよぉ。お部屋は、二階の空き部屋を使ってもらうことにするからねぇ」
「う、うんっ。あの、私、お部屋の準備、お手伝いするねっ……」
「あらまぁ、頼もしい」
おばあちゃんが、嬉しそうに笑った。蓮華さんも、私の方をちらっと見て、小さく頷いた。
それだけで、私はなんだか嬉しくなった。
知らない人と一緒に暮らすのは、ちょっと不安だけど――でも、おじいちゃんの遠縁の人なら、きっと大丈夫。仲良くなれるかもしれない。お友達みたいに、いろいろなお話ができるようになるかもしれない。
ふふっ、楽しみだなぁ……。
そう、思っていた。
その日の夕方。
お店が一段落して、常連さんが二人、夕方のコーヒーを飲みにやってきた。佐伯さんと、林さん。いつものメンバー。
「あれぇ、今日は新しい子がいるねぇ」
「優希さん、お客さん?」
おばあちゃんが、コーヒーをいれながら、二人に蓮華さんを紹介した。蓮華さんは、お店の隅の席で、本を読んでいた。表紙はフランス語で、私には何の本か読めなかったけれど、難しそうな本だった。
「あらまぁ、フランスから……それはそれは」
「お嬢さん、おいくつ?」
「十三です」
私と、同い年。
それを聞いて、私は、なんだか急に、ちょっとだけ嬉しくなった。同い年の女の子と、同じ屋根の下で過ごせる――それは、生まれて初めての経験だった。
「あらぁ、愛ちゃんと同い年なのねぇ。仲良くしてあげてね」
林さんが、蓮華さんに笑顔で言った。蓮華さんは、本から目を上げて、「……ええ」と短く答えた。
仲良く――。
その言葉を、私は心の中で繰り返した。
仲良くなれたら、いいな。
うん、なれるよね、きっと。
「そういえば、優希さん。今日のおすすめは何かしら?」
「今日はねぇ、蓮華ちゃんがちょっとだけ、お菓子を焼いてくれたんだよぉ」
「えっ……?」
私は、声を出してしまった。
おばあちゃんが、私の方を見て、ちょっとだけ困ったように笑った。
「ああ、ごめんねぇ愛、言うの忘れてたよぉ。蓮華ちゃんがね、お昼のあいだに、ちょっと厨房を貸してほしいって言ってくれてねぇ」
「そ、そうなんだ……」
知らなかった。
私が午後、自分の部屋でお昼寝をしていたあいだに、蓮華さんは厨房を使っていたんだ。
「うちの厨房を、慣れない方に貸すのもどうかと思ったんだけどねぇ、蓮華ちゃんがどうしてもって言うから……」
「う、ううん、それはぜんぜん、いいと思うよ……っ」
私は、慌てて首を振った。
厨房は、私だけのものじゃない。お店の厨房だ。蓮華さんが使うのは、おかしなことじゃない。
「で、何を作ったの?楽しみだねぇ」
佐伯さんが、興味津々の様子で訊いた。おばあちゃんが、「マカロン、っていうんだったかねぇ」と言いながら、厨房から小さなお皿を持ってきた。
お皿の上には、五つ、小さなお菓子が並んでいた。
それを見た瞬間、私は――息を、止めてしまった。
きれいな、と言えばいいのか。
でも、「きれい」という言葉では足りない。
薄いピンク色のもの、淡い紫色のもの、レモンイエローのもの、グリーンのもの、それから、深い濃い茶色のもの。五つの色が、お皿の上で、まるで宝石みたいに並んでいた。
形は、すべて、寸分違わず同じ大きさ。表面は、つるりと滑らかで、光を反射している。フリル――マカロンの脚と呼ばれる部分が、どれも完璧に均等に出ている。
私が知っているマカロンとは、まったく違うものだった。
私も、前にお菓子の本でマカロンの作り方を見たことがある。何度か挑戦したこともある。でも、表面はひび割れて、フリルもうまく出なくて、結局、うまくいかなくて諦めたんだ。
それなのに――。
それなのに、こんなのを、午後の数時間で、作ったの……?
「あらあら、なんてきれいな……!」
林さんが、思わず声を上げた。
「これ、本当に蓮華ちゃんが作ったの?お店で売ってるのかと思ったわ」
「ほっほっ、そうだろうねぇ。私もびっくりしたんだよぉ」
おばあちゃんが、嬉しそうに笑った。
「さ、食べてみておくれ」
佐伯さんと林さんが、それぞれひとつずつ、マカロンを手に取った。
私も、お皿に残ったマカロンを見ていた。
何で、なんだろう……。
お腹のあたりが、ちょっとだけ、ざわざわした。
それが何なのか、その時の私には、まだわからなかった。
ただ、お皿の上に並んだ、見たこともないようにきれいなマカロンを、何度も何度も、目で追っていた。
佐伯さんが、ピンクのマカロンを口に運んだ。
噛んだ瞬間、佐伯さんの肩が、びくっと跳ねた。
え――?
林さんが、紫のマカロンをひとくち。
林さんも、目を見開いた。
二人とも、何かを言おうとして、言葉が出てこない。そんな表情だった。
お店の中が、しばらく、静かになった。
それは、不思議な沈黙だった。
私が、これまでお店で何度も経験してきた「おいしい」という言葉が出る前の、嬉しい沈黙とは、違う種類の沈黙。
なんだか、もっと――もっと、深いところに、何かが届いてしまったような。そんな沈黙。
「……」
最初に口を開いたのは、佐伯さんだった。
低い声で、ひとり言みたいに、こう呟いた。
「……これ、本物だ」
本物。
その言葉が、お店の空気の中に、ぽつんと落ちた。
「優希さん、これは……これは、すごいよ」
「私、こんなマカロン、食べたことない……どうしよう、涙が出てきそう」
林さんが、本当に目を潤ませていた。
おばあちゃんが、嬉しそうに、それでいて、どこか感慨深そうに、マカロンを見つめていた。
その瞳の奥に、私の知らない感情が揺れているのが、なんとなく、わかった。
「蓮華ちゃん、ちょっと愛にも食べさせてあげてくれるかい?」
おばあちゃんに言われて、蓮華さんは本から目を上げ、お皿を私の方に少しだけ寄せた。
「どうぞ」
その声は、相変わらず、温度が低かった。
私は、おそるおそる、レモンイエローのマカロンを手に取った。
なぜか、手が、少しだけ震えていた。
ひとくち。
口の中に、マカロンの薄い殻が、すっと崩れていった。
それから、中のクリームが――。
……あれ?
口の中に広がったのは、レモンの香り。それから、何かもうひとつ、私の知らないハーブのような香り。バターの風味。それらが、全部一緒になって、舌の上で混ざり合っている。
おいしい、と思う。たぶん、おいしいんだと思う。
でも、私には――。
私には、よくわからなかった。
何が、佐伯さんと林さんを、あんなに感動させたのか。
何が、佐伯さんに「本物だ」と呟かせたのか。
何が、林さんを涙ぐませたのか。
私の舌には、ただ、「香りの強いマカロン」としか、感じられなかった。
味の層が、複雑すぎて――私の舌が、それを分解できなかった。
私は、慌てて笑顔を作った。
「お、おいしい、ね……っ。すごいね、蓮華さん……!」
蓮華さんは、私の方を見た。私の感想に対して、何も言わなかった。「ありがとう」も、「そう」も、何もない。ただ、少しだけ視線を私に向けて、それから、また本に戻った。
私の感想は、必要とされていなかったんだ。
たぶん、ここにいる三人――佐伯さんと、林さんと、おばあちゃん――の感想だけが、蓮華さんにとって、意味のあるものだった。私の「おいしいね」は、そこに加える価値がなかった。
ううん、違う。
蓮華さんは、そんな失礼な人じゃない。きっと、本に集中していただけ。それに、私みたいな子供の感想を、いちいち気にしていられないのも、当然のこと。
そう、当然のこと。
それなのに、なんでだろう――。
胸の奥が、ちょっとだけ、痛い。
その夜。
蓮華さんが、二階のお風呂に入っているあいだ、私はキッチンで、自分の作っていたシフォンケーキの試作の続きをしていた。
レモンの皮を生地に混ぜ込んで、型に流し込む。オーブンを百七十度に温めて、四十分。タイマーをセットして、待つ。
オーブンの前にしゃがんで、生地が膨らんでいくのを見ていた。
ちゃんと、膨らんでいる。
生地の色も、きれいなレモンイエロー。
きっと、おいしくできる。おばあちゃんも、喜んでくれるはず――。
「……」
ふと、頭の中に、お皿の上に並んでいた、あの五つのマカロンが浮かんだ。
つるりとした表面。完璧に均等なフリル。宝石みたいな色。
それを見た瞬間の、お店の空気。
「これ、本物だ」という、佐伯さんの呟き。
林さんの、潤んだ瞳。
そして、おばあちゃんの、私の知らない感情を浮かべた瞳。
私の作るシフォンケーキは、きっと、おいしい。
おばあちゃんも、佐伯さんも、林さんも、「おいしいね」って言ってくれると思う。
でも、佐伯さんを、あんなふうに「本物だ」と呟かせることは――できない。
林さんを、涙ぐませることは――できない。
おばあちゃんに、あんな深い瞳をさせることは――できない。
それは、私には、できない。
なんで、そんなことを、考えているんだろう。
私は、別に、誰かと比べているわけじゃない。私のお菓子は、私のお菓子で、いいんだ。おばあちゃんが「おいしい」と言ってくれれば、それで、いいんだ。
それで、いいはずなのに――。
オーブンのタイマーが、ピピッと鳴った。
私は立ち上がって、オーブンを開けた。きれいに膨らんだシフォンケーキ。表面はつやつやで、いい焼き色。レモンの香りが、ふわっと広がる。
ちゃんと、できた。
ちゃんと、おいしそうに、できた。
なのに、なぜか――。
なぜか、嬉しさが、いつもの半分くらいしか、湧いてこなかった。
ベッドに入ってから、私はしばらく、天井を見つめていた。
夏の夜は、虫の声が大きい。窓の外で、たくさんの種類の虫たちが、それぞれのリズムで鳴いている。風が、カーテンを揺らしている。
蓮華さんは、隣の部屋で、もう寝ているのかな。
明日の朝、起きたら、また蓮華さんがいるんだ。同じ家に。同じ屋根の下に。
仲良くなれるかな……。
なれる、よね。
きっと、なれる。
私は、寝返りを打って、目を閉じた。
明日からも、私はおばあちゃんのお手伝いを、ちゃんとがんばろう。
倉庫からお米を運ぶ仕事。お店の掃除。ランチの仕込み。お菓子の試作。おばあちゃんが疲れないように、私ができることを、全部、やる。
それが、私の役割だから。
それが、私が「タカラ」にいる、意味だから。
明日からも、私は、おばあちゃんの力になれる。
なれる、はず。
うん、絶対、大丈夫……。
最後にそう自分に言い聞かせて、私はゆっくりと、眠りに落ちていった。
虫の声が、だんだん遠ざかっていく。
夢の中で、おじいちゃんが、私の頭をなでてくれているような気がした。
『愛は、よくがんばってるねぇ』
そう、言ってくれているような――。
でも、その声が、いつもの優しい声と、ほんの少しだけ、違って聞こえた気がしたのは。
きっと、夢だから、なんだろうな。