夏休みも半ばに差し掛かったある日の午後、蝉の声が窓の外で空気そのものを震わせていた。アスファルトに撒いた水は地面に降りる前に蒸発してしまうような、そんな日。
「愛、ちょっとお願いがあるんだけどねぇ」
ホールでお客さまの呼び鈴を待っていた私に、おばあちゃんが声をかけてくれた。
「うん、なに、おばあちゃん」
「倉庫の整理なんだけどねぇ。おじいちゃんの古い荷物が奥の方にずいぶん溜まっててね。蓮華ちゃんも来てくれてからお店も忙しくなって、奥のものを取り出しにくくなっちゃってねぇ」
「あ……うん」
私はおばあちゃんを見て、それから少し考えてから答えた。
「整理、私がするね」
おばあちゃんがちょっと驚いた顔をした。
「あらまぁ、いいのかい?ひとりじゃ大変だよぉ」
「ううん、平気っ……。私、最近ちょっと暇だから……」
そう言いながら自分の声が嫌になるくらい小さくなっていることに気づいた。蓮華さんが来てから私の朝の仕事も買い出しも料理もお菓子作りでさえ場所を失った今、「暇」という言葉だけが私に許された唯一の正直な自己紹介になってしまっていた。
「あらあら、暇だなんて贅沢な悩みだねぇ」
おばあちゃんが優しく笑ってくれて、その笑顔がいつもとまったく変わらないことに私はほっとすると同時に少しだけ苦しくなった。私が「暇」だと言ったことの本当の意味を、おばあちゃんは気づいていなかった。気づいてほしいような気づかないでほしいような、自分でもよくわからない気持ちが胸の奥で揺れた。
「じゃあお言葉に甘えようかねぇ。麦茶を用意しておくから、いつでも休憩においでね」
「うん、ありがとう、おばあちゃん」
エプロンの紐を結び直して、私は裏口から外に出た。
倉庫の引き戸がいつものようにがらがらと音を立てて開く。中に一歩踏み込むとひんやりとした空気が顔を撫でて、外の蝉の声がふっと遠ざかった。埃と古い木材と、それからほんの少しだけおじいちゃんの匂いが残っているような気がした。生きていた頃のおじいちゃんがお店のことで何か考え事をしたい時にひとりでここに来てしばらく座って煙草を吸っていた、あの匂い。たぶん本当はもうとっくに消えているはずなのに、私の鼻だけがそれを覚えていて勝手に呼び戻しているのかもしれない。
倉庫の左奥のスペースには、ふだん滅多に開けない木箱がいくつも積み重なっていた。おじいちゃんが亡くなってからおばあちゃんと一緒に何度か整理しようとして、けれど毎回途中でどちらかが泣いてしまって結局最後まで片付けられないまま二年が経ってしまった場所。
私は手前の箱から順に蓋を開けていった。
最初の箱に入っていたのはおじいちゃんの古い写真と、お店の昔のメニュー表と、何かのレシートの束だった。一番上の写真には若いおばあちゃんとおじいちゃんが、まだ「タカラ」を始める前に海辺で撮ったものらしく、ふたりとも私の知らない顔で笑っていた。おじいちゃんが若くておばあちゃんの髪が今よりずっと長くて、潮風が彼女の前髪を巻き上げているその瞬間におじいちゃんが何か冗談を言ったのだろうか、おばあちゃんは口を大きく開けて笑っている。私の知らない時代のふたりだけの時間。胸が温かくなった。
写真をそっと元の場所に戻して、次の箱を開ける。カフェの古い食器。割れたお皿の破片を捨てきれなかったのか新聞紙に丁寧に包んで取ってあった。麻紐の束。なぜか取ってあったお祭りの提灯の残り。どれもひとつひとつにおじいちゃんがいた。おじいちゃんがこれに触れて、これを大切に思ってここにしまったのだと考えると、ひとつも簡単には捨てられなかった。
しばらく箱の前にしゃがんで動けなくなった。
おじいちゃん。会いたいな。
おじいちゃんがいたら私は今、何を話していただろう。「おじいちゃん、お店にね、蓮華さんっていうすごい子が来たの」と話していたんだろうか。蓮華さんはおじいちゃんと繋がりのある家の子で、本当はおじいちゃんに紹介したかった子。生きていたらきっとおじいちゃんも蓮華さんのお菓子を食べてすごく喜んでくれたはず ――そう思って立ち上がろうとした、その時だった。
奥の方の一番下に積まれていた木箱のひとつが目に入った。
他の箱とは少し違っていた。蓋の上におじいちゃんの几帳面な字で何か書かれている。近づいてしゃがんで読んでみると、
『日記』
と書いてあった。
日記。
私はその箱を両手で引っ張り出した。思ったよりも重かった。蓋を開けると、中には何冊もの革張りのノートが立派な装丁で並んでいた。おじいちゃんがこんなにたくさんノートを書いていたなんて知らなかった。
一冊を取り出して表紙を開くと最初のページに日付が書いてあった。私が引き取られてくる半年前の日付。おじいちゃんは私がこの家に来るずっと前から日記をつけていたのだ。ということは私と暮らし始めてからの日記もたぶんこの箱の中にある。そして一番最後の日記は ―― おじいちゃんが亡くなった年のものまであるはず。
しばらく膝の上に乗せたまま動けずにいた。
これを読んでいいんだろうか。人の日記を勝手に読むのはいけないこと。おじいちゃんがここに大切にしまっていたものを許可なく開いていいんだろうか。
でも、と私は思った。おじいちゃんはもういない。読んだことを怒られることはない。それにおじいちゃんはきっと私には読まれてもいいと思っていたんじゃないだろうか。「タカラ」のことを継ぐ私には、お店の歴史もおじいちゃんが何を考えていたかもいつか伝えたかったんじゃないだろうか。
そう自分に言い聞かせて私は最初のページをめくった。
おじいちゃんの字が視界に飛び込んできた。
懐かしくてすぐに涙が出そうになった。お店のメニュー表で見慣れた、おじいちゃんの几帳面な、けれどどこか温かみのある字。その字でおじいちゃんはお店のその日の売上のことや新しく仕入れた豆のこと、おばあちゃんと喧嘩したことを書いていた。喧嘩の理由はおばあちゃんが買ってきた魚をおじいちゃんが冷蔵庫に入れ忘れたから ―― ふふっ、と笑ってしまった。生きていた頃のおじいちゃんが目の前に蘇ってくるみたいだった。
ページを進めていく。
半年分のノートを読み終えて次のノートを開く。そこから先のページに私の名前が初めて登場した。
『今日、息子の家から愛が来た。小さくて痩せている。なぜか家に着いた時もずっとメガネを外そうとしなかった。何か事情があるのだろう。父親と母親が別れて、母親が引き取りを拒否したと聞いている。子どもには罪はない。私とこいつで、この子を本当の娘のように育てよう、と話した』
私はしばらくそのページから目を上げられなかった。
おじいちゃんが私のことをこんなに最初から大切に思ってくれていたなんて知らなかった。「本当の娘のように育てよう」 ―― その言葉が胸の真ん中にじんと染みた。私はちゃんとおじいちゃんとおばあちゃんの娘だったんだ。本当の意味で家族だったんだ。
ページをめくる。私が小学校に慣れていく様子、初めてお店でクッキーを焼いた日のこと、私の誕生日に何をしてあげたか ―― おじいちゃんの日記には私のことがたくさん書かれていた。
『今日、愛がクッキーを焼いてくれた。健気な子だ。小さな手で一生懸命粉を混ぜていた』
『愛のクッキー、形は不揃いだが心がこもっている。お客様にもおすそわけしたら可愛いと喜んでくれた』
『愛が今日、初めて自分でカレーを作った。お店で出すかと言うので、それはもう少し練習してからね、と言ったら、わかった、と頷いた。素直な子だ』
私は涙ぐみながら笑っていた。
おじいちゃんはちゃんと私を見ていてくれた。私の小さな成長のひとつひとつをこんなふうに書き留めていてくれた。
そのまま何冊か読み進めて五冊目のノートに入った頃だった。
ある日付のページで私の手が止まった。
私の名前ではない、別の名前がそこに書かれていた。
『先日、フランスの桜小路家からの便りが届いた。あちらの孫娘さんが、いよいよ修業の段階に入ったとのこと。私が以前パリで一度だけお会いした、あの幼い少女が、もうそんな歳になったのか。あれから何年経つだろうか』
桜小路家。
蓮華さんの家の名前。
心臓がことんと小さな音を立てた。
このページの日付は四年前のもの。私がまだ小学校の三年生か四年生だった頃。おじいちゃんがこんなに前から蓮華さんのご家族と手紙のやり取りをしていたなんて、知らなかった。
ページをめくる。
『桜小路家の蓮華嬢のことが、なぜか頭から離れない。あの時パリで偶然出された、あの少女のお菓子。あれを思い出すたびに胸の奥がざわめく。あれほど心を打たれた菓子はなかった』
胸の奥がざわめく ――。
おじいちゃんが誰かのお菓子についてこんなふうに書いていることを、私は初めて知った。
おじいちゃんはお料理やお菓子に対してどちらかというと寡黙な人だった。「おいしい」「上手にできたねぇ」とは言ってくれるけれど、お菓子そのものについて熱を込めて語ることはほとんどなかった。だからおじいちゃんがあるお菓子のことを「胸の奥がざわめく」と書いている、その文字を見ただけで、私はわけのわからない緊張に襲われた。
次のページに進む。
『あれは菓子というよりも、ひとつの体験だった。ピスタチオのジェノワーズに香り高いハーブのジュレを忍ばせ、薄いシェルで包んだ小さなボンボン。口に入れた瞬間に、私はパリの石畳の上にいた自分が、なぜか故郷の山で蝉の声を聞いている幼い自分と重なって、ふいに涙が出た。あの少女は菓子の中に「時間」を閉じ込める術を知っている。あれは、世界を幸せにする力だ』
そのページの上で息を止めた。
世界を、幸せにする、力。
そう書いてあった。
ピスタチオ。ハーブのジュレ。ボンボン ――。
数日前のあの光景が頭の中で鳴り響いた。蓮華さんが私に差し出した薄い緑色の卵のような形の、あのボンボンショコラ。外側のシェル、中の滑らかなクリーム、果実のジュレ、ピスタチオ、ハーブのような爽やかな ―― 深い、香り。
あれと同じ。
おじいちゃんがパリで食べたものと私が食べたものは、たぶん同じ系統のもの。
そしておじいちゃんは ―― あのお菓子に「世界を幸せにする力」という言葉をすでに与えていた。
四年前に。私が小学校の三年生か四年生の頃。
おじいちゃんが私の頭をなでながら『愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ』と言ってくれた、その何年か前から、おじいちゃんはすでに ―― その言葉の本来の持ち主を、知っていた。
しばらくその革張りのノートを両手で持ったまま息をすることを忘れていた。
頭の中が白くなった。
白くなったまま、けれど私の手はもう次のページをめくっていた。読みたくないのに、読まないでおけば私の世界はまだ少しの間は保てたのに、私の手はそれを許してくれなかった。
『桜小路氏に手紙を書いた。お孫さんをいつかこちらに招待できないだろうかと。あの味をもう一度味わいたい。もし叶うなら私の妻にもあれを食べさせてやりたい』
『桜小路氏より返信。蓮華嬢は今、本格的な修業に入ったところでしばらくは難しいとのこと。残念だが致し方ない。あの少女の才能を考えればそれを優先するのは当然のこと』
『今日も愛がクッキーを焼いてくれた。健気で優しい孫だ。可愛らしいクッキーに私は心から救われている。けれど ――あの味を思い出すと、たまらなくなる時がある。私はもう一度生きているうちにあれを味わうことができるだろうか』
私はノートを閉じようとした。
閉じようとしたのに手が言うことを聞かなかった。
ページをめくる手だけが勝手に動いていた。
『桜小路氏に三度目の手紙。蓮華嬢をほんの数日でいいから日本に呼べないだろうかと。妻にも病気のことを話していないが、私はもう長くないかもしれない。あれを最後にもう一度食べておきたい』
長く、ないかもしれない。
私はその文字を見た。
おじいちゃんが自分の死を予感していた時期があったこと。そのことを私は初めて知った。
おじいちゃんは最後の頃までお店に立っていた。元気だった。それなのにその裏側で自分の体のことを覚悟しながら、ひとつの願いを抱いていたのだ ―― 蓮華さんのお菓子をもう一度食べたい、と。
『今日、愛が新しいケーキの試作をしてくれた。レモンの香りで夏らしくて、健気で、本当によくがんばってくれている。可愛い、私の孫だ。けれど、もしあの子が日本に来てくれたなら、愛も本物の菓子というものを学べるだろう。愛にもいつか、あの味を知ってほしい』
私はノートを取り落としそうになった。
「本物の、菓子というもの」。
おじいちゃんはそれを私のお菓子の外側に置いていた。
私のお菓子は ―― 本物では、なかった。
おじいちゃんの中で本物の菓子と私の菓子は別の場所にあった。「健気で、よくがんばってくれている」 ―― それは私のお菓子への本当の評価だった。技術への評価ではなく、姿勢への評価。心がこもっていることへの評価。可愛い孫の可愛らしい遊びへの、温かい眼差し。
それがおじいちゃんが私に向けてくれていた、本当の視線。
ノートを膝の上に置いてしばらく目を閉じた。
閉じてもまぶたの裏におじいちゃんの字が焼きついて消えなかった。
『けれど、もしあの子が日本に来てくれたなら、愛も本物の菓子というものを学べるだろう』
おじいちゃんは優しい人だった。
優しい人だったから、私のことを傷つけないようにいつも本当のことを私の前では言わなかった。「愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ」 ―― その言葉も本心ではなかった。私を励ますための優しい嘘。本物を知っている人がまだ本物に出会っていない小さな孫娘に与える、優しい優しい嘘。
おじいちゃんは嘘をついていた。
私を愛していたから。
愛していたから私の本当の場所を、私の知らないところでしっかりと別の場所に見ていた。
それでも私はページをめくり続けた。
おじいちゃんが亡くなる半年ほど前の日記にこうあった。
『今日、桜小路氏から嬉しい便りが届いた。蓮華嬢がいずれ日本に行く機会があるかもしれないとのこと。ただしそれは数年先になる、と。私の体はそれまでもつだろうか。せめて妻があれを食べることができるように、桜小路氏には私が亡くなった後も連絡を続けてほしいと手紙に書こうと思う』
『妻にはあの味を知ってほしい。私が生きている間に叶わなかったとしても、いつか、必ず』
『私の死後、もし蓮華嬢が日本に来ることがあったら、彼女を「タカラ」に迎え入れてほしい。そして彼女のお菓子を妻に食べさせてあげてほしい。それが私の最後の願いだ』
そして亡くなる三週間前の日記。
『今日、愛が私のベッドの横でクッキーを焼いてくれた。私の好きなアーモンドのクッキー。健気な、本当に健気な、私の孫。この子のおかげで私の最後の日々は優しい光に満ちている。愛、おじいちゃんはお前のことを本当に、本当に愛している』
『けれどひとつだけ心残りがある。愛にはいつか本物のパティシエに出会ってほしい。あの子に、いつか会えるといい。会ってあの味を知って、そこからもう一度自分のお菓子を考え直してほしい。それがおじいちゃんの最後のお願いだ』
私は ―― ノートをぱたんと閉じた。
膝の上で両手を握りしめた。
外で蝉の声がまだ続いていた。
おじいちゃんが私に向けてくれていたすべての言葉が、ゆっくりと別の形に書き換えられていくのを私は自分の中で感じていた。
「愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ」
その言葉はおじいちゃんが私に与えてくれた本物の祝福ではなかった。
おじいちゃんが本当に「幸せにする力」を見出していたのは別の少女のお菓子の中だった。私のお菓子はその本物にいつか出会わせてあげたい孫娘の、可愛らしい習作だった。「がんばっているから褒めてあげなきゃね」と、おじいちゃんとおばあちゃんが毎晩ふたりだけで確認しあっていたのかもしれない、と思った。
「愛のクッキーは、形は不揃いだが心がこもっている」
「健気な子だ」
「本当によくがんばってくれている」
それらの言葉は嘘ではなかった。
おじいちゃんの本心だった。
ただその本心の中身は ―― 私がずっと信じてきた中身とは違うものだった。
私はおじいちゃんにとって「立派なパティシエ」ではなかった。
私はおじいちゃんにとって「健気で、よくがんばっている、可愛らしい孫」だった。
それは ―― 違う種類の愛だった。
おじいちゃんが私を愛してくれていたことは本当だった。それは絶対に本当だった。日記の中のひとつひとつの言葉がそれを証明してくれていた。「愛、おじいちゃんはお前のことを本当に、本当に愛している」 ―― その言葉は嘘ではない。
ただその愛は ―― お菓子に向けられたものではなかった。
私という孫娘そのものに向けられていた愛だった。
私のお菓子は ――。
私のお菓子はおじいちゃんの中でずっと「本物に出会う前の可愛らしい習作」のままだった。おじいちゃんが死ぬまでその評価は変わらなかった。変わるはずがなかった。だっておじいちゃんは本物を四年も前から知っていたのだから。
そしておじいちゃんの「最後の願い」は ――。
蓮華さんがいつかタカラに来ること。
おばあちゃんに本物のお菓子を食べさせてあげること。
そして私を ―― その本物に出会わせること。
私を「本物のパティシエ」にしてあげること、ではなかった。
私が「本物」になれる可能性をおじいちゃんは一度も想定していなかった。
私の役割は「本物に出会って、自分のお菓子を考え直す」こと。
考え直してたぶん、もう、お菓子を作るのをやめる、ということ。
それがおじいちゃんが私に望んでいたこと。
蓮華さんがタカラに来たのは偶然ではなかった。
おじいちゃんがずっと前からおばあちゃんにお願いしてくれていたことだった。死ぬ前に桜小路家に手紙を書いて、おばあちゃんに本物のお菓子を食べさせてあげてほしいと頼んでくれていた。だから蓮華さんの家族から突然の電話があった。だからおばあちゃんは蓮華さんを引き取った。
すべてがおじいちゃんの計画通りだった。
私の知らないところで私の物語はもう決まっていた。
私がお菓子作りを諦める。
それがおじいちゃんの最後の私への愛だった。
「本物」に出会わせてあげることが、私をこれ以上本物ではない場所で迷わせないためのおじいちゃんの優しさだった。
優しいおじいちゃん。
優しすぎる、おじいちゃん。
ノートを両手で抱えたまましばらく動けなかった。
涙は出なかった。
おかしいくらい出なかった。
胸の奥がぐちゃぐちゃになっているはずなのに、目だけが乾いていた。
たぶんあの夜にぽとり、ぽとりと落としてしまった涙が、私の中にあった涙の最後の何滴かだったのかもしれない。あの夜に私は涙を使い切ってしまったのかもしれない。
今、私の中にあるのは涙ではなかった。
もっと別のもの。
たとえば雨が降った後の土の中の、しんとした冷たさ。誰にも見られない場所でゆっくりと地面の奥にしみこんでいく、それ。それに似た何かが私の胸の真ん中に広がっていた。
「……」
ノートを元の箱に戻した。
戻して蓋を閉じた。
蓋の上の『日記』という文字をしばらく見ていた。おじいちゃんの几帳面な字。私の知っているおじいちゃんの字。けれどその字がもう、私の知っている字とは別のものに見えた。
この字は私をずっと「本物の前の習作」として書き留めていた字。
私を愛していたけれど、私のお菓子は愛していなかった字。
その箱をもとの一番下の場所に戻した。
押し戻すのに、来た時よりもずっと力が必要だった。
倉庫を出ると外はまだ明るかった。
蝉の声がまだ続いていた。
裏口から家に入って廊下を歩いて自分の部屋に上がろうとした。
「あらまぁ、愛、ずいぶん長く倉庫にいたねぇ。お疲れさま、麦茶飲んでいきなさいよ」
ホールからおばあちゃんの声がした。
足を止めた。
止めて振り向こうとして、けれどうまく振り向けなかった。
おばあちゃんの方を見ることができなかった。
おばあちゃんの顔を見たら ―― おばあちゃんが今までずっとおじいちゃんと一緒に私のことをどう見ていたのか、私はそれをわかってしまうような気がした。
「ありがとう、おばあちゃん。あの、ちょっと暑かったから、シャワー浴びてくる、ね……」
「あら、そうかい。気をつけてねぇ」
「うん」
おばあちゃんの方を振り向かないまま階段を上がった。
階段の途中でふと、ホールからもうひとつの声が聞こえた。
「優希さま、こちらのコーヒー、お淹れ直しいたしましょうか」
蓮華さんの声。
おばあちゃんが嬉しそうに笑った。
「あらぁ、蓮華ちゃん、ありがとう。蓮華ちゃんの淹れてくれるコーヒーは、ほんとうにおいしいんだよぉ」
階段の途中で立ち止まった。
立ち止まってしばらくその場所にいた。
おばあちゃんが蓮華さんを ―― 「ほんとうにおいしい」と言った。
その「ほんとうに」という、たった四文字。
私がこれまでおばあちゃんからもらってきた「おいしい」には一度もついていなかった、その四文字。
おじいちゃんがおばあちゃんに伝えていたのかもしれない、とふと思った。
「あの少女のお菓子は本物だ」
「コーヒーもたぶん本物だ」
「あの子が来たら本物を味わってみるといい」
そう、おじいちゃんがおばあちゃんに、私が知らないところで何度も伝えていたのかもしれない。
おばあちゃんはずっとそれを覚えていたのかもしれない。
そして今、蓮華さんがその「本物」をおばあちゃんの前に持ってきた。
おばあちゃんはおじいちゃんが生きていた頃から心の中で待っていた、その「本物」とようやく出会った。
その出会いの邪魔を私がすることはできない。
ううん、邪魔をしてはいけない。
これはおじいちゃんの最後の願いだったのだから。
自分の部屋に戻ってドアを閉めた。
ベッドに座らずに床に座り込んだ。
天井を見上げた。
夕方の光が白い天井に薄く差し込んでいた。
おじいちゃんは私を愛してくれていた。
その事実は変わらない。
たぶんこれからも変わらない。
おじいちゃんは私を本当の娘として育ててくれた。私の小さな成長をひとつひとつノートに書き留めてくれた。私の頭を優しくなでてくれた。私のお菓子を「健気だ」と本心から思ってくれた。
それはすべて本当。
それはすべて私の宝物。
ただ ――。
ただ私が思い違いをしていた。
おじいちゃんが私のお菓子そのものを愛してくれていたと思い違いをしていた。
おじいちゃんが私を「世界を幸せにする力を持つパティシエ」として見てくれていると思い違いをしていた。
おじいちゃんは私を愛していた。
私のお菓子作りという姿勢を愛していた。
けれど私のお菓子そのものは ―― 愛していなかった。
愛していなかった、という言葉はちょっと違うかもしれない。
正確には ―― 私のお菓子そのものはおじいちゃんにとって「いつか卒業すべき可愛らしい遊び」だった。
「いつか卒業して、本物に出会って、その上で自分の道を考え直してほしい」。
それがおじいちゃんの最後の私への設計図だった。
そしてその設計図は今ちゃんと機能している。
蓮華さんが来た。
私は「本物」と出会った。
私のお菓子が可愛らしい遊びだったことを、私は自分の目で確認した。
ここから私は自分のお菓子を「考え直す」段階に入る。
その「考え直し」の行きつく先をおじいちゃんはたぶんもう用意していた。
行きつく先は ―― お菓子作りをやめること。
それがおじいちゃんが私のために用意してくれた「本物に出会った、その先」だった。
天井を見上げたまま長いこと動けなかった。
外で蝉の声が続いていた。
その声が奇妙なくらいはっきりと聞こえた。これまでの夜とは違って虫の声が「遠かった」のではない、今度は蝉の声がひとつひとつ別々の生き物の声として私の耳に鋭く突き刺さってきた。それぞれの蝉がそれぞれ勝手に鳴いていた。誰のためでもなく。ただ自分が生きるために。
私のお菓子作りもたぶんそうだった。
誰かのためにと思って作っていたつもりだったけれど、本当はただ私が自分の場所を確認するために作っていたのだ。
おじいちゃんのためにと自分に言い聞かせて。
おばあちゃんのためにと自分に言い聞かせて。
将来の夢のためにと自分に言い聞かせて。
でも本当はただ、私が私自身に「ここにいていい」と許可を出すためにお菓子を作り続けていた。
その許可を出してくれていたのはおじいちゃんの言葉だった。
「愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ」
その言葉が私の許可証だった。
そして今、私は ―― その許可証がもともと別の誰かのものだったということを知ってしまった。
私の許可証は最初から効力を持っていなかったのかもしれない。
おじいちゃんが私を励ますためにコピーして渡してくれた、優しい優しい偽物だったのかもしれない。
「……」
ゆっくりと立ち上がった。
机の引き出しを開けた。
引き出しの奥にレシピノートがしまってある。
そのノートを取り出した。
ぱらぱらとページをめくった。
私が書き留めてきたたくさんのレシピ。新作のアイデア。失敗したときのメモ。改善のヒント。子どもたちが喜びそうな飾りつけの絵。
それらすべてが、おじいちゃんの「最後のお願い」の前では、可愛らしい遊びの記録だった。
ノートを閉じた。
閉じて机の上に置いた。
引き出しに戻すのはもうやめた。
引き出しの中にしまっておく必要がなくなった。
なぜなら、もう開く理由がないから。
明日どこかで捨てるかもしれない。
明日また開いて何かを書き足すかもしれない。
どちらでもよかった。
どちらでもいい、というのはたぶん私の中でこれがもう大切なものではなくなった、ということなのだと思った。
その夜、夕食の席でおばあちゃんが嬉しそうにこう言った。
「蓮華ちゃんがねぇ、お盆の頃に新作のお菓子をお店で出してくれるんだよぉ。すごく楽しみだねぇ、愛」
私は笑った。
ちゃんと笑えた、と思う。
「うん、楽しみだね、おばあちゃん」
「愛も、蓮華ちゃんからたくさん学べるといいねぇ」
「うん、そうだね」
蓮華さんがちらっと私を見た。
その視線は相変わらず私を「視界に入れた」だけの視線だった。けれど今夜、その視線の意味が私には少しだけわかるような気がした。
蓮華さんは私のことを最初から敵だと思っていない。ライバルだとも思っていない。蓮華さんにとって私は「いつかこの場所で出会うことになっていた、可愛らしい孫娘」 ―― ただそれだけ。
おじいちゃんが桜小路家の方々に何度も何度も手紙を書いていた。
きっとその手紙の中でおじいちゃんは私のことも書いていたはず。
「私の孫の愛は健気で、お菓子作りが好きで ――」
そんなふうに。
桜小路家の方々はそれを覚えていた。蓮華さんもたぶん両親からその話を聞いていた。「優希さまのお宅にはお菓子作りが好きな、お孫さんがいらっしゃるそうよ」と。
蓮華さんは最初から私のことを知っていた。
そして最初から私のことを ―― 自分の競争相手としてではなく「優しいおじいさまの、可愛らしい孫娘」として認識していた。
だから彼女は私に優しくも冷たくもなかった。
私は彼女の世界の中で「丁重に扱うべき、けれど特別な関心を払うほどでもない、家の一部のような存在」だった。
すべてが繋がっていた。
すべてがおじいちゃんの優しい設計の中にあった。
「いただきます」
両手を合わせた。
蓮華さんが味噌汁の椀を優美な所作で持ち上げる。おばあちゃんが嬉しそうにその姿を見守る。
私は自分のお茶碗を見つめた。
白いご飯が湯気を立てていた。
その湯気の向こうにおじいちゃんの顔が見えるような気がした。
優しいおじいちゃんの顔。
『愛、よくがんばっているね』
その声がふっと聞こえた気がした。
聞こえた、けれど私はもう ―― その声に頷くことができなかった。
頷きたくないわけではなかった。
ただ頷くと何かが嘘になるような気がした。
頷くとおじいちゃんの「がんばっているね」が、本当の意味で受け止められない自分になってしまうような気がした。
私はただご飯を口に運んだ。
ご飯は ―― ちゃんと温かかった。
ちゃんと温かかったのに、なぜか味がしなかった。
その夜、ベッドに横になってから目を閉じてもなかなか眠れなかった。
天井の梁の影が月の光で薄く浮かんで見えた。
私はおじいちゃんのことを思い出していた。
おじいちゃんが私の頭をなでてくれたあの手の温度。
おじいちゃんが私に笑いかけてくれたあの目。
おじいちゃんが私に「愛のスイーツは、みんなを幸せにする力があるねぇ」と言ってくれたあの声。
それらは全部本物だった。
おじいちゃんが私に向けてくれた愛情は全部本物だった。
ただ、その愛情の中身を私が勘違いしていた。
おじいちゃんは私を愛していた。
おじいちゃんは私のお菓子作りを「健気な遊び」として愛していた。
それはまったく違う二つのこと。
私はその二つをひとつだと思い込んでいた。
おじいちゃんが私のお菓子を愛してくれているなら、お菓子を作り続けることがおじいちゃんへの恩返しになる。だから私はお菓子を作り続けてきた。
でも本当におじいちゃんが望んでいたことは ――。
「本物に出会わせてあげること」。
そして私が「自分のお菓子を考え直す」こと。
それがおじいちゃんの最後の願いだった。
その願いは今、ちゃんと叶いつつあった。
私は本物と出会った。
私は自分のお菓子を考え直している。
考え直した結果がたぶん ―― やめる、ということ。
それがおじいちゃんへの本当の恩返し。
おじいちゃんが私に望んでいた最後の、優しい卒業。
ふと、こう思った。
私はもしかしたら、これからお菓子を作らなくなるのかもしれない。
レシピノートにもう何も書き加えないのかもしれない。
オーブンの前で生地が膨らんでいくのを見て嬉しい気持ちになることも、もうなくなるのかもしれない。
そう思ったとき。
不思議なくらい悲しくはなかった。
悲しい、というよりも ―― 寂しい、というよりも ―― 何かが終わりかけている、という静かな納得があった。
「終わりにしていい」とおじいちゃんが許してくれていたから。
「卒業していい」とおじいちゃんが設計してくれていたから。
私はもうお菓子を作る理由を失っていた。
理由がなくなったから終わりにしていい。
それはある意味で楽なことだった。
楽な、はずだった。
なのに ――。
ベッドの中で目を開けた。
天井の梁の影が月の光で薄く浮かんでいた。
その影がなぜかぼやけて見えた。
ぼやけて見える理由は、目に涙が滲んでいたから。
「……」
涙は今日出なかったはずだった。
倉庫で日記を読んだ時、出なかった。
ノートを箱に戻した時、出なかった。
夕食の席で、出なかった。
なのに今、こうして目を閉じる前のベッドの中で、なぜか涙が滲んでいた。
自分の頬を指で触れてみた。
ひんやりと濡れていた。
涙、なんだ。
これ、涙、なんだ。
何のための涙か、わからなかった。
おじいちゃんの愛情を確認できた嬉しさの涙か。
おじいちゃんに思い違いをしていた悔しさの涙か。
おじいちゃんへの恩返しがお菓子をやめることだとわかってしまった寂しさの涙か。
それとも ―― それとも、私が私自身をもう許せなくなってきていることへの涙か。
わからなかった。
たぶん全部だった。
たぶんどれでもなかった。
ただ涙だけが頬を伝っていった。
声は出さなかった。
おばあちゃんに聞こえないように。
蓮華さんに聞こえないように。
ただ静かに、静かに、ひとり、目を開けたまま、月の光の中で涙を流し続けていた。
おじいちゃんが亡くなってから二年。
私は二年かけてようやく、おじいちゃんが私に本当に望んでいたことを知った。
知った、けれどその「ようやく」が私にとって救いになるのかどうかは、わからなかった。
たぶんならない、と思った。
そう思いながら私はゆっくりと、ゆっくりと、眠りに落ちていった。
夢の中でおじいちゃんはもう、私の頭をなでなかった。
おじいちゃんはただ、私の後ろを歩いていた。
私の前には蓮華さんがいた。
おじいちゃんは私の頭の上を通り過ぎて蓮華さんの方へ歩いていった。
蓮華さんの隣に並んでおじいちゃんは嬉しそうに笑っていた。
私はその背中を後ろから見ていた。
何も言わなかった。
夢の中の私もたぶんもう、何かを言う言葉を失っていた。