ケモカフェ! 〜ifストーリー〜   作:灰色の雪

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お手伝いの行き場

朝、五時半に目が覚めた。

蓮華さんが来てから四日目の朝。

ベッドの中で天井を見つめていた。蝉の声がもう聞こえはじめている。窓の外がうっすらと明るい。今日はいつもよりも早い時間に目が覚めた。

なんでだろう。

別に嫌な夢を見たわけじゃない。お腹が痛いわけでもない。

ただ、なんとなく目が覚めてしまった。

布団の中で寝返りを打って、もう一度目を閉じてみる。けれど、もう眠気はやってこない。

……起きようかな。

早起きは三文の徳、っていうし。

それに、いつもより早く起きれば、いつもより早くお米を運べる。倉庫からお米を運ぶのは私の毎朝の仕事。三十キロ入りの米袋を肩に担いで、家の裏手の倉庫からカフェの厨房まで運ぶ ―― 私にとってはもう慣れた朝の儀式だった。

布団から出てエプロンをして、髪をひとつにまとめる。メガネをかけ直して、足音を立てないように階段を降りた。

おばあちゃんも蓮華さんも、まだ起きていない時間。

家の中はしんと静かだった。

裏口から外に出ると、夏の朝の湿った草の匂いがした。

朝露が笹の葉の上で光っている。空はまだ青ではなくて、白に近い色をしている。少し離れた山の方から鳥の声がする。

ふぅ……気持ちいい朝。

私はサンダルを履いて、倉庫の方に向かって歩き出した。

倉庫の引き戸に手をかける。

がらがら、と引き戸が開いた ――。

「……あ」

私は声を漏らした。

倉庫の中にあったはずのものが、なかった。

正確に言うと ―― 私が今日運ぶ予定だった、三十キロ入りのお米の袋が、棚から消えていた。

え……?

棚の前に立ってぼうっとしてしまった。

昨日の夜、確認したばかりだった。倉庫の左側の棚の、下から二段目。新しいお米が二袋。私はそれを見て「明日、一袋運ぼう」と心の中でメモをしていた。

それが、ない。

泥棒……?

ううん、まさか、こんな山奥に泥棒なんて来るわけがない。だいいち倉庫の鍵は家の中にあるはずだから、勝手に持ち出すことなんてできない。

じゃあ誰が ――。

「……」

ぼんやりとひとつの可能性に思い当たった。

倉庫を出て家の方に戻る。裏口から入って廊下を歩いて、カフェの方の厨房を覗いた。

そこに ―― あった。

厨房の床にお米の袋がひとつ、きれいに米びつの近くに置かれている。

その横の作業台では蓮華さんが、もうエプロンをして手を動かしていた。

「……あ」

私の声に蓮華さんが顔を上げた。

「おはようございます」

「お、おはよう、蓮華さん……」

声がうまく出てこなかった。

何を言えばいいのかわからなかったから。

蓮華さんは私を一瞥して、また手元の作業に戻った。彼女の手元では何かのスパイスがすり鉢の中で細かくされていく。早朝の厨房に、私の知らない深い香りがふわっと立ち上がっていた。

「あ、あの……お米、運んでくれたの……?」

「はい」

「……あ、ありがとう……」

「いえ」

蓮華さんはそれきり何も言わなかった。

すり鉢の音だけが厨房に響いている。

私はしばらく入り口に立ったまま動けずにいた。

何か言わなくちゃいけないと思った。お礼をもう一度言うとか、感心するとか。でも何を言っても蓮華さんに届かないような気がして、結局何も言えなかった。

そのままそっと厨房から離れた。

廊下の途中で立ち止まった。

何だろう、この感じ。

別に蓮華さんは悪いことをしたわけじゃない。むしろ私の仕事を手伝ってくれたんだから、「ありがとう」と言うべき場面。お米を運ぶのは確かに女の子にとっては大変な仕事だ。蓮華さんは私を気遣って運んでくれたんだ。

それなのに ――。

それなのに、なんでこんなに、心がざわざわするんだろう。

「愛、おはよう」

階段の上からおばあちゃんの声がした。

「お、おはよう、おばあちゃん……っ」

私は慌てて笑顔を作って振り向いた。

「今日も早起きだねぇ。あ、お米運んでくれたのかい?」

「ううん、それがね ――」

「ほっほっ、もう運んでくれたみたいだねぇ。蓮華ちゃんが運んでくれたみたいでねぇ。さっき教えてくれたんだよ」

「あ、う、うん……そうみたい」

「ありがたいねぇ、愛も助かったろう」

「うん……、助かった」

私は笑って頷いた。

ちゃんと笑えていた、と思う。

 

朝食が終わってお店の準備が始まる。

今日のランチは夏野菜のキーマカレーと、冷製スープと、サンドイッチ。私は昨日のうちにメニューを決めて、買い出しのリストも作っておいた。

「おばあちゃん、私、キーマカレーの仕込み始めるねっ……」

「あらまぁ、今日もキーマカレーかい?」

「うん、おじいちゃんの好きだったメニューだから……」

「ほっほっ、そうだねぇ ―― あ、でもね」

おばあちゃんがちょっとだけ申し訳なさそうな顔をした。

「実はね、蓮華ちゃんが今日のランチのカレーは自分が作ってもいいかって言ってくれてねぇ」

「……えっ」

「蓮華ちゃん、フランスにいる間にいろんな国のお料理を勉強してきたみたいでねぇ。本格的なインドのカレーが作れるって言ってくれたんだよ」

「あ、う、うん……」

「もちろん愛が作りたいなら、愛のキーマカレーでいいんだよぉ。おばあちゃんは愛のキーマカレーが大好きだからねぇ」

おばあちゃんは優しく私の頭をなでてくれた。

優しさが伝わってくる。

おばあちゃんはちゃんと私のことを考えてくれている。私が傷つかないように、選択肢を私に渡してくれている。

それなのに ――。

それなのに、私はこう答えた。

「ううん、おばあちゃん。今日は蓮華さんに作ってもらお。私のキーマカレーは明日でも、いつでもできるから……」

自分でそう言いながら、心のどこかで別の声がした。

『そんなふうに簡単に譲っちゃうの?』

『あなたの仕事じゃなかったの?』

その声を私は聞こえないふりをした。

おばあちゃんが嬉しそうに微笑んだのが見えたから。

「あらまぁ、愛は優しい子だねぇ。じゃあそう蓮華ちゃんに伝えておくよ」

「うん、おばあちゃん」

笑って頷いた。

笑えた、と思う。

笑えた、はず。

 

カレーの仕込みは蓮華さんがひとりで担当することになった。

私は別の作業をしながら、ちらちらと厨房の様子を見ていた。

蓮華さんの手の動きには無駄というものがまったくなかった。

玉ねぎを刻む。スピードが私とは違う。トントントン、と一定のリズムで包丁が下りていって、五秒もしないうちに玉ねぎがみじん切りになっている。それなのに大きさがすべて揃っている。

私が同じ作業をしたら、たぶん二分はかかる。それでも大きさは揃わない。

スパイスを炒める。

クミン、ターメリック、コリアンダー、カルダモン ―― それから私が名前も知らないスパイスがいくつか。蓮華さんはそれらを別々のタイミングで油の中に入れていく。順番が私の知っているレシピとはまるで違う。

油の中でスパイスがはじける音。

香りが厨房いっぱいに広がっていく。

私が市販のルーで作っていたカレーとは ―― 香りの密度がまったく違っていた。

「愛、サンドイッチ作るんだろう?こっちの作業台、使っていいよぉ」

おばあちゃんに声をかけられて、私ははっと我に返った。

「う、うん、ごめんなさい、すぐやるね……」

慌ててサンドイッチの材料を出し始めた。

食パンを切る。ハムとレタスとチーズ。トマトを薄切りにする。

包丁を握る。

ふと、自分の包丁さばきを意識してしまった。

トン、トン、とゆっくりとトマトに刃を入れていく。私のリズム。練習を重ねてようやく安定してきた、私のリズム。

なのに隣の作業台で響く蓮華さんの包丁の音 ―― それと比べると私のリズムは、まるで子どもが棒で遊んでいるみたいに聞こえる。

ううん、比べちゃダメだ。

蓮華さんは本格的な修行をしてきた人。私は独学。比べるのがおかしいんだ。私には私のペースがある。私のサンドイッチはちゃんとおいしくできる。常連さんもいつも「おいしいね」って言ってくれるんだから。

そう自分に言い聞かせた。

トン、トン、と包丁を進めた。

トマトの断面。

……あ。

潰れちゃった。

トマトの断面の一部がぐしゃっと潰れて、ジューシーな汁がまな板の上に滲み出した。

別によくあること。

包丁の切れ味が落ちてきていることはわかっていた。週末に研ぐつもりだった。

ただそれだけのこと。

「お困りですか」

ふいに後ろから声がした。

びくっと肩が跳ねた。

振り向くと蓮華さんが、私の作業台の横に立っていた。彼女の手元には自分の包丁。布で丁寧に包んだ、フランスから持ってきたという専門の包丁。

その立ち姿の美しさに、私は一瞬呼吸を忘れた。

エプロンの裾ひとつ汚れていない。長い栗色の髪は後ろで編み上げて、うなじが白く、しなやかに伸びている。湿気の多い夏の厨房で、額にひとつぶの汗もない。彼女の周りだけ、空気が澄んでいるみたいに見えた。

「そのナイフだとトマトの細胞壁が潰れます。野菜は、刃の鋭さで切る ――」

蓮華さんが自分の包丁を、私のまな板の上にすっと置いた。

「ご使用ください」

「あ、え、で、でも、それは蓮華さんの……」

「お貸しするだけです」

「で、でも、私、まだ ―― お、お借りするのは申し訳ないし……」

「他人のものを使うのが嫌、ということ?」

蓮華さんが私を見た。

その瞳に、あらためて、息を呑んだ。

薄い緑がかった茶色の瞳は、感情を見せていないわけではなかった。むしろ静かな、深い湖のような落ち着きがあって、見ている者の中身を澄み切った水面に映してしまうような、そんな質感を持っていた。

「い、いえ、そういうわけじゃ、なくて ――」

「では、お使いください。そのナイフでは断面が潰れます」

それだけ言って蓮華さんは自分の作業に戻った。

私のまな板の横に、彼女の包丁が置きっぱなしになった。

私はしばらくその包丁を見つめていた。

きれいな包丁だった。

私の使っている、近所のホームセンターで買った包丁とはまるで違う。刃の輝き方が違う。柄の木材も私の知らない種類のもの。

「……」

私はおそるおそるその包丁を手に取った。

軽い。

私の包丁よりもずっと軽くて、けれど刃の重みは確かにあって ―― その「重み」と「軽さ」のバランスが絶妙だった。

トマトに刃を当てた。

すっと、刃が沈んでいった。

トマトが抵抗しなかった。

切れた。

断面はつるりとしていた。

私のまな板の上に、ジューシーな汁が滲まなかった。

「……」

私はしばらくその断面を見つめていた。

切れた、ということが私には信じられなかった。

私がこれまで三年かけて磨いてきた包丁さばき。少しずつ上手くなっていると思っていた、私の手。

それがたった今、別のもの ―― 「道具」が変わるだけでこんなに変わってしまうこと。

ううん。

正確に言うと、変わったのは道具だけじゃないのかもしれない。

私にはわからない領域に、もう、別のものがたくさんたくさん存在しているということ。

刃の鋭さ、刃の重み、刃の角度。

それらを選び取る判断力。

そういうものを私はこれまで知らずに、独学で、なんとなくやってきた。

「なんとなく」で来てしまった。

「……愛、どうしたんだい」

おばあちゃんが私の顔を覗き込んで、心配そうに聞いた。

私は慌てて笑顔を作った。

「ううん、ごめんなさい、ちょっとぼうっとしちゃってた……っ。あ、あの、蓮華さんにお包丁貸してもらってね、すごく切れるの……っ」

「あらあら、それはよかったねぇ」

「うん、ね、すごいの、ぜんぜん潰れないの……っ」

私は声を明るくしようと頑張った。

頑張って、明るく声を出した。

おばあちゃんが嬉しそうに笑ってくれて、それでようやくほっとした。

ほっとした、はずだった。

 

お昼。

蓮華さんが作ったキーマカレーがお店に出された。

最初のお客さまは佐伯さんだった。

毎週のようにお昼にカレーを食べにきてくれる常連さん。私のクッキーを「パティシエみたいだね」と褒めてくれた、あの佐伯さん。

「いらっしゃい、佐伯さん」

「優希さん、今日もお世話になります。今日は何かしら?」

「今日はねぇ、蓮華ちゃんが本格的なインドカレーを作ってくれたんだよぉ」

「あらぁ、それは楽しみ。頂きます」

カレーが佐伯さんの席に運ばれた。

私はホールでお水を出しながら、佐伯さんの様子を見ていた。

佐伯さんがスプーンでカレーをひとすくいした。

口に入れた。

噛んだ。

しばらく、目を閉じた。

「 ――」

そして、ゆっくりと目を開けた。

その目が、潤んでいた。

「優希さん、これは ―― これは本場の味だわ……」

「あらまぁ、そうかい?」

「フランスに行く前に、私、夫と一緒にインドを旅行したことがあってね……。デリーの、ある食堂で食べた夢みたいなチキンカレー ―― あれの味と似ているの。香りが深くて、複雑で ――」

佐伯さんがもう一口。

スプーンを持つ手が震えていた。

「優希さん、私、こんなお味、もう一度食べられると思わなかった……」

おばあちゃんが嬉しそうに笑った。

「ほっほっ、そうかい、それはよかった ―― 蓮華ちゃん、お客さん感激してるよ」

蓮華さんは厨房の中からちらっとホールを見て、「……ありがとうございます」と、いつもの澄んだ声で答えた。

その一言だけだったのに、なぜか佐伯さんは恐縮したように小さく頭を下げた。蓮華さんが纏う気品が、感謝の言葉のほうにかしずかせる ―― そんな逆転を、私はホールの隅から見ていた。

私は ――。

私はお盆を持ったまま、ホールの隅に立ち尽くしていた。

佐伯さんが、私のキーマカレーを食べた時のことを思い出していた。

佐伯さんはいつも私のキーマカレーを「おいしいね、愛ちゃん」と言ってくれていた。

「おいしいね」と言ってくれていた。

そう言ってくれていた。

ただ、その時、佐伯さんの目は ―― 潤んではいなかった。

スプーンを持つ手は ―― 震えてはいなかった。

「もう一度食べられると思わなかった」とは ―― 言われたことがなかった。

私のキーマカレーは ――「おいしいね」のキーマカレー、だった。

それで十分だと思っていた。

それで十分なはずだった。

なのに、なんで ――。

「愛、お水のおかわり、お願いできるかい?」

おばあちゃんに声をかけられて、私は慌てて頷いた。

「あ、う、うん、すぐ持ってくね……っ」

冷たいお水のピッチャーを両手で抱えた。

ピッチャーがいつもより少し重く感じた。

 

「ねえ愛ちゃん、ちょっと食べてみる?」

カレーをすっかり食べ終えた佐伯さんが、私に笑顔で声をかけてくれた。

「えっ……」

「蓮華ちゃんに頼んで、もう一杯もらってきたの。半分こしましょ。これは愛ちゃんも食べておくべきよ」

「あ、う、ありがとうございます……」

私は佐伯さんの隣の席におそるおそる座った。

佐伯さんが私のお皿にカレーをよそってくれた。

スプーンで、ひとくち。

口の中に複雑な香りが広がった。

クミンの香り、コリアンダー、カルダモン ―― それから私の知らない、何種類かのスパイス。それらが層になって舌の上でゆっくりとほどけていく。

辛い。

舌がぴりっとしびれる。

私には、辛すぎる。

頭の奥の方で、佐伯さんが言った言葉が響いていた。「香りが深くて、複雑で」 ――。

確かに、香りは深くて複雑なんだろう。

たぶん。

でも私の舌には、その「層」がわからない。

「辛い」と「いろんな香りがする」ということしか感じ取れない。

佐伯さんが「これと似ていた」と言った、あのデリーの食堂のチキンカレーとの繋がりも ―― 私にはまったくわからない。

私はデリーに行ったことがないから。

私は本場のインドカレーを食べたことがないから。

私の世界はこの山の中の小さなカフェで止まっているから。

「ど、どう?愛ちゃん、おいしいでしょ」

佐伯さんがわくわくした顔で訊いた。

私は笑顔を作った。

ちゃんと作った。

「うんっ……お、おいしい、ね、佐伯さん……っ」

「でしょう?すごいわよねぇ、蓮華ちゃん」

「うん、すごいね……っ」

私は笑った。

笑った、はず。

佐伯さんは満足そうに頷いて、また自分のカレーを食べ始めた。

私はお皿の上のカレーを、もう一口、口に入れた。

辛い。

辛くて口の中がひりひりしている。

でも、もう一口。

もう一口食べたら、もしかしたら佐伯さんの感じている「層」がわかるかもしれない。

「深さ」がわかるかもしれない。

そう思って、もう一口。

わからない。

辛いだけ。

私にはわからない。

「……」

スプーンを置いた。

お皿にはまだ、半分以上カレーが残っていた。

「あらぁ、愛ちゃん、もう食べないの?」

「うんっ……あの、お、お腹いっぱいで……ご、ごめんなさい」

「あらあら、無理しないでね」

「うん……」

私はお皿を持って立ち上がった。

ホールの隅、洗い場のあるところにお皿を運ぶ。

その途中でちらっと厨房の中を見た。

蓮華さんが次のお客さまのお皿を用意していた。

蓮華さんの横顔は、相変わらず凪いでいた。佐伯さんが感激していたことも、自分の作ったカレーが誰かの旅の記憶に触れたことも、蓮華さんの表情には何の波紋も生まなかった。

たぶん蓮華さんにとっては、それは ―― あたりまえのこと、なんだろう。

人を感激させる料理を作ることが、蓮華さんにとっては息をするのと同じくらいの自然な営み。私にとっては夢で、奇跡で、目指すべき遠い高みであるはずのことが、彼女にとっては日常の隣にある。

私にとっての ―― 「おいしいね」と言ってもらえる、私のキーマカレー。

それと蓮華さんの、お客さまを涙ぐませるカレー。

それはもう、同じ「カレー」という言葉で呼ぶことができないものなのかもしれない。

そんなことを思った。

 

夕方。

お店が一段落して、夕方のコーヒータイムに入った。佐伯さんと林さんがいつものようにコーヒーを飲みに来て、おばあちゃんとお喋りをしている。

蓮華さんは自分の部屋に戻っていた。たぶん本を読んでいるんだと思う。

私は厨房で明日の仕込みをしようと、お米を研いでいた。

水を替えながらお米を研ぐ。シャシャ、シャシャ、と規則的なリズム。

このリズムが私は好きだった。

何も考えなくていい。手が勝手に動いてくれる。心が空っぽになる。

空っぽになれる。

「愛、ちょっといいかい」

おばあちゃんが厨房に入ってきた。

「あ、おばあちゃん、なに……?」

「ね、明日のサンドイッチのパンの仕入れ、いつものお店じゃなくてねぇ ―― 蓮華ちゃんが知り合いのパン屋さんを紹介してくれてねぇ。フランス式の本格的なパン・ド・ミーが手に入るって言うんだよ」

「あ、そう、なんだ……」

「明日からそっちのパンを使ってみようかと思ってねぇ。サンドイッチももっとおいしくなるかもしれないからねぇ」

「うん……、おばあちゃんがいいと思うなら、それでいいと思う」

「愛は、いつものパン屋さんがいい?」

おばあちゃんが私の顔を覗き込んで訊いてくれた。

優しい目で。

「ううん、そんなことないよ。新しい方がお客さまも喜ぶかもしれないし」

「ほっほっ、愛は、ほんとに優しい子だねぇ」

おばあちゃんが私の頭をなでてくれた。

頭の上から伝わってくる、おばあちゃんの手の温度。

その温度を、私は目を閉じて受け止めた。

おばあちゃんの手の温度。

変わらない、おばあちゃんの手の温度 ――。

「あ、それからねぇ、夕方の買い出しなんだけどねぇ」

おばあちゃんがふと思い出したように言った。

「夕方の買い出し……?」

「うん。蓮華ちゃんが、自分が行くって言ってくれてねぇ」

「……えっ」

「重い荷物を運ぶのは若い子の仕事だって ―― ふふっ、蓮華ちゃんは自分のこと、まだ若いと思ってるんだろうかねぇ」

おばあちゃんがちょっと冗談めかして笑った。

夕方の買い出し ――。

それは私の仕事だった。

毎日の仕事だった。

おばあちゃんが買い物リストを書いてくれて、私が自転車を漕いで麓のスーパーまで行って、頼まれたものを買ってくる。重いお米は頼まれた時だけ。普段は野菜とか、お肉とか、調味料とか。

それが今日から ―― 蓮華さんの仕事になる。

「あ、う、うん……、そう、なんだ……」

「愛は、もっと自分のことに時間を使っていいんだよぉ。お菓子の試作とか、好きな小説を読むとか。せっかくの夏休みだからねぇ」

おばあちゃんは優しく笑って、ホールの方に戻っていった。

「あ、蓮華ちゃん、ちょっと買い出しのリスト、渡しておくねぇ ――」

おばあちゃんの声が廊下を遠ざかっていく。

私はお米を研ぐ手を止めていた。

止めてからしばらく、止まっているということに気がつかなかった。

シンクの中でお米が水に浸かっていた。

お米の粒が白く揺れている。

「……」

私はしばらくそのお米を見つめていた。

別に。

別に、いいんだ。

おばあちゃんは私を気遣ってくれている。蓮華さんは自分から進んで仕事を引き受けてくれている。それはありがたいことなんだ。私の負担が軽くなる。私は自分の好きなことに時間を使える。

私は自分の好きなことに時間を使える ――。

「自分の好きなこと」 ―― って何だっけ。

お菓子の試作?

おばあちゃんを喜ばせるための?

でも、おばあちゃんを喜ばせるのは、もう蓮華さんのお菓子で十分なんじゃないかな。

私のお菓子よりもずっとおばあちゃんを喜ばせるんだ。

私のお菓子は ―― 私のお菓子は、何のために作るんだろう。

「……」

頭を振った。

ダメ、ダメだ、こんなふうに考えちゃ。

私のお菓子は私のお菓子でいいんだ。

おばあちゃんはちゃんと私のお菓子を好きでいてくれる。「愛のクッキー、おいしいね」って、ちゃんと言ってくれる。

それで十分。

それで十分なはず。

水を捨てた。

シンクの中のお米から水が流れ落ちていく音。

新しい水を注いだ。

シャシャ、シャシャ ――。

お米を研ぐ規則的なリズムが戻ってきた。

このリズムが好きだ。

何も考えなくていい。

何も考えなくて。

 

夜。

夕食を食べ終えてお風呂に入って、自分の部屋に戻った。

机の上には私のレシピノートが、開いたまま置いてあった。

朝、何かを書こうとして、けれど書くことが思いつかなくて、開いたままにしていたノート。

私はノートの前に座った。

新しいページを開いた。

白いページ。

ペンを握った。

何か書こうとした。

新しいレシピのアイディア ―― 夏の新作。

たぶん、今、私が考えるべきは、レモンのシフォンケーキの完成度を上げること。それから、お盆の頃に新作のお菓子を出すこと。常連さんに喜んでもらえるような、何か。

何か ――。

ペン先が、白いページの上で止まっていた。

止まったまま動かなかった。

書きたいことが、何も出てこなかった。

何を作っても ――。

何を作っても、蓮華さんのお菓子の方がおばあちゃんを喜ばせるんだろう。

何を作っても、蓮華さんの料理の方が佐伯さんを感動させるんだろう。

そう思った瞬間、私は自分の中に、初めて自覚的にその感情を見つけた。

「……」

これは何だろう。

胸の奥が重い。

頭の後ろの方がずん、と痺れている。

涙が出るわけじゃない。怒りが湧くわけじゃない。

ただ、重い。

ペンを置いた。

レシピノートを、ぱたん、と閉じた。

そして机の引き出しを開けて ―― ノートを引き出しの奥の方に押し込んだ。

別に捨てたわけじゃない。

別に、もう書かないと決めたわけじゃない。

ただしばらく、机の上には置いておきたくなかった。

それだけ。

引き出しを閉じた。

カチャ、と小さな音がした。

その音がなぜか、いつもよりも大きく聞こえた。

 

ベッドに入った。

目を閉じた。

明日もまた朝が来る。

明日もまた、お米はたぶん蓮華さんが運んでくれている。

明日もまた、お昼のメニューは蓮華さんが作るかもしれない。

明日もまた、夕方の買い出しは蓮華さんが行ってくれる。

私は何をすればいいんだろう。

「タカラ」での私の役割って、何だろう。

おばあちゃんのお孫さん ―― それだけでいいんだろうか。

それだけで、いるだけでいいんだろうか。

「いるだけ」でいていいなら、それはそれで楽なのかもしれない。

楽なはずなのに ――。

なぜか楽じゃない。

ベッドの中で寝返りを打った。

枕に頬がひんやりと触れた。

そういえば。

そういえば明日 ―― 蓮華さんに、何かお手伝いできることがあるかな。

明日の朝、蓮華さんに訊いてみようかな。

「明日、何かお手伝いできることありますか」って訊いてみたら、蓮華さんは何て答えるだろう。

蓮華さんが私に頼ってくれることがあるだろうか。

蓮華さんが私に「これをやってほしい」って言ってくれることがあるだろうか。

そうしたら、私は ―― ちゃんと「タカラ」にいる意味を持てる。

そう思いながら目を閉じた。

虫の声が聞こえてくる。

夏の虫の声。

四日前と同じ虫の声。

なのになぜか、四日前よりもその声が、ちょっとだけ遠くに聞こえた。

ちょっとだけ。

ほんのちょっとだけ。

 

翌朝。

私は蓮華さんに思い切って声をかけた。

「あ、あの……蓮華さんっ……」

「はい」

蓮華さんは朝食の前に新聞を広げていた。日本語の新聞をすらすらと読んでいる。フランス育ちなのに、日本の漢字も難しいニュースもぜんぶわかるんだ。

朝の光が、新聞のページの上に落ちて、その白さが彼女の伏せた睫毛に淡い影を作っていた。横顔の輪郭が、まるで石膏像のデッサンみたいに、しんと整っている。

「……明日、何かお手伝いできること、あ、ありますか」

声がうわずった。

うまく言えなかった。

でもちゃんと言葉として、口から出すことができた。

蓮華さんは新聞からゆっくりと目を上げた。

そして私を見た。

少しだけ考えた。

考えてから、答えた。

「……特には」

特には、と。

それだけ蓮華さんは答えた。

それからまた新聞に目を戻した。

ふいに、彼女の指先が新聞のページをめくった ―― その動作が、不思議なくらいに優美だった。フランスのカフェで朝のクロワッサンを食べているような、遠い時間の気配が、その指先の動きにはあった。私がここにいることなど、その時間の流れの中では、本当に小さな ―― 認識する必要すらない、些細な ―― 通行人の影でしかなかった。

私は立ったまましばらく動けなかった。

「特には」 ――。

その三文字が頭の中で何度も繰り返された。

特には、ない。

特には、ない、と蓮華さんは答えた。

これは正しい答え。蓮華さんは嘘をついていない。意地悪をしているわけじゃない。本当に、私に頼みたいことがない、というだけ。蓮華さんは自分のことは自分でできる人。私の手を必要としていない。

それだけのこと。

ただそれだけのこと。

「……そう、なんだ……」

私は笑顔を作ろうとした。

作ろうとして、たぶん、半分くらい作れた。

「あ、ありがとう、わかった……」

それだけ言って、私は台所の方に戻った。

おばあちゃんがお味噌汁の準備をしているのが見えた。

「おばあちゃん、私、お皿、並べるねっ……」

「ありがとう、愛 ―― 」

おばあちゃんが振り向いて笑ってくれた。

その笑顔に、私はほっとした。

おばあちゃんの笑顔。

おばあちゃんはまだ私のことを見てくれている。

私のすることを、ちゃんと見てくれている。

お皿を並べる。

四人分。

四人分、並べた。

四人分 ―― 私とおばあちゃんと蓮華さんと ―― あと、ひとり?

ううん、違う。

おじいちゃんがいた頃の癖で、つい四人分並べそうになっただけ。今の家族は、私とおばあちゃんと蓮華さんで三人。

私は慌てて四枚目のお皿を戻した。

戻しながら、変なことに気がついた。

おじいちゃんがいた頃。

四人で、ご飯を食べていた頃。

あの頃、私の役割は「お皿を並べること」だった。それだけで私は家族の中で存在を感じていた。「愛、お皿並べてくれてありがとう」とおじいちゃんが言ってくれた。

今は三枚。

三枚のお皿。

私が並べる。

並べるけれど ―― この三枚のお皿の中で、私のお皿はどれだろう。

私のお皿は ―― どこ?

「愛、どうしたんだい?」

おばあちゃんが私の様子に気づいて、声をかけてくれた。

「あ ―― ううん、なんでもない、おばあちゃん」

私は笑顔を作った。

ちゃんと作った、と思う。

ちゃんと笑えた、と思う。

たぶん、ちゃんと。

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