朝、目が覚めて、少しだけ窓の外を見つめていた。
夏の朝にしては空が薄い。
高い空には筋雲が広がっていて、まだ蝉が鳴き始めていない静かな時間。
蓮華さんが来てから、もうすぐ二週間。
あれから私の朝の仕事は徐々に減っていった。お米運びは蓮華さんがやってくれる。倉庫の整理も彼女が朝のうちに済ませてしまう。お店の床掃除を私がやろうと思って起きると、もう蓮華さんがモップをかけ終えている。
私はずっと自分にこう言い聞かせてきた。
蓮華さんはおばあちゃんの孫の遠縁。慣れない土地で自分の役割を作ろうとしている。だから彼女が仕事を引き受けるのは、そういう自分なりの居場所探しなんだ ―― と。
でも本当に居場所を探しているのは、誰なんだろう。
布団の中でそんなことを考えた。
考えてしまってから、慌てて頭を振った。
ダメだ、こんなふうに考えちゃ。
私は起きた。
朝食のあと、私は厨房でお菓子作りの準備を始めた。
新作のクッキー。
アイシングクッキー。
夏らしく向日葵の花と麦わら帽子と入道雲のかたちをした、子どもたちが見て喜びそうなデザイン。
夏休みになる前からずっと考えていたお菓子だった。
レシピノートを引き出しの奥にしまったあの夜から、もう何日も経っていた。けれど私は今朝もう一度ノートを取り出して、一番新しいページを開いて、このデザインを書き直した。
何のために作るのか ―― と自分に問わなくてもいいように。
ただ作りたかった。
それだけ。
それだけが、今の私に残されたたぶん最後の理由。
「愛、何作るんだい?」
おばあちゃんが厨房を覗きに来てくれた。
「あ、おばあちゃんっ……。あの、ね、新作のクッキー、作ろうと思って……」
「あらまぁ、楽しみだねぇ」
おばあちゃんが私の手元を覗き込んでくれた。
その目にいつもと変わらない優しさがあって、私はほっとした。
「夏らしいデザインにしようかなって思って。向日葵と麦わら帽子と……」
「あらあら、かわいいねぇ。子どもたちが喜びそうだ」
「うん、そうなったらいいな」
おばあちゃんが頷いてくれて、私は嬉しくなった。
久しぶりにちゃんと嬉しくなった。
生地を作る。
薄力粉、バター、砂糖、卵黄、バニラエッセンス。
ボウルの中でバターを丁寧に練る。冷蔵庫から出したばかりのバターはまだ硬くて、木べらが少し重く感じる。けれど練り続けるとだんだんと柔らかくなって、空気を含んで、白っぽくなっていく。
この変化が好きだ。
何かが自分の手の中で別のものに変わっていく感覚。
砂糖を加える。卵黄を入れる。粉をふるって混ぜる。
ひとつひとつの動作に心を込める。
ふと頭の中におじいちゃんの声が浮かんだ。
『愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ』
おじいちゃんの優しい声。
少し低くて深くて、いつも私の頭をなでてくれた、あの声。
私はその声をお守りみたいに心の中で抱きしめた。
おじいちゃんが見ててくれてる。
おじいちゃんの言葉がある。
それさえあれば、私はまだお菓子を作る理由がある ――。
そう思っていた。
その時は。
生地を冷蔵庫で休ませている間、ホールの方から声がした。
「優希さま、申し訳ございません。少し厨房をお借りしてもよろしいでしょうか」
蓮華さんの声だった。
おばあちゃんがちょっと驚いたように返事をした。
「あらまぁ、もちろんいいよぉ。今、愛がクッキーを作ってる最中なんだけど、奥のスペースは空いてるからねぇ」
「ありがとうございます」
廊下を蓮華さんが歩いてくる足音。
私は生地を冷蔵庫から出すタイミングを見ながら、ちらっと入り口の方を見た。
蓮華さんが入ってきた。
その姿に私は息を呑んだ。
普段、家にいるときの蓮華さんは白いブラウスにシンプルなスカート、その上にエプロンというスタイルだった。けれど今日の彼女は違っていた。
濃い藍色のコックコート。
襟元から見えるシャツの白さは新雪のようにけがれがない。袖口は二度折り返されていて、その内側に覗く生地までこだわって縫製されているのがわかる。腰のあたりで結ばれた長いエプロンは深い臙脂色で、彼女の佇まいに舞台の幕のような厳かさを与えていた。
髪は普段のように後ろで編み上げて、その上から白いバンダナを巻いている。バンダナの結び方ひとつ取っても職人の所作だった。
彼女の手には革のロールケースが提げられていた。中身はたぶんフランスから持ってきたという製菓用の道具一式。
異国の聖域から必要な祭具を抱えて、こちらの厨房に降りてきた ―― そんな近寄りがたい清潔さがあった。
「失礼します」
そう一言だけ言って、蓮華さんは奥のスペースに向かった。
私の作業台のちょうど対角線上。
距離は五メートルもない。
けれどまるで別の国のような距離。
「あ、あの……蓮華さんも、お菓子、作るの……?」
私は思い切って訊いた。
蓮華さんが振り向いた。
「ええ。少し試してみたいものがあって」
「そう、なんだ……」
「あなたも作っているのね」
蓮華さんが私の作業台をちらっと見た。
「うんっ……ク、クッキーを、ね……」
「そう」
それだけ言って、蓮華さんは自分の道具を取り出し始めた。
それきり彼女が私のクッキーについて訊くことはなかった。
生地を冷蔵庫から出してめん棒で伸ばす。
均等な厚さに伸ばすのは難しい。私は力加減が苦手で、いつも端っこが薄くなってしまう。それでも何度も練習して、最近はなんとか見られる程度にはできるようになった。
型抜きをする。
向日葵の型。麦わら帽子の型。入道雲の型。
雑貨屋さんで一目惚れした可愛い型たち。
型を押し当てて、ゆっくりと持ち上げる。
向日葵のかたちに抜かれた生地が、まな板の上に並ぶ。
ふふっ、可愛い。
並べていると、だんだん心が明るくなってきた。
これにアイシングをかけて、目玉とか麦わら帽子のリボンとか入道雲の影とかを描き込んでいく。子どもたちがお皿の上に並んでいるこれを見たら、きっと目を輝かせてくれる。
そういう瞬間のために私はお菓子を作る。
それはたぶんおじいちゃんの言ってくれた「世界を幸せにする力」とはまったく違うレベルの、ささやかな本当にささやかな ―― けれど私にとっては十分すぎるくらい意味のある営み。
そう自分に言い聞かせていた、その時。
ふいに奥のスペースから香りが届いた。
ふわ、と。
私は思わず手を止めた。
何の香りだろう。
バターの香り。砂糖が焼ける香り。バニラ。それから ―― それから私の知らない深い深い何かの香り。
蜂蜜のような甘さの中に、何か暖炉の煙のような燻された木のような、繊細な苦みが混じっている。バターは私の使っているのと同じはずなのに、まったく違う種類の油脂のように贅沢にほどけて、空気の中に溶けていく。
私は振り向いた。
蓮華さんは無音で動いていた。
無駄な音をまったく立てない。
ボウルを置く音、泡立て器を回す音、計量する音 ―― そういうものが彼女の手の中では、優雅な楽器の音色のように控えめに鳴っていた。
その横顔はこれまでの蓮華さんとは別の人のように見えた。
普段の彼女が湛えている、あの遠い湖のような静けさが、今はもっと深い場所にまで沈んでいる。瞳は自分の手元の生地だけを見ている。けれどその視線は生地の中の何か ―― 私には見えない生地の構造そのもの ―― を透視しているみたいだった。
聖堂で祈りを捧げる修道女のような ―― そんな神聖な集中。
これが本当の蓮華さんの姿なんだ ――。
私が今まで見てきた蓮華さんは、ただ家事をこなしている時の、いわば外出着の蓮華さんだった。今、目の前にいるのが彼女の本来の姿。フランスで磨かれてきた本物の彼女。
私はぼうっとその姿を見つめていた。
見つめながら、自分の手元のクッキーが、急に子どもの粘土遊びのように見えてきた。
ううん、違う。違う、違う。
私のクッキーは私のクッキー。蓮華さんのお菓子と比べる必要はない。
私のクッキーは、これを食べて笑顔になってくれるおばあちゃんと常連さんと近所の子どもたちのために作っている。
蓮華さんはもっと違う場所で違う人たちのために作っている。
それぞれがそれぞれの場所にいる。それでいいんだ。
そう自分に言い聞かせて、私は手を動かし始めた。
向日葵の生地を天板に並べる。
オーブンを百七十度に温める。
麦わら帽子の生地を並べる。
入道雲の生地を並べる。
天板をオーブンに入れる。
タイマーをセットする。
十二分。
オーブンの前にしゃがんで、生地が焼けていくのを見ていた。
オーブンの中で生地の縁がだんだんと色づいていく。
その様子がいつもなら私をすごく嬉しい気持ちにさせてくれる。
今日も嬉しい。
嬉しい、はず。
クッキーが焼き上がった。
天板の上で向日葵と麦わら帽子と入道雲が、香ばしく焼けて、夏の風景みたいに並んでいた。
冷ます間にアイシングを準備する。
粉砂糖と卵白とレモン汁を混ぜて、なめらかなアイシングを作る。
それをコーンに詰めて絞り袋に入れて。
クッキーが冷めたら、いよいよ絵を描いていく。
向日葵の真ん中に茶色のアイシングで種の模様を。
麦わら帽子のリボンに薄い水色で。
入道雲の影に淡い灰色を。
ひとつひとつ心を込めて描き込んでいく。
時間をかけてゆっくりと丁寧に。
二時間ほどかけて、二十枚のアイシングクッキーが完成した。
可愛い。
並べるとお皿の上に夏の風景画が広がっているみたいで、うふふ、と思わず声が漏れた。
これをおばあちゃんに見せて、それから夕方の常連さんたちにおすそわけしよう。
きっとみんな笑顔になってくれる。
そう思った時。
奥のスペースから、もうひとつの天板が出てきた。
蓮華さんが自分の作品をホールの方に運ぼうとしていた。
私は振り向いた。
そして ―― 動けなくなった。
蓮華さんの天板の上にそれは置かれていた。
ボンボンショコラ。
私はその名前を本でしか知らなかった。
写真でしか見たことがなかった。
けれど目の前にあるそれは、写真の中のどんなボンボンショコラよりも美しかった。
並んでいるのは八粒。
すべて形が違う。けれどどれも寸分違わぬ精度で、それぞれの形を極めている。
ひとつは漆黒のドームの上に、金箔がひと粒、雪の結晶のように散らされている。
ひとつは深い赤色のシェルに、何かのスパイスの粉が刻印のように細く描かれている。
ひとつは薄い緑色の小さな卵のような形で、表面が真珠のような光沢を放っている。
ひとつは白いシェルの上に、蓮華の花弁を模した薄いチョコレートの花びらがひとひら置かれている。
ひとつは鏡のように磨かれた、暗褐色のグラサージュ。
ひとつは艶やかな黒地に、銀色のマーブル模様が夜空に散る星のように描かれている。
ひとつは淡い桃色のシェルに、見たこともない繊細な金色の線描の模様。
ひとつは深い藍色の、まるで深海そのものを切り取って閉じ込めたような神秘的な色合い。
それらが磨き抜かれた銀色のトレイの上に、宝石店のショーケースのように整然と並んでいた。
息ができなかった。
それはお菓子じゃなかった。
工芸品。
美術品。
寺院の宝物殿に納められた聖遺物。
私の目の前にあるのはそういう種類のものだった。
私の作業台の上には、二十枚のアイシングクッキーが並んでいた。
向日葵と麦わら帽子と入道雲。
子どもの絵本のページから飛び出してきたみたいな、可愛らしいささやかな絵柄。
私は自分のクッキーを見て ―― それから蓮華さんのボンボンショコラを見た。
そしてもう一度自分のクッキーを見た。
何かが心の中で音を立ててずれた。
これまで私の中で自分のクッキーは「可愛らしいもの」だった。
「ささやかだけど温かいもの」だった。
「子どもたちが喜ぶもの」だった。
それが蓮華さんのボンボンショコラと並んだ瞬間、別のものに変わって見えた。
「拙いもの」。
「子どもの遊び」。
「お店に出してはいけないもの」。
そう見えてきてしまった。
ううん、違う。違う、違う。
これはジャンルが違うだけ。
私のクッキーは子どもたちのための可愛らしいクッキー。蓮華さんのボンボンショコラは大人のための芸術品のようなお菓子。それぞれにそれぞれの良さがある。比べるのがおかしいんだ。
そう自分に何度も言い聞かせた。
けれど心の奥の方で、もうひとつの声が確かに聞こえていた。
『あなたのクッキーを、これと並べて、お皿に出せると思うの?』
その声が私の声なのか、それとも見えない誰かの声なのかわからなかった。
ただその声は確かに私の中で響いた。
「あらまぁ、二人ともできたのかい?」
ホールからおばあちゃんが入ってきた。
私の作業台のクッキーを見て、
「あらあら、可愛らしいねぇ、愛。夏らしくていいねぇ」
と笑ってくれた。
「うんっ……あ、ありがとう、おばあちゃん」
私は笑った。
それからおばあちゃんは蓮華さんの方に行った。
そして ―― 動きを止めた。
しばらくボンボンショコラの上におばあちゃんの視線が動かなかった。
「……まぁ」
おばあちゃんの口から漏れたのは、たったその一音だった。
その「まぁ」には、私が今まで聞いたことのない響きが含まれていた。
驚きと。
感嘆と。
それから ―― 何かもっと深い思い出のようなものが揺らぐ響き。
「蓮華ちゃん、これは……」
「ボンボンショコラです、優希さま。フランスでお世話になっていた、ある師の元でよく作っていたものを」
「……これを私に見せてくれるの……?」
「召し上がっていただけますか」
「えっ……いいの?こんな立派なものを……」
「召し上がっていただくために作りましたから」
おばあちゃんはしばらく言葉が出ないようだった。
そしてゆっくりとひとつ ―― 漆黒のドームに金箔のかかった一粒を手に取った。
口の中に入れた。
噛んだ。
しばらく目を閉じた。
おばあちゃんの目の縁に ―― 涙が滲んだ。
私はそれを見た。
私のクッキーをおばあちゃんが食べた時 ―― 涙は滲まなかった。
「おいしいねぇ」と笑ってくれた。
それは嘘ではなかった。
おばあちゃんは本当に「おいしい」と思ってくれていた。
けれどそれは目の縁に涙が滲むような種類の「おいしい」ではなかった。
私がこれまでおばあちゃんから引き出してきた感情。
それと今、蓮華さんがおばあちゃんから引き出した感情。
その間には深くて広い海のような距離があった。
「これは……」
おばあちゃんが目を開けてぽつりと言った。
「これは……世界を幸せにする味だねぇ」
その瞬間。
世界が止まったように感じた。
世界を幸せにする味。
そうおばあちゃんは言った。
おばあちゃんがその言葉を口にした。
その言葉は ――。
その言葉はおじいちゃんが私に言ってくれた言葉だった。
『愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ』
おじいちゃんが私の頭を優しくなでながら言ってくれた。
幼い頃の私の宝物の言葉。
私がお菓子を作るたびに、心の中で抱きしめてきたお守りの言葉。
それとほとんど同じ ――。
『世界を幸せにする味』。
おばあちゃんがおじいちゃんと一緒に長い年月を生きてきた、おばあちゃんが ―― 今、その言葉を蓮華さんのお菓子に向けて言った。
私の中で何かがゆっくりと崩れていった。
崩れていく、というよりも、もっと静かに ―― 風化していくような。
岩が長い時間をかけて風と雨に削られて、形を失っていくような ―― そういうゆっくりとしたけれど確実な変質。
私はそこに立っていた。
ただ立っていた。
「蓮華ちゃん、これは本当に……すごい。私、この味を忘れないよ」
「お口に合ってよろしゅうございました」
蓮華さんが深くお辞儀をした。
その所作は宮中の儀礼のような、しんと張り詰めた美しさだった。
「愛、愛も食べてごらん」
おばあちゃんが振り向いて私を呼んだ。
私は足が動かなかった。
動かなかったけれど、動かさなければいけなかった。
私はゆっくりとおばあちゃんの方へ歩いていった。
蓮華さんが銀色のトレイからひとつ、薄い緑色の卵のような形のボンボンショコラをつまんで、私の方に差し出した。
「どうぞ」
その「どうぞ」は優しかった。
冷たくはなかった。
ただ温かさもなかった。
何かを差し出す時の、形式としての礼儀正しいひと言。
私はそれを受け取った。
口に入れた。
噛んだ。
口の中に何か複雑な層が広がった。
外側のシェルの薄いパリッとした感触。その中の滑らかな何かのクリーム。さらにその中に別のテクスチャー ―― 何かの果実のジュレのようなもの。香りは ―― ピスタチオ。それから何かハーブのような爽やかなけれど深い香り。
おいしい。
たぶんおいしい。
でも私には、おばあちゃんが涙を滲ませたその理由がわからなかった。
私の舌は味の層の存在はなんとなく感じている。
けれどその層が何を語っているのか ―― 何を思い出させているのか ―― それがわからなかった。
おばあちゃんが見ているのは私の知らない景色。
蓮華さんがお菓子の中に込めているのは私の知らない時間。
その間に私の舌は入っていくことができなかった。
「お、おいしい、ね……」
私は笑顔を作った。
ちゃんと作った。
「ね、すごい、ね、蓮華さん……」
「ありがとうございます」
蓮華さんは軽く頷いた。
それだけだった。
そのあと、私は自分のクッキーをお皿に並べた。
二十枚。
向日葵と麦わら帽子と入道雲。
並べながらふと思った。
このクッキーをお店に出していいんだろうか。
蓮華さんのボンボンショコラと同じテーブルに並べていいんだろうか。
並べたら ―― 蓮華さんの芸術品の隣に、私の子どもの絵が置かれることになる。
それは蓮華さんに対して失礼じゃないだろうか。
ううん。
正確には ―― 蓮華さんに対して失礼かどうかじゃない。
私のクッキーが蓮華さんのボンボンショコラと並ぶことで ―― 私のクッキーのこれまで「可愛らしい」と思われていた良さが「拙さ」として際立ってしまうのが怖かった。
子どもたちに「これ、可愛い!」と言ってもらえなくなるのが怖かった。
「ねえ、こっちのチョコレートのほうがすごい」と言われるのが怖かった。
私はお皿の上のクッキーをしばらく見つめていた。
そしてお皿を棚の奥にしまった。
ガラスの引き戸を閉めた。
カチン、と小さな音がした。
「あらぁ、愛、クッキーは?」
夕方の準備が始まる頃、おばあちゃんが訊いた。
「あ、ね、今日はちょっと形がうまくいかなくて……。明日、また作ろうかなって」
私は嘘をついた。
形はうまくいっていた。たぶんこれまで作った中でいちばん可愛くできた。
でも私は嘘をついた。
「あらまぁ、そうなのかい。残念だねぇ」
「ううん、ごめんなさい。明日はちゃんと作るからね」
「ふふっ、無理しなくていいよぉ」
おばあちゃんは優しく笑ってくれた。
その笑顔がいつもとまったく変わらなかった。
おばあちゃんはたぶん、私のクッキーが本当はうまく出来ていたことに気がついていなかった。
棚の奥にしまわれていることにも気がついていなかった。
それくらい ―― 私のクッキーはお店の中で注目を浴びるものではなくなっていた。
夕方、お店には蓮華さんのボンボンショコラがお皿の上に並べられた。
常連さんたちはそれを見て声を上げた。
「まぁ、なんてきれいな……」
「これ、本当に食べていいの……?」
「優希さん、これはちょっとただ事じゃないわ……」
林さんがひとくち食べて目を潤ませた。
佐伯さんがひとくち食べて、しばらく何も言えなかった。
そして ―― おばあちゃんが笑顔で言った。
「蓮華ちゃんのお菓子はねぇ、本当に世界を幸せにする力があるんだよぉ」
その夜。
私は自分の部屋でベッドに座っていた。
電気はつけていなかった。
窓から月の光が入ってきていた。
私はぼうっと月の光を見ていた。
『愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ』
おじいちゃんの声を思い出した。
私の頭をなでてくれたあの手の温度。
優しい目。
低くて深い声。
その時、おじいちゃんは心からそう思って言ってくれていたんだと思っていた。
おじいちゃんにとって私のスイーツが、本当に世界を幸せにする力を持っていると感じてくれていたんだと思っていた。
でも、もし。
もしおじいちゃんが、私とは別に ―― 「本物」を知っていたとしたら?
おじいちゃんが私のお菓子を食べて「みんなを幸せにする力がある」と言ってくれた時、その言葉は心からの言葉ではなかったとしたら?
それはまだ何も知らない小さな孫娘を励ますための、優しい嘘ではなかっただろうか。
「本物の、世界を幸せにする味」をおじいちゃんが別に知っていて ―― ただ私の前では、それを言わなかっただけだとしたら?
私は首を振った。
ううん、そんなはずない。
おじいちゃんは私のお菓子を本当に好きでいてくれた。
おじいちゃんが嘘をつくはずがない。
おじいちゃんは私のことを本当の孫として愛してくれていた。
そう信じている。
信じていた、はず。
なのになぜ、おばあちゃんがおじいちゃんとほとんど同じ言葉を、別の少女のお菓子に向けて口にしたんだろう。
なぜおばあちゃんは、おじいちゃんが私に向けてくれた言葉を覚えていなかったんだろう。
それともおばあちゃんは覚えていたけれど ―― それでもその言葉が、蓮華さんのボンボンショコラに対してふさわしいと感じてしまったんだろうか。
おばあちゃんがおじいちゃんと共に過ごした長い時間の中で ―― 「世界を幸せにする味」というその言葉を ―― 本当にふさわしく引き受けることができるのは、私のお菓子ではないと知っていたんだろうか。
「……」
頭の中がぐるぐるした。
考えても考えても答えは出なかった。
ただひとつだけ確かなことがあった。
今日、その言葉は蓮華さんのものになった。
「世界を幸せにする力」という言葉が別の少女に贈られた。
私の中でその言葉は、もう ―― 私のお守りとしての輝きを完全には保てなくなっていた。
机の引き出しを開けた。
レシピノートを取り出した。
新しいページを開いた。
ペンを握った。
何か書こうとした。
何か新しいレシピを。
新しい夏のお菓子を。
新しい何かを。
ペンが白いページの上で止まった。
止まったまま動かなかった。
書きたいもの。
それを思い出そうとした。
思い出そうとして、思い出せなかった。
私は何のためにお菓子を作っていたんだっけ。
おばあちゃんを喜ばせるため?
でもおばあちゃんは、もう蓮華さんのお菓子で世界を幸せにする味を知ってしまった。
常連さんたちを笑顔にするため?
でも常連さんたちは、もう蓮華さんのお菓子で目を潤ませている。
将来、ケーキ屋さんになるため?
でもケーキ屋さんになるってどういうことだろう。
蓮華さんのような本物のパティシエがこんな身近にいる世界で ―― 私みたいな独学でなんとなく作っている子どもが、ケーキ屋さんになれるんだろうか。
ケーキ屋さんになって、誰が私のお菓子を買いに来てくれるんだろう。
「世界を幸せにする」お菓子を作れる人が隣にいるのに ―― 私のお菓子を選ぶ理由が、誰にあるんだろう。
「……」
ペンを置いた。
ノートを閉じた。
そしてもう一度ノートを引き出しの奥の奥の方に押し込んだ。
カチャ、と引き出しを閉じた。
その音が四日前よりもずっとずっと大きく聞こえた。
ベッドに横になった。
目を閉じた。
おじいちゃんの声を思い出そうとした。
『愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ』
その声を思い出そうとした。
思い出せた。
ちゃんと思い出せた。
けれどその声はもう ――。
もう月の光のようにひんやりと、私の中で響いていた。
温かさがないわけじゃなかった。
ただその温かさが本物だったのかどうか、私にはもう確かめる術がなくなってしまった。
おじいちゃんはもういない。
確かめることができない。
確かめることができないまま ―― 私はこれから毎日、その言葉を思い出すたびに、心のどこかで ―― 「これは本物だったのかな」と問いかけることになるんだろう。
その問いに答えは永遠に来ない。
ふと涙が頬を伝った。
熱い涙ではなかった。
ただぽとり、と枕に落ちた。
それからもう一滴。
もう一滴。
声は出さなかった。
おばあちゃんに聞こえないように。
蓮華さんに聞こえないように。
ただ静かに涙が頬を伝っていった。
夜は長かった。
虫の声が遠かった。
二週間前と同じ虫の声なのに。